第十一章 王都ヴェスタファール(1)
その日、アイギス聖王国の中心、王都に近い場所にあるエディルフォード家は、ある著名な客人を受け入れていた。
ジークヴァルト・グレース、今のこの国では飛ぶ鳥を落とす勢いの大貴族だ。名門貴族であることに加え、執政補佐官という肩書、国王からの信頼も篤く、さらには数年前にようやく誕生した待望の男児の後見人にも任命され、荘園は豊作続きで財力も蓄えている。そんな男との繋がりは、貴族であれば濃厚に保っておきたいと思ってしかるべきものだった。
だが、来客を出迎えるその家の娘――エリーズは、はっきり言って歓迎はしていなかった。ロクな要件でないことは分かっている。
数カ月前から、男は彼女に求婚していたのだ。不名誉な理由で騎士団を追われ、十年も行方をくらましている前夫との結婚は自然消滅した、と主張して。
直接やって来るのはこれが初めてだが、どうせ、説得に来たのに違いない。
(あの人は単に、わたしの家柄との繋がりが欲しいだけね。面倒だこと…)
溜息まじりにエリーズは、めかしこんだ姿で目の前の椅子に腰を下ろそうとする男を見やった。
彼女を嫁ぎ先のコルネリウス家から強引に連れ戻した両親は、この結婚を諸手を上げて歓迎しており、彼女にも、さっさと下級貴族の前夫のことなど忘れろと、なだめすかしながら言うのだった。
もとより、以前の結婚は両親の意に沿うところではなかった。当時の皇太子だったルートヴィッヒの口添えもあって、渋々承諾してくれたようなものだった。
そのルートヴィッヒがこの世に居ない今となっては、格違いのコルネリウス家との婚姻関係など、何の利にならない邪魔なものとしか考えていないのだろう。
他の大貴族と同じように、両親にとっても、娘の意思は二の次、なのだ。
召使いたちが引き下がり、部屋の中に来客と二人きりになると、彼女は慇懃に口を開いた。
「何のおもてなしも出来ませんが、ようこそお越しくださいました、グレース殿。ですが、例のお申し出については既にお断りしております。」
一部の隙も無く、鉄壁の如き毅然とした態度。
暗い色の髪はきつく首筋の上でまとめ上げ、落ち着いた色の上品なドレスを身にまとい、既婚者然として振る舞うエリーズに、新たな夫を迎える気などさらさらないことは明らかだった。
だが、若きジークヴァルト――彼はエリーズより数歳、年下だ――は、いささかも動じず、優雅に足を汲み、微笑んだ。
「そうつれないことを仰らずに、美しきエリーズ殿。これは貴女にとっても悪くない話なのです。以前の婚姻の取り消しの件なら、既に国王陛下への話も取り付けてありません。結婚式には王都の大聖堂を使わせていただけるとの許可もいただけた。とても盛大で華やかな式になるよ、エリーズ。誰も覚えてはいないほど質素だった、前の結婚式の記憶など上書きされるほどにね」
「そして、貴方様のご立派なお屋敷に、戦利品として飾られたまま老いて行けと仰るのかしら? 申し訳ありませんけれど、わたくしももう若くはなく、以前ほどの美しさもございません。それに夫の存命のうちに他の男に鞍替えして、尻軽女と呼ばれたくもありません。どうぞ、その栄光に預かる花嫁には、他の方をお選び担ってくださいな」
それだけ言うと、手元の呼び鈴を鳴らして召使いを呼ぶと、するりと席を立つ。
「お話はこれでおしまいよ。お客様はお帰りになるわ。お送りして」
「やれやれ、相変わらずつれないことだ、エリーズ殿。」
しかしジークヴァルトは席を立たず、相変わらずのにこやかな笑顔のままだった。
「貴女の気にされている男なら、つい最近、別の女を連れて旅をしているところを見たという者たちがいますよ。」
「そう。それで?」
あまりにそっけなく、ぴくりとも表情を動かさないことに、男は僅かに眉を寄せた。
だが、めげずに次の言葉を続ける。
「――それに、この結婚には、コルネリウス家のご夫妻も同意しているのです」
「……。」
ようやく、僅かにエリーズの表情が動いた。
「何故、コルネリウス家に?」
「なに。ちょっとした商売のツテですよ。彼らの持っている猫の額ほどの――おっと失礼、ささやかな荘園の買い取りの件で。どうやら夫君の年金だけではずいぶんと暮らし向きも厳しいようだし、獲れた作物の販路が見つからず難儀されているようですしね。」
「嫌がらせをしたのね? 作物が売れないように。貴方の家の権力を使えば簡単なことですわね。」
「人聞きの悪いことを。売り手と買い手の意図が噛み合わないことも、他の商品と競合することも、商売の上ではよくあることでしょう」
「…そう。よく分かったわ、あなたという人間が」
エリーズは肩をいからせ、キツい輝きを放つ瞳で男を睨みつけた。
「わたくしが首を縦に振らなければ、あの人たちを干上がらせてやるという脅しね。権力をかさに着てどんな手段でも使うなど、卑怯者のすることです。わたくしの夫なら、ヴィンセントなら、どんな相手にも真正面から向かって行くでしょう。それがたとえ誰であっても」
「……。」
ジークヴァルトは、歯を見せて凄みのある笑みを見せた。
「ご自分の立場を理解されることだ、エリーズ。貴女には最早、拒否権などないのだから。」
呼び鈴でやって来た召使いが、二人の権幕に怯えて、入り口でおろおろしている。
男は上着の長い裾を翻し、立ちあがりながら肩越しにエリーズに向かって言った。
「一週間後、迎えに伺いますよ。それまでに、身辺の整理は済ませておかれることです。」
「出口までご案内して」
エリーズに促されて、召使いは慌てて頷いた。
男が部屋を出て行くまで、彼女は立ったまま、扉を睨みつけていた。
コルネリウス家の老夫婦の――彼女にとっては義理の父母である嫁ぎ先の家のことを思うと、大人しく従うしかないのは分かっていた。ジークヴァルトはキレ者だし、国王も信頼している。彼ならば、口にしたことは実行するだろう。
それに逃げ場もない。両親は家名と体面を気にして、経歴に傷のついた娘をどうにかして再嫁させたがっていた。このまま家に留まることは許してくれないだろう。
(ヴィンセント…わたしは、どうすればいいの)
きつく唇を噛みしめて、エリーズは、溜息とともに窓辺に向かった。いつまででも待つ、と約束はした。けれど状況が、それを許してくれそうにはない。
誰か女と一緒にいたことなど気にも留めていなかった。傭兵としてあちこち放浪しているという噂は聞いていた。どうせ仕事仲間か何かなのだ。
無事で生きている姿を誰かが見たというのなら、それだけで嬉しかった。
悩める彼女は、まだ、気づいていなかった。
今まさに、その想い人がすぐ近くまで来ているということに。
********
アイギス聖王国の首都、王都ヴェスタファール。
かつてのハイモニアの首都でもあった、歴史あるその街は、微かに青みがかった白い石で組まれた重厚な歴史的建造物に取り囲まれた、壮麗な都である。弧を描く、幾重もの城壁に取り囲まれたその姿から、"平原に咲く一輪の大花"とも形容される。
街に入る前に、ヴァイスは商人風の服を手に入れて、それをヴィオレッタにも着させていた。王都に潜入するに当たって、少しでも警戒されないよう「旅の商人」を装うことにしたからだ。
ヴィオレッタを連れて広場に面した観光客向けの宿に入ると、彼は、窓からそれとなく外の様子を伺った。
「…あのう」
ヴィオレッタは、着なれない服にもじもじしながら、怪訝そうに尋ねる。
「故郷に戻ってきたのに、どうしてこんなに警戒しているんですか?」
「故郷だから、だ。まぁ十年で騎士団もだいぶメンツが代わって、オレのことを覚えてる奴にゃそうそう出くわさんだろうが、見つかると色々厄介でな。…ま、見つかったからといって捕まるわけでも無ぇが、噂にでもなって、ジークヴァルトの奴に勘づかれると拙い」
誰にもつけられていないことを確認してから、彼は、ヴィオレッタのほうに向きなおる。
「道中話したとおり、この街ではまず、情報収集が最優先だ。一つは、リギアス連合国からの四か国離脱の件。国民がどこまで知っていて、どう捉えているのか。もう一つは、グレース家の動きを探ることだ」
「はい。」
ヴィオレッタは大きく頷いた。
リギアス連合国を構成する小国の一部と、ティバイス首長国の南部のいくつかの領が衝突し、ようやく戦いが収まって和平交渉が行われようという時になって起きたその事件は、どうやら、アイギスの重鎮貴族であるグレース家の若き当主が関わっている事案らしかった。
そして、これまで追って来た
「ジークヴァルトはキレ者で用心深い。どこに奴の"耳"や"目"が潜んでいるかも分からん。オレたちが嗅ぎまわっていることを知られたら、フィロータリアに先手を打たれる可能性もあるんだ。用心してくれ」
「分かりました」
「よし。それじゃあ、ここからは別行動だ」
「ええー…」
「ええー、じゃない。あんたの顔は割れてないんだ。最悪、オレだけで済むだろ? それに、ここは観光地としても有名だ。なんとなくぶらぶらしながら、噂話を効いてくるだけでもいい。」
そう言って、彼は懐から、小銭の入った硬貨の包みを投げてよこした。
「ほら、お駄賃だ。これで観光して来るといいぞ」
「もう、子ども扱いしないでくださいよ…。」
ふくれっ面をしながらも、彼女は、ヴァイスがどこか無理をして陽気に振る舞おうとしているような感じを覚えていた。
普段と違って、余裕らしい余裕がない。
それに、まるで――ここに居ること事態が辛いような、そんな顔をしている。
「…もしかして、ヴァイスさんの奥さんって、この街にいるんですか」
「ああ。…おそらくな。あいつの実家は、この近くにある」
「じゃあ…」
「駄目だ」
彼はきっぱりと言って首を振った。
「まだ何も終わっちゃいないんだ。今はまだ、会えない」
「……。」
「さあ、もう行け。あんたが出たら、しばらくしてオレも出掛ける」
「はい…。」
預かった包みをポケットに滑り込ませて、ヴィオレッタは一人で宿を出た。ちらりと振り返ると、窓から覗いているヴァイスの姿が見えた。
宿の前はすぐそこが王宮に面した広場になっていて、少し歩いただけで雑踏と喧騒に飲み込まれてしまう。広場のあちこちには、揃いの格好をした警備兵たちが直立不動で槍を手にしている。人混みの間には、馬に乗った騎士たちも巡回している。トラキアスの騎士団とは違う緊張感と、矜持のようなものが伝わって来る。
広場に立って見上げると、白く輝く王宮の立派な門が聳え立っていた。
(大きい…。)
おそらく、周囲にいる異国人や観光客らしき人々も同じことを思っているのだろう。口々に感嘆の溜息を洩らし、城門と、その背後に聳え立つ城を見上げている。
「さすがだねえ。これ、ハイモニアの時代から残ってるお城なんだろう?」
「ああ。この大陸で一番大きな建物だそうだ。高さだけは、エデン教の大聖堂の塔のほうが上らしいがね」
「アイギスはいい石材がとれる。それで、頑丈な壁や建物を作るのが得意で…。」
観光客たちの話し声に混じって、ここぞとばかり土産物を売り込む声も響いてくる。
「いらっしゃい、よってらっしゃい。ヴェスタファール名物のマナ草の蜜はいかが? 肌にすり込んでよし、飲み物に垂らしてよし。健康と美肌のお供だよ!」
「お城の模型はいかが? 絵葉書もあるよ! 観光案内と街の簡易地図は是非もっておくといいよ!」
「あっ…」
ヴィオレッタは、通り過ぎようとしている少年の手にある地図に目を留めた。「それ、…」
「はい! 観光案内つきの地図はニ十五ギニーだよ。この街は広いからね、これがないと迷っちゃうよ。お姉さん、どこから来たの」
「えっと…トラキアスからよ」
さすがに、そのくらいは誤魔化さなくてもいいだろう。
「それ、いただくわ。無いと迷いそうだし」
「まいどありー!」
少年に硬貨を手渡し、見どころ案内のついた街の地図を手に入れると、ヴィオレッタは、さっそく今いる場所を確かめてみた。
王城と広場は、地図の真ん中にあるからすぐに見つかった。
そこから、広場を挟んですぐそこに大聖堂。ハイモニア時代から続く王家代々の霊廟。それに、騎士団本部に歴史博物館。
(さすがに、ヴァイスさんの実家とか、奥さんのいるところまでは分からない…か。)
ヴァイスはああ言っていたが、本当は一目だけでも家族に逢いたいはずなのだ。
だが、勝手なことをするわけにもいかない。危険を冒してまでこの街に戻ってきたのは、情報収集のため。
ヴァイスが気にしていたのは、フィロータリアを匿っている大貴族、グレーン家のやっていることを、国王がどこまで把握しているか、ということのようだった。つまりは、これはグレーン家単独の企みなのか、それとも王まで巻き込んだアイギス聖王国としての陰謀なのか。その結果によっては、自分たちの"敵"は、国そのものになってしまう。
(どこへ行けばいいのかしら…。そういう噂の聞けそうな場所…一人で酒場はちょっと…うーん…)
とりあえずは、動き出さなくては。見ていると、人の流れは広場から大聖堂のほうに向かって吸い込まれていくようだ。どうやら定番のコースらしい。ヴィオレッタも、自然とその流れに乗って、吸い込まれるように広場の脇にある大聖堂の中へと入って行った。
ヴィオレッタの知っている「大聖堂」といえば、カームスの街に立つエデン教の総本山のことだった。
けれどここは、雰囲気は似ているものの全くの別物で、高い尖塔などが無く、まるで墓場のような静謐な空気が満ちている。以前、リギアス連合国の南の端、ワイト領へ行った時に訪れた、別荘地ランセルにあった礼拝堂によく似た雰囲気だと思った。
ランセルでは空っぽだった祭壇には、ここでは、立派な金属の像が立っている。王冠をかぶり、杖と宝玉を両手に持った堂々たる姿。足元の台座には、「統一王バルディダス」と刻まれている。やはり、王家の人々を神格化した「ハイモニア教」の聖堂らしい。
聖堂内の壁には、時代がかった肖像画と墓標が並んでいる。歴代の王家の人々のようだ。
それも、かつてハイモニアが小国だった時代の王たちから、大陸全土を支配する大国にのし上がった時代のものばかり。
墓標を辿ってゆくうちに、彼女は、見覚えのある名前の前に立っていた。
"リチャード王"。
肖像画の中には、明るい金髪の美男子が、凛々しく虚空を見つめて描かれている。
(この人が、…フィロータリアの恋人だった王子)
色好みで多くの愛人を持ち、正妻を何度も換えたと言われる人物。そして、父の没後、兄を暗殺して王座を簒奪し、後継者争いの戦争を引き起こした元凶。
もし、彼が本当にこの絵のとおりの姿だったなら、きっと、フィロータリアとはお似合いの美男美女だっただろう。こんな王子に甘い言葉をかけられたら、世間知らずの少女など、あっという間に恋に落ちてしまいそうだ。
ヴィオレッタがぼんやり立ち尽くしていると、後ろのほうから話し声が聞こえてきた。
「え? それじゃあの噂、本当なのかい。グレーンの若様が、この大聖堂で結婚式を挙げるって」
「ああ、本当らしいよ。今まで王族にしか許可されていなかったのに、国王様はよっぽどの肝入りなのかねえ」
振り返ると、掃除道具を抱えた老婦人と、ロウソク用の灯りを手にした男が立ち話をしている。この大聖堂の管理をしている人々らしい。
「やれやれ、それじゃこれから準備しろって言われるわけだね。まったく、ここは古いだけで墓だらけだってのに。こんなところで結婚式なんて」
「国王様が再婚された時に作らせた、新しい礼拝堂が中庭のほうにあるじゃない。あそこでしょ、使うなら。」
二人は話しながら立ち去っていく。偶然ではあったが、これで当初の目的の一つ、"グレース家の動きを探る"の一部は、果たせたことになる。
(グレーンて人、結婚するんだ。…ここで)
ヴィオレッタは、大聖堂の中を見回した。古くて歴史ある重厚な建物ではあるけれど、墓が多いせいで薄暗く、それに、どこか陰気な雰囲気が漂っている。確かに、ここで結婚式というのは気乗りがしない。
さっきの二人は、奥に礼拝堂がある、と言っていた。
そこも見てみたかったのだが、奥の中庭へ通じる通路は立ち入り禁止になっていて、少ししか覗けなかった。どうやら、その中庭というのは直接、王宮まで繋がっているらしい。
「んー、礼拝堂、見えないなあ…」
「こらこら、お嬢さん。柵を乗り越えないで。」
ヴィオレッタが立ち入り禁止の柵の向こうをなんとか伺えないかぴょんぴょん飛び跳ねていると、見回りの兵士がやってきた。
「あっ、す、すいません」
慌てて謝りながらも、彼女は、しめたと思っていた。今なら、無邪気な観光客のふりをして探りを入れられるかもしれない。
「何か、この奥の礼拝堂で近々大きな結婚式があるって聞いたんです。どんなところかちょっと見てみたくて…」
「ああ、グレーン卿の結婚式か。礼拝堂は一般人は立ち入り禁止だ。見学は出来ないよ」
「残念…。でも、きっと素敵な礼拝堂なんでしようね。その人って王族とかなんですか? お相手は? いいなー、花嫁さん見てみたいなあ」
「王族ではないが、執政補佐官どのだ。相手は名門の出のご令嬢だよ。結婚式は半月後だが、その時にはお披露目があるだろう。もし、その頃にまだ街にいるなら、見てみるといい」
「半月後かあ~。帰り道でまた寄れるといいな。ありがとうございました!」
兵士にぺこりと頭を下げ、ヴィオレッタは、軽い足取りで見学の道のほうに戻って行った。
それから、誰も見ていないところでふうっと大きな息をついて、汗を拭った。
(はあ…、慣れないことするもんじゃないなあ)
ヴァイスはよくも毎回毎回、取り繕った態度でうまく情報を聞き出せるものだ。今さらのように感心してしまう。
それにしても、半月後、とは。
ずいぶん急いで挙式しようとしているような雰囲気だ。今でなければならない理由でもあるのだろうか。
ここまでは情報集めは巧くいった。
けれど、その先が至難の業だった。もう一つの目的、リギアス連合国に関する情報は、どこへ行けば聞き出せるのかも分からなかったのだ。街の人々の噂に隣国の話は滅多に出てこないし、この街には斡旋所もない。それに、人に聞こうにも、無邪気な観光客にしか見えない女の子が、いきなり政治の話をしはじめるような怪しい真似は出来なかった。
結局、残りの時間は街をぶらぶらして、本当に観光だけで終わってしまった。
夕方になり、約束の時間に、約束の場所――宿の部屋に戻ってみると、ヴァイスは、先に戻ってきて、夕食用のパンや食材をテーブルの上に並べているところだった。
「戻ったか。どうだった」
「えっと、少しだけ。グレーン家の若様、って人が半月後に結婚式を挙げようとしているらしいです。大聖堂の裏にある礼拝堂で」
「そうか。」
ヴァイスの反応からして、彼にとっては初耳ではなさそうだった。きっと、外で同じ情報に行き当たったのだろう、とヴィオレッタは思った。
「…それだけなんです。すいません、あまりお役に立てななくて。」
「いや。十分役に立ってるよ。あんたに調べがつくくらいなんだから、その話はこの街じゃ大っぴらに噂されてる有名な話なんだろう、ってな」
彼は、そう言ってちょっと首をすくめた。
「まさか、ド素人に本気で聞き込みして来いなんざ言わんよ。普通に街を出歩いて耳に入る程度の話なのかどうか、それが分かるだけでも収穫だ」
「はあ…。」
「ということは、やはりリギアス連合国からの四か国離脱については、あまり噂になっていなかった、…って、ことか」
窓枠に腰を下ろし、時々カーテンの隙間から外を伺いながら、彼は低い声で続ける。
「オレのほうでも今日一日、色々と調べて回ったんだが、どうやら、リギアスから四か国が離脱した話は、まだほとんど流れて来ていない。しかもアイギスからリギアスに使者が送られていた話は、極秘事項に当たるらしい。知っている者はほぼ居ない。正確には、"勘づいている"程度の者が少数だ。――アイギスからの正式な使者である以上、国王陛下が関わってることは間違いなさそうなんだが、あまり大っぴらに出来ない疚しいところのある交渉をしていたらしいな。」
「どういうことですか?」
「つまりは、"密約"ってやつだ。リギアスから抜けて何かするかわりに、アイギスはその四か国に融通を計る、とか。もしくは攻め込まないとする不戦協定か。オレの勘では、アイギスがこれからリギアスに戦争を仕掛けるとしても、この四か国は素通りするという約束だったんじゃないかと思ってる」
「――アイギスが、リギアスに攻め込む…?」
「しっ」
ヴァイスは口元に指を当て、辺りの様子を伸張に伺う。「あくまで今は、推測だ。何も証拠はない」
「でも、どうしてそんなことを…」
「ハイモニアの栄光が忘れられんのだろう。今の国王陛下に限らず、代々のアイギスの王や名門貴族たちは、大抵そうだった。他国は裏切り者か蛮族…信用ならないと思っている。だからこそ、この国では"忠誠"という宗教が流行ってる。傭兵を雇わず、斡旋所の窓口を置かないのもそのためだ」
「それじゃあ、
「そうだ。お互いに争って他の三勢力が大きく疲弊している今、たとえアイギスが思い切った軍事行動に出たところで、止められる国はない。しかもおそらく、この国には、…正確には、ジークヴァルトの領内には、他国に流したのと比べ物にならない量の
「……。」
ヴィオレッタは、ぞっとして思わず両手で自分の身体を抱いた。
「ハイモニアと同じ…大陸全体を巻き込む大きな戦争になる…ってこと、ですか」
「可能性はある。だが、おそらくそう巧くはいかないだろう。フィロータリアが、ジークヴァルトのいいように動きつづけるはずがない。ジークヴァルトは、かつてのリチャードと同じだ。フィロータリアを恋人として利用するだけ利用して、自分は政略結婚しようとしているわけだからな。…国王陛下もそうだ。あの女の存在を知っていたら、実の弟を…ルートヴィッヒ様を殺した相手の言葉に耳を傾けるはずがない」
後半は、彼自身がそう信じたいと願っているようにも感じられた。そうでなければ国王は、弟を殺した犯人を、そうと知りながら国内に匿うことを許したことになってしまう。
「…そうだ、ジークヴァルトの結婚相手を聞いたか?」
「え? いえ」
「その相手は、オレの妻、エリーズだ」
ヴィオレッタは、思わずぽかんとした顔になった。
「え…?」
「あいつは、オレとエリーズが"別れた"ことにして、彼女と結婚するつもりなんだ。」
「そんな…助けなきゃ!」
「本人がそう言えばな」
ヴァイスは、意外なほど冷静だった。
「あいつは、手に手を取って逃げ出そうなんて、そんなことを言い出す奴じゃねぇ。自分だけ幸せになれれば、残された家族が糾弾されてもいいなんてことは絶対に考え無え。いつだって正攻法で、誰もに認めさせる方法で正々堂々とやるんだ。胸を張って、前を向いて生きられるように。
だから、あんたには別件でエリーズに会って来て欲しい。頼みたいのは、王宮への侵入方法の手引きだ」
「…ヴァイスさん」
「この件はどうしても、国王陛下に直接、話さなきゃならない。…だが、騎士団を追われた今のオレでは、陛下に面会できる方法が無い。エリーズなら…エリーズの姉上は、王妃なんだ。…彼女のツテなら、何とかして取り継げるはずだ」
感情が追い付かない。ヴァイスは静かに、落ち着いた声で語ってくれているのに、その内容は単に耳を通り過ぎていくだけだ。
なぜ彼はこんなに――いくら妻を信じていられるとはいえ。
「いいんですか? 私なんかより、ヴァイスさん自身が…」
「いいんだ」
語気を強め、男は、真っすぐにヴィオレッタを見つめた。
「頼む。ヴィオレッタ」
「…分かりました」
頷くしか、なかった。
それにこれは、ヴァイスからの初めての「頼み事」だ。いつも何でも一人でやってきた、この男からの。
「エリーズは今、実家のディアルワイズ家の屋敷にいる。昼間確かめておいた…まずメシを食って腹ごしらえだ。とれるようなら仮眠をとっておけ。夜が遅くなってから案内する」
「……。」
それきり、夜を待つ間、ヴァイスはほとんど口を利かず、手紙を書いたり、屋敷の見取り図を作ったりして忙しく過ごしていた。
ヴィオレッタも、少し仮眠をとったくらいで、あとは黙って窓から街を眺めていた。
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