後宮絵師
きょうじゅ
前篇
女は遊女であるが、ここは廓ではない。ここは、
もちろん俗世からは閉鎖隔絶された空間であって、入口でありまた出口である場所は一か所しか設けられておらず、そしてその通用門の出入りには固い
だが、それはこの都広野の
都広野というまち、これみなすべて本質的には帝ひとりの歓楽の為に設けられた虚構であるのは確かであったが、そうは言っても、ここに暮らす者たち、すなわち
この大仕掛けは先帝がお考えになった。先帝は天下の統一を果たした英傑であったが、帝の位についたとき既に老い先そう長くはなかった。長子があり、優れた武人かつ優れた為政者であって、よく父を
さて、鑽石についてである。鑽は、外からやってきた遊女である。つまり、この歓楽郷とは別の、俗世の苦界に身を置き、春をひさいでいた女である、ということだ。鑽石とは、金剛石のことである。金剛石とは、異国の言葉では、ダイヤモンドと呼ばれるものである。このくにでもっとも珍重される
金剛石は硬い石である。この世でもっとも硬いとは言い切れぬまでも、少なくとも、他の宝石を磨くのに用いることのできる石であった。いっぽう、硬いためになりを
遊女である鑽がこの都広野に招かれたのは、
ある日、都広野の画商が、まちの外から、一枚の美人画を手に入れた。とある傾城宿の、
並べて待つことしばし、果たしてその画は帝の眼に触れるところとなった。帝は画を好んだ。本人も、描く。かの宋の
帝はその絵を観て感心し、その描かれている美姫を都広野に招いた。それなりの寵を美姫は得た。それはそれで善き話であるが、話は別の方向へと続く。画商はまた絵を仕入れた。同じ絵師の手と見られる別の美人画であった。繰り返しの話となるから話を省くが、その絵の主である美姫もまた都広野に入った。
そして三度目である。帝が画商に問うた。どうやら、また同じ絵師の手のようであるが、この絵師はいずくの
帝がこう問うということは、宦官の長である太監にことの次第が報告され、そして、その絵師が捜索されなければならぬということである。そして、捜索された。結構な苦労の末に絵師は見つかった。結構な苦労が生じたのは、その絵師は都のいかなる画房画工とも繋がりを持たず、ひとりで絵を描いていたからである。描かれた三人の美姫たちは同じ
「わしが、
と、
「都広野の、諸事を司っておる。こたびは、そなたを、特にお召しになりたいとの、
万歳爺とは帝の尊称である。さて鑽は、成程それは有難いお達しであるが、一体いかなる次第でこの自分はここに招ぜられるに至ったのかと問うた。問う、という行為そのものが、この女がいかに常軌を逸しているかということを、つまり、頭のどこかが尋常ではないか、或いは肚の座り方が尋常ではないかのいずれかである、ということを示すのであるが、確かに問うた。男は驚きを内心に隠しつつも、ことの次第を語って聞かせた。
「それでは、帝は、あたしの絵を御所望であると、そう、ご理解してよろしいのでしょうかしら」
「然り、そういうことになるな。何か、気にかかることがあるか」
「三つ、注文したいことが、あたし、あるんですけれど」
男はいよいよ驚いた。何という口の利き方をするのか。太監というものが、何であるのかも知らぬとは、思われぬ。その程度の社会常識がなければ、まがりなりにもそこそこの格の
「……聞こう。申してみよ」
「まず一つは、あたしに、小さくて構いませんので、画房を一つ、用意してくださいまし。寝起きする場所は、別には要りませぬ。そこで、暮らしますから」
「ふむ。では、ここを使うがよい。ここをお前のものと思ってよい」
それは話の流れから妥当な要求と思われたので、そういうことにした。
「それからですね。あたしもいちど、万歳爺のお情けを、
なんだ、意外と俗なことを考える、と、男は鼻白んだ。
「ここは後宮だ。運が良ければ、御目に、止まることもあろう。それ以上は、わしがいかに太監であるとはいえ、約すことはできぬ。万歳爺のおめがねに叶えば、或いはお前が御通いの身となり、果ては
「いえ。あたし、国母って、ガラじゃあ、ございませんので、それは、いけませぬ」
「なんと申す」
「いちど、でございます。いちどだけ、賜りたいのです。二度は、求めませぬし、求めぬようにと、万歳爺に、畏れながら、お願いのほどを申し上げまする」
男は、果たして仰天するほどに驚いた。
「お前は、自分が何を言っているか、分かっておるのか。そのようなことを、奏上しては、この間陶聘への帝の覚えさえもが、危うくなろう。されば、約すことは、ならぬ。都広野が嫌ならば、今聞いたことはわしの腹のうちのみに収め、特別に生かして帰してやるから、廓に戻るがよい」
すると女は、鈴のように笑った。ころころと。
「そんなことを、言って、
にわかに、部屋に詰めていたほかの宦官たちが、血相を変え、腰のものに手をかけた。
「待て」
帝がそう言うので、宦官たちは剣に手をかけた姿勢のまま次の言葉を待った。
「なぜ、
元凶はこんな悪戯を自分で思いついて仕掛けた帝本人なのではあるが、事の次第によっては誰の首が飛ぶ事態に展開せぬか分からぬ問いである。宦官たちはみなたらたらと脂汗を流し始めた。なお、その間陶聘の本物は隣の部屋にいて一部始終を聞いており、今は赤くなったり青くなったりを繰り返している。
「匂いですわ。とても、つよい、殿方のにおい。宦官で、このようなにおいを、発せられる方は、ありません」
「何と。……朕の魔羅のこともか」
「ええ。あたし、あんまり売れてはおりませんけど、遊女のはしくれですの。その匂いは、嗅ぎ慣れておりますればゆえ」
慮外の女である、と帝は思った。これは、抱かねばならぬ、どうしても抱かねばならぬ。そう思った。帝がそう思うのならば、止められる者は、いない。人払いが命じられ、本物の間陶聘と帝と鑽が残った。
間陶聘には勤めがあった。鑽の身を改めねばならぬ。いくら自由奔放を地でゆくこの都広野にあっても、寸鉄を帯びているかもしれぬ女をひとりで帝と同衾させるわけにはいかぬ。鑽はあっさりと衣をすべり落として、裸身を晒した。
なるほど、
間陶聘も外に出た。そして外で回数を数えた。いちどだけ、というのはそういう意味での一度ではなかったらしく、間陶聘は一晩中
だがこのとくべつは、一夜では終わらなかったのであった。
「改めまして、間陶聘さま。鑽石にございます。
間陶聘は
「……帝が、許したということについては、わしにもどうにもできぬから、問うまい。だが、これだけは、教えてくれ。お前、なぜ、女の身で、宦官の真似事などを、したがる。画業に専念がしたくて、
御褥御免とはつまり、わたしをもう抱いてくれるなという約束のことだ。さて、鑽は説明した。
「画業が、あたしのすべてですわ。ただ、画業を
「分からぬ。仔細を申せ」
「ここの女たちについて、いちばん詳しく知っているのは、宦官の皆さまでしょう」
「それは、そうだ」
「ならば、あたしも、ここの女たちについて知りたいので、宦官になるのが、一番手っ取り早いと、そう考えたまでのことですわ」
「……わかった。もういい。好きにせよ。お前は、確かに、只者ではないようだ。あとのことは、何人か、お前付きの宦官、お前の宦官としての上司であると同時に絵師としての従者でもある、それを、見繕って付けるから、
女は、鈴のように笑った。ころころと。
「はい。有難う存じます、間陶聘さま」
鑽はこうして、都広野の住人となった。
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