事件の発生
「美月、起きて!」
両頬に痛みを感じてわたしは起きた。兄はよくそうやって、睡眠の深いわたしを起こしてくれていたのだ。わたしは重たいまぶたを開けた。暗くぼんやりとした室内に、友人の顔が浮かんでいた。両頬の痛みの正体は、彼女の両手がわたしの頬を引っ張っていることによるものだった。彼女の手を退けると、その奥にいくつかの顔がわたしを覗き込んでいることを知った。そして自分の置かれた状況を遅巻きながら理解した。
「ごめん、寝ちゃってた!」
わたしは文字通り飛び起き、わたしを覗き込んでいたたくさんの顔たちのうちの一つである友人の星原ハルカに対して言った。
「わたしも勝手に置いてけぼりにしてごめんなさい」と申し訳なさそうにハルカが言った。
わたしは自分の腕時計をさっと確認した。針は十八時半を指していた。わたしがプラネタリウムに入ったのが十七時半。それから三十分ほどおしゃべりをしていたはずだから、わたしは三十分ほど眠っていた計算になる。
「怪我はない?」真剣な顔で、ハルカが言った。
「怪我?」わたしはオウム返しに尋ねた。怪我?
わたしを取り囲んでいる人数を数える。全部で七人だった。そのうちの二人はハルカと糸山くんだ。あとの五人は知らない。あるものはハルカのすぐ後ろから、またあるものは遠巻きに、わたしに視線を送ってきている。彼らのじっとりとした目つきは、何かしらの嫌な予感をわたしに与えた。
「窃盗事件が起こったんだ」ハルカの隣に立っていた糸山くんが固い顔をして言った。そんな顔でもなかったら、きっと冗談に聞こえたことだろう。
どうやらわたしは、また厄介な事件に巻き込まれたようだった。
「教えて。何があったの?」自分の持ち物の無事を確認してから、わたしはハルカに訊いた。
「ここにいるのは地学研の先輩達と、地学研と同じ階に出店しているサークルの方々で、みなさん被害者なの」ハルカが慎重に話し始めた。その後ろでは、彼女のいうところの被害者の方々がざわざわと低い声で囁き合っている。その中の一人、リネンの長いコートを羽織った髪の長い女子がハルカと糸山くんの間を割ってわたしに近寄って声をかけてきた。
「こんにちは。私は地学研代表の清水です」
わたしも同じ様に挨拶を返した。代表ということは、三年だろうか。メイクが濃く、年齢は二十五より上に見えた。実際にはそれより若いのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。大学生には色々いるのだ。
「変な事件に巻き込んで悪いとは思うんだけど、ちょっと話を聞かせてもらうね」と清水さんは言った。
一見柔らかな口調だが、相手に有無を言わせない圧力がその奥に潜んでいた。
「かまいません」とわたしは言った。「ですがその前に、何が起こったのか知りたいです。教えていただけませんか?」
「だから、連続窃盗事件だよ」
清水さんの後ろから、男の人の大きな声が発せられた。ハルカが少しびくっとした。わたしは個人的に、声の大きな人が苦手だ。声の主はガニ股でわたしに近寄ってきた。
「こちらは二年の木原先輩」
糸山くんがボソッとわたしに耳打ちした。木原先輩はスポーツブランドのウィンドブレーカーを着ていた。短髪で癖毛が強く、襟足が根元から二手に分かれてカールしている。体型はやや小太りであった。
「うちのサークルからはお菓子が盗まれた。アコギサークルは麻紐を盗まれて、民族文化研究会は飲み物を、ボランティアサークルはドリルのようなものを盗まれたらしい」
そんなものたちを盗んで、犯人の目的は何だったのだろう? ケーキのようなお菓子を麻紐で切り分け、ドリルのようなもので飲み物の容器に穴を開けてパーティーをするつもりだったのかもしれない。もしくは縁日によくある、たくさんの紐の中から一本を選んで引くタイプのくじ引きを学祭の出し物として用意したくて、それらを盗み出したのかもしれなかった。麻紐はくじ引きの道具として使い、その他を麻紐に括り付けて景品として使うのだ。当たったのが飲み物でもドリルでも、引いた人は嬉しくないだろう。だがお祭りのくじ引きとはそういうものだ。人生にそんなうまい話はないという教訓を得ることが、実は祭りにおけるくじ引きの一番の景品なのかもしれない。そこで下手に当たりを引いてしまうと、その人はギャンブル依存症に陥り、長くこの先の人生を見ると結局は損をすることになるのかもしれない。
ティーパーティー説とくじ引き説だと、三:七で後者の方に可能性が有りそうだが、残りの九十パーセントはその二つが全くの検討外れであるという確率だった。
そんなわたしのくだらない妄想は、清水さんの言葉で見事に霧散した。
「それで今回の連続窃盗事件で重要なのは、この部屋からお菓子が盗まれた時、たしかにここには鍵がかかっていたということなの」
つまり、この教室の鍵を持っている人にしか犯行は不可能だということだろうか。わたしがそんな問いを発しようとするのを遮るように、清水さんは話を続けた。
「私たちが今この室内に入ってきた時も、全てのドアと窓の鍵は閉まっていた。それはここにいるみんなが認める事実なの。そして――」そこで清水さんは一度言葉を切り、溜めを作った。「うちの副代表と会計は、今日はもう家に帰ってしまっていて、現在この教室の鍵を開け閉めできるのは代表である私だけなの」
わたしはゆっくりと、今の彼女の話を理解するように努めた。以上の話を総合すると、つまりこういうことになる。
「つまり清水さんが犯人ではないとするならば、この部屋からお菓子を盗み出せるのは、その時に室内にいた人物に限られる、ということでしょうか?」
わたしのその問いに、地学研究会の面々は肯定も否定もしなかった。それはすなわち肯定を意味した。
もしこれが本当に連続窃盗事件ということならば、下手をすればわたしはそれらの罪をすべて押し付けられることになってしまいかねない。無論、わたしには身に覚えはない。ついでに夢遊病の自覚だってない。
「ABCだ!」
わたしが身の潔白を主張しようとしたまさにその時、わたしたちからちょっと距離をとったところにできていた集団の中から大きな声が上がった。
まさかチェーンの靴屋や数学における難題のABC理論のことではあるまい。連続事件とABCを結びつけるものと言ったら、世界の誰もが例の連続殺人事件を思い浮かべるだろう。
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