第46話
千穂はずっと、何者かでありたかったのかもしれない。
子役としてデビューして以来、長年その想いに囚われてきた。
初めてそう感じたのは、子役としての人気が降下したときだったろうか。
苦楽を共にした子役仲間が徐々に引退という道を選び始める中で、千穂は酷く焦っていた。
五十鈴南ではなくて、五十鈴千穂として。
誰からも注目されない、一般人になるのが嫌だった。
目立ちたかったわけではなく、どちらかといえば役割を奪われるのが怖かったのかもしれない。
演技が出来て、人から褒められるルックスで。
南ちゃんと周囲から呼ばれ、必要とされることで、千穂は自分自身の存在を肯定しようとしていた。
かつての千穂は自分の存在意義を、五十鈴南でないと得られなかったのだ。
マンションの自室で、千穂は柄にもなくソワソワとしていた。
付き合って1ヶ月。美井も仕事で忙しく、中々予定が合わない中で、ようやく2人で休みを合わせられたのだ。
そのため、今日は大切な恋人が千穂の暮らすマンションへとやってきているのだ。
好きな人が自分の部屋にいるだけで、こんなに落ち着かないことを初めて知った。
せっかくの美井との時間。酒を飲んで記憶を飛ばしてしまうことを恐れて、2人でソファに座りながら暖かいローズティーを飲んでいた。
「美容師の仕事は、どうなの」
「順調だよ。スタイリストデビューして、指名もついてる。千穂ちゃんもすごいね、プロデュースしてるコスメ全部買っちゃった」
美井も稼いでいることは分かっているが、言ってくれれば全てあげたというのに。
それが喉元まで出かかったが、ギリギリの所で何とか堪えた。千穂だって美井の書いた本は全て自分で買いたいと思う。
ファン心理を理解できてしまうからこそ、美井の行動にとやかく言う気になれなかったのだ。
何となくだが、なぜ美井があそこまでプライベートの南と会いたがらなかったのか、今なら分かる気がした。
ソファの上でふと、2人の指が触れ合う。
先ほどまで盛り上がっていた会話は中断され、嘘のように静まり返っていた。
緊張しながら美井を見やれば、互いの目線が交わる。
「……す、する…?」
そう言った美井の声は、上擦ったうえに震えていた。
思わず吹き出してしまえば、拗ねたように彼女がむくれてしまう。
「なんで笑うの…ひどい、勇気出したのに」
「だって、ガチガチに緊張してて…」
「ずるいよ…私ばっかり緊張して」
そっと彼女の手を取って、服の上から千穂の心臓付近に手を這わさせた。
僅かだが、一瞬だけ美井の手が千穂の胸に触れる。
その動揺はきっと、彼女に伝わってしまっているだろう。
「好きな人が目の前にいて、しないわけないじゃん」
平常心を保っているつもりでも、内心ひどく緊張している。
それでも、好きな人の前だから格好つけているだけだ。
ドキドキと高鳴る音が伝わったのか、美井が恥ずかしそうに声を漏らす。
「……私、恋愛経験ないよ」
「私だってない。だから初心者同士…私たちらしく、ゆっくり進んでいこうよ」
もう20歳を越えた大人だから、年齢に見合った行為をしようと美井は気を使ったのだろう。
しかし、何も急ぐことはない。
昔と違って、これからも2人の関係は続いていく。
ようやく2人の人生を進められるのだから、のんびりと少しずつ階段を登っていけばいいのだ。
「今度のクリスマス、一緒に過ごしたい」
千穂の我儘に、美井は驚いたような顔をしていた。
あの時は、ご馳走を食べることも出来なかったが、今度こそ大切な恋人と幸せなクリスマスを過ごしたかったのだ。
「うん…良いお店予約しとく」
「……あのさ、その…私は別に構わないんだけど、もし週刊誌とかに撮られたら美井は……」
小説家として活躍しているが、美井の本業は美容師だ。
外で食事をして、万が一記者などに撮られたら、2人の関係を勘づかれてしまう可能性もある。
全く浮ついた噂のない千穂のスクープを撮ろうと、張り込んでいる記者は多くいるのだ。
もしかしたらいずれ決定的な写真を撮られて、ワイドショーなどに取り上げられてしまうかもしれない。
芸能人と付き合うというのは、そういことなのだ。
心配で尋ねたと言うのに、美井はどこかケロッとした表情を浮かべていた。
「撮られそうになったら、ピースサインでも向けようかな」
「え……?」
「何があっても私が千穂ちゃんを守るから、心配しないで」
その言葉に、拍子抜けしてしまう。
そうだった。千穂は、美井のこういった所に惹かれたのだ。
きっと、彼女も強くなったのだ。
千穂のために、そして自分自身のために。
沢山努力をして、ここまで追いかけてきてくれた。
そんな相手に対して、今の質問は愚問だったかもしれない。
もし五十鈴南の立場が危ぶまれることになったとしても、不思議と受け入れられるような気がした。
不特定多数の誰かから愛されるよりも、世界で一番大切な人が、こんなにも千穂を想ってくれている。
五十鈴千穂として、心の底から愛してくれているのが伝わってくる。
それだけで、千穂が生きていくには十分だった。
大切な人がすぐそばにいて、一緒に笑い合える。
フィクションかと疑ってしまうくらい幸せな現実を、もう二度と離さないように。
痛いくらい強い力で、千穂は愛する彼女をギュッと抱きしめた。
(了)
君だけ知ってるノンフィクション ひのはら @meru-0731
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