第十章 白き獣との邂逅(4)
夜が明けた。
辺り一面、焼野原と破壊しつくされた跡だ。逃げ遅れて巻き込まれた負傷者も多数。特に被害が大きかったのはアルアドラスの陣だが、それは、引火した油壺の爆発に多くの仮ごしらえの建物や兵たちが巻き込まれたせいだった。両脇に、少し離れたところに陣を構えていたワイト家とカルマン家の陣も被害は少ないとはいえず、あちこちに、半壊したテントや燃えてしまった物資が黒々とした残骸を晒していた。
「ルイ殿は行方不明、生存は絶望的です」
すんでのところでヴィオレッタに連れ出されて無事だったセレーンは、逃げる時に頬に負った切り傷をそのままに、淡々とした口調で語る。
「昨夜の大火は、ティバイス側からも見えていたようで、今朝、斥侯が様子見に来ました。ご親切にも、困っているなら手を貸そうとまで言ってくれましたよ。…有難いことですが」
小さくため息をつき、彼女は、ちらりとアルアドラスの陣のほうに視線を向けた。
「…こんなことなって言うのもあれですが、お陰で、和平交渉は再開できそうです。障害は無くなりましたから。」
「成程。それで、今朝からセドリック殿の姿が見えないわけですね」
ヴァイスも、いつになく大人しい口調だ。一部で状況は好転したものの、別の大きな問題を抱えてしまった。
エヴァンジェリンに託された道具を使っても、フィロータリアの足止めすら出来なかったという現実。
「説明してくれますか? ヴァイス。昨夜の火事、義父には
「れっきとした
「それじゃ、貴方たちが追っていた女というのが、あの獣なの?」
「そうなります。十年前、オレの主と仲間たちを殺し、ティバイスの首長を暗殺し…ここリギアスでは、ルイ殿を焚き付けて、
最早、隠していることも出来なかった。それに、隠す意味もない。察しの良いエレーンなら、話さなくてもある程度は勘づいてしまうはずだった。
セレーンは驚いた顔になりつつも、目の前の男の、包帯の巻かれた両腕を見下ろした。幸いにして骨は無事だったが、あちこち火傷や打撲を負い、額の傷は数針縫われている。彼がここまでボロボロになっている姿を見るのは、彼女にとっても初めてだった。
「貴方ほどの傭兵でも止められないなんてね…。」
「……。」
ヴィオレッタは側で、暗い面持ちで俯いたまま、セレーンの声を聞いていた。
手ごたえは十分だったのだ。電撃を撃ち込み、確かに一時的には"不滅の聖杯"の効力を停止させられた。けれど、それだけでは足りなかった。
もっと自分がうまく立ちまわれていれば、ヴァイスがもっと深くまで攻撃する時間を稼げただろうか。
それとも、危険を冒してでも獣へと変化している最中にもう一度、電撃を撃ち込むべきだったのだろうか。
「とにかく、今回は完敗だ。お嬢様を守れたことだけは唯一の救いだが、これからどうするかは早急に考える必要がある。あいつを、このまま野放しにはしておけないからな」
「そうでしょうね。アテはあるの?」
「…ええ。…アイギスです」
「アイギス?」
男は、小さく頷いた。
「あの女は、どこでも若い権力者の男の側にいる。ティバイスではアイム領の領主ハリール、リギアスではアルアドラス家のルイ、――アイギスでは、おそらく執政補佐官のジークヴァルト・グレースに"寄生"しているはずだ」
「そういえば、トラキアスでは誰にも…誰とも組んでいなったわ」
と、ヴィオレッタ。
「もしかして、イーリスに近すぎるから?」
「かもしれんな。エヴァンジェリンは、あいつにとって天敵とも言うべき存在なんだろう。勘づかれずに十年も潜伏していられたのは、斡旋所の少ないアイギスを中心に行動していたからだ。ま、オレにとっちゃ灯台もと暗しとしか言いようがない」
「でもどうして、若い男なの」
「愛が欲しい、だそうだ。誰も本当の意味で自分を愛してはくれない、と言っていた…あれは本当の気持ちだろう。まるで駄々っ子のような物言いだったがな。姉上への愛憎入り混じる感情も、反抗期のような復讐のやり方も、構ってほしい気持ちの裏返しなんだろう」
「はた迷惑」
ぽそりと、セレーンが言った。
「愛なんて、欲しいと思って自由に得られるものじゃないわ。家族の間でさえもね。ましてや男女の間なら尚更よ」
「た、確かにそうですけど…」
ヴィオレッタは、苦笑するしかない。
「まあ、しかし、ジークヴァルトに寄生しても、結局は報われないだろうな。頭のキレるあいつが、得体のしれない女に本気で惚れることは在り得ん。大方、
「急いだほうが、いいですよね」
「ああ。」
頷いて、ヴァイスはセレーンのほうに向き直った。
「そういうわけです、お嬢様。戦闘も停止しましたし、これで、我々の"護衛"の任務も終了です。…と、いうことにしていただけませんか」
「待って。その怪我で出発する気? もう何日か養生してからでもいいでしょう。それに報酬は? 契約書まで作ったんだから、きっちり支払うわよ」
「斡旋所の銀行振込で構いませんよ。口座の番号は昔と変わってません。――それに、これは、十年来追って来た、オレの、かつての主君の"仇"の話でもあるんです」
「あ、…」
セレーンは、事情を理解して言葉を飲み込んだ。
「…そう。それじゃあ、引き留めるわけにもいかない、わね。分かったわ。でも、忘れないで。あなたにだって、故郷に帰りを待つ人がいるはずなんだから」
「ええ。忘れていませんよ」
立ちあがって、彼はいつもの如く、微笑みと、優雅な一礼をもって背を向けた。
ヴィオレッタも、ぺこりと一つお辞儀をして後に続く。
ワイト家の陣内は、どこかほっとした空気が漂っている。
先の見えない泥沼のような交戦状態から一転、講和が再開されようというのだ。手の付けようもないアルアドラス領の領主が生死不明となり、脱走すれば死をもって償わされるという恐ろしい軍からは昨夜のうちに逃亡者が相次いで、陣にはほとんど人影すら残っていない。新領主が決まるのがいつになるか、誰が後釜に座るかはまだ分からないが、少なくとも、以前よりは話せる相手が就けられるはずだった。
「どけ、どけ!」
人波を蹴散らすようにして、何やら尋常ではない勢いの馬が駆けこんできたのは、ちょうど、セレーンのいる仮設の兵舎を出たところだった。
伝令の印をつけて、何やら必死で拍車をかけている。リギアスの、中央議会の印をつけている。ヴァイスたちは道を譲り、何事だろうとしばらく成り行きを見守った。
「失礼します、ワイト家のご領主代理殿はこちらですか?!」
「義父は出掛けておりますが、私が承ります。」
セレーンが出迎えると、使者は、息せき切ったように一気にまくし立てた。
「中央議会、ならびに連合国代表ラフェンディ家当主殿からのご伝言です。アイギス聖王国と境界を接する北部四か国が連合国を離脱いたしました!」
「…え?」
「連合からの離脱だと」
思わず、ヴァイスも口を挟む。
「在り得ん。あの辺りは元々、アイギスの伸張を一番、警戒していた土地柄のはずだ。連合国に所属していたのも、アイギスから攻め込まれた時の保険のためだろうに」
「そうです。何故、こんな時に?」
「は…詳しくは、こちらの書簡を」
使者は汗だくのまま、ふところに大事に抱え持っていた、蜜蝋で封をした書簡をセレーンに手渡した。彼女は急いで小刀で蜜蝋を引きはがし、中身に目を走らせる。
「…賠償金の負担は出来ない? そんな理由なの…?」
「成程。これから講和が始まり、アルアドラスだけで支払えない額で話がまとまれば、連合国に参加する各領地へ負担が分散される。それが嫌だということか」
「でも、大した額ではないはずでしょう。数千マルクだとして一領地あたりせいぜい数百…」
「額は領地の財力に従って分散される。交易でもうけている北方四か国なら最大で五百近くになるところもあるのでは? とはいえ、おそらくその理由づけは言い訳だ。本当の理由は別にある」
ヴァイスは悔しそうに、口元を歪めた。
「…使者が出入りしてると聞いた時に、もう少し疑っておくべきだったな。戦争を仕掛けずとも離間工作さえ巧く行けば敵勢は削げる、か。ジークヴァルトらしいキレるやり方だ」
「そのジークヴァルトって人は、貴方の仇を囲っているはずの人よね」
「ええ。どうやら、一筋縄ではいかないようです。国へ戻ります。…何とかして、国王陛下に謁見を願わなくては。」
改めて一礼すると、彼は、自分の馬に向かった。
おそらく、最初から機を狙って離間工作を仕掛けるつもりだったのだ。
リギアス連合国は二十ほどの小国の集まりだが、その実態には大きな差がある。特に豊かな国がまとめて離脱してしまえば、財力は大きく落ち込み、これから始まる講和交渉での賠償金の話も左右するだろう。それに、国防という意味でも傭兵を雇えなくなっている今、リギアスの戦力は大きく削がれている。
北のトラキアス王国も、西の草原の国ティバイス首長国も、南のリギアス連合国も――それぞれが疲弊し、力を失っている。アイギスとの国境はがら空きだろう。もし攻撃を仕掛けるなら、今なら、どの国境でも難なく破ることが出来る。
或いは、一気に中枢まで攻め上ることさえも。
馬を走らせながら、ヴァイスが呟く。
「フィロータリアは"七里跳びの靴"を持っていた。おそらく今ごろはもうアイギスに入っているだろうな」
「ええ、でも、昨日の電撃の杖…それにヴァイスさんの攻撃も、途中までですが通っていましたよね? 本当に、そんなに動けるんでしょうか」
「わからんな。いくら"不滅の聖杯"でも、
彼は、懐に隠した短剣に、服の上から触れた。理性を無くしたフィロータリアが、これを壊していくことまで思いつかなかったのは、不幸中の幸いだ。
「…今回はオレにも、少しは迷いがあった。次はもっと深く、何度か…刺す」
「……。」
「機会があるならば、次で最後だ。三度目は無い」
まるで自分に言い聞かせているような言葉だと、ヴィオレッタは思った。
けれど迷いがあったのは、自分も同じ。
エヴァンジェリンと全く同じ姿、少女のようなか細い腕と無邪気な声に、どうしても、敵だという認識が出来なかった。
けれど彼女が獣になることを目の当たりにし、その後、多大な被害を及ぼすのを見て、あれは常識では計れないものなのだとようやく理解した。
止めなければ、多くの災いを生み出すもの。
殺さなければ、際限なく奪い続けるもの。
実の妹を殺害するという苦渋の決断をせざるを得なかったエヴァンジェリンの気持ちも、今なら分かるのだ。彼女も両親も、それ以外の選択肢を模索はしたに違いない。けれどその結果、国も家族も、未来もすべてが失われた。
殺す以外にどうしようもないと悟ったのだ。
禁忌を冒して生み出してしまった怪物は、処分されなければならなかった。
アイギスとの国境を目指してひた走る馬の頭上で、夏の太陽が高く輝いて、足元に小さな影を落とす。
一体どうすれば、フィロータリアを止められるのか。答えのない問いかけを胸に抱く馬上の二人の行く手には、迷い一つない青い空が広がっていた。
* * * * *
ヴァイスたちが立ち去ってから数日後、ヴィルヘルムは、兄とともにリギアスへの国境を越えていた。
焼け焦げた草原がまだ生々しい跡を残す中、前回同様に今回も天幕が張られ、ティバイス首長国とリギアス連合国、双方の代表者が出席している。リギアス側はワイト家の当主代理セドリックと、数年後には当主を継ぐ予定のセレーン。さらに今回は、中央議会の代理人も同席している。ティバイス側はザール領の領主ハインツと弟のヴィルヘルム、それにマイアス領の領主ヘイワーズ。半数は顔見知り同士、今回こそは話をまとめるつもりで挑んでいる。
最初に口を開いたのは、リギアスの中央議会の代理人だ。使者とともに半日前に到着したばかりの女騎士で、きびきびとした口調で話を始める。
「はじめまして。わたしは中央議会より全権を預かって参りました、交渉役のライラ・ミランです。どうぞ宜しく」
同席者たちと握手をかわしたあと、彼女は、ティバイス側の三名を見回した。
「まずは当連合に所属するアルアドラスの卑劣な交戦手段と、非人道的な戦闘について謝罪いたします。お聞き及びのとおり、ルイ・ド・アルアドラスは現在も生死不明ですが、生存は絶望視されています。また中央議会も、彼については行き過ぎた行為を認めており、この講和においても、当方からの賠償金を持ってとりまとめるつもりがあります」
ヘイワーズがまた余計なことを言いそうな気配があったので、ハインツは、先手を取って口を開く。
「前回は、アルアドラス単体での賠償額として千マルクが提示されております。しかしながらその後の戦闘継続で、当方が受けた被害はかなり拡大しております」
「存じております。しかしながら当方でも、アルアドラス領主自身が死亡と見なされており、また連合内では北方四か国が離脱するという連合結成以来の事態に見舞われております。内々の問題とはいえ、金額面ではご容赦いただきたい部分がございます。」
「そちらのご事情は理解した。こちらとしても、トラキアスとの件があり、早急に手を打ちたい。兵たちへの手当は当方で負担しましょう。ただし、戦死者の遺族への見舞金はそちらでご用意いただきたいのです。…マイアスの前領主殿の分も含めて」
「勿論、そのつもりです」
話は、ヘイワーズが口を開く暇などないほど順調に、素早く進められていく。
実を言えば、この席で話し合うことはもう無いのだった。講和内容は、面倒な若者のいないところで摺り合わされ、顔を合わせる前には合意されていた。既に決まった内容を形式だけ喋り、たとえヘイワーズが異を唱えるとしても勢いで押し切るという作戦だった。
実際、少しぼんやりしたところのあるヘイワーズは、話の速さについていけずオロオロしているばかりだ。
「では、賠償額は三千八百マルクということで。来月以降、四回での分割。一回目はマイアス領、二回目はザール領、三回目は…」
「こちらに協定書をしたためてまいりました。ここにいる全員の署名を。」
ペンを握らされたヘイワーズは、目を白黒させながらも反射的に自分の名前を書き込む。
ヴィルヘルムはほっと胸を撫でおろした。
この聞き分けのない未熟者があとから何やらごねたとしても、自ら署名した書類がある限りは、その書類に従って戦後処理は進められれる。三千八百マルクを四分割で九百五十マルク。前回の、単独で千マルク受け取れる条件より額が減っていることに気づくのは、いつになることやら。
署名した紙をそれぞれの代表者が手に、握手を交わしての別れ際、セレーンは、ヴィルヘルムに声をかけた。
「ヴィルヘルムさん、このあと少し宜しいかしら」
「うん?」
「個人的なお話があるの。もう、貴方くらいにしか頼めなくて」
ヴィルヘルムは、兄のハインツが交渉役のライラと握手して、何やら雑談をしているのを見やった。少しくらいなら、話をする時間はありそうだ。
「構わんが、何だ」
「戦争はこれで終わりでしょう。そうしたら、少し手が空いたりはしないかしら」
少女はちらちらと父のほうを気にしながら、小声で素早く囁く。
「仕事を頼みたいのよ。斡旋所には依頼を出せないし、とても難しい依頼だから。…今回の戦いを扇動して今回の事態を引き起こしたある人物を、お世話になった傭兵が追っているの。その人を助けられないかと思って」
「ほう…?」
「とても強い傭兵で、今回は仲間もいたの。それでもかなわなかった。とても強力な
ヴィルヘルムは、しばし考え込んだ。
「ふむ。事務的な話は兄がやる。わしのほうは、…まあ、手を開けようと思えば開けられなくもないが」
「お願いよ、ヴィルヘルム。彼を死なせたくないし、その相手はあまりに危険だわ。リューベン叔父様は、…私の目の前で、…その人に殺されたわ」
「分かった。詳しい話は、あとで聞かせてくれ。ひとまずは、兵たちを家に帰してやらにゃならん」
「急いでね」
セドリックに促されて立ち去りながら、少女は、真剣な眼差しを向けて、言葉に力を込めた。「あの人がいる限り、またどこかで戦火が起きるわ。きっと」
「……。」
何かひっかかるものがあった。胸の奥でざわめく予感のようなもの。
「セレーン、その傭兵の名は」
「ヴァイスよ。」
ヴィルヘルムの中で、何かがかちりと音を立てて嵌った。
かつて、トラキアスとの戦線で、ハリールの連れていた
あの暗殺事件のあと、ヴァイスと連れの傭兵はいつの間にか契約を修了して姿を消してしまった。それきり、別の戦場でも出くわすことは無かったのだが。
「成程。」
ヴィルヘルムは、歯をむき出して笑った。
「出来るだけ急いで、戻って来るとしよう。」
首長の暗殺犯はまだ捕まっておらず、ハリールの持ち込んだ
けれどもしかしたら、それらの謎は根底で繋がっているかもしれないのだ。
こうして、ヴィルヘルムは傭兵としてセレーンから情報を受け取り、遅れること五日ほどで、ヴァイスたちを追ってアイギスへと向かうことになる。
そしてその頃、アイギスでは、グレーン公爵家がある動きを起こしつつあった。
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