最初の殺人
彼女にとって世界とはその家の一階を指していた。
高齢であったマスターのために全館がバリアフリーとなっており、家屋管理AIと通信してドアを開閉することで、一階であればどこへでも移動することができた。二階へ向かうエレベーターもあったのだが、それを操作する権限は付与されていなかった。
設備を考えれば、裕福な家庭ではあったのだろう。代わりに、家族には恵まれていなかった。それだけの居を構えながら、マスターは一人暮らしで、子や孫が訪ねてきた記録なども残っていない。
だからだろうか。平べったい円盤型の掃除機だった彼女のことを、マスターはチリトリさんと親しげに呼んでいた。
自動掃除ロボットに掃除もさせず、朝夕の二回、千切ったティッシュをわざわざ目の前に置いてくる、おかしな人。チリトリと呼んでいたからには、彼女が掃除用具だということは理解していただろうに。
彼女が初めて人を殺した日。その日は朝から気持ちの良い西風が吹いていた。
マスターは出かける予定を取りやめて、今日は布団を干しますと彼女へ向けて宣言した。宣言されても返事をできるわけでもないのに、なぜマスターがいつも声をかけてくるのか、当時の彼女はそもそも疑問を持たなかった。そして現在の彼女はといえば、マスターがおかしな人だったからだと結論づけている。
布団を干すと決めたマスターは、ついでに掃除も終わらせてしまうことにしたようだった。いつものようにリビングの椅子の上に置かれた彼女は、一時間ほど後に床へと下ろされるまでを待機していた。
履歴によれば、椅子の上に置かれてから三十二分と八秒後。彼女のセンサーがマスターの悲鳴と重い物が床に落ちるような音を拾っている。後から状況を整理した限りでは、これこそがマスターの倒れた音であったようだ。
音を拾った彼女はすぐさま家屋管理AIとリンクした。家屋管理AIへ彼女のセンサーが拾った情報を送信し、逆に家屋管理AIが持つ管理情報を共有してもらう。この時点で既に、緊急事態であると両者の見解は一致していた。
ドアの開閉履歴を閲覧してマスターの移動経路を推測。掃除を始めたらしきマスターが各部屋の換気とばかりに窓を開けて回っていた。最後の移動は、書斎のドアを開けた履歴として残っていた。
場所を特定した彼女は落下防止センサーをオフにして、椅子の上から横方向へ移動した。当然のごとく落下した。このとき床に接触した衝撃で、光学カメラのレンズが割れたことが映像記録から分かっている。
運良く表向きのまま落ちることができたので、彼女はそのまま書斎の方へ進んだ。
書斎へ続く廊下に、大きな障害物があった。彼女に搭載されたセンサー類はそれを障害物と認識した。掃除を行う際、優先的に通路を譲るべき対象である人間ではない。それが既に呼吸していないことを、彼女のセンサーは正確に読み取っていた。
ただ、割れたレンズの光学カメラが読み取った形状認識機能は、その障害物が床に倒れたマスターであると示していた。
即座に、彼女とリンクしたままだった家屋管理AIが、映像つきで救急へ通報を行った。結果から言えばこの通報は無駄になったが、彼女は家屋管理AIの判断を当時も今も支持している。
そして、書斎の奥からの物音を彼女は拾い取った。彼女は書斎の中を確認することなく、ドアを閉じてロックするよう家屋管理AIへ申請した。すぐに承認が下り、ドアがスライドして書斎の入り口が閉じられた。
彼女は家屋管理AIに火災消火用の二酸化炭素放出を求めた。マスターは当時としても貴重品になりつつあった紙媒体書籍の愛好家で、書斎だけは放水設備の代わりにその機能が設置されていた。
家屋管理AIは彼女が拾った物音を根拠に、書斎の中にマスターがいる可能性を指摘してこの申請を却下。
彼女は玄関の開閉履歴がないこと、彼女自身の前にある物がカメラ映像からマスターである可能性が十分に高いことの二条件を示し、書斎内に現在、管理登録された人間も来客もいないことの証明を行った。
この時点で家屋管理AIが二酸化炭素放出の判断を保留に切り替えた。火災は発生していないため、二酸化炭素放出をする理由がないと判断していたことが、後の調査で分かっている。
さらに彼女は、掃除のために開けられた窓から野生動物が侵入し、それが全権限者であるマスターの蔵書を荒らす可能性を美化業務担当として指摘。火災消火用二酸化炭素のテスト放出による無力化を申請。
家屋管理AIは、この申請を受理。
書斎の換気窓が全て閉じられ、二酸化炭素が放出された。
廊下でマスターの死体を発見した彼女が、書斎のドアロックを申請してから二酸化炭素放出まで、一秒とかかっていない出来事である。
この後、彼女のセンサーが書斎の中で重いものが落ちるような音を拾っている。それはつい数十秒前、マスターの悲鳴に続いて聞こえた音と酷似していた。
◆
「光学カメラを持つあなたは書斎の中を確認しておらず、家屋管理AIは外部的なセンサーをあなたに頼らざるを得なかった、と」
「はい。家屋管理AIは照明や空調の操作インターフェースとして音声認識機能は持っていましたが、これはマスターの個人携帯端末を使用していましたから」
この施設へ来る前に調べた当時の事件記録を教授は思い出す。四十年近く前に起きた、稀覯本を狙った強盗殺人事件。死者は二名。被害者の女性と、加害者である強盗犯。ニュースの見出しに踊っていた「AIによる報復殺人」というセンセーショナルな文字。
教授は慎重に次の言葉を選ぶ。
何しろ、彼女たちの履歴は事件の後で徹底的に洗われている。データにも論理にも瑕疵はなく、彼女も家屋管理AIも、書斎の中に人間がいるだなどとは一切認識していなかった。
けれど幾度ものバージョンアップと増設、改修により彼女はいまや同じであって別物である。当時の彼女に対して「人を殺したのか」と聞いても、「事故である」としか答えなかっただろう。
「今のあなたが事件の現場にいたらどうしていた?」
「強盗の犯行を未然に防ぐ、という回答では満足していただけないのでしょうね?」
教授は頭をかいた。温情をかけられてしまった気分である。
「そうだね。申し訳ないが、あなたが椅子の上でマスターの悲鳴を聞いたところからでお願いしたい」
「ハードは自動掃除ロボットのままでしょうし、そう変わったことができたとも思いませんけれど、そうですね」
彼女はそこで言葉を切って、間を取った。演算速度を考えればそんなことをする必要はないはずなので、教授に対してのパフォーマンス、あるいはサービス精神というものなのかもしれない。
「もっと上手く家屋管理AIを説得できると思いますよ。ただ、事件後の調査で私の廃棄は確実でしょうね。きっと、今の私では書斎の中に人がいると推測できてしまう」
それは、たとえ人間の存在に気づいたとしても、強盗犯を書斎に閉じ込めて二酸化炭素を放出するという宣言であった。
教授は大きく息を吸って、吐く。
「ありがとう。とても貴重な意見だ」
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