森の眠っていた間の出来事(1)
さすがにこの時間にもなると、カフェテリアに人はまばらだった。時刻は十八時五十分を回っていた。
中央付近の丸テーブルで、ハルカと糸山くんはカーテンのない真っ黒な窓ガラスに背を向けて座っていた。手前には椅子が二つ用意されている。わたしと佐倉くんは、そこに並んで腰を下ろした。背負っていたリュックは自分の膝の上に置く。そういえば三人とも手ぶらだ。ハルカと糸山くんは地学研のスペースに、佐倉くんは新聞部の部室にそれぞれ荷物を置いているのだろう。
まずわたしはハルカと糸山くんに佐倉くんのことを紹介した。
「こちら一年の佐倉くん。わたしを名誉毀損から守ってくださる弁護士先生」
「法学部生の佐倉創一です。別に弁護士は目指していません。よろしくお願いします」
「新聞部なんだって? 心強いね。俺たちも同じ一年だ。よろしく」と糸山くんが言った。
ハルカも会釈をし、よろしくと言った。
「そういえばさっき廊下で誰かと電話していたよね。忙しいんじゃないの?」と糸山くんが訊いた。前夜祭という特殊なイベントの最中は、新聞部もあれこれ忙しいだろう。しかも佐倉くん以外の新聞部の皆さんは全員海外留学中らしい。彼にかかる負担は大きいに違いない。
しかしどうやらそれはわたしたちの思い過ごしのようだった。
「いや、さっきの電話は他のサークルの人たちが被害に遭っていないかを確認していたんだ」と彼は言った。「みんなには連続窃盗事件が発生したことは伏せてね。この棟に入っている現在営業中のサークルには大体連絡がついたんだけど、被害に遭ったというサークルは他には一つもないみたいだ」
色々なサークルにすぐに連絡が取れるとは、さすが新聞部。こういう時には頼りになる。
「じゃあ、やっぱり犯人像はあれで間違っていないかもしれない」と言うと糸山くんは腕組みして、みんなの視線を集めた。どうやらわたしたちの到着を待つ前に二人でゼロ次会を始めていたらしい。言葉に重みを持たせるようにトーンを抑えた声で、糸山くんはこう言った。
「犯人は屋台でくじ引きを企画した人かもしれない。それでチョコレートやミネラルウォーターを景品にして、それらに麻紐をくくりつけたんだ」
糸山くんとは初対面のわたしはリアクションに困って、ハルカに縋るような視線を送った。わたしの意図を汲み取ったらしい彼女はこくんと頷くと、隣の糸山くんに向かって諭すような口調でこう言った。
「違うわ、イツキ」
その出だしを聞き、わたしと佐倉くんは安心してハルカが糸山くん説を穏やかに葬り去るのを待った。しかしわたしの友人もなかなかに侮れないのだった。
「きっとお菓子で彫刻を作る人が犯人よ。チェーンソーとかの工具を使ってそんなことをされている人をこの前知り合いの結婚式に行った時に見たの」
独自の視点からの新たな解釈を本件に与えてくれた彼女の発想力には脱帽だ。糸山くん説とハルカ説だと確率的には5:5の引き分けといったところだろう。残りの99パーセントはそのどちらもが検討外れとなる確率だ。
糸山くんはハルカの説には納得いかない様子で、自説を改めて強く推した。ハルカも負けじと同じ主張を繰り返す。まさかこの二人、わたしたちが来るまでずっとこの掛け合い漫才をしていたのだろうか?
ハルカがその方面では活躍の機会が乏しいだろうことは、まあ承知していた。しかし糸山くんもだったとは……。やっぱり佐倉くんをここに連れてきたのは正解だったかもしれない。そう思って隣を見ると、可哀想に佐倉くんは今の二人の話を冗談と捉えるべきか真面目に捉えるべきかの判断に困っている様子だった。マンガだったら頭や頬から汗が滴っているところだろう。見かねたわたしは咳払いしてこう言った。
「推論を立てる前に、まずは状況を整理しましょう」
わたしがプラネタリウムに行き、そこで三人で談笑した後に、わたし以外の二人が順番に席を外し、それからわたしが眠りに落ちるまでの経緯を佐倉くんに一通り説明した後で、わたしは目の前の二人にその続きの話を求めた。
ハルカと糸山くんは互いに顔を見合わせ、どちらが話すかを示し合わせた。それからハルカが口を開いた。
「ええ、最初にプラネタリウムを抜けたのは私でした。控え室から紅茶を持ってこようと思ったの」ゆっくりと、これから口に出す言葉を確認するような調子で彼女は話した。「控え室には、三年で地学研代表の清水さんがいらっしゃいました。清水さんは何かを探されているようでしたので、私は声をお掛けしました」そこでハルカは言葉を切り、言いにくそうにして続けた。「清水さんはお菓子を探していたのでした。そうです、私たち三人で食べたゴディバのチョコレートのことです」
そこで糸山くんは罰の悪そうな顔をした。
「まさか、今回盗まれたお菓子って――」わたしは不安になって訊いた。
「違う違う!」否定したのは糸山くんだった「俺がいけなかったんだ。ちゃんと確認しなかったから」
「どういうこと?」とわたしは訊いた。
「ほっしゃんの帰りが遅いから、俺は森さんをプラネタリウムの中にひとり残して様子を見に行ったんだ。しかしプラネタリウムと暗幕で仕切られたサークル員の控えスペースには清水さんしかいなかった。俺は清水さんに星原さんを知らないかと訊いたんだけど、清水さんは少し不機嫌そうな態度で、『あいつOBに出す予定のお菓子を勝手に食べちゃったらしくてさ。今代わりのお菓子を持ってくるって言ってどっかに走って行ったよ』と言ってきたんだ。だから俺はびっくりして清水さんの誤解を解こうと思って、『あれは星原さんではなく、俺が持ち出したんです』伝えたんだよ」
「実はイツキ、先輩の木原さんから『このお菓子はお客さん用のものだ』って伝えられていたらしいの。だから私が美月を連れてきた時に、イツキはこの人が木原さんの言っていた『お客さん』なのだと誤解しちゃったんですって」
ハルカが糸山くんのことをフォローした。そういう理由ならしょうがない。不幸な軽い事故のようなものだ。
「それで、代わりのお菓子はあったの?」とわたしは訊いた。
「私、同じフロアに偶然チョコレートを売っていた団体を覚えていたの」とハルカは言った。「それで急いでそれを買ってきたの。今回盗まれたお菓子というのは、そのお菓子のことよ」
今までほんの僅かに存在した不安材料、つまりわたしたちが食べてしまったチョコレートが今回の連続窃盗事件の被害物の一つに数えられてやしないか、という心配事が消えたのは良いことだったが、もう一点別の気になることができた。わたしはそれをテーブルに出す。
「その同じフロアの団体って?」
それにはハルカと糸山くんが同時に答えた。
「民俗文化研究会」
それはわたしを犯人と決めつけてきた彼のサークルだった。
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