第十二章 想いの果て(2)

 カームスからの報せを受け取っても、エヴァンジェリンの表情は動かなかった。

 「"不滅の聖杯"は砕かれたが、フィロータリアはまだ、生きて逃亡している。おそらくイーリスへ向かっている。」

ヴァイスたちが追跡してはいるものの、なりふり構わぬ移動速度に追い付けず、彼女は既にトラキアスとの国境を越えたはずだという。

 沈黙したまま、小鳥を手元に置いてどこかを見つめている主の傍らで、アステルも、ただじっと待って居るしかなかった。


 そのまま、どれほどの時が過ぎただろう。

 ようやく、彼女は立ちあがった。

 「――どちらへ? エヴァ様」

 「霊廟よ。貴方はカームスへ返事をお願い。準備はこちらで整える、侵入を食い止める努力はしなくていい。と。」

 「しかし」

 「これ以上、あの子に関わって傷つく者を出したくない」

黒いドレスの裾を翻し、静かな足音が遠ざかってゆく。

 アステルは、テーブルの上に載ったままの小鳥のほうに向きなおり、返事を書くためのペンと紙を取りあげた。




 冴え冴えとした月明かりの下を、ぼろきれのようになったドレスを纏った裸足の少女が、身体をひきずるようにして歩いている。

 腹から背にかけて切り開かれた無惨な傷跡に布切れをきつく巻き付けて、それでも止めきれず滲みだす血が、足元に赤い点となって落ちる。

 そんな姿なのに、不思議と、誰もその姿を見咎める者はいなかった。冷たい風が山を吹き下ろし、腰まである長い金の髪を散らばらせた。

 目の前には懐かしい谷間が、深い緑に覆われて沈黙を保つ、かつての王国の入り口がある。フィロータリアは無造作に緑の茂みを乗り越え、侵入者を阻むための魔法道具アーティファクトを一瞥すると、それらが動き出すのも構わずに足を踏み出した。




 先を急ぐ四頭の馬は、ほとんど休みも取らず谷間の牧場を目指して駆けて来た。

 カームスの街には寄らず、最短距離で走ってきたが、それでも、遅すぎたことは森に近付く前から既に明らかだった。

 森から立ち上る煙。鐘の音。

 放牧されている馬たちが怯えて騒いでいる。

 牧場の外周に近い柵の側に父と兄がいるのに気づいて、ヴィオレッタは馬の速度を上げた。

 「父さん、兄さん!」

 「ああ、ヴィー。良かった、間に合ったんだな」

兄の足元には、泡を吹いて馬が倒れている。

 「フィロータリア様は?」

 「馬を乗り捨てて森のほうへ行ったようだ。さっきから森が騒がし…」

言いかけた言葉を打ち消すかのように、地響きのような音と新たな爆炎が引きあがる。頭上から、何かの破片か燃えカスのようなものがぱらぱらと降って来る。

 「こいつぁまた、派手にやらかしてるな…」

ヴァイスは苦々しい顔で呟く。力任せに罠を破壊して押し通っている様子だ。そんなことが出来るのは、仕掛けられている魔法道具アーティファクトの種類と動作を熟知している存在、すなわち、フィロータリア以外には在り得ない。

 「あの鐘、最終防衛線のものよね?」

ヴィオレッタが父フレデリクに尋ねる。

 「そうだ。今まで一度しか聞いたことが無い。前回は――」

 「――オレが入り込んだ時、か」

薄っすらと笑みを浮かべたヴァイスの表情は、すぐに真顔に戻る。「急ぐぞ」

 頷いて、ヴィオレッタも後に続く。ヴィルヘルムはルシアンともに、その後ろを固める。

 鐘が鳴ったということは、フィロータリアは既に、かつてのイーリスの都まで辿りついたはずなのだ。そしておそらく、今ごろは、…目指す人物と再会していることだろう。




 ヴァイスの予測したとおり、まさにその頃、彼女は、花咲く庭園へと辿り着いていた。

 門を守っていた大きな魔法人形ゴーレムは破壊され、火花を散らして、先ほどまだ打ち鳴らされていた鐘を枕に地面に倒れている。番兵代わりの魔法人形ゴーレムは、混乱してぐるぐる周りながら手あたり次第に他の人形たちを攻撃している。小鳥たちは、地面に落ちて色鮮やかな羽根を散らしている。

 煤と泥、それに自らの血に染まり、薄っすらと笑みを浮かべながら庭園を歩いてくる少女の手には、さきほど衛兵から奪った首がひとつ、ぶら下げられている。

 「ここから先は、立ち入り禁止だ」

杖を手に立ちはだかった執事服姿の少年を見て、フィロータリアは僅かに驚いた顔になり、それから、大声で笑いだした。

 「なぁに? アステリオンの顔した人形? わあー良く出来てるわね。それに悪趣味。アハハッ、あんた、姉様が作ったの?」

 「下がれ」

杖の先から放たれた冷気を、フィロータリアはまるで獣のような動きで四つん這いになって避け、そのままアステルの首元に食らいつく。ガキン、と金属のへこむ音がする。表情ひとつ変えず、彼は杖を持っているのとは反対の手で拳を少女の腹に叩き込んだ。だが、浅い。フィロータリアは空中を舞うようにして距離を置き、食いちぎった金属片を吐き出して、笑った。

 傷を負っていながら、なぜこんなに俊敏に動けるのか。

 "不滅の聖杯"は砕いたと、報告にはあった。その証拠に、傷口は塞がってはいない。それなのに。

 「…これでもまだ死ねないとは。化け物、か」

ぴくりと、少女の眉が動く。

 「それはお互い様でしょ。姉様だって同じよ。まだ生きているんですからね――あたくしと同じように!」

 「エヴァンジェリン様の悪口は許さない」

 「出しゃばらないでよ、生きてもいない人形のくせに。命令に従うだけの木偶の棒のくせに!」

杖から放たれた冷気と凍てつく氷の刃をひらりひらりと躱し、腕が凍りつくのも構わずに、フィロータリアはアステルの腕を掴んで、杖ごともぎ取った。そして、頭を強打して地面に叩きつけると、その背中を踏みつけて、ゆっくりと立ちあがった。

 灰色の目はどこか期待に満ちて、無邪気にきらきらと輝いている。

 「姉様は…どこ? ああ…あっちね。感じる…」

嬉しそうに呟いて、ふらふらとした足取りで花園の奥の館のほうへと歩きだす。

 ぽたり、と血が流れ落ちる。

 「……。」

アステルは、ぎこちなく金属音を響かせながら起き上がろうとするが、歪んでしまった体は思うように動かない。顔の半分は内部を露わに、片腕を失い、背は折れてしまって真っすぐに立つことも出来ない。それでも片腕と両足は、まだ動かせる。

 遠くに飛ばされてしまった杖を拾い上げ、這いずるようにして歩きだそうとしたとき、門のほうから駆けて来るヴァイスたちの姿が目に入った。

 「――アステル!」

駆け寄ったヴァイスが、少年の脇に腕を差し入れて支える。

 「大丈夫…じゃないみたいだが、なんとか生きてるな。フィロータリアは? エヴァンジェリンは何処だ」

 「エヴァ様のところへ向かった。玉座の間だ…この奥に…」

 「案内してくれ。」

アステルは頷いて、ガラス玉の瞳を、回廊の奥へと向けた。

 虹色に輝きながら流れ落ちる滝の音が、やけに大きく響く。

 「エヴァ様は、…決着をつけられるおつもりだ」

 「決着?」

 「全ての災いと、イーリス王家の因縁に」

回廊に踏み込むと、左右の灯りが自動で灯ってゆく。ここは、初めて通る道だ。古びて苔むした石像と、見たことのない様式の柱が立ち並ぶ。かつては光差す明るい道だったのだろうが、今は分厚く緑に覆われて、足元もおぼつかないほど薄暗い。

 その奥に、既に形を無くした丸天井を持つ大きな建物があった。入り口の門から空へ向けて続く広い階段の先には、おそらく以前は、この国の玉座が置かれ、王と王妃が日々、執務を行っていたのだろう。けれど国の滅びた今はもはや、空を天井に、草と木に覆われて、ぽつんと玉座の置かれているだけの、ただの空間となっていた。




 エヴァンジェリンは、その玉座に静かに腰を下ろしていた。

 いつもと同じ、黒一色の喪服のようなドレス。膝の上に金色に輝く錫杖を載せ、微動だにせず待っている。

 様子見にやった小鳥が戻ってこないことからも、さきほど響き渡った鐘の音からも、待っていた人物が廃墟となった都へ到着したことは明らかだった。様子見に行ったアステルも、無事には戻って来るまい。

 いつか、こんな日がくるとは思っていた。

 かつての自分はそれを恐れ、先延ばしにして、目を逸らそうとしていたに過ぎなかった。もし、もっと早くこうしていれば、災いはもっと早く収束出来ていたかもしれない。

 全ては自分の弱さが招いたことなのだ。

 自ら決着をつける覚悟を持てなかった、自分自身の迷いが。


 ひた、ひたと裸足の足音が階段を登って来る。

 記憶にあるままの幼い笑顔が、自分と全く同じ造形の顔が、血と泥にまみれて近付いてくる。

 フィロータリアは階段を登り切ったところで足を止め、灰色の瞳でじっとエヴァンジェリンを見つめたかと思うと、嬉しそうに口元を歪めて笑った。

 「ああ、姉様。久しぶりね。とても…とてもお久しぶり」

 「ええ。お久しぶりね、タリア」

無機質な声で出迎えるエヴァンジェリンの表情には、何の感情も浮かんでいない。

 「会いたかったわ…それにお話したいことも沢山あったの。思い出さない日は無かったのよ? あの穴に落されてからずっとね。暗い暗い、深い穴の底で、ずっと考えていたの。リチャードはどうしてこんなことをしたのだろうって。あたくしが何かしたのだろうって。どうしても出られなくて、寂しくて…姉様のことをずっと考えていたの…あれは、姉様が教えたことなんでしょう? リチャードに言って、私を殺させようとしたのよね?」

 「……。」

 「ずっと考えていたら判ったのよ。みんな、私に死んでほしかったのでしょう? 最初からる父様も、母様も…お城の人たちも…リチャードも。邪魔者扱いされていたけれど、本当は早く死んでほしかったのよね? どうしてなのかしらね…どうして…皆…私を恐れて、殺そうとするの。もう名前も忘れてしまったけれど…あの人も」

膝の上で握りしめていた手が微かに震え、黄金の杖が、カシャンと小さな音をたてる。

 「それは、お前がすぐに人を殺すからよ」

ドレスの裾を引きながら、エヴァンジェリンはゆっくりと、玉座から立ちあがった。

 「自分が殺した者たちのことは都合よく忘れてしまったの? 癇癪で殺された乳母のメリュジーヌ。散歩に連れて行って貰えなかったというだけで殺された侍女のアリエッタ。お前をからかったために殺された従姉妹のフィリエール。お前は感情のままに何人もの人を殺め、そのたびに忘れてしまった。わたくしがどれだけ話しても、お前はただお説教されたと拗ねるばかり。…どうして理解出来ないの、タリア。自分が人に避けられていた理由が。人に愛してもらえないのは、お前自身が、人を愛することを知らないからよ」

 「!」

さっとフィロータリアの顔に怒りの色が走った。

 「お前は本当は誰も愛していないし、愛など知らない」

 「いいえ! 知ってるわ、知ってるわよ。教えてくれたもの。リチャードが…」

 「それは愛と呼べるものではないわ。ただの思い込みよ。」

 「どうしてそんな酷いこと言うのよ! 姉様はいつも意地悪よ。お説教ばかりで――また私を檻に閉じ込めるのね? また私をぶつのね? やめて。やめてやめて。酷いのは皆よ! 父様も母様も、みんな嫌い! いなくなればいい!」

長い髪を掻きむしって、悲鳴にも似た絶叫とともにフィロータリアが駆けだした。

 声を聞いて、アステルをヴィオレッタに任せて階段を駆け上がってきたヴァイスが、剣を抜きながら援護に入ろうとする。

 「エヴァンジェリン!」

 「手を出さないで。これは私のけじめなの。」

錫杖を振るい、フィロータリアの攻撃を受け流しながら、彼女は堂々たる大音声で怒鳴った。

 「イーリス王国の女王、エヴァンジェリン・メルアンスル・フォン・イーリスの名において。罪人、フィロータリア・メルクェス・フォン・イーリス、お前に死刑を申し付ける!」

見開かれた宝石のような赤い瞳に映し出されているのは、普段の死んだように物静かな彼女からは想像もつかない、烈火の如く燃える怒りの感情だ。獣のように身をしならせ、素手で襲い掛かるフィロータリアの攻撃を全て杖で受け流し、素早い動きにも反応している。

 「何だ、これは…」

追い付いてきたヴィルヘルムが、唖然としている。

 「"不滅の聖杯"は、もう一つ…エヴァンジェリンの体内にもあるんだ。忘れてたよ。」

 「ということは、不死身の女がもう一人いる、ということか?」

 「そうなるな」

しかもエヴァンジェリンの体内にあるほうの魔法道具アーティファクトは、まだ傷ついてはいない。"不滅の聖杯"の唯一の成功例だと自分で言っていただけあって、これだけ激しく戦ってもなお、エヴァンジェリンの動きには理性があり、獣と化すような不安定さは感じられない。

 「お説教もお仕置きも、お前には無駄だった。お前がいつかまっとうになってくれると信じて勉強させた知識を敵に与え、この国を滅ぼさせたのはお前だ! その罪は絶対に消えない、フィロータリア!」

 「実の妹を殺そうとしたくせに良く言う。姉様だって化け物じゃないの? どうして生きているのよ、ねえ。この都は完全に滅ぼしたはずなのよ? 王族は念入りに、一人残らず皆殺したはずだったのよ? ねえ、父様たちは苦しんで死んでくれた? 私を閉じ込めたぶんだけ、酷い目にあってくれた?」

 「――ええ。野ざらしの首を見たわよ。酷い辱めだったわ。私も本当なら死んでいたはずだった。…アステリオンが庇ってくれなければね」

叩きつけた錫杖の先がフィロータリアの頬に新たな傷を刻むが、彼女自身は既に傷みも感じなくなっているようで、笑いながらくるくると回って、距離を取る。

 「それで、アステリオンがいなくなって寂しいから、人形になんて作ったの? 楽しかった? 森の奥でお人形と二人きりの平和な暮らし…ねえ、楽しかった?」

 「楽しいと思う?」

エヴァンジェリンが、その距離を一気に詰める。

 「お父様とお母様、それに多くの同胞たち――ここには、ハイモニアに滅ぼされた者たち皆が眠っている。どうしてお前は分からないの。人はなぜ、他者の死になぜ涙を流すと思うの!」

振り上げた杖が、勢いよくフィロータリアの左腕の付け根に叩き込まれ、片腕が宙を舞う。

 「あっ…」

離れた場所に腕が落ちる。

 しかしもちろん、割れた"不滅の聖杯"では、それを修復するだけの力はない。

 態勢を崩したところに、さらに杖が叩き込まれ、今度は右足の膝から下が千切れ飛ぶ。凄まじい力だ。返り血を浴びてなお表情ひとつ変えないエヴァンジェリンの整いすぎた顔は、フィロータリアとは別種の意味での「怪物」だと、ヴァイスは今さらのように思った。


 そう、失敗か成功かは別として、姉妹は体内に同じ魔法道具アーティファクトを埋め込まれて生まれてきたのだ。

 彼女たちは表裏一体であり、実際には同一の存在なのだ。


 ヴィオレッタとルシアンが、アステルを抱えるようにして階段の上まで運びあげて来た。人間と違い、体の全てが金属で出来ている魔法人形ゴーレムは重量があって、二人がかりでようやく担ぎ上げられるほど重かった。

 「…あ」

玉座の前で起きている出来事に気づいたヴィオレッタが、慌てて杖を構えようとする。それを、アステルが止めた。

 「手を出すな」

 「で…でも」

 「自らの手で決着をつけると、エヴァ様は仰った。お前たちには、…見届けて欲しいと」

そう言われては、頷くしかなかった。それにどのみち、「怪物」同士の一騎打ちに、人間が手を出せる隙が無いのだ。


 腕を押さえ、片方だけになった足で、フィロータリアはじりじりと後退る。そこにエヴァンジェリンがゆっくりと、杖を片手に迫ってゆく。

 「そういえば、お前と言い争いなんてしたことは無かったわね。本音を言いあったこともない。思えば…私のほうも、いつもお前と接するときは一線を置いていた。王族の一員、この王国の後継者という、立場のほうを気にしていた」

 「嫌、来ないで…叱られるのは私ばっかり…嫌だ…閉じ込められるのも…一人になるのも嫌…」

 「いつか分かってくれる日が来ると信じていたのも嘘よ。どうせ無理だと諦めていたのに、手を汚すのが怖くて見ないようにしていただけ」

 「ずるいよ…姉様。どうして? 姉様ばっかりどうして? 同じなのに! 私と姉様は…私、私だって…」

最後の力を振り絞ってフィロータリアが跳ね起きるのと、エヴァンジェリンが杖を叩き込むのとが、ほぼ同時だった。

 「…っ」

ヴィオレッタは、思わず目を逸らした。妹が姉の胸元に食らいつき、姉が妹の脳天に杖の先をめり込まれる。それは、あまりに凄惨な光景だった。

 表情も変えず、微動だにせず見つめていたのは、ヴァイスと、そして、アステルの二人だけだった。


 血に染まった二人が、絡み合うようにして座り込んでいる。

 エヴァンジェリンの胸に爪を立てたフィロータリアの手は、脈動する心臓を掴んだまま背のほうまで突き抜けていた。

 そしてフィロータリアは、頭の半分を潰されたまま、灰色の瞳はもはや何も見ていなかった。

 妹の髪を撫で、光が消えようとする瞳を抱き寄せて、エヴァンジェリンは、静かに囁いた。

 「そうね。――私もお前と同じ怪物よ。本当は私が、こうするべきだった」

そして、ゆっくりと自らの瞳を閉じた。

 「愛してるわ、タリア。私の妹。これからは、ずっと一緒にいてあげる。だから、もう――」


 恐れなくていい。


最期の言葉が血の海の中に吸い込まれた時、対となる二つの聖杯は、同時に脈動を止めた。




 辺りに静けさが戻っていた。

 空っぽの玉座の前には、抱き合うようにしてうずくまる二つの亡骸がある。身体をひきずるようにして近付いたアステルは、エヴァンジェリンの側に膝まづいて、落ちていた錫杖を手に取った。そして、彼女の前にそっと首を垂れた。

 作り物の瞳に涙腺はなく、涙を流すことは不可能だった。だがきっと、それが可能ならば彼は、涙を流していたのだろう。

 「…これで、良かったのか?」

ヴァイスが尋ねる。

 「エヴァ様がそう望まれた」

そう言って彼は立ち上がり、まだ視線を上げられないでいるヴィオレッタに近付いた。

 「"あの子たちはもう、私が居なくても大丈夫"。エヴァ様は、そう仰っていた。…あの方の願った未来、"斡旋所"と同胞たちのこと、…頼むぞ」

 「そんな…私は」

言いかけて、彼女は唇を噛んだ。

 「いえ…、エヴァンジェリン様が背負われて来たお役目、今からは、私たちが継ぐべきなんですよね。分かりました…やってみます」

 「ヴァイス」

 「何だ」

 「依頼の完遂に感謝する。十分な報酬も出せないことは心苦しいが」

 「そんなことか。気にするな、元よりこれは、オレの持ち込んだ話だった。あんたの姫様が楽になれたのなら、それでいい」

彼は、ちらとエヴァンジェリンのほうを見やった。妹を抱いたままこと切れている彼女の横顔は、まるで眠っているようで、相変わらず非の打ちどころもなく美しかった。

 「これからどうする」

 「…元より、ここは墓標だったのだ。この身が朽ち果てるその時まで、僕はこの墓を守り続ける」

 「そうか。」

微かな笑みを浮かべ、ヴァイスは、玉座に背を向けた。

 「あんたにこんなことを言うのも妙だが、長生きしてくれ、アステル。オレたち人間はすぐに死んじまう。そうしたら、この二人のことを覚えていられる者がもう、誰もいなくなっちまうからな」

 「……。」

行くぞ、と仲間たちに声をかけ、玉座の間から続く長い階段を降りて行く彼の胸の中には、もはや心残りは無かった。


 全ての始まりだった者たちは、全ての始まりだった場所で相打って息絶えた。

 罪の意識と責務にさいなまれ、長い年月に耐えてきた女はようやく自由になり、愛というものを探し続けたもう一人の女は、ようやくそれを手に入れた。

 長い物語の果ての、決して円満とは言えない終わり方だったけれど、きっとこれは、手に入れうる最大限の幸せな結末だったのだ。




 ヴィオレッタ、ルシアンの二人とは、森の外に出たところで別れた。

 ヴィオレッタはカームスの斡旋所へ、ルシアンは騎士団の本部へ、それぞれ、ことの顛末を報告しに戻るという。

 「いつかまた、お会いしましょう。ヴァイスさん…いえ、これからはヴィンセントさん、でしょうか?」

 「ああ、どっちでもいいよ。ま、オレはアイギスで再雇用してもらえるかは微妙だけどな」

 「もしそうなら、ぜひトラキアスにいらしてください。いくらでも席は用意できますから」

ルシアンは、冗談とは思えない表情でそう言った。

 「ヴェンサリル砦での戦いを見ていた我が主、国王陛下が、いつかヴァイスさんと直接、話をしたいと言っていたんです。あのときは、戦いのあと直ぐに出発されてしまって、その機会もありませんでしたから」

 「ええ? そいつは…また」

 「何だ、傭兵は辞めてしまうのか? お前とまたどこかの戦場で会えるかと楽しみにしとったんだが」

と、ヴィルヘルム。

 「ま、この状況だ。しばらくは戦争も無かろうが」

 「当たり前だ。斡旋所だって、他の依頼のほうを先にこなしたいだろう世の中に出回っちまった魔法道具アーティファクトの回収だけでも大変だぞ。ん、そういえば、"本部"が無くなっちまったんだったな。どうするんだ?」

 「……。」

ヴィオレッタは、胸の前で拳を握りしめた。「何とか、します。エヴァンジェリン様に託されたんです…。ここからは、私たちで」

 「ん。そうか。――なら、大丈夫だな」

微笑んで、ヴァイスはひらりと馬に飛び乗った。

 「それじゃあな、二人とも。またどこかで会ったら、よろしく頼む」

 「どうかお元気で!」

 「ありがとうございました」

ルシアンと、牧場の外に見送りに来たヴィオレッタの家族が手を振っている。ヴィオレッタのほうは、涙でも堪えているのか、そっぽを向いたままだった。


 馬を走らせながら、ヴァイスは、隣の大男に尋ねる。

 「あんたは、これから街道沿いにティバイスに戻るんだよな。」

 「先にワイト領に寄って、セレーンに報告を入れて来る。そろそろ街道の封鎖も解けておるだろうし、時間はかかるまい。――それにしても、全く。今年は年のはじめから厄介ごとだらけだ。これからハリールの弾劾裁判に、新首長選もある。休む暇もないわい」

 「はは、そうか。それじゃ、すぐそこでお別れだな」

街道の分岐点まで来たところで、二人は、傭兵らしく拳を打合せて別れた。次に会う時が敵であれ、味方であれ、互いに力量を認め合った者同士、忘れることはないという誓いの証だ。

 ヴィルヘルムは、ティバイス領内を通過してリギアス南部へと通じる道を。

 ヴァイスは、アイギスの王都へと通じる道を。


 晴れた空の下、それぞれが、それぞれの行くべき場所を目指して駆け去ってゆく。

 ――いつか再び出会う予感を、抱きながら。

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