『時の娘』と陰謀論
車内が急に寂しくなってしまったので、僕はラジオをつけた。NHKのFM局がお昼のニュースを伝えていた。高齢者の運転する乗用車が商業施設に頭から突っ込み複数のけが人がでているとのことだった。最近この手の事故のニュースが盛んに報じられている。ラジオのコメンテーターはそれを受け「自動車の安全性能の向上」について訴えていた。
「佐倉くんはどうして例の新聞記者に憧れているの?」
「え?」
「あ、ごめんね、突然。前に言ってたじゃない、憧れている記者がいるって」
記憶を探れば過去にそんな話をしたこともあった。あれは確か初めて森さんと会った日のことだ。
「森さんはあんまりニュースとか見ないよね」
その話をするにはある程度の気持ちの準備が必要だった。その時間を稼ぐため、僕はひとまず話を横道に逸らす事にした。
「同じサークルの先輩のことを報じた僕の記事も読まなかったようだし」
「実はわたし、あんまりニュースが好きじゃないんだよね」しばらく考えてから森さんが言った。
「どうして?」
「彼らは好き勝手に報道するから。報道される側とコミュニケーションを取ろうともしないで」
よくあるマスメディアへの批判だ。
「ニュースなんて昔から、それを報じている人のいいようにいくらでも書けるでしょ。どこの国でもそうやって過去の歴史は作られてきたじゃない。だからあんまり信用していないの」
「それを言うなら小説だって作者の好きなように書けるじゃないか」と僕は試しに反論してみた。
「リチャード三世って知ってる?」と唐突に彼女が訊いた。
「えっと、薔薇戦争の最後の王様だっけ。確か自分の親戚を殺して王の地位にのし上がった稀代の悪王」と僕は受験勉強で得た知識を引っ張り出した。
「正解」
高校の時に世界史を取っていたために、なんとか面目が保たれた。しかし森さんはすぐ後に「世間一般では」と付け足した。
「世間一般ではね。でも本当はそうじゃないかもしれない。その歴史はヨーク朝を薔薇戦争で破ったテューダー朝によって描かれたものだから。わたしの好きな小説では、その歴史は捏造だと言っていたの。リチャード三世は親族を殺した悪人ではなかったと」
「なんだか陰謀論じみてるね」と僕は正直に言った。
「ガリレオ・ガリレイの地動説だって最初は陰謀論だった」
話題は十五世紀イギリスから十七世紀イタリアへとワープする。変幻自在だ。
天動説がメジャーな説な世にあって、地動説を主張したガリレイは異端者として宗教裁判にかけられ、有罪となった。ローマ教皇は彼を軟禁したのである。それでも地球は回っていたことは、今や世界の常識である。
「それとこれとは別問題じゃないか。でも結局のところ、リチャード三世のそれって小説の話でしょ」
「そう、所詮は小説の話。でも、物語がなかったらそういったマイノリティーの説は生き残れない。それこそガリレオみたいに弾圧されて、それでおしまい」
僕は唸った。ナラティブなものに力は宿る。
「それにその小説が発表される前から既にそう言った説はあったの。実の所、小説の作者はそれを一本の物語にしてまとめたに過ぎないんだ。読んでみると、それなりに筋が通っているよ。五百年前の戦争の勝者が定着させてきた定説よりも」
彼女の言うこともよくわかった。地動説を誰の目にも明らかなものとしたのは、天体観測の進歩だ。これは新たな情報の出現が、これまでの常識をひっくり返すことにつながりうることの証左である。
それにそのケースを僕はもう一つ知っていた。警察が犯人だと言った容疑者が、ある日突然哀れな犠牲者の一人となった、あの十五年前の事件だ。
そう言えばまだその小説のタイトルを聞いていなかったことを僕は思い出した。その小説のことを僕は気になり始めたのだ。
「で、何ていう小説なの? その森さんが好きなその小説は」
「『時の娘』」と彼女が言った。「わたしがフィクションを好む理由の一つは、きっとこの本の考え方に共感したから」
僕はびっくりして言葉に詰まった。『時の娘』。それは森さんと出会った日に図書館で読んでいた雑誌で見つけた文字だった。柿田さんは森さんの愛読書と同じ『時の娘』という題で記事を書いていたのである。
「同じ『時の娘』っていうタイトルで、僕の憧れの記者がこの前雑誌に寄稿していたんだ」
意外な方向に会話が進み、森さんは「へー」と曖昧な相槌を打った。
「ねえ、『時の娘』って、もしかして特別な意味を持つ慣用句かなんかなんじゃないかな?」と勢いこんで僕は彼女に迫った。
「Truth,the daughter of Time」と英文学科の彼女は流暢に言った。「真実は時の娘。イギリスの古い諺だよ。時が経てば必ず真実は明らかになるって意味」
柿田さんの記事は、光岸自動車が長年に亘って自社の製品の欠陥を隠蔽していたことを糾弾するものだった。あれは僕の価値観や人間性、人生そのものにまで非常に大きなインパクトを与えた出来事だった。柿田さんがいなかったら、その隠蔽の発覚にはさらに時間がかかっただろう。
「森さんはよく小説を読むんだね」と少しして僕は言った。
「佐倉くんとわたしって真逆だよね」と森さんは少し笑った。「佐倉くんはフィクションを好まず、ノンフィクションを好む。それも何か理由があるんじゃない?」
いつしかラジオはお昼のニュースから、これから流すブラームスの交響曲についての紹介に変わっていた。彼は十歳で作曲を始めた割に、初めて交響曲を完成させたのは四十三歳になってからだったらしい。すでにウィーンで名声を獲得して久しかったブラームスは、だいぶ聴衆を焦らしていたと言えるだろう。何でもその背景には名高きベートーヴェンの交響曲の存在があったらしい。彼の後に交響曲を書くのなら、それに比肩する作品を作らねばならないという意識があったということだ。
「あんまり溜めすぎると話しにくくなっちゃうよ」と森さんが言った。
「そうだね」
別に勿体ぶるような話でもないのだ。僕にはブラームスのような高尚な葛藤の問題もない。話しにくい理由は他にある。
「あんまり気持ちの良い話じゃないかもしれない」
「聞かせて」と彼女が迷いなく言った。
「あれは僕まだ小学生に上がる前の話だ」と僕は話し始めた。「当時四歳だった僕は祖父母と公園まで遊び行くところだった」
そこでちょうどコンビニから二人が出て来るのが見えた。
「何の話?」ドアを開けながら糸山が訊いた。片手にはビニール袋を持っている。
「昔話」と僕は答えた。
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