森の推理(1)
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歳月の経過とともに、過ぎ去った日の輪郭は次第にぼやけ、やがて消えていくことがほとんどだ。だが稀に、例外も存在する。それらは微妙に姿形を変えながらも記憶の底の方に定着し、やがては自分の体の一部となって今後の半生を共にすることになる。例えば幼い頃の一人の記者との出会いがそうだ。そして今日の出来事もまた、それと同じ道を辿ることになるだろう。
内藤の去った二部演劇研究会部室は、少し湿っぽい。先ほどの喧騒がまるで嘘みたいに静かなこの一室で、僕と森さんは向かいあって座っていた。
「奈緒、大丈夫かな」
ついさっき、無抵抗な自分に対してカッターを振るってきた相手のことを、きっと僕はそんな風に気遣えない。
「さっきも言ったけど、自業自得だよ。心配する必要はないだろ?」
それはたぶん、彼女への慰めの言葉ではなかった。内藤さんを追い詰めた自分への言い訳だ。
「本当にそう思うのなら、どうしてさっき、奈緒の質問に答えてあげられなかったの?」
さっきの質問、「なぜ僕はミスコンの不祥事の記事を書いたのか」についてか。僕は、明確な答えを自分の中に持っている。しかし、あの場でそれを言うことは不適当だと考えた。それは今、森さんを相手にしてでも、それを伝える義理はないと思っている。
「わたしはある先輩に憧れて、このサークルに入った。それが誰かわかる?」
ふいに方向転換した会話の流れに戸惑いつつ答える。
「さあ。小泉さんじゃないの?」
「違う。わたしの憧れは穂乃果さん」
なぜ自分の推測が外れたのかを考える。憧れの人物が小泉さんではなくてはおかしい理由があった筈だ。ちょっと考え、その答えに突き当たる。
「森さんはサークルに入る前から本田さんを知ってたの? 二劇だと小泉さんくらいしか新入生には顔が売れていなかったはずだけど」
本田さんはミスコンに出ていなかったはず。
「わたしは奈緒たちと違って、付属校にいた。わたしたちの高校の体育館で二劇の演劇を見た時から、わたしは穂乃果さんの舞台に魅せられた。誰かのために物語を作って、それをたくさんの人の前で披露する彼女は輝いて見えた」
一呼吸おいて、彼女は付け足した。
「それに、わたしの兄は穂乃果さんと付き合っていた。わたしの兄も演劇サークルに入っていて、その関係のイベントで知り合ったんだって。付き合っていた期間は短かったけど、二人が別れてからも穂乃果さんはわたしを妹のように、いつも気にかけてくれていた」
そういえば森さんと本田さんはお互いのことを名前で呼び合っていた。それは他のサークルの人たちとは、違った呼び方だった。
森さんの話はなんとなく、まだ続きがありそうな雰囲気だった。だが、彼女はそこでまたしても他の話題を持ち出した。
「ねえ、穂乃果さんはなんで講義にボイスレコーダーを持ち出したんだと思う?」
「……講師の話を録音して、後でわからないところがあったら聞き返すためだろう?」
本田さんの話を思い出しい、僕はそう答える。
「違う。きっと穂乃果さんは、大学に来れない小泉さんの授業に出て、そのデータを彼に送っていたんだよ」
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