第十二章 想いの果て(1)

 「――フィロータリアが消えた?」


王城で休養していたヴァイスたちのもとに、使いだという騎士が駆けつけてそう告げたのは、朝の早い時間のことだった。

 ヴァイスもヴィオレッタも、今は城の端の監視付きの客間ではなく、王宮の表に近い広々とした場所に泊まっていた。ルシアンやヴィルヘルムも一緒だ。

 ルシアンは、前日の夜にアルクサンデル王から「密輸の件はトラキアスと協力して調査する」との回答を貰い、このあと国へ戻る予定でいた。ヴィルヘルムも同様に、兄たちの進めていたリギアスとの講和のことや、首長の弾劾のことが気になって、近日中にも発つ予定でいた。

 そんな時にもたらされた思いもよらない報せだ。

 「昨夜は確かに檻の中にいたのですが…。厳重な警戒の上に拘束具もつけていたというのに、手かせも足枷もすべて外し、見張りの目を一体どうやってかいくぐったのかも分からないのです。既に捜索隊が出ています。何か分かればお知らせします。それでは」

手早く用件を伝えると、騎士は敬礼をして去って行った。


 扉が閉まるのを待ってから、ヴァイスは、ひとつ溜息をついた。

 「あの状態から逃げ出した? どういうことだ」

 「もしかして、まだ何か魔法道具アーティファクトを隠し持っていたのか?」

と、ヴィルヘルム

 「かもしれん。だが、体内の魔法道具アーティファクトは確かに砕いた。あいつにはもう、不死の力は無い」

 「不完全でも機能する、という可能性は?」と、ルシアン。「どう思う、ヴィオレッタ」

 「うーん…そうですね、ものすごく丈夫なものなら在り得るかも。魔法人形ゴーレムも、本体とコアが少しでも繋がっていたら動かせなくはないですし…、私の杖も、先端の石が無事なら暴発はしますけど効果は発揮できます。だけど…」

ヴァイスは額に手をやって、ひとつ溜息をついた。

 「あの時、完全に抉りだしておくべきだった、か。」

 「今から言っても仕方あるまい。それに、わしらは死力を尽くし、出来る限りのことはやったのだ。」

そう言うヴィルヘルムは、ひびの入った左腕を首から吊っている。ルシアンも腕と額、足に包帯を巻いているし、ヴァイスもほとんど変わらない姿だ。

 あれは、持てる限りの力を尽くした戦いだった。四人いたから何とかあそこまでフィロータリアを追いこめた…偶然、四人揃っていたからこそ、なんとか互角だったのだ。

 「どのみち、奴は完全な体じゃない。傷も治せず、虫の息のはずだ。…だとしたら、どこに向かう?」

 「……。」

ヴァイスはしばし考えたあと、すぐに頷いた。

 「心当たりはある。行ってくる」

 「あっ、私も行きますよ」

 「あんたは駄目だ。まだ起き上がれるようになったばかりで、本調子じゃないだろうが」

 「そうだよ。君はここで待ってて。僕が代わりに行ってくる」

 「うう…。」

しょんぼりしながらも、ヴィオレッタは大人しく引き下がった。まだ休息が必要なのは確かだ。戦いのあとは疲労困憊で、ほとんど横になって過ごしていたのだから。


 馬を借りて駆けていく二人をヴィルヘルムとともに窓から見送りながら、彼女は空を見上げた。

 今日は曇り空で、あまり天気が良くない。

 「こりゃ、どうも何か、もうひと波乱ありそうだなあ」

隣で大男が、ぽつりと呟いた。


 けれどもう、脅威は去ったはずなのだ。

 ジークヴァルトの死亡は正式に確認され、その亡骸とともに、グレーン領を調査するための調査団が既に送り出された。郊外のグレーン家の別荘も同様に、調査のために差し押さえられている。今のフィロータリアには隠れる場所はなく、何処かへ隠した魔法道具アーティファクトを使うにしても、手配書が出回っている以上は自由に動き回れない。武器もない、隠れるところもない一人の女に、一体、何が出来るだろう。

 「あら? あの人と、ルシアンさんは?」

お茶の盆を持ったエリーズが、部屋に入って来る。

 「あ、えーっと、ちょっとお出かけです。馬に乗って」

 「すぐに戻るはずだ」

 「そう? それならいいんだけれど…。今日はもうじき、雨が降り出しそうだから」

エリーズは心配そうに窓の外に視線をやると、気を取り直したようにヴィオレッタたちに話しかける。

 「お菓子を持って来たの、お二人でどうぞ。他に何か、必要なものはありません?」

 「お気遣いありがとうございます。今のところ大丈夫です」

 「そう。」

彼女の様子からして、フィロータリアが姿を消したことは、まだ知らされていないのだ。

 「時に奥方、例のグレーンという男のほうの捜査は。進んでおるのか」

 「ええ、南部の領地のほうからまだ報せがないけれど、別荘からは幾つかの魔法道具アーティファクトが見つかって没収されたそうよ。」

 「没収、ですか…。」

ヴィオレッタは思わず声を落とした。それはつまり、魔法道具アーティファクトがアイギス王家の手に入ってしまう、ということを意味する。そうなってしまえば、密かに廃棄することは難しくなる。

 「心配しなくても大丈夫。兵器として使えるものではなさそうよ。ほら、よくある燭台とか、お鍋とからしいから。」

 「兵器になるものは、出来れば廃棄して欲しい…です。あまり、誰かに使われたくないので」

 「分かったわ。私からも、姉に伝えておく。きっと、ヴィンセントからも陛下に進言はするはずよ」

エリーズの柔らかな話し方は、どこかほっとする。ここでお世話になりはじめてまだ数日だが、ヴィオレッタは、彼女のことが好きになっていた。

 けれどもし、数日前のあの戦いでヴァイスが倒れていたら、――或いは、彼が真実に辿り着くのが遅すぎていたら、彼女のあの、幸せそうな笑顔は、見ることは出来なかったのだ。

 何も無ければいいのに、とヴィオレッタは思った。

 これ以上、もう何も、酷いことは起きて欲しくない。敵であれ、味方であれ、誰かが傷ついたり命を落としたりするようなことは。




 ヴァイスが向かったのは、王都の端にある高台の丘だった。斜面に白く並ぶのは墓標だ。

 入り口で馬を降りると、彼は、一呼吸おいてゆっくりと一歩、足を踏みだした。珍しく緊張している。ルシアンも、少し遅れて後に続く。

 「ここは、王家の墓所ですか?」

 「騎士団の墓だ。王国に仕えた騎士は、ここに葬られる権利を得る」

そう言ってから、彼は一度、唇を真一文字に結んだ。

 「十年前に殺されたオレの仲間たちも、ここに眠っている。それから…オレのいた騎士団の長だった、ルートヴィッヒ様も」

 「……。」

大股に歩くヴァイスの両脇を、白い墓標が過ぎてゆく。刻まれているのは名前と、生没年。ほとんどの墓の上には、まだ新しい花が供えられている。

 丘の上まで登り切ったところで彼は足を止めた。

 目の前にはひときわ大きな墓石が一つ。表面に刻まれているのはアイギス聖王国の紋章だ。かつての皇太子、ルートヴィッヒの名が刻まれている。

 物言わぬ墓石の前でありながら、ヴァイスはその前に膝を折る。思わずはっとしたルシアンは、邪魔しないよう少し離れたところに立ったまま、彼がつての主君に報告を終えるのを待っていた。


 何も言わず、沈黙の時が流れる。

 ようやく顔を上げたヴァイスは、立ちあがって周囲を見回し、ふと、誰かの踏んだ草の跡に気づいて手を伸ばした。

 「おい、ルシアン。これを見てくれ」

草の上に真新しい血の跡が、ぽつりと落ちている。よく見れば点々と、まるで、塞がり切っていない傷を抱えて、誰かがここを通り過ぎていったかのような。

 「フィロータリアがここへ来たんでしょうか」

 「だと思う。この先は――」

丘の上から血の跡の続く先は、北の方角。北の、トラキアスとの国境へ続く草原だ。

 ぽつり、と雨粒が足元を濡らす。

 額に流れ落ちる水滴をそのままに、ヴァイスは微動だにせず北の方角を見つめていたが、ふいに口を開いて、くるりと踵を返した。

 「戻るぞ。行先が読めた。旅の準備が必要だ」

 「旅?」

慌ててルシアンが追いかける。

 「一体、どこへ。この先は、何も無い草原ですよね」

 「違う。もっと先だ」

 「草原の先。トラキアスの山間には何がある? ヴィオレッタの実家のすぐ側だ」

 「トラキアスの――」

 「イーリスだよ。あいつの故郷」

 「!」

その時にはもう、ヴァイスは、馬に飛び乗っていた。


 傷ついて死にかけた怪物は、故郷へ戻ろうとしている。


 何のため、とは今ははっきりと言えない。ただ、死が迫り、他に行く当てもなくなったフィロータリアが目指すとしたら、そこしかないと思ったのだ。

 生きて辿り着けるとは到底思えなかったが、それでも、ここまで追ってきたからには、結末は見届けなくてはならなかった。




 本当は、その日のうちに後を追いたかったが、怪我人ばかりであることや、ヴェスタファールの北方にはまともな宿をとれる街がほとんど無いこと、さらには夕方になり、雨脚が強まってきたこともあって、結局、出立は翌朝と決まった。

 時間を置けば、何が起きるか分からない。フィロータリアに対する警戒と不安が旅立ちを急がせた。結局、日が昇ると同時に出発となった。馬は四頭用意されている。国へ戻るルシアンとヴィオレッタに加え、ことの顛末を見届けたいのだと、ヴィルヘルムも強く要望したからだ。

 「何しろ、相手は首長サルマン殿を暗殺した下手人でもある。わしとて、無関係ではないのだ。」

彼は、そう言って譲らなかった。

 「それにな、こんな中途半端なところで引き返しては、依頼主のセレーンに報告も出来んではないか」

 「分かったが、その腕じゃ戦闘は無理だ。マズいことになったら引いてくれよ。」

 「なに、それは全員同じだろう? マズくなる前に追い付けばいいんだ」

 「どうぞお気を付けて、皆さん。」

見送りにやって来たエリーズが、全員を見回す。その視線は、最後にヴァイスに止まった。

 「どうぞ、無事のお戻りを。」

 「今度は十年も留守にしない。大丈夫だ」

妻の頬に軽く唇を寄せてから、彼は、仲間たちのほうに合図した。

 馬が走り出す。

 城門を守る衛兵に敬礼までされて、ヴァイスは、複雑な気分だった。

 (こんな風に送り出されるのは、いつぶりだろうな)

国王からの正式な沙汰もなく、今の彼は、いまだ騎士団の身分を剥奪された時のままだ。本来なら自由に王城に出入りすることも許されない、何の肩書もない下流貴族の家柄。着せられた罪状も取り消されてはいない。何より、アレクサンデルがジークヴァルトを重用し、彼の野心に気づきながらも故意に見逃してきた事実と、わだかまりは消えない。

 この最後の旅のあとどうすべきなのか、ヴァイスは、自分の道をいまだ決めかねていた。




 トラキアス王国へと通じる道を街道沿いに北へ、草原を突っ切るようにして、馬は走り続ける。

 途中、道沿いにある廃墟を見つけたヴァイスは、後ろに続く仲間たちに手で合図して、そこへ寄って行くことにした。

 草原に埋もれた半ば崩れた石壁の残骸は、以前訪れた時のまま苔むしている。

 「ここは?」

 「十年前に、ヴァイスさんが騎士団の仲間を殺された場所です」

黙って先をゆくヴァイスの代わりに、ヴィオレッタが答える。わざわざここをもう一度、訪れたのは、何か手がかりを探してのことなのか。

 馬を降りて後に続こうとしたルシアンは、ふと、足元の草むらに何かが落ちていることに気づいた。

 「これは…」

昨夜の雨の跡に混じって、まだ新しい血の跡が滲んでいる。その側には、まだ新しい馬の蹄の跡も。

 「おい、アイザック!」

廃墟のほうから声が響いてきた。ヴィオレッタが駆け付けると、遺跡の中でヴァイスが、以前もここで見かけた、みすぼらしい皮鎧のひょろりとした男を助け起こしているところだった。額から血を流してはいるが、どうやら倒れた時にぶつけただけで、命に別条はなさそうだ。

 「う、うう…」

男が息を吹き返し、目をぱちぱちさせて、辺りを見回している。

 「大丈夫か、アイザック。何があった」

 「ん…お、おおヴィンセント! 大変だぞ、ついに何かが起きたぞ」

 「何かって何だ。」

 「いつもの見回りをしておったら、若い娘が雨宿りしとったんじゃい。見れば血まみれで、驚いて声かけてなあ。そしたらいきなり、襲い掛かってきて…娘っ子とは思えん力で突き飛ばされた! ほれ、見てくれこのたんこぶ。ああ、もう何が何やら――」

ヴァイスは、呆れたように溜息をつく。

 「で、女に一発で殴り倒されてこのザマか? それでも元傭兵か、あんた」

 「元じゃない、現役じゃい! まぁ、その…年は年だが」

 「いい加減、引退したほうが身のためだぞ、あんた。で? その若い娘、どっちへ行った」

 「そんなもん見とらんわい。今の今まで気絶しとったんだぞ。はあ…ああッ!」

老傭兵は突然大声を上げ、髪の毛の残り少ない頭をぴしゃりと叩いた。

 「わ、わしの馬! そうだ、わしの馬を奪っていきおった! ああー…何てこった、あの娘、盗賊か何かか…」

 「もっと厄介なものだが、まぁ、あんたが殺されなかっただけでもマシだな」

立ちあがって、ヴァイスは、様子を眺めていた仲間たちのほうを振り返る。

 「フィロータリアはここで馬を手に入れたらしい。アイザックの見回りは朝夕の二回。馬を手に入れたのが昨日の夕方だとすると、ちょいとマズいことになったな」

 「急ぎましょう」

と、ヴィオレッタ。

 「いや、待て。先に連絡を入れてくれ」

 「連絡?」

 「ここから最寄りの斡旋所まで小鳥を飛ばせるなら、そのほうが早い。」

ここから国境までは一日もかからない。今ごろは既に、トラキアス王国の領内に入っているはずだ。

 おそらくフィロータリアは、ほとんど休みなく、馬を乗り潰しながら北を目指しているのだ。今からでは、無理をしても追い付くことは難しい。ヴァイスは、そう判断した。

 「エヴァンジェリンに伝えてくれ。"不滅の聖杯"は砕いたが、フィロータリアはまだ生きている。そちらに向かっている、と」

 「…分かりました」

頷いて、彼女は小鳥を取り出した。

 廃墟が点在するシルシラ平原に風が吹き抜けてゆく。

 視界に広がる草原を眺めたまま、ヴァイスは、一抹の虚しさのようなものを感じていた。


 フィロータリアが最後の力を振り絞って故郷へ戻ろうとしているのは、きっと、「死ぬ前に一目見ておきたい」などという里心でないのだろう。何しろその故郷の滅亡に、自ら手を貸したのだから。

 ――姉への復讐。

 最後に残された目的がそれなのだとしたら、あまりに悲しい。


 彼自身、この十年は敵討ちを第一として旅をしてきた。けれどその旅を通じて得たものは少なくはなかった。今ここに居る仲間たちも、彼らを引き寄せた人の繋がりも、旅の中で手に入れたものだ。いつしか仇を"殺す"ことは、第一の目的では無くなっていた。真実を知りたい。なぜ主が、仲間たちが殺されたのかを知りたい。かつてフィロータリアに語ったことは、ヴァイスにとって偽らざる想いだった。

 だが、フィロータリアにとっての復讐の旅は、そうではなかったのだ。


 「連絡がつきました」

じっと目を閉じて座っていたヴィオレッタが、立ちあがった。

 「所長に伝言をお願いしました。それと、可能なら私の実家の農場に、増援を寄越してほしいと伝えました。侵入を止められるかどうかは、…分かりませんが」

 「十分だ。あとは、姫様自身がなんとかするだろう」

再び馬に乗り、四人は、北を目指して走り出した。


 夏の盛りは過ぎようとしている。

 秋の訪れの早い北の山脈では、高いところにはもう、木々の葉の色づく季節が訪れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る