第十章 白き獣との邂逅(3)
雨の中、兵の隊列を追い越して最前線まで辿り着いた時にはもう、日も暮れる時間になっていた。
にわか雨は上がりかけていたものの、戦場には、雷鳴とは違う重々しい轟音が響き渡っている。正体はすぐに分かった。投石機から油樽が投げ込まれ、間髪入れずに火矢を撃ち込んでいるからだ。国境線の向こうでは、ティバイス側の見張り台や幕屋が火の手をあげている。
セレーンは、馬上で唖然としていた。思い描いていた戦場とは、あまりに違う光景だったからだ。
「何なの、これは? どういうことなの――誰か、父様のいる場所を知っている?」
近くにいた兵がセレーンに気づき、慌てて敬礼する。
「は。領主代理殿はあちらの仮宿舎に戻られております。」
「ありがとう。行ってみるわ」
後ろの護衛役の二人のほうにちらと視線をやってから、彼女は、自領の兵たちの間にゆっくりと馬を駆けさせていく。
一目見て、酷い有様だということは分かった。
そこかしこに怪我人が寝かされ、野戦病院と化している。それに荒れ果てた草原に、回収も追い付かず放置されたままになっている亡骸や、散らばっている武器、防具。何度も戦場に出たことのあるヴァイスでも、ここまでの惨状は初めて見る。
(後先考えて無ぇ奴の戦い方だ、これは…。獣の喧嘩でも、こうはならん。)
戦場に油樽を投げ込んでいるのは、アルアドラス家の兵たちのようだ。こんな開けた平原で、しかも国境に沿って並べられた仮ごしらえの陣地など、わざわざ焼き討ちなどする意味もない。よほどの恨みを込めて、相手を徹底的にやっつけようというのか、それともただ、派手で面白いからか。アルアドラス家の現在の当主ルイについて知っていることはそう多くはなかったが、ここまで残忍なやり方をするようには思えなかったのだが。
仮宿舎は、領内で取れた木材を柱として組み合わせ、屋根を防水布でふいた、簡素な造りになっていた。
ワイト家の領主代理として兵たちを取りまとめていたセドリックは、娘のセレーンが突然、その宿舎の入り口に現れたのを見て、驚いた。
「セレーン! 一体どうして、ここに」
「視察です。ご安心を、護衛は雇ってまいりましたから」
少女の後ろから現れたヴァイスを見て、男はかすかに眉を寄せたが、すぐに思い直したように表情を和らげる。
「…そうか。君なら、腕は確かだな。斡旋所に依頼が出せなくなっているというのに、わざわざ雇われに来てくれたのか」
「ええ、昔のご縁もありますしね。しかし、苦戦しているという噂のわりにずいぶん余裕そうです」
彼は、轟音の響いてくるほうにちらと視線を向けた。「既に国境の向こうまで侵入しているようですね。」
「いや。優勢なのは、形の上だけだ」
セドリックは、苦々しい顔をして言った。
「向こうは追加の傭兵を雇えるが、こちらはその手がもはや使えない。怪我人の代わりに、戦場に出たこともない領民まだで駆り出して何とか持ちこたえている状態だ。それに、あのルイめ――作戦というものをことごとく無視して足並みを揃えようともしない。戦線を押し上げすぎるなと言っているのに、今日もこのざまだ」
「ルイ殿は一体どうしてしまったんでしょうか」
「分からん。どうしたいのかもだ。せっかくの和平交渉の席さえぶちこわして、カルマン家のカーター殿も呆れ果てておられる。ああ、一体どうしたものか」
セレーンの目が、きらりと光った。
「では、私が行って少し話をしてみます。」
「お前が?」
「昔、求婚された仲ですし、会うくらいは会って下さるのでは?」
少女はにこやかに続ける。
「まあ、そのお話は断固拒否しましたし、今もその思いは揺るぎませんが。」
「護衛なら、我々がついています」
と、少し驚きながらもヴァイスも話を合わせる。「お嬢様に説得していただくのも一つの手かと。…このままでは、戦闘に勝って戦争には負ける状態になりかねません」
「戦争、か。…」
セドリックの表情は暗い。
「確かに、既に紛争や小競り合いの域は越えてしまった。たった十日でだ。どうして、こうなってしまったのだろうな」
「父様。今は愚痴を言ってる場合ではありません。」
ぴしゃりと言って、セレーンはヴァイスたちのほうに向きなおった。
「さすがに、日が暮れてからなら戦闘は出来ません。ルイ殿も自陣に戻られているでしょう。というわけで、私はこれから会いに行ってみます。同行して頂戴」
「仰せのままに、お嬢様。」
うやうやしく手を胸に当てて一礼すると、ヴァイスは、セドリックのほうを見やった。
「旦那様も、宜しいでしょうか」
「…ああ。説得に応じるとは思えんが、様子だけでも見て来て欲しいのだ。ここのところ、小言を言われるのが嫌だと会ってもくれない」
「まるで子供の駄々のですね。」
「そうなのだ。こちらとしてももう――。」
溜息をついてから、ふと、セドリックは何かを思い出したようだった。
「そうだ。そういえば、リューベンがアルアドラスの兵として参戦しているという話を聞いた。あいつのことについても、探りを入れて貰えないか」
「叔父様が? どうして、そんなことに」
「わからん。和平交渉の時にヴィルヘルム殿から聞いたのだが、
セレーンは、はっとした表情になり、それから、厳しい顔で唇を結んだ。
「ヴィルヘルムさんも、戦場に来ているんですね…。」
かつて親しくしたことのある知り合いが、敵として戦場に立つ。在り得ないことではないとは思っていたが、まさか本当に、あれからたった数カ月でこんなことになってしまうとは。
「では、叔父様の件を口実にして面会を求めてみましょう。行って参ります」
疲れ知らずの少女は、義父に一礼すると、護衛のヴァイスたちを連れて仮宿舎を出た。
後ろをついて歩きながら、ヴィオレッタは最後尾でフードで顔を隠し、周囲を警戒しながら歩いていた。今のところ、フィロータリアらしき怪しい人物はおらず、ワイト家の兵たちの中に
「しかし驚きました。アルアドラスの当主どのから求婚されたことがあったとは」
「二年ほど前にね。評判は知っていたし、私は家を継ぐのだから在り得ないと丁重にお断りしたわ。それがなくたって、あの男を選ぶことは無かったでしょうけれど」
「そんなにダメな方なんですか」
そろりと、ヴィオレッタが口を挟む。
「ええ。見てくれと財産はともかく、中身は思いあがったお子様よ。前領主様も手を焼いていらしたわ。年の離れた弟がいて、その子が成人するまで待てればよかったのだけれど…。私の母と同じで、その求婚の頃に急逝されてしまったの」
目指すアルアドラス家の陣営は、すぐ隣にある。セレーンたちは、馬を置いて徒歩で向かっていた。もう辺りはほとんど真っ暗で、各陣にはかがり火が焚かれるようになっていたが、轟音のほうはまだ続いている。
「…正気なのかしら? まさか、こんな時間になってもまだ、やっているなんて」
大股に歩きながらセレーンが、微かに苛立ったように呟く。
「正気なら、そもそもこんな戦争は始めないでしょう。しかし妙です。ルイ殿は尊大な方ではあったが、ここまでやんちゃの過ぎる方ではなかったように記憶しています。最近、何か心境の変化でも?」
「わからないわ。求婚話を断ってから一度も会っていないから。ただ…領主を継いでから、以前にも増して思いあがった態度をとるようになったとは聞いている。…そろそろ向こうの陣に入るわ。おしゃべりはここまでね」
陣の境界を越えると、とたんに、雰囲気が変わった。
どこか気だるいような、たるんだ気配と奇妙な陽気さ。アルアドラスの兵を呼び止め、本陣の位置を聞くと、兵はへらへらと笑いながら、セレーンを頭の先から眺め周した。
「旦那様ならそこの高台にある赤いテントにいるよ、ワイトのお嬢様。どうぞたっぷりお楽しみを。へへっ…」
「…?」
嫌な感じの笑みだ。
怪訝な顔をしながらも、言われたテントに向かったセレーンは、入り口を空けて数秒でその理由を知ることになる。
「きゃ…」
「ちょ、何なのこれは!」
女性二人が同時に声を上げ、手で顔を覆い、顔を逸らした。
大きなテントの中には絨毯が敷かれ、肌を露出させた若い女性たちが何人もたむろしている。酒の匂い。そして、薄い夜着をまとっているだけで、ほとんど半裸の若い男が一人、威勢よく、手にした采配杖を振り回している。
「撃てーっ! アハハッ、命中したぞ! 燃えた燃えた! ハハッ」
見晴らしのよいテントの窓からは、油樽の撃ち込まれた平原のあちこちで火の手が上がるのが見えている。日が暮れて通常なら戦闘は一時停止される時間だ。それを見計らって味方の遺体を回収に来たティバイスの兵たちが、樽の標的となっている。
顔を真っ赤にしながらも、セレーンは、女性たちの上げる嬌声に負けないよう声を張り上げた。
「ルイ殿! セレーン・ワイトです。お話があるの、今すぐこの馬鹿げた饗宴を止めて頂戴!」
「ううん?」
酒の入った杯を手に、若者がとろんとした目を少女に向ける。
「なんだ、セレーンか。君もこっちへ来て楽しんだらどうだぁ? へっ…へへへ…」
「呆れたこと。そんな酔っ払いの状態で、今までよく軍の指揮がとれていたものね。ご自分が何をしてるのかお分かり? あなたがティバイスに戦争を仕掛けて、あなたが講和の芽を潰したんですよ。そのせいで近隣の、私たちワイト家やカルマン家の兵が傷ついているのです。」
「文句があるなら兵を退けばいいじゃあないか。せっかく勝ち馬に乗らせてやろうとしているのに。」
「な、…」
ヴァイスが止めに入る間もなく、セレーンは怒り心頭といった表情でテントの中に踏み込んでいく。
「勝ち馬ですって? 一体、何をもって勝利なのですか。たったこれだけの兵で、ティバイスを滅ぼしでもするつもり? ――いくら北の、トラキアスとの戦線に人手を取られているからと言って、そんなことは不可能よ。」
「さすがにそこまでは言わないさ。ただ、連中が泣き面提げて講和させてくださいと言って来たら、それで勝ちだろう?」
「そんな子供みたいな――そんなことのために、あなたは…」
「お嬢様」
横から、ヴァイスが小声で口を挟む。「ここへ来た目的をお忘れなく」
「…分かっているわ。そうね、その話は置いておきましょう。ここにリューベン叔父様がいるはずだと聞いたのよ。どこにいるの?」
「ああ、お宅の勇ましい叔父様ね。そのへんで怪我の療養でもしてるだろ。初戦でボコされた上に、貸してやった貴重な
「その
「さあ? それは商売上の秘密ってやつさ。教えられないな」
いかにも面倒くさそうな顔で言って、ルイは、采配杖をぽいと床に放り投げた。
「はーあ、興覚めだな。今日はここまでか。よーし、それじゃ皆、メシでも食いに行こうか」
「キャーッ」
半裸の女性たちが歓声を上げ、ルイのあとに付き従う。甘ったるい香水の匂いが流れて行く。
セレーンは追いかけようともせず、渋い顔のまま、それを見送っていた。
「あれは…話をするだけ無駄ね」
テントを出たところで、彼女はそう断言した。
「思っていたより酷いですね。酒と女、それに暴力。どれも自堕落なものにはこの上ない快感になるでしょう。他にまともに話をできる者を探したほうがよさそうだ」
「リューベン叔父様を探しましょう。義父の弟なの。とても褒められた人ではないけれど、まだ少しは理性があるほうだから」
既に、辺りは暗がりの中だ。戦場に燃えていた火もあらかた消し止められ、草原には、不気味な沈黙が落ちている。
「…ここ、確かに
ヴィオレッタが、小さく呟いた。
「ほとんどが杖。でも、扱いの難しいものがどうして、こんなに…」
「事故で使用者が傷つくことを考えなきゃあ、幾らでも大量配布出来るってことだろう。ほら、あれを見ろ」
ヴァイスの指した辺りには、右半身に重い火傷を負って、医者の手当を受けている兵がある。右手を中心に肩から前髪まで焦げているところからして、火の杖をうまく扱えずに自分ごと燃やしてしまった事故と思われた。
「ひどいですね…。敵も味方も、人間だと思っていないみたい」
「まったくだな。よくこれで逃亡者が出な…おっ」
ビクビクしながらこちらを伺っていた中年男と、ふと、目が合った。右手を包帯でぐるぐる巻きにして釣り、顔にガーゼを張り付けている。
「ひっ」
男は慌てて逃げようとするが、それより早く、セレーンがその存在に気が付いた。
「待ちなさい、叔父様! …ヴァイス、捕まえて!」
「かしこまりましたよ、お嬢様」
素早く飛び足したヴァイスが、見かけによらずすばしこく逃げようとする男を後ろから羽交い絞めにして確保する。
「い、痛い痛い、やめてくれ! 怪我人だぞ!」
「まあ、戦傷を負われたと聞いて心配していたけれど、お元気そうで何よりですね叔父様。お久しぶりです」
一応はにっこり微笑んでから、セレーンの表情は険しいものに変わった。
「…それで? 謹慎中に領地から逃げ出した叔父様が、どうしてこんなところに居らっしゃるのかしら」
「う、っ…」
男の顔が青ざめていく。ヴァイスたちは細かい事情は知らないが、どうやら、何かやらかしたことがあるらしい。
「言えないのでしたら、お父様の前で申し開きをなさる? リューベン叔父様。このまま、引きずって連れて帰ることも出来ますけれど」
「そっ、それは駄目だ!」
リューベンは、いきなり血相を変えて唾を飛ばしながら喚いた。「陣を出たら…こ、殺される! 駄目なんだ、脱走と見なされて…!」
「殺される? どういうこと」
「いちど参加したらもう、逃げられないんだ! あの、魔女のせいで」
「魔女?」
「
言いかけたリューベンの言葉が止まった。
顔を上げた男の顔が見る間に蒼白になっていき、がくがくと大きく震え始める。振り返ったヴァイスは、はっとして、男から手を放した。
人通りの中に、ひときわ目を引く――頭からすっぽりと布を被った、細身の人物が一人、立ち止まってこちらを見つめている。その手元には、杖が一本。
拘束を脱した男は、あたふたちと後退り、悲鳴を上げながら建物の陰に逃げ込もうとしている。
だが、間に合わなかった。
「お嬢様!」
とっさにヴァイスがセレーンを庇って地面に伏せるのとほぼ同時に、そのすぐ脇を、火の柱が走り抜けた。
「ぐわぁぁっ」
背中から炎に包まれて、男は地面を転がりまわる。
「ヴィオレッタ!」
「はい!」
とっさに、ヴィオレッタも氷の杖を取り出して、火を消そうと上から凍りつかせる。だが、燃え盛る勢いが強すぎて、そう簡単には消えない。
「お、叔父様…?」
「お嬢様、見ない方がいい。それより――待て、フィロータリア!」
地面に座り込んだまま呆然としているセレーンをその場に残し、ヴァイスは、剣に手をかけて走り出す。目的の人物のほうは、早くも人混みの向こうに姿を消そうとしている。ここで見失うわけにはいかないのだ。
「ヴィオレッタ、お嬢様を頼むぞ!」
「あ、待ってください! 私も――」
焦げ臭い匂い。異様なほどの静けさ。
周囲の兵たちは、何も感じていないか、もうすっかり慣れっこなのだ。とつぜん味方が燃えだすことも、陣の中で
「脱走したら殺される」。
それが本当だとしたら、ここはもう、フィロータリアによって恐怖で掌握された異常な場所なのだ。
野次馬の合間を縫って、ヴァイスは、陣の外れまで来ていた。
それまで後ろも振り返らずに歩いていた女がようやく足を止め、振り返って、ついてきている男を見てうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「しつこい傭兵ね。姉様の差し金?」
「ああ。あんたを始末するよう言われている」
「そう。――」
片手でゆっくりとフードを引きはがすと、その下から金色の髪が零れ落ちた。姉のエヴァンジェリンと瓜二つの美貌。だが、見た目の年齢とは裏腹に妖艶な笑みと、光彩のない灰色の瞳だけが違っている。
「姉様は元気? お会いできないのが残念。直接会って言いたかったの、ざまあみろって。あの賢い姉様の目を掻い潜ってやったの。痛快だわ」
言いながら、杖を手にする。
「残念だが、あんたの企みはここまでだ。それにしても随分派手にやってもんだな。アルアドラスの領主に一体、何をした?」
ヴァイスも、剣を抜く。
「何も? あなたは特別な存在で優秀だとおだて上げ、
「だがリチャードには、そんなことはしなかったんだろう?」
「……。」
女の顔に、すうっと、別の感情の籠った表情が過っていく。声がわずかに怒気を帯びた。
「本当、癪に障る。消えて」
杖を振るった瞬間、杖の先から放たれたのは、予想していた炎ではなく電撃だった。慌ててヴァイスは剣をひっこめながら、大きく横に飛ぶ。武器が金属では、避雷針を持っているようなものだ。
「あらお上手。もっと楽しませてよ、ほら」
次々と放たれる雷を跳んでかわしながら、ヴァイスは、距離を詰められる隙を伺った。けれど、思った以上にそれが見当たらない。杖の先だけでなく、自分の体の安全と敵の立ち位置にも注意を払っている。視線運びも慣れたものだ。
「ずいぶんと戦場に慣れておいでですねぇ。姫様」
「ええ。もう何百人も殺してきたもの。トールハイムでは草原が死体で真っ黒になるくらいやったのよ」
無邪気な、どこか得意げな声。
「人にやらせるしかない姉様とは違うのよ。ほら、お喋りしてて大丈夫なの? もっと電撃を強くしましょうか。掠っただけでしびれるくらい」
「おっ、と」
大きく後ろに飛んで躱した足元を、電撃とは思えない威力の攻撃が抉り取っていく。確かに、触れただけで命が危うくなりそうな威力だ。
「ふふ、ほら。もっと…もっとよ。ね? 上手でしょう。こんなことも出来るの…ほら。こんなことも」
フィロータリアは次々と杖を持ち換えて、まるで遊んでいるかのようにヴァイスに攻撃を繰り出す。灰色の瞳を大きく見開いて、暗い空に向かって笑っている女の顔には、狂気としか思えない笑みが浮かんでいる。美しいが、恐ろしい。扱いに手を焼いたという、エヴァンジェリンの言葉も、今なら理解できる。
(善悪の区別がつかないのか…)
"不滅の聖杯"を体内に埋め込まれた者は精神に異常をきたすのだと、エヴァンジェリンは言っていた。フィロータリアの異常は、言うなれば、「善悪の判断の欠如」なのだ。理性にも、知性にも問題はないが、やって良いか悪いかを考えず、自分の思うことに素直に、やりたいと思うことを、やる。欲するものを手に入れようとする。なまじ才能や行動力があるだけに、それは深刻な脅威でもあっただろう。
「あんたが
「そうよ。私のほうが姉様より優秀だと証明してみせるの。そのくらい構わないでしょう? だって姉様はずるいんだもの、何でも持ってた。皆から愛されて、約束された玉座があって、素敵な婚約者も…」
女の顔が、ふいに、醜く歪んだ。
「アステリオンが死んで、ざまあみろよ。あんな男なんかよりずっと素敵な婚約者を見つけるんだから、
「……。」
雷を避けるために鞘に収めていた剣に再び手をかけながら、彼は、ひとつ大きく呼吸した。
(女性は丁重に扱え、とエリーズには言われているが、こいつは…その必要はなさそうだな)
視界の端に、追いかけて来るヴィオレッタの姿が見える。良かった。彼女がいれば、"不滅の聖杯"を一時的に無効化することが出来る。
「ヴァイスさん! お待たせしました」
「気を付けろ、あっちも杖を持ってる。それも複数だ」
ヴィオレッタは、頷いて、いつもの氷の杖を抜いた。
「足止めすればいいですか」
「ああ、頼んだ」
「あら二対一? まあ、いいけど」
フィロータリアは呟いて、どれかの杖を振った。轟音とともに風が巻き起こる。今回は風。
「オレが前に出る。距離を取って攻撃してくれ」
「分かりました!」
風の中から電撃が迸る。二本の杖を組み合わせた攻撃だ。とっさに地面に転がってそれを避けながら、ヴァイスは、フィロータリアめがけて突進していく。
(まずは、武器を奪う!)
ヴィオレッタに気を取られた一瞬をついて、下から斜めに剣を振るった。片方の手が手首からすっぱりと切れ飛び、赤い血が迸る。
「やだ、痛いじゃない。何するのよ」
片手を失くしたというのに、フィロータリアは淡々としたものだ。地面に転がり落ちた杖を拾って飛び退るヴァイスの足元に、電撃が叩きつけられる。
見れば、たった今、切り落としたばかりの手を拾い上げ、器用に腕にくっつけ直しているところだ。」
「おい…」
「姉様から聞いているんでしょ、無駄よ。生やすのは面倒だから再利用するけど、べつに、腕や足を切り落とされても大したことないから」
傷口があっという間に塞がって、指がぴくりと動き、手首をひねっても動かせるようになる。ヴァイスだけでなく、ヴィオレッタも、唖然としてそれを眺めていた。
(成程。これが"聖杯"とやらの力か)
(やっぱり、体内の
空気が変わった。
それまでは一対二、しかも相手はエヴァンジェリンそっくりな少女のような姿をしているとあって、どこか気が引けていたのだが、それがなくなった。
相手は本物の化け物だ。
手加減すれば、殺される。
「そう。殺しに来るのなら、こちらも手加減はしない」
無邪気な笑みを浮かべたと思った次の瞬間、フィロータリアの姿が消えた。
そして、瞬時にヴァイスの目の前に現れている。
「なっ…」
目の前に、炎が迫る。とっさに上体を逸らしていなかったら、頭が黒焦げにされていた。
「"七里跳びの靴"!」
ヴィオレッタが叫ぶ。「私のと同じ…」
(なるほど、そういうことか)
剣を叩きつけるより早く、再び女の姿が消える。今度は、背後に距離を取っている。
「無駄よ」
飛んでくる氷つぶてを避けながら、ヴァイスは、横目にヴィオレッタの位置を確かめた。瞬時に距離を詰められるということは、離れた場所にいるヴィオレッタが狙われる可能性がある、ということでもある。なんとか自分に注意を惹きつけること、ヴィオレッタの側を離れすぎないことだ。
それにしても、遠距離攻撃の可能な杖に加えて"七里跳びの靴"まで揃えているとは、とことん厄介だ。
靴の機動性は、以前ヴィオレッタが使ってみせてくれた時に理解している。上下左右、どこへでもあっという間に移動できるうえ、逃走に使われたら絶対に追い付けない。それどころか、どっちに逃げたかも分からなくなってしまう。
(最優先は靴か…? だが、足を狙うのは難しい。こうなったら)
ヴァイスは、ヴィオレッタに駆け寄って、さっき拾った風の杖を彼女に渡した。
「これも使えるはずだ。オレがなんとかして隙を作る。奴が動きを止めたら、お前も"七里跳びの靴"で距離を詰めて例の杖を叩きこめ。頼めるか」
「やってみます」
「よし」
何を企んでいるのかは分からないが、少なくとも、捨て身の戦法などではないことは分かった。程よい緊張と余裕。敵と相対する時のヴァイスには、きっと何とかなるという、不思議な安心感がある。
フィロータリアは薄く笑って、両手それぞれに杖を持った。
(火と氷…成程な。風の杖はさっき奪った。戦略は狭まったはずだ)
杖の先端の石の色で次の攻撃を予測して、彼は走った。予想通り、攻撃を叩き込む瞬間に相手の姿が消えた。今度は頭上。最初は氷――凍らせて動けなくするつもりなのだろう。それを避ければ火だ。そして、反撃にうつる前に距離を取られる。
(次は氷と電撃か。手慣れちゃあいるが、…)
攻撃にうつる前に足元の地面が凍りつく。滑らないよう慌てて大きく跳び退ったところに電撃。
(…ま、読めなくもない)
杖による攻撃という特性上、接近戦は無理なのだ。杖を振るより早く剣が届けば、腕を切り落とされる。そして余裕を見せてはいるものの、フィロータリアには、これ以上、杖を奪われたくないという気持ちがあるように見えた。
ならば、隙は作れる。
再び氷の杖が振られ、氷つぶてがバラバラと振って来る。彼は器用にそれを避けていったが、最後の一つだけは避け損ね、顔面から思い切りぶつかった。
「ぐあっ」
額が切れ、血が滴り落ちて片目を隠すように流れ落ちる。フィロータリアは笑みを浮かベ、間髪入れずに電撃の杖を振るった。
普通ならそこで、ヴァイスが攻撃を食らうことを予測するはずだった。
けれどヴィオレッタは、別のことを考えていた。「あのヴァイスが、こんなあからさまな失敗をするはずがない」と。それは、これまで行動を共にしてきた、彼女ならではの直観だった。
電撃が届くその瞬間、ヴァイスは、額の傷に触れて手にべっとりついた血のりを、フィロータリアめがけて投げつけた。
「?!」
そして、片目が血で見えなくなっているとは思えないほど素早く、的確な動きで、脇へと跳んだ。予想外の行動に一瞬、フィロータリアの動きが止まり、視線と意識がヴァイスに集中する。
狙っていた"隙"が生まれたのだ。
ヴィオレッタは見逃さなかった。地面を蹴って、一瞬にしてフィロータリアの背後に回り込む。そして、エヴァンジェリンから預かって来た杖で、心臓のあたりめがけて思い切り、電撃を叩き込んだ。
「か、…は!」
びくん、と大きく痙攣し、体を弓なりにしながら、フィロータリアは動きを止めた。
「…何を…」
ぎこちなく振り返ろうとする女の体を、正面から、別の衝撃が貫く。ヴァイスが短剣を、両手で胸の真ん中に突き刺したのだ。
切っ先に、固い、金属のような手ごたえがあった。おそらくそれが、フィロータリアの中にある"不滅の聖杯"の感触だ。
ヴァイスは力を込め、さらに奥へ切っ先を押し込もうとする。けれど、彼女のほうも大人しくじっとしてはくれない。
「おのれ!」
火の杖を振り上げるのを見て、ヴァイスは慌てて一歩後ろへ下がった。ヴィオレッタも、すばやく距離を取る。
(効いていない? …いや)
さっきは、切り落とされた腕の傷が瞬時に塞がっていたのに、今度は、胸の傷から滴る血はそのままだ。傷がふさがる様子もなく、赤い染みが胸から足元にかけて急速に広がってゆく。
"不滅の聖杯"の効力は、確かに停止している。短剣の刺さりは浅く、それを砕くまではいかなかったかもしれないが、多少は傷つけられたはずだ。それに、この出血ではどのみち、生身の人間は、そう長く生きてはいられない。
「終わりだ、フィロータリア。もう止めろ。あんたの気持ちも分からなくはないが、人を殺し過ぎた」
「終わり…? 分からなくもない…?」
体ほ真っ赤に染めながら、女は、灰色の目を大きく見開いた。
「な、にを…勝手な…こと…」
そして、突然、空に向かって咆哮した。
「お前たちに
よろめきながら、杖を振り回す。辺りの草原一面に火が燃え移り、風に乗って焦げ臭い匂いが広がっていく。
「愛してるって言われるのは姉様ばっかり。嘘つき。嘘つき。皆、嘘つき…どうして私にも…どうして…ドウシテ…」
赤く染まった血で頭を掻きむしり、声にならない声を発しながら体をのけぞらせたその時、彼女は、既に異形の者になりかけていた。
「まずい、逃げろヴィオレッタ!」
「え…きゃっ!」
ごうっ、と長い腕が空を切る。白い毛に覆われた、まるで獣のような腕。ざわざわと女の髪が蠢き、かぶっていた布が落ちて、背中の半ばから長い尾が出現していく。
「な…何なんですか、これ…」
「十年前、オレが見た白い獣だ。おそらく"不滅の聖杯"がもう一度、働き始めているんだ。まずいな、こんなデカくなられちゃあ、短剣じゃ届かない…」
言い終わる前に、獣が吠えた。
何と言っているのかは分からない。もはやそれは、人間の言葉ではなかった。
はっとして、ヴァイスは辺りを見回した。
放たれた火と火の粉が風に乗って、背後のアルアドラス陣のテントや物資に引火している。厩の乾いた飼い葉。穀物の袋。それに――
――大量の、油樽。
「セレーンお嬢様は? まだあそこにいるのか?」
「たぶん…」
「急いで脱出させろ! あの獣に理性なんて期待できん、このままじゃあ…」
駆け戻ろうとした時、頭上で咆哮が響いた。
「ヴァイスさん!」
振り返ると、見上げんばかりの巨体となった獣が、全身の毛を逆立てていた。狼でも鳥でも蛇ない、その全ての部品を寄せ集めたような異形。鳥のような嘴、狼のような四肢、蛇のような長い尾…。
「行け、ヴィオレッタ! なんとか足止めする。そう長い時間はもたんが、その間に少しでも人を逃がせ」
「で、でも…」
「いいから、行け! 早く!」
ヴァイスは、目の前の獣から目を離さずに怒鳴った。十年ぶりに見る巨体――夢でも見たのだろうと、誰も信じてくれなかったその怪物が今、目の前にいる。
もはや人としての理性もない。このままでは、すぐ近くにあるアルアドラス家の陣に突っ込んでしまう。そうなったら、どれだけの被害が出ることか。
「おい、姫様! あんたの相手は、こっち…」
尾が地面を叩きつけた衝撃で、ヴァイスは思い切り後ろに吹っ飛ばされた。灰色の目はまるでガラス玉のようで、どこを見て、何を考えているのか分からない。蛇のような長い尾がしなり、辺りのものを手あたり次第に吹っ飛ばす。
「くそ…」
剣を拾い上げ、隙をついて斬り付ける。だが、その傷も、あっという間に塞がってしまう。
勝ち目がない。
これが"不滅の聖杯"の力、人間を獣という兵器に変えてしまう恐るべき
(オレは本当に、こんな奴を相手に、敵討ちを…?)
誰を、何者を相手にしても気持ちは揺るがないつもりでいた。必ず約束を果たして家に帰るつもりだった。
けれど十年の旅の中で初めて、彼は、恐怖と、壁を感じていた。
はいつくばって、地面を握りしめて見ていることしか出来ない。どれだけ剣術の腕を磨こうとも、戦いの経験値と実績を積もうとも、こんな怪物相手では生身の人間は勝てっこない。
彼はただ呆然と、夜の下で暴れまわる獣が、心ゆくまで破壊と殺戮をこなすのを見ているしか出来なかった。
ドォン!
目の前で、天を焦がすほどの巨大な火の手が上がった。重たい衝撃音が続けざまに二、三発。
恐れていた、油樽への引火だ。誰か消火に当たっていたとすれば、無事では済まなかったはずだ。
(くそ、こんなところでじっとしてる場合じゃねぇ)
あちこち叩きつけられて傷む体を引きずりながら立ちあがると、彼は、自分で自分の頬をぴしゃりと叩いた。
(一度請けた仕事は最後まで完遂する。それがオレだ。そうだろ?)
たとえここで倒せなくとも、あの獣を見失うわけにはいかない。せめて、この夜の顛末を、最後まで見届けなくては。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます