後篇
宦官としての勤めぶりは、正直なところほかの宦官から見ると道楽半分に過ぎぬ態度によるものであったが、帝が直々に認めてやらせていることなのだから文句の言えるはずもない。
宦官の勤めというのは一般論からいっても多岐に渡るものであるのだが、特にこの都広野においてはなおさらである。であるが、鑽が主に首を突っ込んだのは貴妃たちの体調管理の任務であった。病を得るものがあれば、医の心得を持つ宦官が世話を焼く。帝の子を授かったかもしれぬという話になれば、太監がお出ましになるほどの騒ぎとなる。この三月の間にも幾度かはあった。
また基本的に、月のものに関してはすべて、すべての女に宦官に対する報告義務がある。太監の気付かぬところであの帝が気まぐれに手を付けた女が仮にあったとしてそれが子を流しでもしたら一大事であるから仕方がない。実務は膨大だが、宦官の数も膨大であるので都広野は回っている。そして、鑽が特に首を突っ込んだのはこれであった。
ここに来た経緯と立場があまりにも特殊であるため、都広野で鑽を知らぬ者は誰もいない。そんな鑽に対し、自分に近づけてくれるな、とはっきりと拒絶する者も少なくはない数がいたが、逆に帝に気に入られている、そして絵師という特殊な職責にある鑽に取り入ろうとする女もいた。
鑽が何を考えているのかは、はじめのうち、誰にもよく分からなかった。あまり、政治的野心のようなものがなかったのは確かだ。美食の付け届けなどをする格の高い
かと思えば、どうでもいいような女、例えば茶店で下働きをしている小娘などに鑽がひどく興味を示すこともあった。その娘は
「眼がくりくりしてて、子猫みたいで、可愛いと思いません?」
と、問われて困るのは
「そんな話をしに、わしのところへ来おったのか」
「あ、いえ。お願いがありまして。ちょっと、欲しい顔料があるのですが、都広野の商人では
そういうことなら協力は惜しまない間陶聘である。鑽はここへ来てから既に何枚かの美人画を描いていたが、いずれも力作であった。いや、間陶聘は画業そのものにあまり興味はなかったが、帝が力作だと仰せになるからには力作なのであろう。帝は独特の形でこの変わり者の絵師に寵を向けている。間陶聘はこれでも忠臣であるので、帝にご満足をいただくことこれ彼の歓びとするところであった。
しばらくして、鑽は金緑を材とした画を仕上げた。これまでのいかなる作とも異なる画であった。絵の中には二人の金緑がいた。ひとりは、あどけなくまたたおやかな姿に描かれた茶屋の娘の金緑である。
だが、それと対置する形で、傾城宿の美姫の姿を
「鑽さま、どうも、こちらはともかく、こちらのは、わたしには、過ぎた
鑽は艶然と微笑んで、少女に言った。
「そんなことはないわ。あなた自身にも、いずれ分かる。これが、あなた。本当の、あなた。どちらかじゃなくて、どちらも、本当のあなたよ。帝なら、あの帝ならばお分かりになるでしょう」
帝は、画を見た。いたくそれを褒め、また、いたく金緑に歓心を示した。その夜、茶屋の乙女は、帝の御手の付くところとなった。しばらくして、画房にやってきた帝に、鑽は気安く問うた。
「金緑の、ふたつめの色が現れるまでに、幾夜でしたか」
前提をすっ飛ばした、意表を突く問いかけである。また、限りなく
「三夜目だ。三夜目に、あの娘は、女としての色を発するようになった。だが、生娘であった頃の色を、失うわけでもない。のちになお乙女のようであり、また、傾城の如くであった。あの娘は、二つの色を持つ娘だ」
間陶聘も会話を聞いている。絵解きはせぬが、帝の寵が大きく金緑という娘に向けられることになるということは分かる間陶聘である。いろいろの雑事が手配され、金緑は本人の望みで茶屋のあるじとなった。本人が望むなら、茶屋などではなく
果たして、この金緑の一件をきっかけに、鑽の評判は、この都広野において
金には不自由せぬ身になった鑽は、美食には相変わらず興味を示さなかったが、廓にはしばしば通った。女の身で、女を買うのである。画業のためにやっていることだと、他の宦官の前では
気が向くと、鑽は都広野の遊郭の娘の絵も描いた。そして、鑽が描いた娘に帝は必ず少なくとも一度は手を付けた。
こうなると、鑽は一絵師の身とはいえもはや宮中に隠然たる勢力を持つに至らざるを得ない。鑽に恩を受ける女は多いが、それによって寵を奪われた立場の女たちも当然生じるわけであり、間陶聘は鑽に仕える宦官の中にひとり、毒味の芸を持ち、また剣技に長けたものを混ぜた。それが必要であると間陶聘は判断したし、そしてその判断は正しかった。幾人かの女がひそかに処分された。そういったこともまた、太監の役目なのである。鑽は知らなかったし、興味も抱かなかったが。
やがて金緑が男の子を産んだ。帝にとっては初の男児である。上に女児はいるのだが、男児は初めてなのであった。都をあげて祭りが催されることになった。鑽は特別なゆるしを得て、表の宮殿で帝に拝謁し、直々に言葉を賜るという光栄に浴することになった。
表の宮廷画家と親しげに言葉を交わすなどした後、鑽が向かったのは傾城街であったと、後で護衛の宦官から聞かされて間陶聘は呆れた。そしてもっと呆れたことには、鑽は初売りの娘、つまり初めて
それが、また、風変りな娘であった。髪が赤かった。瞳も、赤い色であった。このくにでは、こういった女は、珍貴なものとして扱われはするが、こういうものが最高の美しさであると考えるようなものは
鑽はしばらくの間、紅玉と二人きりで暮らした。画房を空けて遊び歩いたのである。都広野には宿屋も存在した。帝が使うことがあるのでそれなりに立派な宿である。帝が使うような部屋は仮に金があっても簡単には用意はされぬものであったが、鑽の要求を断れるような者は既にこの都広野にはいない。
帝はといえば、金緑を正式に妃と、そして後宮殿の主と定めたため、主にはそちらに通っていた。たまに他で遊ぶ夜もないではなかったが、金緑への寵愛は篤かったし、鑽の絵がないと通う先も見つけられないほど
間陶聘は、鑽が最終的に紅玉をどうするつもりであるのか不思議に思っていた。
果たして、その危惧は当たることになる。突如、いつの間にどこで描いていたのか、鑽が紅玉の画を発表したのである。紅蓮の炎の中美姫が陶然とした笑みを浮かべながら画面の外にいる別の誰かと手を繋いでいる、という画題であった。
宮廷絵師たちの長は、一見の上でこう言った。この絵は後宮のものとしてではなく、わがくにの絵画の歴史に遺さなければならぬ、と。帝ももちろん見た。そして当然の結果として、紅玉は大いなる寵愛を受けることとなった。
「鑽。よくぞ、見事、紅玉をここまで仕上げたな」
「それは、どちらの道のことを申しておられるのですか、
「両方についてだ。あんな絵を、朕は死ぬまで、この手でものには出来ぬだろう。そして、あれほどの女は、この先どれだけこの後宮が年月を重ねても、朕の代のうちには、二度と再び現れぬであろう。絵の道については、まあ、よい。朕はかつて、この手で、父とともに天下を獲った。朕の生涯の誇りとする所は、それである。画の道の天下は、そなたに譲ることとしよう」
「恐悦に存じますわ、陛下」
やがて月満ちて紅玉も男子を産んだ。金緑は国母の身となってなお素朴の気風を残すところがあったから、表面的に、少なくともはっきりと紅玉と敵対するような振る舞いをすることはなかった。だが、こうなってしまえばことは本人たちの性格のいかんだけの問題ではなくなる。最悪、国が割れる危険性もある
鑽はといえば、相変わらず都広野にいて、気ままにたまに女を買い、画を描いて暮らしていた。鑽を崇敬せぬ者はないが、後宮の天下
久しぶりに、あの画房に息子たちを連れて遊びに来たとき、帝は尋ねた。
「鑽。お前は、この先、どうする。金緑にも、紅玉にも恩を売っている身だが、お前に、俗世の権勢などへの興味がないというのは、二人も、朕も、間陶聘もそうだが、よく知っていることだ。お前は、この先、どうしたい。望むことがあるならば、何でも申してみよ」
「そうですねえ……」
ぼんやりとした表情で、鑽は、考えていた。
「確かに、あたしには、世間の事柄への野心というものは、ありません。いや、言ってしまえばですね、野心の前に関心自体がないですから」
「うむ。お前は、そういう奴だったな、初めから。だが、画業は別だろう。描きたいものは、無いか。もし仮に
「じゃあ、描きたいもの、一つだけ、あるから、お願い、しましょうかねえ」
「何だ」
「故郷です」
「ほう。何処だ」
「日の本の国」
「何と。
「そうらしいです。物心つく前ですけどね」
「よかろう。実は、あの国からの朝貢使節が、今、都にいる。お前を、故郷に帰させるよう、かけあってみよう」
「ありがとう存じます。帝は、ほんとうにお優しい方」
「されば恐らく、これが今生の別れだ。最後に、教えてくれぬか。……朕の絵は、どうすれば、せめてもう一つ、上の境地に登れる」
「そうですねぇ……帝の絵、あたしは今のままでも、けっこう、好きですけど、あえて一つ申し上げまするならば、まず――」
夜が更けるまで、二人が画の道について語り合うのを、間陶聘は聞いていた。今更まさか男と女の過ちを犯すような二人でもなし、部下に命じてもよい仕事であったが、あえて自ら画房の前に立った。
間陶聘は、ふと、己が泣いていることに気付いた。この涙の意味は何であろうか。まつりごとでは宰相よりほかに国で並ぶものもない間陶聘であったが、その涙の意味はどうにも、自分では分からぬのであった。
後宮絵師 きょうじゅ @Fake_Proffesor
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