第十一章 王都ヴェスタファール(6)
大聖堂の、歴史ある古びた巨大な鐘が鳴り響く。
それに呼応するかのように、街の各地にある鐘も次々と打ち鳴らされていく。
大聖堂の前には衣装をつけられた人形が立ち並び、警備の兵たちの肩越しに、観光客たちはそれを面白がって眺めている。式典は大聖堂の奥の庭に面した礼拝堂で行われているために広場からは見えないが、式のあとに新郎新婦は、大聖堂を通って広場に姿を現すという。広場の脇には既に、街中を巡るお披露目のための馬車が横づけされ、出番を待っていた。
ヴィルヘルムは、むっつりとした顔で腕組みをしたまま、遠目にそれを見守っていた。
一方でルシアンは、会場内の隅、来賓用の席の末席に腰を下ろし、それとなく辺りの気配を探っていた。
祭壇へ続く花道の脇には人間の騎士と
楽隊が奏でる優雅な音楽の中、礼拝堂の扉が開く。白い衣装に身を包んだ花嫁が、父親に手を引かれ、きっとした眼差しを正面に向けながら入って来るのが見えた。
(あれが、ヴァイスさんの奥さんか…)
なるほど、意志の強そうな女性だ。意に添わぬ相手の手に渡されようというのに項垂れも嘆きもせず、運命に挑みかかるかのような表情で、祭壇の前に立つ男を睨みつけている。王妃とは姉妹だというが、確かに顔立ちはよく似ている。ただ、王妃の持つ儚げで女性的な美しさとは異質だった。
来客の拍手を受けても、いささかの笑みも浮かべずに、花嫁は、祭壇の前に立つ。
「――ここに新郎、ジークヴァルト・グレーン、新婦、エリーズ・デュアルワイズが揃いました。では、永遠の愛の誓いを」
祭壇の前に立つ教父がにこやかに二人を見比べ、お決まりの言葉を読み上げてゆく。ここまでの式は順調だった。あくまで、ジークヴァルトの目線では。
その様子を、ヴァイスとヴィオレッタは天井の梁の上から見守っていた。
埃っぽい天井裏にネズミと同居して一日半、その間に準備は整っている。祭壇の真上までの侵入経路は縄を張り巡らせて作ってある。頭上からなら、会場のほとんどの場所が見渡せた。逆に、見張りに見つかりにくい場所に身を隠している彼らの姿に気づく者はいない。
「どうします? ヴァイスさん」
「まだだ。もう少し待つ。…フィロータリアの気配が無い。一体どこで仕掛けて来る…?」
ヴァイスの勘では、彼女はとっくにこの街にいて、どこかでこの式の様子を見ているはずなのだった。だが、この一日半の間、警戒はしてきたが、フィロータリアの姿は礼拝堂付近には現れなかった。小鳥を飛ばしているのか、とも思ったが、それらしい小鳥も見ていない。
「新婦エリーズ。あなたはいかなる時も、夫を愛し、共に進むことを誓いますか?」
「……。」
沈黙の答え。
小さな騒めきと囁き声が、来客たちの間に流れる。
アレクサンデルが、落ち着かない様子でコツコツと、指先で椅子の肘掛を叩く音が響く。
「花嫁は緊張しているのです。誓いますよ、勿論」
しびれを切らしたのか、ジークヴァルトが自ら言って、エリーズの肩を抱き寄せる。それを見ていたヴァイスがむっとした顔になるのが分かって、ヴィオレッタは思わず口元に笑みを浮かべた。
「こほん、…では、新郎ジークヴァルト。あなたはいかなる時も、妻を愛し、共に進むことを誓いますか?」
「誓います」
「ではここに、新たなる夫婦が誕生しました。共に支え合い、共に慈しみ、幸せな…」
ヴァイスが、そしてルシアンが、ほぼ同時に違和感に気づいたのは、その時だった。
さっきから音楽が止まっている。それに、一部の来客たちの様子がおかしい。
祭壇の上の教父も何かに気づいて、言葉を止めた。
その沈黙の隙を縫うようにして、ギィッ、と金属の軋むような音が響き渡った。
『嘘よ』
女の声が、礼拝堂の空間の真中に響き渡る。はっとして、ヴァイスは縄に手をかけた。
「来たぞ」
「はい、でも何所に…あっ」
ギイイッ、と音を立てて動き出したのは、祭壇に一番近い、大きな
『ジークは、愛なんて誓わないわ。そうでしょう…? ねえ』
はっと息を呑んで、ヴィオレッタは、手元の小鳥の瞳と、眼下にある人形のそれを見比べた。
「まさか、あの
小鳥に使われているのと同じ仕組みを組み込めば可能だ。――そうだ。この小鳥は、いわば小型の
「衛兵!」
ジークヴァルトが声を上げ、腰に下げていた儀礼用の鞘の中にあった実用の剣を抜く。何か起きることを見越して、武器を持ち込んでいたらしい。
だが、その時にはもう、礼拝堂の中にいるほとんどの者が自由に動けなくなっていた。体が痺れ、剣を取り落とす者、歩こうとして床に倒れる者。椅子に座ったまま痙攣を起こしている者もいる。国王夫妻も微動だに出来ず、ただ視線だけを動かしている。
「"
「はい!」
天井裏の梁を飛び越え、ヴィオレッタから受け取った縄を手に走るヴァイスの足の下から、女の声が響いてくる。
『言ってよ、ジーク。愛してるって』
「黙れ。よくも私の晴れの舞台を台無しにしたな。化け物め」
『どうして? あなたが愛しているのは私のはずじゃない…本当に愛しているのは私だけのはずよ…』
(まずい)
縄を柱に巻き付け、空中に身を躍らせながら、ヴァイスは間に合ってくれと祈った。
(それ以上言うな、ジークヴァルト…)
「愛する? 本気で言っているのか」
しかし、その祈りも空しく、彼は空中に向かって吠えていた。「お前のような化け物を愛する者など、この世界に誰一人、居るものか!」
『……。』
人形が、ガクンと大きく揺れて止まった。
『…そう』
そして次の瞬間、ガクガクと大きく揺れ動いたかと思うと、手にしていた槍を大きく振り上げて翳した。
『じゃあ死になさい! そこの女ともども!』
「あ…」
「エリーズ!」
空中で縄から手を放したヴァイスは、エリーズに折り重なるようにして身を被せて床に押し倒した。槍が投げつけられるすんでのところだ。
それから、頭上を見上げて怒鳴る。
「ヴィオレッタ、風だ! この中の空気を追い出せ!」
「はい!」
梁の上で、ヴィオレッタは、以前フィロータリアと戦った時に奪った風の杖を振りかざす。出来る限りの出力で、思い切り下に向かって風を叩きつける。凄まじい突風で絨毯も花飾りも舞い上がり、飾り窓が割れてはじけ飛ぶ。
「く、…」
ヴァイスは、飛ばされないよう両腕で花嫁をしっかり抱いたまま、床に踏ん張っている。
風のお陰で、体の痺れていた兵士たちがようやく動き出した。
「騎士ども、今のうちに陛下を守って安全なところへ! 衛兵、来客を誘導、早くしろ!」
はっと我に返った騎士たちが、慌てて自分たちの持ち場に戻っていく。国王は無事だが、蒼白の顔のまま、両手に妻と娘を抱いたまま動けない。そこへ騎士たちが駆け寄っていく。
痺れ薬の大元はまだ、どこかにあるはずだ。風で効果が薄れている、今のうちに何とかしなければ。
ヴァイスの視線は、端の席から口元を押さえて飛び出していくルシアンの姿を見つけていた。彼は振り返り、ヴァイスのほうに向かって叫んだ。
「匂いが来るのは、楽団の後ろです! 僕が行きます!」
「頼む!」
天井裏からヴィオレッタが、"七里跳びの靴"で飛び降りて来る。
「
ジークヴァルトが怒鳴った。彼に襲い掛かろうとしているもの以外の人形たちが一斉に動き出し、主を守ろうと、反逆の一体に襲い掛かっていく。おそらく、ここにあるものは皆、ジークヴァルトに危害を加えようとする相手を排除するよう命令を書き込まれているのだ。そのやり方を誰が教えたのかは、考えるまでもない。
「フィロータリア、どこだ?! 姿を見せろ、魔女め!」
その時、祭壇の奥にあった、一体だけ動いていない
体の表面から、大きな金属片がガコンと音を立てて剥がれ落ちる。
はっとして、ジークヴァルトは剣を構えた。中から少女のような姿をした女が一人、糸のような細い金の髪を垂らしながら現れる。
「そんなところに、いたのか…」
驚きつつも、ジークヴァルトは冷静だった。「私を殺したいなら向かってこい。小細工などせずにな!」
「言われなくても…」
女は、短剣を抜いた。
「その心臓を抉りだしてあげる! 塩漬けにして! 首を切り落として! 永遠に、
真っすぐに突っ込んでいく攻撃は、しかし、立ちはだかる
「何よ、人形風情が。こんなもの――」
言いかけた時、彼女は、ジークヴァルトが大急ぎで数歩離れた場所に退くのに気づいた。同時に、床石に無数の亀裂が走ってゆくのも。
「まずい、床が抜けるぞ! 下がれ!」
ヴァイスが叫び、エリーズを抱きかかえて走り出す。ヴィオレッタが慌てて飛び退るのと同時に、床が一気に崩れ落ち、
少し間をおいて響く、金属の潰れる音。かなりの深さがあるようだ。
礼服の埃を払いながら、ジークヴァルトは冷徹な顔でその穴を見やっている。
「これでもう、あの女に逢うことはない」
「ジークヴァルト!」
まだ来賓席に留まっていた国王アレクサンデルが、席の前に立ちあがって声を張り上げる。「これは一体、どういうことだ。説明しろ」
「恐れながら、陛下。あれは古えの魔法王国イーリスの亡霊にして、魔女でございます」
胸に手を当てながら、ジークヴァルトは、用意していたかのように滑らかに答える。
「享楽を求め男に寄生しつつ各国を渡り歩く不死の魔女――かつてハイモニアの王子リチャード殿が、地の底に封じて滅したものにございます。我が家が
得意満面の笑みとともに、彼は勝ち誇った顔で、傍らにいるヴァイスのほうをちらりと見やった。
「そういうわけだ、コルネリウス。最初から貴様の出番など無かったのだ。どうやら散々、陛下に誤った情報を吹き込んで不安を煽っていたようだが、全ては貴様の邪推――」
「何てことを…」
「ん?」
エリーズを背中に庇ったまま、彼は苦々しく首を振った。
「何てことをしたんだ、お前は。あの女が、この程度で封印出来るだと? 地の底に封じて滅するだと? お前は大事なところは何も聞かされていなかったんだな!」
「何を言っている。この穴はトールハイム寺院より深い。大聖堂の地下ならば、不慮の事故で掘り返されることも…」
とん。
言い終わらないままに言葉が途切れ、口から赤い泡が落ちた。
「…な、…」
ぎこちなく視線を下げたジークヴァルトは、彼の胸に短剣を突きさして笑っている女の顔を呆然と見つめた。
「なぜ…」
「"七里跳びの靴"だ! 最初に靴を脱がせておくべきだったんだ」
「そんな…道具のことは…」
「言わなかったもの。聞かれなかったし」
くすくすと笑って、フィロータリアは両手に力を込めた。
「私が昔、どうやって裏切られたかの話はしてあげたけれど、まさか同じ方法で二度も裏切れると思った?」
短剣を引き抜くと同時に、鮮血があふれ出て床を濡らした。
よろめいて、ジークヴァルトは膝をつく。
「…ねえ? 全部嘘だったの、私に言った言葉は」
「……。」
「『愛してる』って何度も言ってくれたでしょう。どうして?」
ヴァイスは、フィロータリアの形が崩れ始めていることに気づいていた。あの時と同じだ。灰色の目が大きく見開かれ、興奮のためか呼吸が荒くなっている。
「ヴァイスさん!」
礼拝堂の反対側から、ルシアンが叫ぶ。何か鍋のようなものの蓋を掲げている。「匂いの元を断ちました! これでもう、痺れたりしないはずです」
「念入りに壊しといてくれ! それが終わったら今すぐ撤退しろ!」
「え?」
「"獣"が出る!」
言い終わらないうちに、フィロータリアが天に向かって吠えた。
礼拝堂全体がびりびりと揺れる。
我先に逃げ出そうとする貴族たちでごった返す出入り口は大混乱で、まだ席の前に立ったまま、呆然とことの成り行きを見守っていた国王も、騎士たちに促され、裏口のほうへ向かって動き出す。
「ヴァイスさん、今のうちに、エリーズさんを!」
「ああ!」
ヴァイスは、祭壇の上でフィロータリアと向き合っているジークヴァルトに目もくれず、エリーズの手を取って礼拝堂の入り口へと走ろうとした。
だが、エリーズはその手を引っ張り、振り払った。
「行って。自分のことくらい、自分でなんとかするわ」
振り返ると、十年前と変わらない瞳の輝きが、そこにあった。
「あなたにはまだ、やるべきことがあるはずでしょう?」
旅に出てから一日たりとも忘れたことのない、想い人の顔は、記憶の中にある、少女の面影を残した姿から、輝くばかりの美しさを湛えた、一人前の女性へと変貌していた。
ふいに、どっと感情がおしよせて来る。懐かしさと、愛おしさと…抱き続けてきた、幾多もの想いが。
正面から見つめ合ったまま、実際にはほんの数秒だったはずなのに、その瞬間は彼にとって、永遠にも等しい瞬間だった。
エリーズは、ヴァイスの頬に手を触れて微笑んだ。
「さあ、早く」
「……。」
その手を強く握り返し、ひとつ頷くと、彼は、側を通り過ぎようとする騎士の腰から剣を奪った。
「あっ?!」
「悪いな。ちょいと借りるぜ」
その剣を手に、彼は、ヴィオレッタたちと合流する。
「時間稼ぎが優先だ。皆が逃げるまで、奴をここに留めるぞ」
「はい!」
「礼拝堂が崩れます。いったん外へ」
ルシアンも駆け寄ってくる。
礼拝堂の出口のあたりはいまだ大混乱の最中で、何やら叫び声が響いている。進むも退くも出来なくなっているのだ。
その理由は、裏口から外に出た時に判明した。警備用に配置されていた
「何だ、これは。どうなってる。…まさか、フィロータリアが?」
「なんとかしないと…
ヴィオレッタは、襲い掛かって来た
「あ、あれ…効かな…きゃあっ」
反応の遅れた彼女を、横から駆け込んだルシアンが庇う。
「す…すいません」
「別の方法を。
ヴィオレッタは杖を抜き、合言葉の効かない
「
「ふん、フィロータリアがあらかじめ、合言葉を変えておいたんだな。新しく作れるんだ、そのくらい簡単だろう」
別の
「ジークヴァルトめ。踊らされているのは自分のほうだと、最後まで気づかなかったか…。」
相手はただの木偶の棒だ。攻撃は単調だし、急所の位置も分かっている。倒せなくもない。問題は、数があまりに多く、逃げようとする式典の参列者を全員、無事で逃がすのは至難の業だということ。おまけに、広場のほうに配置されていたものまで暴れ出しているらしい。集まっていた見物客たちのほうまで庇いに行くには手が足りない。騎士たちも、衛兵たちも奮闘してはいるものの、このままでは少なくない被害が出てしまう――
――と、その時だった。
広場に面した大聖堂のほうから、雄たけびを上げながら突っ込んで来る、大男の姿が見えた。
「うおおおッ! このわしを、一体誰だと思っている?!」
変わった形の大剣を両手に振り回し、向かってくる
「…あんた、あの時の」
「んッ、おお! やっと逢えたな。やはりここに居たか!」
大男、ヴィルヘルムは、頭上から見下ろすようにしてニカッと笑って見せた。
「傭兵ヴィルヘルム、セレーン・ワイトの依頼により、お前たちを援護に来たぞ。騒ぎが起きるなら必ずお前たち絡みだと思ったんだ」
「そいつぁ慧眼なことで。セレーンお嬢様には借りが出来ちまったな」
「なぁに、あの子のほうもあんたのお陰で助かったと言っておった。お互い様というやつだ。それで? この騒ぎは一体、どういうことなんだ。あの…」
男の視線は、礼拝堂の上に延びる、奇妙な白い尾のようなものに向けられている。
「あの、妙ちくりんな化け物が敵…なのか?」
「そうだ。最終的に、あいつをどうにかしなきゃならん。ただその前に、この人形どもをどうにかする。弱点は、
「あいわかった! 潰せばいいんだな?」
「…あんたの場合、細かいことを考えるよりそのほうが合っているかもな。」
苦笑しながらヴァイスは、くるりと背を向けた。
「あんたはそっち、オレはこっちだ」
「おう」
たったそれだけ、打合せすら無かったというのに、動き出した瞬間、二人はそれぞれに、互いの持ち場を補い合うように敵に襲い掛かって行った。ヴァイスは
「…すごい」
ルシアンは、ごくりと息を呑む。
「見とれてる場合じゃないですよ、ルシアンさん! 今のうちに、他の人たちを逃がさないと」
「ああ、そうでした。…国王様は?」
「護衛の騎士さんが王宮のほうへ。ご無事だと思います。私たちは広場のほうへ」
見物客たちが逃げたあとの広場では、まだ、何体かの
「加勢します!」
「私が動きを止めます。ルシアンさん、急所を狙ってください!」
ヴィオレッタが杖をふるい、次々と人形の足を凍らせてゆく。そこへルシアンが突っ込んでゆく。以前と違って、型に囚われない大胆な動き方だ。驚きつつも、ヴィオレッタは少し、微笑んだ。
(なんだかちょっと、ヴァイスさんに似て来たみたい)
「あ、あ…何だ、あれは!」
その時、兵士の一人が足を止め、空を指して叫んだ。
振り返ると、白い巨大な獣が、身をよじって大聖堂の奥の入り口から頭を突っ込もうとしている。中に入ろうとしているのだが、体が大きすぎてつっかえているのだ。自分がすでに人間ではなくなっていることに、気づいていないのか。
壁がめりめりと音を立てて崩れ落ち、祭壇に飾られていた"統一王バルディダス"の像が傾いて、床に転がり落ちて砕け散る。割れた飾り窓に嵌めこまれていた色ガラスが、色とりどりの花びらのように、きらきらと光り輝きながら散り落ちてゆく。
「まさか、街に出るつもりか?」
「分からない…、一体何をしようとしてるのか」
獣はうめき声を上げ、もがきながら鳥に似た形の首を上げた。灰色の目に、天窓から降り注ぐ光が映っている。
暗い霊廟。
壁に並んだ肖像画。
――リチャード。
(リチャード…)
生まれて初めて、「愛している」と言ってくれた男性。
フィロータリアとしての微かな理性が、一瞬だけ、足を止めさせた。その時、彼女は思い出していたのだ。
百五十年以上も前、彼女がまだ、「王女」と呼ばれていた頃のことを。
鳥かごの用だ、と、彼女はいつも思っていた。
小さくも美しく、谷に囲まれたイーリスの国は、都が一つあるきりで、その外側には領土は無かった。国民はわずかに二百人を数えるほどで、国外に暮らす僅かな者を除けば、生まれてから死ぬまで一生を谷の中で終え、外の世界を異常なまでに恐れていた。
理由は分かる。純血主義と、秘密主義。それに、肉体的に劣るイーリス人には、武力で他国と争うだけの力もない。だから兵器としての
そして、生まれてこない子供の代わりに、自然のことわりを曲げて、不老長寿さえも生み出そうとした。
最初から無理な実験だったのだ。数十人の子供たちの中で、成功と呼べるのは姉のエヴァンジェリンのみだった。
生き残りはしたものの不安定で、しかも生殖能力を失っていたフィロータリアには、誰も見向きもしなかった。両親にさえも居ないものとして扱われ、まともに話をてくれるのは姉くらい。その姉も、顔を合わせれば溜息まじのにお小言ばかりを言う。
いつしか、すぐに激高しては人の形を失う扱いの難しい彼女は檻の中に閉じ込められることが多くなった。
姉も、王国の後継者として、王族の務めのために忙しくなり、会いに来る機会が減った。ときおり見かける姿も、婚約者と楽しそうにしているところばかりで、邪魔をすると叱られた。
ほとんど外には出して貰えない。誰にも構って貰えない。
ただ生かされているだけの、鳥かごの中の小鳥――そんな時、彼女のもとへやって来て甘い言葉を囁いたのが、ハイモニアから友好使節団の一人として訪れていた、リチャードだった。
手に手をとって逃げ出した、あの心弾む瞬間。今も…忘れてはいない。
初めて見る王国の外の世界は、広かった。
生まれて初めての自由があった。
彼が全てを与えてくれた。
「愛している」という言葉も、感情も。
けれど、いつからか、リチャードは会いに来てはくれなくなった。
(どうして)
礼拝堂の中に佇んだまま、彼女は自問する。
出会って十数年が過ぎ、リチャードは年齢を重ね、妻と愛人と、何人かの子供たちを抱えていた。
少しも姿が変わらず、出会った頃と同じ少女の姿のまま、精神も幼いままの彼女が、いつしか恐ろしく、同時に、邪魔にもなっていったことに、彼女自身は気づかないままだった。
少なくとも、玉座を狙うリチャードにとっては、フィロータリアは"王妃"に相応しい女ではなかった。
かつての恋人を僻地へと流し、体よく厄介払いしたはいいものの、癇癪もちの彼女がいつ我慢できなくなって暴れ出すか分からなかった。兄の皇太子を暗殺して手に入れたばかりの、ただでさえ不安定な玉座がいつ奪われるか気が気でならなかった。
だから、罠にかけたのだ。ひそかにトールハイム寺院の地下に穴を掘らせ、反逆者との戦場がそこになるよう企んだ。
そして――。
彼にとっても誤算だったのは、その地下の暗がりの中で、百年以上の時を経て女が生き残ってしまったこと。
二度と開かれるはずのなかった墓所を掘り返す者が現れたこと。
再び光を得た時、フィロータリアは既に正気の半ばを失っていたが、それは問題にならなかった。もとより正気の半ばは姉の元に残して来ていた。その姉が、王国とともに滅びた――そう信じていた――今、彼女の中にある存在意義は、"リチャードに復讐する"ということ、それだけだった。
だが、その彼ももはやこの世にはなく、面影を残すアイギスの王子を相手に想いのたけをぶつけても、心は晴れなかった。
亡霊のように彷徨っていた彼女のもとに現れたのは、独自に
与えられるのを待っているだけでは、駄目なのだ、と。
望むものは奪ってでも手に入れる。世界は自分で作る。鳥かごの中に閉じ込められるのも、ただ待って居るのも、もう御免だ。
自分が地下に閉じ込められてから百年の時が過ぎたこの世界には、姉の面影がまだ生き残っている。それも気にくわない。"斡旋所"という仕組みと、そこで働くかつてのイーリス人の末裔たち。
それが、"自由"というものだ。
そう、この十年、解放されてからはずっと、思うまま自由に生きてきた。
望むものは何でも手に入れて――何人もの貴公子たちに「愛している」と言わせて、思い通りに戦わせて――邪魔者は殺して。
それなのに、どうして今、手元には何も残されていない?
どうして、今、隣にいて微笑んでくれる人が居ない?
物言わぬ血まみれの首を抱いて、百年以上も前に死んだ、かつての恋人の肖像画の前に座っていなければならない…?
ふいに体に鋭い痛みが走って、彼女は思わず悲鳴を上げて身をよじった。
長い尾が振り上げられ、その衝撃で大聖堂の塔が震え、てっぺんの鐘を大きく打ち鳴らした。
「ア、アア…」
きっ、と見下ろした足元に、剣を構えた男が一人、挑むような眼差しで、こちらを見上げている。
「フィロータリア!」
(また、あの傭兵…邪魔な男…)
ぎりっ、と唇を噛み、――その仕草をしたつもりで、嘴をカタカタと打ち鳴らし――彼女は、灰色の目を見開いて吠えた。
(消えろ!目障りよ!)
獣の脚を振り上げて、地面に叩きつける。壁の石が緩んで土埃と共に一部が崩れてゆく。
「ヴァイス! ここじゃ狭すぎるぞ」
「分かってる、広場に誘導するぞ! あんたは先に行って、逃げ遅れた奴がいたら逃がしてくれ。ヴィオレッタたちもそっちにいるはずだ」
ヴィルヘルムを先に行かせて、ヴァイスは、構えたまま、じりじりと大聖堂の出口のほうに向かって後退ってゆく。
「あんたの相手はオレたちだ。他の連中には手を出すな。いいな」
(何よ、まるで…私のことを化け物のように)
ジークヴァルトの胴体からもぎ取った首を片手で抱いたまま、彼女は唸る。
(酷いじゃない。化け物…化け物って…私は…私はただ…)
腫物でも見るように、遠巻きに冷たい視線を投げて来た両親。
自分の立場に夢中になって、いつしか彼女のことを忘れてしまった姉。
邪魔者扱いして檻に閉じ込めたイーリスの連中。
罠にかけて地面に埋めた男。
彼女よりも、与えた玩具のほうばかり見ていた男。
普段は気弱でぺこぺこしてばかりのくせに、酒が入ると気が大きくなって上から目線だった男。
口では「愛している」と言いながら、別の女を娶ろうと画策し、会場に現れた彼女を化け物呼ばわりした男…。
(皆死ねばいい。嫌いよ。大嫌い。皆…)
尾がひっくりかえした燭台の中に、
(消えてしまえ…!)
白い獣の咆哮とともに、炎が大聖堂の中を包み込む。
かつての王たちの像も、棺も、年代ものの家具や織物、典礼用の衣装も、肖像画も。
かつてのハイモニア王家の栄光の記憶を受け継ぐものの上で、崩れ落ちようとする鐘楼は、哀悼の鐘を打ち鳴らし続けていた。
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