第十一章 王都ヴェスタファール(4)
ヴィオレッタは窓の隙間からそっと監視用の小鳥を飛ばし、城内と周辺の様子を伺っていた。
夜会に潜入する時に、こっそりポケットにしのばせて持って来ておいたのだ。部屋に閉じ込められる前に身体検査はされていたが、ただの玩具だと思われて見逃されていた。それ以外の品は全て取り上げられてしまっている。宿に置いたままだった持ち物も、王妃が回収してくれたはずだが、それ以降どうなったかは知らされていない。その王妃も、この三日間、召使いを通じて伝言を寄越すだけで、姿は見せていない。
「特に動きはないです。大聖堂の裏の礼拝堂では結婚式の準備をしてるみたいですが、怪しい人物の姿はありませんでした」
「……。」
小鳥を通じて見えた風景を伝えても、ヴァイスの反応は薄い。
「ヴァイスさん」
「…何だ」
「いつまで、ここにいるつもりなんですか?」
返事はない。
「このままでいいんですか」
「良くはない。だが、待つしか無いだろう」
諦めとも苛立ちとも違う、複雑な口調だ。
「オレ一人なら幾らでも逃げ出せるが、あんたもいる。それに、もしここで逃げ出せば、手引きしてくれた妃殿下の立場を悪くことになる。」
「…それじゃ、どうするんですか」
「だから待つしかないんだ。伝えるべきことは伝えた。国王陛下がどう判断されるにせよ、今はまだ結論が出ていない」
部屋のすみで腕立て伏せをしながら、彼はそう答える。
ここ数日、ずっとそうなのだ。曖昧な返事をしながら、軽い運動をしているだけ。彼が着ている、夜会の服の代わりに借りた訓練兵の服は動きやすそうだが、ヴィオレッタのほうは何故か、どこかのご令嬢のお古のようなドレスで、相変わらず動きにくいことこの上ない。彼女は小さくため息をついた。
「せめて荷物を返して欲しい…。」
そうすれば、元の旅装束にしろ、商人になりすましていた時の服にしろ、今よりは動きやすいはずなのだ。
「まぁ、そう焦るな。どうせ最後にはジークヴァルトと直接対決になる。おそらく今は自領に戻っているんだろうが、式の日には必ず、この街に戻って来る。フィロータリアも一緒かもしれん。問題は、その時までにあんたとオレの武器をどうやって取り戻すのかだ」
「それじゃ、この先どうなっても結婚式には殴り込みするつもりなんですか?」
「当然だろ。」
ヴァイスは腕を止め、身体を起こして額の汗を拭った。「自分の妻が無理やり他人に奪われるのを黙って見てる奴がいるか。」
「…良かったぁ」
「何だその顔は」
「だって、…ヴァイスさん、何も言ってくれないから」
男は、まるで自分のことのようにほっとした笑顔を浮かべている少女を、怪訝そうに眺めていた。
それから、恥ずかしそうにそっぽを向いて頭をかいた。
「――まあ、これは私情だからな。殴り込みは最後の最後の手段だ。やらかした日にゃ、オレもあいつも、この国には居られなくなる。それに、」
彼は表情を切り替え、真面目な声になった。
「エリーズを取り戻したところで、本題のほうは解決しないんだ。フィロータリアのことも、
「だから正攻法で戦う、ってことなんですね」
「ああ。」
運動のためにまくっていたシャツの袖を戻し、上着に袖を通していた時、扉を叩く音がした。
「面会です。失礼します」
「面会?」
扉が開いて、背筋を伸ばした騎士が一人、敬礼しながら道をゆずる。
「付き添いご苦労様。貴方はここで待っていらして。心配なら扉を開けたままでもよろしくてよ」
騎士に慇懃に声をかけながら部屋に入って来たのは、どこか見覚えのあるような顔立ちをした愛らしい少女だった。年頃は十歳を少し過ぎた頃に見えるが、雰囲気は少し大人びている。
しばし少女を見つめていたヴァイスは、数秒ではっとした顔になり、急いで膝を折った。
「これはご無礼を、ウィニフレッド王女。…ですよね?」
「よくお分かりね」
くすくす笑って、少女は片手を差し出した。
「顔をお上げになって、ヴィンセント叔父様。お久しぶり――と言っても、前回お会いした時、わたしまだ赤ん坊だったので、覚えていないのだけれど」
その手にうやうやしく口づけして、ヴァイスは、自ら椅子を引いて小さな淑女を座らせる。
「こんなむさくるしい客間にお越しいただけるとは。ご立派に成長されました。お母上によく似ておいでですね」
「そう? ありがとう」
少女は微笑みを、ぽかんとしているヴィオレッタのほうにも向ける。彼女は、慌てて小さく頭を下げた。
「こちらはウィニフレッド王女。ローザ王妃のご長女だ。」
「つまりヴィンセント叔父様の可愛い姪っ子よ。ね?」
少女は、茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。
「…それも、あと一週間ほどのことのようですが」
「ああ、あの無茶な結婚式のこと? お父様ったら、どうしてあんなものを許可するのかしら。離婚は双方の合意なしには成立しないでしょ。夫婦のどちらかが九年以上音信不通なら死亡届は出せるらしいけれど、叔父様はちゃんと生きて、ここにいるのに。ねえ?」
「よほどの事情がおありなのだと理解しています。グレーン殿に強く要請された、或いは弱みを握られているとか、法を曲げてでも要望に沿わなければならない理由があるとか…。いずれにせよ、執政補佐官殿の影響力が、国王陛下に匹敵するほど強くなっているのでしょう」
ヴァイスが王女の向かいの席に腰を下ろしたので、ヴィオレッタも、その隣の席に座った。この数日見ていて理解した宮廷の作法では、身分の上の人が席に座るまでは、身分が下の側は座ってはいけないらしい。
ヴァイスはそれとなく、扉のほうを見やった。付き添いの騎士が、扉の外で聞き耳を立てている気配がある。おそらく、ここで話されたことは主人に報告するよう言いつけられているのだろう。それならば逆に好都合だ。
「しかし、よくここへおいでになる許可が出ましたね。陛下は反対されたのでは?」
彼は敢えてよく通る声で、外に待って居る騎士にも話の内容が聞こえるように言う。何も疚しいことなばないのだと、はっきり示すためだ。
「許可は貰ったわ、一応ね。お母様が足止めされているので、代わりに私が会いに来るしか無かったの。心配しないで、宿に置いてあったお二人の荷物は、お母様が管理されているから。ここから出ていく時はお返しできるように」
「それは助かります。しかし、いつ解放してもらえるのやら」
「お母様の話では、お父様はグレーン卿の結婚式を邪魔されたくないみたい。だから、結婚式が終わるまでは閉じ込めておくつもりなんだと思うわ。ね、叔父様。エリーズ叔母様は今、私の家庭教師をなさってるの。叔父様のお話もたくさん聞いたのよ。お伽噺の騎士みたいな人だって。今回もエリーズ叔母様を取り戻しにきたんでしょ。結婚式に乱入して奪われた花嫁を取り戻す騎士! なんて、カッコよくない?」
「あはは、はあ、…」
無邪気な少女の瞳を前に、ヴァイスは苦笑するしかない。隣でヴィオレッタも同じ表情だ。まさか、さっき二人で会話した内容を、そのまま言われるとは。
だが、外で聞き耳をたてている者がいる以上、正直に「そうです」とも言えない。
「その件は、まあ…お父上に会いに来た話とは別です。それより王女、お父上は今、どうされていますか」
「お仕事中よ。外国からのお客様みたい」
「外国? リギアスですか」
「いいえ、トラキアス王国。騎士団の人って――そうだ、お客様も騎士様だったの。すごくカッコいい人だったわ!」
「姫君は騎士がお好きですか」
「だって制服とか剣とか、素敵じゃない。いつか結婚するなら強くて礼儀正しい騎士がいいなぁ…」
夢見がちな姫君の楽しげなお喋りは、ここ数日の閉塞感や緊張をほどよくほぐしてくれる。それに、他愛ないお喋りからでも、ここ数日の王城内の動きが、少しは読み取れた。
王妃は余計なことをしないようにと自室に軟禁状態で、妹エリーズとも連絡は取れていないこと。
エリーズは街の郊外にあるグレーン家の別荘に移動させられ、そこで花嫁衣裳の仕立てに付き合っているらしいこと。
花婿のジークヴァルトは、まだ南部の自領から戻って来ていないらしいこと。
リギアスからの使者は特に来ていない。代わりに今朝、国王はトラキアスからの来客を受け入れ、謁見中だということ。
小一時間ほどお喋りしたところで、外から扉が軽く叩かれた。付き添いの騎士が、そろそろ時間だ、と促しているのだ。
「そろそろ行かなくちゃ。午後はダンスのお稽古があるの。それじゃまたね、叔父様」
「ええ、お話出来てたいへん楽しかったですよ、姫。どうぞ母上によろしくお伝えください」
先に立って扉を開け、王女を送り出したあと、彼は、それとなく廊下の左右を見回して様子を確かめてから扉を閉めなおした。
「…やれやれ。あの子のいうとおりなら、どうやら本気で脱獄の方法を考えなきゃいかんらしいな」
「それも、結婚式の前に、ですよね。あと一週間もないですよ。」
「ま、それは何とかなる。王城の構造なら一通り知ってるしな。それに幸い、こっちには、あんたのその小鳥がある。問題は、武器の保管場所を――」
言いかけたヴァイスの言葉が、ぴたりと止まった。
廊下に再び、足音が響いてきたからだ。
「誰か来る」
扉の側を離れ、彼は、用心ぶかく壁際まで退いた。足音は複数で、少なくとも一人は武装しているようだ。カチャカチャと金属の触れ合う音。それに小さな話し声。
扉を叩く音とともに、聞き覚えのある声が響いてきた。
「失礼します。ヴァイス殿、入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、構わんが――」
入って来た人物を見て、ヴァイスも、ヴィオレッタも、驚いて同時に声を上げた。
「お前、どうしてここに――」
「ルシアンさん?!」
澄んだ薄青の瞳が、嬉しそうに煌めいた。
それは、トラキアス王国の新人騎士、西方分団の騎士団長の息子のルシアン・エディルフォード本人に間違いなかった。ヴェンサリル砦で別れてから一か月半ほどになるが、どこも変わりはないようだった。
「ここに居ると伺って、逢わせて欲しいとお願いしたんです」
「ということは、陛下が今朝謁見していたというトラキアスからの客人というのは、あんたのことだったのか。何でまた、こんなところに?」
「貴方ご自身に言われたことですよ、ヴァイス殿。街道を押さえて、トラキアス領を通過していく
「ほぉ。つまり、ティバイス側は南部の戦線にも
「それで、ルシアンさんはそれを、アイギスの国王様に伝えに来たんですか」
「その通りです。この件は、騎士団も把握済みです。荷運び人は国境越えの関税を支払っていませんでしたので、組織的な密輸事件として捜査が始まっています。それで僕は、アイギス側にも調査を依頼する役目に志願して、こちらに伺った次第です」
「なんとも、しょうもないところで足がついたもんだ」
苦笑しながらも、ヴァイスの目は真剣そのものだ。「で、陛下は。何と仰せになっていた」
「はっきりとしたお返事はいただけませんでしたが、調査はする、と…。何しろグレーン殿といえば、この国では執政補佐官を務めている方でしょう。そう簡単にいかないのだとは思います」
ルシアンは声を潜め、二人を見比べた。
「ですが、アレクサンデル殿はどうも、執政補佐官殿の処遇に迷っておいでのようだ。お二人が先に、グレーン殿の関わっている陰謀を告発されたんですよる? そのせいで軟禁されていると聞きました。…軟禁ですよね? これは」
「事実上のな」
と、ヴァイス。「オレたちのことは、どうやって突き止めた」
「この件の捜査を依頼してきたのが、アイギスでかつて騎士をしていた傭兵だと伝えた時に。貴方の本名までは伺っていませんでしたが、特徴をお伝えすると、アルクサンデル殿にはすぐに分かったようでした」
「成程な。」
「貴方がたの告発は本当だと、僕からも伝えました。執政補佐官どのは間違いなく、
「そうだといいんですけど…。」
ヴィオレッタが小さくため息をつく。
「? まだ、何かあるんですか」
「ちょいと込み入った事情が、な。」
今回は、扉の外に聞き耳を立てている者はいなさそうだ。
「あんた、まだしばらくこの国に留まるつもりか」
「ええ。ここの件は、アイギス側が調査に協力してくれるかどうか、正式な返事を持って帰る必要があるのです。もし協力しないという返事だった場合は――この密輸に、アイギスが国として関わっていると判断されることになる。」
「オレと話した感じでは、国王陛下も薄々感づいてはいらっしゃるようだった。ただ、この国の利になることならば、少しくらい大目に見ても構わない…そんな風に受け取れたな。危険な火遊びだ。もっとも、フィロータリアのことが無ければ、そこまで危ない火遊びにもならなかったはずなんだが。」
「フィロータリア? 誰ですか、それは」
「今からそれを説明する」
ルシアンの肩を叩いて、彼は、椅子をすすめた。
「異国の使者のあんたなら、行動を制限されることもないはずだ。この件、あんたにも協力してもらいたい」
それから時間をかけて、ヴァイスは、これまでのことや、これから行われようとしているグレーン家の結婚式について説明した。
既に式のことが大々的に宣伝されている今、国王としても、生半可なことでは中止や延期は言い出せないだろうこと。ルシアンが持ち込んだ報告についても、おそらく、結婚式を強硬したあとでなければ話が進まないだろうこと。
しかしヴァイスたちとしては、式が敢行される前にここを脱出しなければならないこと。
ヴァイスの妻が別の人物と結婚させられようとしている、という報告は、ルシアンにただならぬ感情を引き起こしたようだった。
「かつての家臣の妻を、別の家臣に嫁がせるなんて。それでは悪王ではないですか! どうして、そんな人に仕えているんですか。ヴァイスさん」
「厳密に言えば今のオレは、あの方の家臣ではないんだがな。」
ヴァイスも、言い淀むしかない。
「オレの主君だった方は、亡くなられた王弟のルートヴィッヒ様だ。…アレクサンデル陛下とは、以前もそれほど親しい間柄でもなかった。とはいえオレも、かつてはこの国の騎士だった身だ。あまり悪く言ってくれるな。」
「すいません…」
「オレは、あの方を悪人だとは思っていない。ただ、迷っておいでなのだろう。圧倒的な利を前にして、明かされた不利益が、果たしてそれを覆すほどのものであるか、判断しかねているんだ。このまま、巧くすればこの国が再び大陸の覇権を手にすることさえ出来るかもしれないという時に、それは罠だと叫ぶ者がいたとして、その声にどれだけ耳を傾けられるか。ましてやジークヴァルトは陛下の信頼篤い一番の家臣、オレは不名誉な罪状で騎士団を追放された風来坊に過ぎん。」
自嘲するような笑みが浮かんだのも束の間、彼はすぐに、真面目な顔で続けた。
「だとしても、どうやっても分かっていただかねばならん。何かが起きて、思い知らされてからでは遅い。私情を抜きにしてもだ。
…ジークヴァルトが確実にこの街に来る、結婚式の当日を狙う。オレは、ここを脱出する手立てを考える。街のほうはヴィオレッタに任せる。あんたは、王城内の動きを探ってほしい。それと、もし可能なら、妃殿下に預かっていただいているはずのオレたちの荷物をここへ運び込んで欲しいんだ。頼めるか?」
「お任せください。何とかしてみましょう」
「あの、連絡はこれで」
と、ヴィオレッタは小鳥を取り出して、テーブルの上に置いた。
「これは…?」
「連絡用の
「ああ。最初に出会った時に使っていた」
「そ、…そうです」
独り言を聞かれたことを思い出して、ヴィオレッタは赤くなった。「それはそうとして! あの時のことはもう忘れてくださいってば」
「はは、そうだったね。」
ヴァイスがにやにやしているのに気づいて、ルシアンは思わず咳払いをした。
「ん、…分かりました。ちなみに、僕が宿泊しているのは城の反対側の客間です。庭園に面した白い窓枠の建物。分かりますか」
「ああ、場所は知っている。外国の使者や来賓用の建物だな。あとでヴィオレッタに場所を教えておこう」
「何かあったら、そこに伝言を寄越してください。それでは」
席を立ち、ルシアンは二人それぞれと握手を交わして去っていく。
「ふん。少しの間に、新米くささが抜けてずいぶん成長したじゃないか。」
ヴァイスは妙に嬉しそうな顔をしている。
「さぞかし若いご令嬢に散々言い寄られているだろうなあ。早めに押さえておかないとマズいんじゃないか? なあ」
「は? 何言ってるんですか? 意味わかりません」
「そう怒るなよ。面白いな」
「面白がらないでください! もう…。」
頬を膨らませながらも、こんなやり取りが妙に懐かしい。ここのところずっと、沈黙と、真面目な会話ばかりが続いていたのだ。
けれどこれで、ようやく、ほんの少し光明が見えてきた。
「ヴィオレッタ。今さらだが、いまのうちに虹のお姫様に報告を飛ばしておいたほうが良さそうだぞ。ここからだと最寄りの斡旋所は北の国境を越えたあたりになるが――飛ばせるか?」
「大丈夫ですよ。どうせ今は何も出来ないですし、やってみます」
「頼んだ」
ヴィオレッタが、イーリス文字で手紙を書いて小鳥の足にくくりつけて飛ばしている間、ヴァイスのほうは、紙に城の見取り図を作成していた。今いる位置と、ルシアンが泊っている建物の位置。それに、街に出るための脱出経路を簡略な図として描いていく。
(力ずくで逃げるなら幾らでも出来るが、問題は「いつ」決行するか…。式場の警備が厳しくなりすぎるのはマズい。かと言って、式のぎりぎりに逃げるのも、間に合わない可能性があるな)
彼には、確信と言っても良い予感があった。
もしもフィロータリアがジークヴァルトに対して、かつてのリチャードに対するのと同じような感情を抱いているとしたら、――彼女は必ず、この街へやって来る。
* * * * *
窓にカーテンを下ろした部屋の中で、エリーズは、溜息交じりに目の前の白いドレスを眺めていた。
自分のために仕立てられた結婚衣装だ。あまりに派手だし、花飾りは大きすぎる。おまけに胸の辺りが大きくはだけていて、二十代も後半になろうという女に着せるものにしては恥ずかしい。宝石を散りばめてあるのも悪趣味だ。
要するに、すべてが気に入らないのだった。彼女自身の意見は何一つ取り入れられていない、押しつけがましいだけの代物。そもそもを言えば、この結婚自体、承諾した覚えなどない。
苛立たしさとともに、悲しくなってくる。愛など誓う気はさらさらなかったが、偽りの婚姻であったとしても、一時であったとしても、こんなドレスを着て、あの男の脇を歩かねばならないのだから。
(ヴィンセントとの結婚式は、豪華なドレスもなかったけれど、わたしの望むことを何でも聞いてくれた…。)
いますぐドレスを引き裂いて台無しにしてやりたい気さえしたが、そんな子供じみたことをしても結果は変わらないだろう。あの強引で思いあがったジークヴァルトのことだから、換えのドレスを用意してでも式は敢行するに違いない。
式までは、あと数日。
別荘に閉じ込められたまま外出もままならず、街の様子は分からないが、今ごろは会場の準備も進んでいる頃だろう。式のあとに街中をパレードするらしいが、エリーズにとっては、市中引き回しの刑罰にも等しかった。
(でも、あの人はこの街にいる。…きっと、何とかしてくれるはずよ)
姉で王妃のローザからの報せは何も届いていないが、国王アレクサンデルへの進言まで巧く言ったのなら、きっと何かが起こるはずだ。彼女はそう、信じるしか無かった。
そろそろ日も暮れかかる。
カーテンの向こうの木戸を閉めようと立ちあがった時、ふと、背後で風が動いた。
「え?」
さっきまで誰もいなかったはずなのに――ドレスの前に、見たことのない少女が一人、立っている。
「ふふ。何、これ。真っ白じゃない」
「誰――」
「お前がエリーズって女?」
振り返った少女は、息をのむほど美しい形をしている。けれど、どこか不自然な美だ。陶器のような白い肌はどこか作り物めいて見え、灰色の瞳には、どす黒い感情が滲んでいる。
「ふうん。やっぱり大したことない。
この少女は、以前出会ったあの、ヴィオレッタという少女とは違う。ヴィンセントの使いではなさそうだ。
エリーズは、とっさに入り口に近付いて、扉に手をかけた。
「出て行かないと、人を呼ぶわよ」
「すぐ消えるわよ。ふん、いい気になっていられるのも今の内だけだから。あんたなんか、ただの道具よ。子供を産ませるだけの」
「…え?」
「あの人が愛しているのは私だけなんだから。」
「ちょっと、待っ…」
風とともに、少女の姿がかき消されるように見えなくなった。慌てて辺りを見回すが、あとには、誰もいない空間と、揺れるカーテンが残されているだけ。
("あの人"…? まさか、ジークヴァルトのこと?)
愛人がいるなどと、聞いたこともなかった。それに、あの少女はまだ十代の半ばにしか見えず、一般的に言って幼過ぎるように思われた。まさか、ジークヴァルトに少女愛好の特殊な趣味があるとも思えない。
(一体…どういうこと…?)
胸のざわめきと、一抹の不安と。
整いつつある舞台を前に、破滅の足音は静かに忍び寄りつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます