佐倉の昔話

「佐倉くんがどうして記者に憧れているのか、これから話してもらうところだったの」と森さんが補足した。

 糸山から受け取った紙製の容器に入った熱いコーヒーにそっと口をつけてから、星原さんに体調を聞いた。彼女の具合はすっかり良くなったみたいだった。

「それより私も聞きたいな。佐倉くんの憧れている人がどんな方なのか」

 僕はまだたっぷり入ったコーヒーをホルダーに収め、それからタッチパネルになっているモニタに触れて、画面をラジオの選曲からナビゲーションに戻した。車の周りの様子に注意を払いながら、慎重にバンを発進させる。

「僕が四歳のころの話なんだけどさ」国道二十号の流れに乗ってから僕は話し始めた。それにしてもなんでこの交通量の多い道が、田舎のサイクリングロードくらいの幅しかないのだろう。

「祖父母に公園へ遊びに連れて行ってもらっていたんだ。ガードレールのない歩道を歩いていた僕らの元に、突然トラックが僕らの背後から突っ込んできた。僕のことを庇って、祖父母は死んでしまったんだ。僕はもちろん自責の念に苛まれた。自分のせいで祖父母が死んでしまったと」

「でも、それは佐倉くんのせいじゃない」と星原さんが言った。

「自責の念の後に襲ってきたのは、トラックの運転手への怒りの感情だった。運転手もその事故で死んでしまったんだけれど、その運転手が車体の整備を怠ったままトラックを走行させていたことがその事故の原因だったんだ。でもそれから二年後、トラックの運転手が、本当は犯人ではないことがわかった」

「どう言うこと?」と森さんが言葉を挟んだ。

 ちょうどその時、カーナビが三百メートル先の信号での右折を指示した。井の頭通りというところに出るらしい。運転にそこまで慣れているわけではない僕は、おしゃべりをする余裕がなくなる。しばらくの間運転に集中した。アクセルに込める力を弱め、右折に備える。信号が黄色に変わるところだったのでどうするか迷ったが、後ろに大型のトラックがついてきていたため、そのまま進入する事にした。大型車は急には止まれないし、もし追突されでもしたら恐ろしい。

 右折が終わったところでバックミラーを確認すると、やはり後ろのトラックも僕らのバンに付いてきていた。結構スピードが出ていたが、それは右折が終わってからブレーキをかけ減速していた。

「後ろのトラック、ちょっと運転荒いね」と森さんがつぶやいた。

「まあ、あれだけスピードが出ているとカーブの時にブレーキをかけるのは逆に危険だよ。特に大型車に搭載されているエアブレーキは制動力が強いから、ああいうカーブで下手にブレーキをかけると横転のリスクがある」

「ああ、そういえばわたしも自動車学校でそんなこと習ったかも」

「え、森さんも免許持ってるの?」

「一応ね。でも乗り慣れない車でみんなを乗せて走れる自信はなくて……」

 それで僕に仕事が舞い込んできたわけか。

「ねえ、それで犯人は誰だったの?」星原さんが僕らの会話に割って入った。そうそう、まだ話の続きだった。

「事故の犯人は、そのトラックのメーカーだったんだよ。つまりそのメーカーは欠陥品を世界にばら撒いていたんだ。そのメーカーは自分たちの欠陥を把握しながらも決してリコールせず、会社の設立から数十年に亘ってそれを隠し続けていたんだ」

「めちゃくちゃ大事件じゃないか」と糸山が声を上げた。

「めちゃくちゃ大事件だよ」と僕は言った。

「知らなかった……」と星原さんが呟いた。

「僕らより上の世代は結構みんな知っているよ。大騒ぎになったから」

「そのメーカーってどこなの?」と星原さんが訊く。

 僕はバックミラーを確認して答えた。

「後ろのトラックのメーカーだよ。光岸みつぎしだ」

「まだ存続しているんだね。それだけ大きな不祥事があったのに」と星原さんが信じられないような口調で言った。

「並の会社なら一瞬で蒸発していただろうね。と言うよりも、そんなことができるのは日本中で光岸だけだよ。みんなも知っての通り、光岸は日本最大の財閥だ。銀行、保険、不動産などの金融関係や車、家電や重工業製品、ビールやソフトドリンクなどの飲み物、それからチェーンのコンビニや化学関連素材など、あらゆる分野でトップクラスのシェアを持っている。そのグループによる圧倒的な資金力が不祥事を起こした光岸自動車を支え、会社として存続させたんだ。そしてテレビや新聞へ広告を出す事によって情報を操作し、不祥事のイメージを脱却させようとしてきた。だからみんながその不祥事を知らなかったのも無理はない」

「そういえば、誰かがその不祥事のことを元にして小説を書いていたような」と森さんが思い出したように言った。

「『地を這う翼』だね。確か不祥事が発覚してから二年後くらいに出版された。それで僕はフィクションを嫌いになったんだ」

「どうして?」と森さんが問う。

 目的地が近づいてきたようだ。曲がる回数が増す。ハンドルを握る力も強くなる。

「簡単に言えば、それが現実の話の剽窃だからだよ。いや、それよりももっと悪い。だってその小説の作者は不祥事を起こした権力者と闘わず、想像力も発揮せず、そのくせにお金と名誉と言う美味しいところだけを掻っ攫って行ったんだから」

「確かに、変な話だよね」糸山が言った。「現実に光岸の不正を暴いて世間に公表した勇気ある人のことなんて、世間じゃ誰も知らないんだもん」

「それ以来、なんだかフィクション作品が現実の模倣に過ぎないんじゃないかって思ってしまうんだ。僕が憧れているのは光岸の不正を暴いた柿田さんのようなジャーナリストだ。彼が真実を突き止めてくれなかったら、きっと僕は未だにあの可哀想なトラックの運転手のことを恨んでいたに違いない。そう思うとどうしようもなく怖くなるんだ。彼だって犠牲者の一人なのに」

 そこでちょうど、カーナビが到着地点付近に着いたことを知らせた。コンクリート塀と緑色の鉄柵で囲われた敷地の中に煉瓦柄の建物が見える。そこが神楽大の附属小学校らしい。


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