第十一章 王都ヴェスタファール(2)
夜が更ける頃、ヴァイスとヴィオレッタは宿を出て街の郊外へと向かっていた。
幾重にも重なる城壁の一番外側、観光客が滅多に訪れないだろう開けた一画に、豪華な邸宅の立ち並ぶ場所がある。入り口に見張りの兵士が立っており、特に警備が厳しい。
「貴族街だ。頻繁に王宮に出入りする大貴族の連中は、荘園に本邸とは別に、参内しやすいこの辺りに別宅を構えてる」
ヴァイスが囁く。もちろん彼らでは区画に入れてくれるはずもないので、見回りの目を盗んでの侵入だ。
「場所を教える。あの、高跳びできる
「"七里跳びの靴"ですよね。はい、大丈夫です」
「よし」
地図にも載っていないような細い路地を縫って、ある邸宅の裏までやって来ると、彼は、灯りのついている三階の窓を見あげてバルコニーを指した。
「あそこまで跳べ。エリーズは、あの部屋にいる。もし居なくても、続きの隣が寝室だ。大丈夫、エリーズは賢い女だ。いきなり悲鳴上げたりはしない。最初にオレからの手紙を見せてくれ」
「……。」
こんなに近くまで来ているのに、一目逢うことさえしようとしない。それは彼なりの意地なのか、それとも。
「オレは宿に戻ってる。終わったら、その靴で脱出して戻って来てくれ。…頼んだ」
それだけ言って、彼はヴィオレッタを残して元のように人目を忍んで去ってゆく。
一人になったヴィオレッタは、頭上の窓辺を眺め、それから、思い切って地面を蹴った。
召使いを下がらせ、部屋の灯りを持って寝室に向かおうとしていたエリーズは、コツコツと窓枠を叩く小さな音に気づいて足を止めた。小さな声が、彼女の名を呼ぶ。
「エリーズさん…エリーズさん、いらっしゃいます?」
「誰」
「あっ、えっと。怪しい者じゃないです…」
若い、おそらくまだ少女と呼んでいい年齢の声だ。
「ヴィオレッタと言います。ヴァイス…じゃない、えっと、ヴィンセントさんからの伝言があって、お伺いしました」
言い終わらないうちに、彼女はバルコニーに通じる木戸を開け、自ら姿を現していた。
思った通り、驚いて目を丸くした少女が一人。通りから見えないよう、隅の方に背を丸めて潜んでいる。
「入って」
手を取って部屋の中に引き入れながら、エリーズは通りと、バルコニーの下を見回した。他には誰もいる気配はなく、巡回の兵もまだ遠くにいる。
素早く元通り木戸を閉めてしまうと、彼女は、反対側の部屋の扉のほうを伺い、それから、ヴィオレッタに向きなおった。
落ち着かない様子で、豪華な部屋の中を見回している――武器などは何も持っていない。格好は商人風だが、本当に商人というわけでもあるまい。
(そうか。この子が、ジークヴァルト殿の言っていた…)
「女を連れて旅をしている」だなんて。エリーズは思わず笑い出しそうになるのを堪えなから、訊ねた。
「あなた、傭兵?」
「え、い、いえ」
あわてて、少女は首を振る。
「本当は違うんですけど、…色々あって、今はヴァ…ヴィンセントさんと一緒に行動してます。あの、これを」
ヴィオレッタは、大急ぎで預かって来た手紙を取り出した。「最初にこれを見せろ、って言われたんです」
「そう」
エリーズは頷いて、手紙を受け取ると、奥の部屋のほうに向きなおった。
「いらっしゃい。寝室なら誰かと話していても聞かれないし、いざとなったら寝台の下に隠れられるわ。…あなた、あの人とは長い付き合いなの?」
「まだ半年も経ってないです。あの――」
「そこに座って。」
言われるまま、ヴィオレッタは、寝台の側のゆったりとした大きなソファに腰を下ろした。
それからしばらく、手紙を読む間の沈黙があった。
夜着の上にガウンを羽織った女性は、灯りを寝台の脇に置いて手紙の封を切り、静かに視線を走らせている。
綺麗な人だな、とヴィオレッタは素直に思った。
見目形が、というわけではない。造形という意味で言えば、エヴァンジェリンのほうがずっと文句なしの美人だった。けれどそれは、単なる形でしかない。この女性からは、意志の強さ…生命力のような美が溢れている。特に、瞳の輝きだ。それが、ありふれた形に吸い込まれるような魅力を与えている。
座ったまましばらく待って居ると、やがて、手紙を読み終わったエリーズが、溜息とともに顔を上げた。
「そう。あの人、ついに仇を見つけたのね」
「はい」
「それに、ジークヴァルト殿のことも。…確かに、このところ荘園からの収入が飛躍的に増えたという噂は聞いていた。でも、それは葡萄酒造りを効率化したからだと言っていて…。」
言いながら、エリーズは考えを整理しようとしているようだった。
ヴァイスが手紙に書いた内容は、事前にヴィオレッタも読ませてもらっていた。これまでのあらましと、突き止めた事実について。アイギスの国王、アレクサンデルがジークヴァルトのやろうとしていることについて、どこまで認識して、どこまで承認を与えているのか直接会って確かめたいということ。
「不明点があれば、あなたに聞けと書いてあるわ。本当なのね? ジークヴァルト殿が、かつてルートヴィッヒ王子を殺した相手を匿っているというのは」
「はい、間違いないです。その人は、…その女性は、おそらく、ジークヴァルトという人を"恋人"として見ているはずなんです」
「……。」
「求婚されたんでしょう」
「来週にはここを引き払って、彼の別荘に連れて行かれることになっているわ」
「そんな…でも、あなたはもう結婚しているのに」
「法でさえも曲げられる、それが本物の権力者というものよ。それにヴィンセントの両親を人質に取られてるの。あの男は根っからの卑怯者だから、わたしが逃げたりしたら何をするか分からない。…でも、抵抗はするわ。最後まで」
強い輝きを放つ瞳できっぱりと言ってから、彼女は、ふいに表情を和らげ、言葉の調子を緩めた。
「ねえ。あの人、元気にしてる?」
「え…あ、はい。」
思わずどきりとするような変化だった。
「一緒に旅をしてるのよね? どう。優しくしてくれる?」
「はい、すごく…気を使ってくれるし、女性受けはいいんです。あ、浮気とかそういうんじゃなくって。女性の扱いっていうか…その。」
「ふふっ。昔、わたしがさんざん教えたから」
「…そう、言ってました」
話しながら、何だか悲しくなった。本当なら、この微笑みは自分ではなく、待って居る人に直接向けるべきなのだ。
「あの、…この街に来てるんです。でも、今はまだ会えないって。でも…」
「それでいいのよ」
手紙を膝に置くと、彼女は、木戸を閉ざした窓のほうに視線を向けた。
「これから大事な役目があるのでしょう。今会ってしまったら、きっと、余計なことを考えてしまうから」
「……。」
「わたしはわたしなりの戦場で、あの人はあの人の戦場で。――手紙を届けてくれてありがとう、ヴィオレッタ。国王陛下に会えるよう、王宮にいる姉に手引きを頼んでみるわ。数日はかかると思う。泊まっている場所を教えて頂戴。準備が整ったら、そこへ連絡をやるわ」
「わかりました…」
ヴィオレッタは、宿泊している宿と部屋番号を伝えた。
寝台の脇の灯りは、もうずいぶん油が少なくなって、灯心がチリチリと音を立て始めている。
「帰りは窓から? 大丈夫?」
「はい、
「それじゃ気を付けて。あ、それと」
バルコニーの木戸の前まで来たとき、彼女は、ふと思いついたように寝室に取って返し、刺繍の入ったハンカチを手に戻ってきた。微かな降水の香りが漂う。
「これを。あの人に」
「分かりました」
預かりものを大事にポケットに仕舞いこむと、ヴィオレッタは、木戸の隙間からバルコニーへ滑り出し、見張りのいないのを確かめてから、地面を蹴った。
宿に戻った時にはもう、真夜中は周っていた。
ヴァイスは灯りもつけず、暗い部屋の中で記事の隙間から外を伺いながら待っていた。
「ただいま、です」
「お帰り。無事でなによりだ」
誰にもつけられていないことを確認しているヴァイスに近付いて、ヴィオレッタは、エリーズのハンカチを差し出した。
「これ、預かって来ました」
「ん?」
振り返った男が、はっとした顔になる。
「この匂い…」
暗がりの中でははっきりとは見えなかったが、目の前に差し出されたハンカチを受け取った時、彼は、確かに微笑んだように見えた。
「…あいつ、何て言ってた」
「"わたしはわたしなりの戦場で、あの人はあの人の戦場で"。準備が整ったら、ここに連絡を寄越すそうです。数日はかかるはずだと」
「そうか。」
「エリーズさん、来週にはジークヴァルトって人の別荘に連れて行かれることになってるそうです。そしたらもう、会えないですよね」
「侵入は難しくなるな」
「…取り戻すつもり、なんですよね」
「当たり前だ。」
ハンカチを懐に入れながら、彼は、木戸に手を伸ばして隙間を閉ざした。「そのための謁見なんだ。」
「……。」
エリーズは、ヴィンセント――つまり、ヴァイスの両親が人質に取られていることも言っていた。けれど、それは言い出せなかった。言ったところで、彼の考えは変わらないだろう。それにもしかしたら、既に知っているのかもしれない。
「…素敵な人でした。エリーズさんは」
それだけ言って、ヴィオレッタは自分の寝室に向かうために入り口の扉に向かった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
何故だか落ち着かない気持ちだった。どうすればいいのか、ヴィオレッタにも分からないのだ。巧くいって欲しい。けれど、巧く行く方法が分からない。もう一度フィロータリアと対峙したところで、彼女をどうにかできる確信が持てなかった。それに謁見のことだって、もしアイギスの国王がジークヴァルトと完全に結託していたならば、自分から罠に嵌りにいくようなものだ。
不安にかられたまま、彼女は、眠れぬ夜を過ごした。
昼間は観光していていい、とヴァイスに言われたけれど、それも気が進まず、ほとんど宿を離れずに数日が過ぎて行った。
* * * * *
地下に掘り込まれた長い回廊に足を踏み入れると、音もなく光が灯り、熱の無い輝きが白く辺りを照らし出す。
人が近づいたことを感知して自動で灯る
そこは、グレーン家の荘園の端にある、葡萄酒工房の地下にひそかに掘削された地下道の一つだった。ここを知る者は少ない。地上部分は普通の工房で、荘園で採れた農作物を加工するために使われているから、まさか地下に別のもの、
ここで作られた品はすべて、荘園から正規に搬出される商品に紛れて少しずつ運び出されてきた。何重にも人の手を介して、厳重な警戒をして、少しでも疑わしい行動を見せた者は事故や病死に見せかけて密かに処分してきた。噂になることはもちろん、少しでも疑われては困るのだ。――いずれは勘づく者が現れるにしても。
「ジーク」
甘ったるい、少女のような声に呼び止められ、彼は小さくため息をついて足を止めた。
振り返るまでもなく、誰がいるかは分かっている。そして、振り返るより早く、二本の白い腕が彼の背中から絡みつき、柔らかな体が摺り寄せられる。
「…タリア。私が戻るまでは工房から出るなと言っただろう」
「だぁって退屈だったんだものー。ねえ、また王都に行っていたの? 少しはゆっくりしていってよ。せっかく私もここにいるのに」
「領民に姿を見られでもしたらマズい。お前の存在は、誰にも知られては困るのだ」
「はいはい、そうよね? あなたは品行方正で非の打ちどころもないご立派な領主様で、執政補佐官。愛人を連れ込んでいかがわしいことなんて絶対にしない。そういうことになっているんですものね」
「タリア…」
「知ってるわよ。求婚に行っていたんでしょ」
するりと腕を外し、フィロータリアは数歩離れてにたりと笑った。
「エリーズって女よね。家柄のいい未亡人…まだ未亡人じゃなかったかしら? 夫は行方不明。十年もその夫を待ち続ける貞淑な妻の鑑。ねぇ、どうしてそんなつまらない女なんて欲しがるのよ。べつに貴族の女なんて妻にしなくても、あなたもう、とっくに欲しいだけの権力は手に入れたでしょ?」
「…余計なことに気を回すな。お前には関係ないことだろう」
「教えてよ。愛とかじゃないんでしょ? その女の何処が必要なの。
やれやれ、とジークヴァルトは小さく首を振る。
まるで聞き分けのない子供だ。頭は良い、飲み込みも早い。ただ精神的に不安定で、未熟なまま、成長の兆しが見えないのだ。
体内に埋め込まれているという
「――子を産ませる女が必要だ」
彼は、あらかじめ用意してあった答えを口にする。
「この世界では、血統のいい後継者が必要なんだ。お前では無理なことだ。そうだろう? タリア」
「…っ」
女の顔が真っ赤に染まり、口を閉ざすのが分かった。
それ自体、以前、フィロータリア自身から聞いていたことなのだ。
言い返せないフィロータリアを残して、ジークヴァルトはさらに回廊の奥へと歩を進める。
「結婚式が終われば、彼女をここへ連れ帰る。だが、どうにも嫌な予感がしていてな。取るに足りない存在だが、彼女の昔の夫だった男が何やら嗅ぎまわっているらしい。警備用の
「…誰が、…他の女の警備なんて」
「タリア。分かるだろう?」
「分かったわよ! だけど、少しだけよ! 子を産ませたらさっさと処分してよね、あなたの恋人は、私だけなんだから!」
「…ああ。愛しているよ、君を」
作られた優しい声色、振り返りもせずに回廊の奥からぞんざいに投げられる言葉。それでも女は、それに縋りたいと思っている。
フィロータリアは、胸のあたりを片手で掴んだ。
(――ええ、そうよ。私だけよ。"愛している"と言われていいのは)
呼吸が荒くなり、意識が遠のきそうになるのを懸命に押さえようとする。
(あなたは裏切らないわ…そうでしょ? ジーク…)
けれど、その人物の姿は既に視界にはなく、回廊には、無機質な白い灯りだけが照らす沈黙が広がっていた。
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