打ち上げ

「ころしてごめんなさい」

「え?」

 驚いて森さんの方を見ると、彼女はシートに深くかけたまま眠っているようだった。

 殺してごめんなさい?

 ただの聞き間違いだろうか、それとも今日の舞台で起こったアクシデントに起因した夢でも見ているのだろうか。悪い夢なら起こしてあげようかとも思ったが、その時後方から救急車のサイレンが鳴ったため、僕は再度運転に意識を集中させた。それで彼女に声をかけるタイミングを失してしまった。

 森さんが眠っていたのは時間にして二十分くらいのものだった。バンは大学に着いた。

「起きて、森さん」と僕は声をかけた。

 しかし彼女は起きない。すやすや眠っている。

「私に任せて」と星原さんが助っ人に来た。「美月は普通の方法じゃ起きないんだ」

 そう言うと彼女は、森さんの両頬を勢いよく引っ張った。

 すると、

「ごめん、今どこ?」と彼女が目を覚ました。両頬は突き立ての餅のようによく伸びていたが、痛そうな素振りは微塵も見せていたなかった。

「もう着いたよ、大学に」手を離して星原さんは言った。「荷物を下ろしましょう」


 秋の日はつるべ落としというが、つるべ落としの実物を僕は生まれてこの方見たことがない。

 大学で舞台道具を下ろし、レンタカーを返却した時には、太陽は既に沈んでいた。

 それから僕らは、遅れて電車でやってきた二部演劇研究会の皆さんに誘われた。彼らはこの後打ち上げをすることになっていたのだが、舞台の手伝いをしたお礼に、僕ら部外者三人にもご飯をご馳走したいという話だった。僕は遠慮しようとしたのだが、糸山と星原さんが電光石火で参加の意思を伝えてしまったため、僕も流れで同席することとなった。

 そこは駅から少し歩いたところにある好み焼き屋さんだった。神楽大学生の間では有名なお店である。いつも夕飯時は混み合うのだが、幸いなことにすぐに席に案内してもらえた。地元のお好み焼き屋さんとはまた雰囲気の違う、ややシックな内装だ。テーブルや床の色はダークブラウンで統一されていて、照明は暖色系だった。濃いソースの匂いはするが、煙いような感じはなく、遠くのお祭りの匂いのようなふわふわとした心地よさがあった。

 席は二劇と僕ら部外者三名で二つに別れた。二劇の卓は森さんを含め四名だ。森さんの他には代表の本田穂乃果さん、舞台美術担当で上級生の馬場文太さん、そして前に新聞部がお世話になった同級生の鳥谷徹くんの三名だ。サークルメンバー全員が参加しているわけではないらしい。僕らと彼らのテーブルは人がやっとすれ違えるほどの狭い通路を挟んで隣り合っている。

 みんなの手にドリンクが届くと、本田さんが立ち上がった。

「今日はお疲れさまでした。特に三名の助っ人さんには感謝しています。おかげで無事に今回の公演を成功させることができました」

「無事にですかー?」と鳥谷からヤジが入った。

「なんとか、ギリギリのところで持ち堪えました。心臓が何度も止まりかけました」と本田さんが訂正する。

「すみませんでした」と舞台美術担当者の馬場さんが頭を下げた。

「だけど成功は成功です。私たちはやり切りました。それではそれを祝しまして――」

 乾杯!

 本田さんと馬場さんはお酒。森さんはトマトジュース。それ以外はお茶で。

 注文したメニューが運ばれてくるまで、僕らは鉄板を囲んで今日一日を振り返った。思えばみんなよく働いたものである。ああ、お腹がすいた。

「そう言えば美月から聞いたんだけどね」と斜め向かいに座る星原さんが僕に話しかけてきた。「前に美月が新聞部の部室に運び込まれた時、どうやって美月のことを起こしたの?」

「どうって」変な質問だな、と思いつつ僕は当時を思い出した。「何度か声をかけたり、肩を揺すったりしたけどなかなか起きてくれなくて……」

 えーと、どうやったら起きたんだっけ……。

「美月を起こすには少しコツがいるのよ。ああやってほっぺを引っ張ってあげないといけないの」

 もちろん僕にはそんなことをした覚えはなかった。

「変なの」と糸山が笑ったところで注文していた豚玉が運ばれてきた。

糸山が鉄板に豚玉を投入すると、食欲をそそる音が一気に広がった。頃合いを見てヘラでひっくり返し、ソースとマヨネーズ、青のり、鰹節をかけて三等分すると、彼はそれをそれぞれのお皿に取り分けてくれた。

 いただきますを唱和し、箸を振るう。

「あ、美味しい!」と星原さんが言う。「具材が結構細かいタイプだけど、バランスよくそれぞれの味がする」

 僕も一口食べる。

「ソースが濃くていいね」

 疲れた体に沁み渡るようだった。僕が夢中で豚玉に齧り付いていると、視界のはずれで星原さんが店員さんを捕まえていた。彼女の手にはメニュー表がある。

「この『すじこん青ネギモダン』と『彩り野菜の鉄板焼きバーニャカウダソース』をお願いします」

「え」と僕と糸山の声が揃った。

「え?」と星原さんが聞き返す。

 慌てて僕と糸山はメニュー表に目を走らせた。『すじこん青ネギモダン』千六百円円、『季節の野菜の鉄板焼きバーニャカウダソース』千四百円。合計三千円。高い! ちなみに先ほど糸山の頼んだ豚玉は九百円だ。

 だがしかし店員さんの前でごちゃごちゃやるのもみっともない。とりあえずそれで注文を通した。

「ちょ、星原さん。あんまりはしゃいだ頼み方をするのはダメだよ」と少し声を潜めて糸山が言った。

「あ、ごめんなさい」と言うと、はっとした顔になってこう付け加えた。「心配しなくても食べれるよ。私関西出身だもの」

「そう言う問題じゃなくて。奢ってもらうんだからさ、その、もう少し手心ってものが」

「まあまあ、こっちはお酒を頼んでないんだから。その分ちょっと高めのご飯を食べても大丈夫だよ」星原さんが子犬みたいにしゅんとなってしまったので、僕は助け舟を出した。

 さしもの大学公認団体と言えど、ご飯代にまでは補助金は付かない。つまりここの会計は先輩たちからの財布か、あるいは部員たちから月一で集金される部費から捻出される形になるのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る