双つのポラリス
先ほどと同じように片側のテープを剥がし、暗幕と壁の隙間に身体を入れる。こちら側には白い壁を挟んでベージュのカーテンが二つあり、それをめくると二畳分ほどの大きな窓がそれぞれ姿を現した。窓の向こうにはライトアップされた屋台の看板やまばらな人影がぼんやりと見下ろせた。ベランダの類はない。そして窓には先ほどよりも大ぶりだが同一の機構を持つクレセント錠がしっかりと掛かっていた。
「ここも一応、最後に確認したんだ」
そこには「まさか三階の外側の窓から侵入してくる人はいないだろう」と言う意味がふんだんに込められていることがひしひしと感じ取れた。「それも、ただお菓子を盗むために」とも聞こえた。
そしてこれが最後のチェックポイントだった。佐倉くんがまるで美術館でお気に入りの絵画を見つめるかのように、じっとその場から足を動かさないのを認めて、清水さんは言った。
「他に何か聞きたいことはあるかな?」
「……いえ、大丈夫です」
佐倉くんの返事には力がなかった。きっと何も手掛かりが掴めなかったのだろう。
わたしも話を聞いていくうちに、だんだん自分が犯人なのではないかと疑いたくなって来た。実はわたしは夢遊病で、眠ったままの状態で控室からお菓子の入った紙袋を掴み、このフロアのそれぞれのサークルから一品ずつ持ち去って、それをどこか人目につかないところに隠してしまったのだ。その後わたしはプラネタリウムに帰って来て、ドアの鍵を自分で閉めて再びビーズソファの上に仰向けに寝転んだのだ。それ以外、どんな方法があるのだろう?
……人間は疲れてくると、安易な可能性に飛びつきたくなってくるらしい。
ちょっと座って考えようと、体をかがめて暗幕をくぐった。すると暗幕の向こう側ではとんでもないことが起こっていた。
星が目に見えるほどのスピードで動いている。
「何、これ?」
わたしの声を聞いて、佐倉くんと清水さんも暗幕と壁の隙間から出て来た。ついで、控えスペースからハルカと糸山くんが出てくる。
「早送りしているの」とハルカが言った。
「早送り?」
思わず聞き返すと、糸山くんが代わりに答えてくれた。
「控室にあった二台のパソコンは何に使っているのかってOBの人に聞かれて、あれで天体の映像をプロジェクターから投影させているんだって言ったら、そっちにみんなの興味がうつっちゃったんだ」
それから声を潜め、「まるで新しいおもちゃを与えられた子供だよ」と付け足した。
彼もかなりお疲れのようだった。その子供たちは今、立って紙コップに入った紅茶を飲みながら天体観測していた。
ハルカも糸山くんも、わたしたちに付いて来ないから何をしているのかと思ったら、二人は二人なりに苦労していたようだった。
なるほど早送りか。ゆっくりとだが星が動いているのが視認できるほどだから、八倍速じゃ効かないだろう。風や虫たちの声は聴こえなかった。早送りにすると無音になる設定なのだろう。
わたしはソファに座った。わたしがここに招かれて、そして一人で眠りについたのと同じベージュのビーズソファだ。柔らかいそれに、疲れ切って重たい自分の体が沈み込んでいく。
「あれがデネブ・アルタイル・ベガ……」とわたしは呟いた。ハルカの天体解説はそこから始まったのだった。
「あれがカシオペヤ」 隣にハルカが座り、二時間前を懐かしむような口調で、わたしに二時間前と同じ解説をした。斜めになったWの形をしたカシオペヤ座は二時間前よりも高い位置にあり、時を巻き戻る時計の針のように、ゆっくりと斜めに上昇していた。「あれが北斗七星」とハルカが続ける。
二時間前、カシオペヤ座とは十分な距離をとって、廊下側の壁の同じような高さに浮かんでいた北斗七星は、今はゆっくりと遠く木立のシルエットの向こうに沈んでいくところだった。時計の針で言うと九時から六時の方向になる。 その解説の続きをわたしは覚えていた。
「そしてその間にある、動かない星が――」
北極星。そう言おうとして、わたしの唇は途中で動きを止めた。
「あれ? ふたつある」
「え?」とハルカが聞き返す。
わたしは自分の目を疑った。続く五秒を、わたしは自分の目の機能を信じるために消費した。それだけしっかりと確認した後で、わたしははっきりとこう言った。
「北極星が、ふたつある」
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