小さな天体観測
わたしをベージュ色のちいさなビーズソファに座らせると、彼女は部屋の奥に一度引っ込んだ。やはりこの室内は暗幕のカーテンで仕切られており、一方の正方形の場所をプラネタリウム会場、もう一方の狭い場所をサークル員専用のスペースとして使用しているようだった。ハルカは暗幕のカーテンの端から向こうのスペースへと、身を滑り込ませるように移動した。暗幕の上半分くらいまでのところはピンか何かで天井と壁にしっかりと固定されている。下の方はまさにただのカーテンよろしくぶら下がっているだけのようだった。
一分も経たないうちに彼女は帰ってきた。見覚えのない男子を連れている。
「こんにちは」彼は座ったままのわたしを見ると、笑顔で挨拶した。
それから彼はハルカの方を向き、「星原さんが『友達を呼ぶからここを貸し切りにしたい』なんて言うから、てっきり彼氏でも連れて来るつもりかと思ってた」などと口にした。
「だから友達だと言ったじゃないの」すぐハルカが嗜めた。ハルカがため口で話していると言うことは、彼もわたし達と同じく一年なのだろう。
「こんにちは。ハルカの友人で、一年の森です」わたしはペコリと軽く会釈した。
「糸山です。同じく一年。よろしく」
屈託のない笑顔を浮かべた彼はそう名乗った。優しそうな垂れ目がまず目をひいた。背はわたしより少し大きいくらいで、ハルカとはあまり変わらなかった。黒い癖っ毛を眉のあたりで右から左に流している。全体としてどこかハーフっぽい印象を受けた。
「よく誤解されるらしいんだけど、ハーフじゃないんだって」わたしの思考を読み取ったかのようにハルカが言った。「わたしも最初ハーフかと思ったの。ロシアとかの」
確かにそっちの国っぽい顔立ちだとわたしは思った。
「イトヤマイツキーとか向こうにいそうだけども」と彼はさらりと交わした。交わしたかも熟練の域に達しているようだった。やはり言われ慣れているのだ。
そんなハーフっぽい彼はグレーのステンカラーコートを着ていて、両手で小さなライトグリーンの四角い箱を持っていた。
「あ、これ?」わたしの視線に気づいて、彼が言った。「記念すべき一人目のお客様のためにお菓子をお持ちしました」
わたしはもちろん遠慮したが、彼は聞かなかった。半ば押しつけるようにして渡されたそれの中にはゴディバのチョコレートが六個入っていた。
チョコを渡し終えた糸山くんは、これで自分の役目は終わったとばかりに「じゃあゆっくりしていって」と言い、立ち去ろうとした。
ハルカからアイコンタクトを受け取ったわたしは彼に提案した。
「よかったら糸山くんもご一緒に」
それでわたしたちは一人掛けソファを三つ並べ、プラネタリウムを見ながらチョコレートをつまむこととなった。
わたしを間に置いて、ハルカと糸山くんが横に自分用のビーズソファを並べた。
まずはハルカが室内に広がる八月の天体の解説をしてくれた。
「あれがデネブ・アルタイル・ベガ――」
君が指差す夏の大三角は、天井中央付近に堂々と輝いていた。これは天体に疎いわたしでもさすがに知っている。
そこから彼女の白い指先はぼんやりとした天の川を北東のほうに移動して行って、廊下側の壁の、ちょうどわたしが入って来たドア(今は暗幕に覆われている)のあたりに張り付いるカシオペヤ座を紹介した。そこから天の川を離れてさらに北へ進む。廊下側の壁の、控室との間を仕切る暗幕のカーテン際には柄杓の形をした北斗七星があった。そしてその北斗七星とカシオペヤ座のちょうど中間地点に明るく輝く北極星を発見したところで星原先生によるミニ講義は終わった。
その後で二人は代わる代わるに、地学研での出来事をわたしに聞かせてくれた。糸山くんは「今回の地学研の企画はほっしゃんが中心になって考えてくれた」とハルカを褒め(ほっしゃんは地学研でのハルカのあだ名らしい)、一方のハルカは「この前の夏合宿での撮影作業や今回のプラネタリウムの設営作業はイツキが細かいところまでこだわってやってくれた」と応酬していた。わたしはといえば、二人の会話に心地よく耳を傾けながら、ひょっとしたらハルカがわたしに見せたかったのはこの星空ではなく彼なのではないのかと邪推を働かせていたのだった。
途中でハルカが「紅茶を入れて来る」と言い席を立った。残されたわたしと糸山くんは若干の気まずさを感じながらも、先ほどの会話を流れに沿って続けることにした。わたしが買いたてのプロジェクターの映像を褒めると、彼は首を振って「いいのはプロジェクターだけじゃないんだ」と言った。彼の話によると、これを撮影したビデオカメラなどの機材は、ハルカの私物だったと言うことだった。サークル内でも彼女のお嬢様っぷりは有名らしい。
「おかげでいい映像を撮ることができた」彼はビーズソファに仰向けに寝っ転がって感慨深げに呟いた。「天気にも恵まれたしね」
「皆さんのお心掛けです」とわたしは言った。
さすがの星原家も天気までは操作できない。
その後しばらくしてもハルカは戻って来なかった。心配になった糸山くんは、いつの間にか抜け殻と化していたチョコレートの空箱を持って「様子を見て来る」と言い席を離れた。本格ミステリだったら犠牲者が増えていきそうな展開だ。
そんなことでこのプラネタリウムは、文字通りわたしひとりの貸し切りになった。プラネタリウムを貸し切りだなんて、たぶんもう一生経験できないだろう。
それにしても、普段は黒板を前にした講義が行われている教室と、この星が降るようなロマンチックな部屋が同一の空間であるとはにわかには信じられない。このビフォー・アフターはまさに劇的だ。先ほどの糸山くんのように、柔らかく沈みこむビーズソファの上でどっかりと仰向けになってみる。自分のリュックを枕にし、それがいい具合に来るように整えた。そうして目を閉じていても、不思議とまぶたの向こう側には(作り物の)星の瞬きを感じた。風の音に乗って夏の虫の音が静かに響く。合宿は嬬恋で行われたと聞いた。そう思えばこそキャベツの匂いでもしてきそうだ。
まるで何から何までが非日常だ。そもそも前夜祭なんていうものは、フィクションの世界にのみ存在するものだと思っていた。もしかしたらわたしはどこかのポイントで、フィクションの世界に入り込んでしまったのかもしれない。過去の自分の行動を振り返る。待ち合わせのカフェテリアに着くまでは、自分の所属する演劇サークルの稽古に通った。というのもいくつかのアクシデントが立て続けに起こった結果、わたしは次回の公演の主演に抜擢されてしまったからで――。ああ、そうだ。一昨日、自分の部室で眠ったはずが、起きた時には一度も入ったことない新聞部の部室に自分が移動していた、あの奇妙な出来事がきっかけで何かが狂い始めたのかもしれない。今わたしがいるのは、あの時から続いている長い夢の延長線上の世界な気もしてきた。いや、ひょっとするとそれよりももっと前、例えばあの一月の事故の日から――。
いつしか現実と夢の世界の境界線が曖昧になる。潮が満ちるようにゆっくりと、だが確実に、わたしは緩やかに夢の世界へと引きずり込まれていった。
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