佐倉の自己紹介と状況説明(2)

 森さんと出会うまでの僕の足取りは、それで一通り話終わった。机と床に広がった液体の処理をしなくちゃいけないことを思い出した僕は、ロッカーから古新聞を出して、それに赤い液体を吸わせた。

「そういえば森さんの方は、何か被害はなかった?」

 それまで机の上の惨状を曇った顔で見つめていた彼女は、弾かれたように長椅子の下に手を伸ばし、そこから灰色のリュックサックを引っ張り出した。そんなところに荷物があったのか。気になって長椅子の下をちらりと覗くと、座面の下には一枚の木材の板が張ってある。彼女はそこに荷物を置いていたようだ。森さんはリュックの中身をローテーブルの上に次々広げていく。財布、スマートフォン、カードケース、参考書、レジュメの入ったクリアファイル、筆箱、ポーチ、文庫本。それで全部だった。ハンカチやティッシュはわざわざテーブルに出さなかっただけで持っているのかもしれない。

 彼女はそれらを一通り確認すると、ほっとしたように大きく息をはいた。

「こっちは大丈夫みたい」

 それはよかった。びちゃびちゃの新聞紙を摘み上げ、ゴミ箱の上に優しく重ねる。変なにおいがするし、早く大学内に設置してある大きなゴミ箱にまで捨てに行きたいのだが、しばらくの間それは叶わない。今週の木曜から始まる学祭に向けての準備の一環として、今日から校舎内のゴミ箱は全てビニールテープで口を塞がれてしまっているのだ。

「あの」と言いにくそうな様子で彼女は切り出した。「そのトマトジュース、もしかしたらわたしのものかもしれない。いつも部室の冷蔵庫にストックしているんだけど、それを犯人に使われたのかも」

 このサイズのトマトジュースが大学内にいくつもあるとは思えない。森さんが今回の事件に関わっていることも鑑みて、おそらく彼女のものなのだろう。僕は床掃除を一通り終え、元の丸椅子に腰掛けた。

「じゃあ、森さんの被害はゼロじゃなかったね」と僕は苦笑いで言った。

被害額はざっと僕の五百分の一くらいだろう。しかしそれでも僕らの間に事件の被害者であるという共通項が生まれたのには変わりない。つまり犯人を見つけることは僕ら共通の目的という事になる。

「それで、さっきの話で少し気になったんだけど、メールの送信者が誰かはわからないの? タイミング的に結構怪しいと思うんだけど。過去に同じメールアドレスからメールを受け取ったりとかしていない?」広げた荷物を再びリュックに収めながら、彼女が訊ねた。

 少し考え、僕は答える。

「残念ながらわからない。初めて受け取るメールアドレスだった。うちの生徒には一人ひとりに大学のドメインのメールアドレスが与えられるが、今回のメールはGmailからで、メールアドレスはランダムな英数字だった。そこから誰かを推測するのは不可能だと思う」

「さっきみたいな名推理はできないの? 踊る人形の謎を解いたホームズばりのやつ」

「推理も何も、まだ情報が揃っていないからな。想像じゃものを言えないよ。ジャーナリストは誤報を恐れる生き物なんだ」

「ただの新聞部員にしては見上げた志ね」彼女は少し呆れたように笑うと、すぐにこう切り返した。「じゃあ、新聞部のメールアドレスは限られた何人かが知っているの? それとも広く公開されているの?」

「新聞部のメールアドレスは、この部室の表に貼ってあるポスターにも書いてあるし、同じポスターは大学中の掲示板にも貼ってあるから、うちの学生なら基本的に誰でも知ることができる」

「ふーん。でもさっきのメールには確か『追加の情報がある』って書いてあったよね。その文面から察するに、メールの差出人はミスコンの記事の件で既に新聞部と接触している風だったけど」

 なかなか鋭いところをついてくる。

「確かに僕はその記事を書くに当たって、何人かに取材をしている。具体的に言うと、事件の当事者であるミスコン主催団体の二人と、不正をしてミスターグランプリを獲得した小泉三年生。そうだ、彼は森さんと同じ二部演劇研究会に所属していたよね。後はその他にもひとり、ある匿名の内通者にも直接顔を合わせて取材した。その人から小泉さんのプロフィールがどうやら嘘であると情報を提供してもらったんだ。それらのことはすでに記事にして発表しているけどね」

「悪いんだけど、わたしその記事をまだ読んでいないの。わたしのスマートフォンからでも見れるのかな?」

「もちろん」

 一度記事そのものを読んでもらった方が話は早いだろう。僕は当該記事のURLを彼女に教えた。

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