舞台公演の準備
車を駐車場に止めてすぐ、一人の背の高い女性が近づいてきた。最初は学校の先生かと思ったが、その顔には見覚えがあった。
「穂乃果さん、お早いですね」と助手席から降りた森さんが挨拶した。
「美月たちこそ。まだ集合二十分前だよ」と二部演劇研究会の代表である本田穂乃果さんは言った。ベージュ色の厚手のジャケットに灰色のスラックス、ベロアのヒールのやや低いパンプスという格好だった。きちんとした格好ということは、おおかたサークルを代表して先生方に挨拶でもしていたのだろう。
約束の時間は十三時だったが、少し余裕を持ちすぎたようだ。来る途中で道に迷ったり、渋滞に巻き込まれたりはしないかと不安に思い、早めの時間に出発して来たのだった。
「三人とも、今日は手伝いに来てくれてありがとう」
僕たちが車から降りると、本田さんはそう言った。
「他の人はまだですか?」と森さんが訊いた。
「いや、みんなもう着いてるよ。みんな控室で待っている」そう言いつつ、彼女はスマートフォンを取り出した。「今ここに呼ぶから、そしたらみんなで荷物を体育館に運ぼう」
カップヌードルができるほどの間を置いて、数人の大学生がこちらに近づいてきた。
「よう、眠り姫。それに新聞部さんも」と声をかけてきたのは、背の高くがっしりとした体つきの鳥谷だった。早くも衣装に着替えているようで、白いブレザーに緑のネクタイを締めていた。前に一度会ったときはメガネをかけていたが、今日はコンタクトにしているようだ。
「もう着替えたんだ」と森さんが言った。
「ヘアメイク係は一人かしかいないからな。もう順番でやってもらっているんだ」と鳥谷くんの後ろにいた小柄な男子が言った。彼の髪はフランスパンのような見事なリーゼントヘアーだった。
「馬場先輩、その髪どうしたんですか?」と森さんが驚いたように言った。
「ブンさん、インパクトのある髪型にしたいっていうからね。私がさっきヘアメイクしたんだよー」と自慢げに言うのは、おさげの髪を赤メッシュに染めた女子だった。この人がメイク係なのだろう。ボアジャンパーを着ていて、顔には黒いマスクを着けている。この後舞台に上がるために、喉を大事にしているのだろうか。
「そ、そうだったんだ」と森さんは曖昧に返事をして、舞台監督である本田さんの方をチラチラ見ている。
「……いいんじゃない?」と彼女は苦笑いで言った。どうやら知らされていなかったらしい。自由というか、なんというか。
「とにかく搬入作業に移ろう。もう体育館は自由に出入りしていいらしい」と本田さんが仕切った。
荷物を運びがてら、俺たちは小学校に先乗りしていた二部演劇研究会の面々と挨拶を交わした。リーゼントの彼は
木箱に入った小道具一式、クーラーボックス、舞台セットらしい森林風景の描かれたパネルなどを運び終わると、それらのセッティングがてきぱきと行われた。
短い劇ということもあり、搬入及びセッティングにはそれほど長い時間はかからなかった。あらかたその作業が終わったところで、女性陣が衣装に着替えるために一度現場を離れた。
荷物のなかにはホースもあった。演出で水を使うらしい。僕は鳥谷くんの指示でそれを舞台裏の水道の蛇口に接続した。これをどう使うのかと訊いたところ、彼は小道具の入った木箱から杖のようなものを一本取り出した。
「これにホースを繋ぐのさ。この杖はシャワーヘッドみたいになっていて、ここのスイッチを押すと水を出したり止めたりできる作りになっているんだよ」
そういえば彼は小道具を担当していたんだった。
「へー、すごい」と僕は言った。子供が喜びそうな仕掛けだ。
「杖から水を出す魔法ってわけさ。まあただの杖にしてはすこーしだけ太くはなっちゃったけどな」
そういえば今回の劇は童話の『眠れる森の美女』が雛形になっているんだったっけ。あまり原作を知らないけれど、その中で魔法を使うシーンがあったような気もする。
僕たちがそんな話をしていると、ステージの下で糸山くんと星原さんが困っていた。
「ねえ、これはどこに置いたらいい?」
彼は重そうに、両手でクーラーボックスを持っていた。
「えーと、それは舞台美術の担当になるんだ。ブンさーん」
「ああ、それはドライアイスが入っているんだ」舞台に黒いビニールシートを敷いていた馬場さんが答えた。「そこのホースと一緒のところに置いておいてくれ」
その後戻ってきた女性陣と入れ替わりに、今度は馬場さんが一人で着替えに行った。そういえば彼は立派なリーゼントは完成させていたが、衣装は普段着のままだった。
戻ってきた女性陣の衣装も、鳥谷くんと同じような白のブレザー姿だった。スカートかズボンかの違いである。これで色が紺とかだったら、高校の制服のように見えたことだろう。
本番は十四時半からとのことだったので、それまでは予行練習をすることとなった。撮影係を任されている僕はデジタルカメラの調整や試し撮りをしながら、その劇を一人のオーディエンスとして楽しませていただいた。
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