第十章 白き獣との邂逅(1)

 国境線を挟んで睨み合う二つの軍を見比べながら、ヴィルヘルムは浮かない顔をしていた。

 向かい合っているのはティバイス首長国のいくつかの領地の軍――主に彼の故郷であるザール領と、すぐ隣のガラル領の兵。

 リギアス連合国側は、国境に接するアルアドラス男爵家とワイト家、少し奥地の裕福なカルマン子爵家も兵を出して来ている。大きな衝突はしばらく無いままだが、双方の待機させている戦力は日増しに増加しており、一触即発の状態も続いていた。


 このまま収まるはずがないのは分かっていた。

 理由は、ティバイス首長国側のマイアス領の領主の戦死だ。


 アルアドラスの領主は、夜襲によって虚を突いた上、味方ごと罠に嵌めるという方法でマイアスの領主フリードを殺害した。

 領主の地位は順当に婿養子のヘイワーズが継いだものの、気弱なヘイワーズは頑として、講和など在り得ない、義父の敵討ちをすると言って譲らないのだ。

 (自分で戦うわけでもあるまいに。剣も握れぬ小童めが何をほざく)

内心そう思いつつも、ヴィルヘルムは黙っていた。領主をいさめることが出来るのは、同じ領主の立場にある者だけだ。ヘイワーズへの小言は、兄のハインツに任せておこう。今は兄の代理して、経験豊富な古参の傭兵として、目の前の、この戦況をどう判断するか、だ。


 北の、トラキアス王国との戦線についての報せは、まだ届いていない。

 ティバイスの首長は、本人を含む、議決権を持つ十二人の部族の代表者たちの投票によって決まるのだ。欠席者があったとはいえ、新しい首長にハリールが選ばれたということは、今はまだ、戦争継続を望む者が多いと言うこと。しばらくは、そちらも講和は無いのだろう。

 北と南の戦線に兵が駆り出されているこの状況は、冷静に考えれば良くないに違いない。

 しかも夏の盛りはまだいいとして、冬になれば、少なくとも北の戦線は、無理をしても保てなくなる。状況を何とか収めるには今しかないのだが、一兵卒ではどうすることも出来ず、焦りだけが募っていく。

 新しく築かれた簡易な見張り台と、馬の侵入を防ぐための尖った返しつきの柵を眺めながら、ヴィルヘルムは、腕組みをしてじっと正面を睨み続けていた。




 兄のハインツが、新領主となったフリードを伴って戻ってきたのは、それからほどなくしてのことだった。

 義父の葬儀と埋葬を追え、普段は年齢のわりに子供っぽさの残るヘイワーズも、今日ばかりは神妙な顔をして、多少は職責への自覚も生まれたように見える。

 「どうだ、状況は」

 「変わらずだ。しかし兵の数としてほぼ同数だろうな。向こうは傭兵が居なくなったが、こちらも雇いの兵がいるわけではない。…うちは、北の戦線にかなりの手を取られておる。リギアス側は今のところ、国境付近の三家だけだが、控えの兵も出せるのだ。長引けばこちらが不利になる。このまま膠着状態になるよりは、早めに手を打った方がいいぞ」

 「ふうむ。」

ハインツは、唸って隣のヘイワーズを見やった。「やはりそれしかない。和平交渉の席を儲けよう」

 「手打ちにする、というんですか、義父を殺されたのに」

男は不満げだ。ヴィルヘルムは、思わず苛立った口調で言い返す。

 「このまま、意地になって戦って兵を危険にさらすのか? 貴殿はフリード殿のような戦場に出られんではないか」

 「ヴィルヘルム。」

ハインツが弟をたしなめ、ヘイワーズに向かって言う。

 「ここは冷静に考えていただきたいのだ。長期になれば兵の士気にも関わる。夏草の刈り取りと冬の牧草づくりに人手がかかるというのに、無理をしてここに集まって来てくれている領民もいる。民の生活あってこその領主だろう。」

 「…はあ。条件次第ですよ」

拗ねたようにそっぽを向きながら、男は言う。「それ相応の対価を支払っていただかないと」

 「賠償金で解決できるならそのほうがいい。たとえ、実際には人の命は戻せないのだとしても」

渋い顔をしながら言い、ハインツは、呆れ顔の弟のほうに小さく首を振って見せた。先が思いやられる、という意味では二人の意見は一致していた。頼りにならないくせに口だけは出したがる味方、というのは、いつの時代も面倒なものだ。




 和平交渉の席は、ハインツが設定することになった。

 ティバイスでは、各領地の領主に与えられている権限の一つだ。小競り合いのうちであれば、直接関係している領地の領主が他国の勢力と和平交渉をしてもよく、結果を集会で報告して後追いの承認を得ればよいことになっている。リギアス側はワイト家の当主が窓口となって話をとりまとめ、国境線上での対話が約束された。その間、双方とも、交渉の場から見えない場所まで兵を引いておくことが条件だった。

 出向いたのは、ティバイス側がヘイワーズ、ハインツ、ヴィルヘルムの三人。

 リギアス側はワイト家の当主代理、セドリック・ワイト、アルアドラス男爵家のルイ・ド・アルアドラスと、従者か護衛らしき無名の人物の三人。

 会合の場にはリギアス側の準備した天幕が張られ、双方の兵が二人ずつ、歩哨として外側に立った。


 ヴィルヘルムは、ワイト家の当主代理セドリックと視線を交わし、それとなく会釈しあった。彼とは以前、次期当主である少女の一件でワイト家に出向いた時に会っていて、面識がある。あの時は、よもや近い未来に敵同士として出くわすことがあるなどとは、思ってもいなかったのだが。

 両者が席につくと、この場を取り仕切るハインツが、ゆっくりとした口調で語り始める。

 「まずは、お越しいただき感謝する。この話合いの席は、此度の紛争がいたずらに拡大することなく、双方の民にこれ以上の被害をもたらすことなく収束することを願って設けさせていただいた。…私はザール領の領主、ハインツ・アッシャーだ。宜しく」

ヴィルヘルムはテーブルの端で、異常があればいつでも武器を抜けるよう、剣の柄に手をかけたまま待機していた。対角線上の端には、リギアス側の護衛が腰を下ろしている。頭からすっぽりと布を覆って、妙に小柄だ。傭兵には見えないが、護衛だと思っているのが間違いで、実際は付き人か何かなのかもしれない。

 リギアス側の代表者、アルアドラス男爵家の当主は、ずいぶんと若い。好戦的な性格とは聞いていたが、確かにそう見える。勝ち気そうなイキイキとした目に、短く刈り込んだ金髪。すっきり通った鼻筋と眉の上には、古い傷が長く、斜めに残っている。ときおり、隣の顔を見せない人物とこそこそ会話しているのが気にかかる。

 「被害を押さえたい、というのはこちらも同意見だ」

と、ワイト家の当主。

 「とはいえ、この紛争に連合国の中央議会の承認は得られていない。交渉のテーブルに載せられるものには、限度がある」

 「賠償金は渋るってことですか?」

ヘイワーズが横から余計なことを言う。「僕は義父を殺されてるんですよ。いきなり値切りから入るっておかしくないですか」

 「ヘイワーズ殿。これは個人的な感情や私怨の話ではない。自身の立場と責任に沿って発言されることだ」

渋い顔でハインツが言い、その場を収めようとするが、そこへさらにアルアドラス家の若き当主が火に油を注いでいく。

 「そんなに金が欲しいのか? なら、お前の家族全員、国境に並べてくれよ。全部まとめて始末すれば幾らになる?」

むっとして、セドリックが隣を睨む。

 「ルイ。貴殿の父上は、そのような口の利き方を教育されなかったはずだぞ」

 「おおよ、あの呑んだくれのおいぼれは、教育なんて何もしちゃくれなかったね。教わったのは、愛人の作り方くらいなもんだ」

 「さきほどの言葉は聞き捨てならないな。僕らを侮辱しているのか?」

 「よせ、ヘイワーズ。 交渉の場だぞ」

 「話にならないですよ。どうしてこんな奴らと交渉なんてしなくちゃならないんです」

 「同感だ。とことん、やるとこまでやりゃあいいじゃねえか。」

 (ああ、なんという)

口を挟むことも出来ず、はたで見ているしか出来ないヴィルヘルムは額に手をやった。天を振り仰ぎたい気分だった。まさかこちら側だけでなく、相手側にも話の通じない「若造」がいたとは。――しかも、交渉が決裂するまでもなく、顔を合わせたとたん子供のような侮辱合戦になって話合いも出来ないほどとは。

 ハインツとセドリックが汗だくになって双方の聞き分けの無い若者たちを諫めているが、この状況では、よほど胃が痛いことだろう。


 「帰りますよ、僕は」

席を蹴って立ちあがったのは、ヘイワーズが先だった。

 「ふん、こっちも同じだ。セドリックのおっさんにどうしてもって言われるから来ただけだ、あとは適当にやっといてくれ。じゃあな」

ほぼ同時に、ルイのほうも席を立つ。「おい、いこうぜ」マントを被った小柄な付き人を連れて、止める間もなく、さっさと出て行ってしまう。

 後に残された三人は、ただ呆然としているしかなかった。

 「はあ…。」

どちらからともなく溜息が漏れる。

 ハインツはテーブルの上で組んだ指に額を載せ、セドリックは無の表情で虚空を見つめている。

 「なんとも、申し訳ない…。」

 「相すまぬことだ、せっかくご足労いただいたのだが…。」

曲がりなりにも敵対しているはずの双方の陣営の交渉役が、互いに謝り合っているのは、奇妙な光景でもあった。

 「しかし、この紛争の当事者同士があれでは、どうにもならんぞ。どうする」

 「交渉を続ける意思はあるのだ。というより、本音を言えば、今回のことはルイの独断と失態だと認識している」

と、セドリック。

 「我々だけで話をまとめ、持ち帰って、あの手に負えない青二才どもに呑ませることは出来るだろう。あの二人はどうも馬が合わないようだ。顔を合わせないほうが話が進むと思う」

 「そのようだな。同胞ゆえ見捨てるわけにもいかんが、引きずられて、ずるずる泥沼の戦争に付き合わされるのは誰も望むところではない。」

 「こちらも似た状況だ。中央と北方の国が、アルアドラスの尻ぬぐいには難色を示している。勝手に喧嘩を仕掛けたのだから、幕引きも自分でやれと突き放されているような具合なのだが、あのルイにはどうにも自覚がない。全く、困ったものだ」

ひとしきりの愚痴のあと、二人は、真面目な顔に戻って向きなおった。

 「実際の話をしよう――出せる額の上限は、千マルクだ。中央議会からの支援は望めない。アルアドラス単体での金額と思って欲しい」

 「それは…また、ずいぶんと…。こちらは領主だけでなく、領民が何人も命を落としている。その遺族への補償だけでも足りんぞ」

 「分かっている。しかし、ルイはこれ以上はびた一文も出さないといきまいていてな。」

 「ヘイワーズ殿の前で具体的な金額まで言わなくて良かったな。言っていたら、もっと興奮していただろう」

 「額が少ないのはともかく、ルイ殿の無礼な態度はどうにかならんのか?」

と、ヴィルヘルムが口を挟む。

 「もしも今回ばかりは何とか巧く収まったとして、あの正確では遅かれ早かれ、また何か口実にこちらに仕掛けてくるのではないか?」

 「確かにそうだ」

セドリックが頷く。

 「中央議会ではルイへの懲罰も検討されていると聞く。少なくとも、我々のまとめ役であるラフェンディ家の女帝殿は呆れ果てているらしい。だが連合国は、あくまで独立国家の集合体だ。各々の国の統治者を罷免することは出来ん。せいぜいが連合国への参加権の取り消しだが、それは最終手段だろうな」

 「それと、あの男にはもう少し、戦場の掟を教えておいたほうがいい。自軍で雇った傭兵を捨て駒にするのは感心せん」

 「うむ…」

セドリックはしょんぼりとして、気の毒なほど落ち込んでいる。そんなところに申し訳ないとは思ったが、ヴィルヘルムは重ねてもう一つ、ずっと気になっていることを尋ねてみた。

 「時に、貴殿の悩ましき弟どの――リューベン殿はどうしている?」

 「リューベン? このところ見かけていない。騒ぎを起こして以来、領内に居づらくなって出て行ったようだが、どうしてそのようなことを」

 「前回の戦場で見かけたのだ。何故か魔法道具アーティファクトを持って、アルアドラスの軍に参加していた」

 「…アルアドラスに?」

その表情からして、彼が今の今まで何も知らされていなかったことは、ありありと見て取れた。

 「そういえば、襲撃には魔法道具アーティファクトが使われたのだったな。リギアス側では、把握していないのですかな?」

と、ハインツ。

 「初耳だ。ルイからも何も聞いていない。一体どこから、そんなものを」

 「分からん。だが、既にご存知だろうが、いまトラキアスに攻め入っている我らの同胞も、どこから手に入れたのか分からん魔法道具アーティファクトを利用しているのだ。最近はどうも、あちこちで急に遺物が姿を表し始めているようだ。過信し過ぎるとろくなことにならんのは、大昔の戦争からの教訓だ。貴殿らも、気を付けられたほうが良かろう」

 「ご忠告、痛み入る。戻り次第、確認してみよう」

そう言って、セドリックは静かに席を立つ。

 「そろそろ戻らねば、いつまで密談しているのかと嫌味の一つも言われましょう。出せる金額については、こちらでもう一度、検討はしてみる。ただ、大きく上積みすることは難しいと思う」

 「こちらでも、あの聞かんぼうを何とか説得してみよう」

 「お願いします。」

ハインツとヴィルヘルムのほうも席を立ち、背を向け合って、それぞれ反対に設けられた出入り口から外に出ていく。

 全く実りが無い、とまでは行かなかったが、状況はさらに悪化したようにすら感じられる。

 何しろ、直接国境を接している二つの領域の代表者、ヘイワーズとルイが、どちにも短気で妙に好戦的で、この事態を収める気が全く無いように見受けられるのだ。当事者がその状態では、第三者の仲介にも限界がある。

 「やれやれ、だな。」

自陣営の兵たちの姿が見えるところまで歩いたところで、ハインツが溜息まじりに呟いた。

 「どうして若者たちというのは、ああも無駄な争いをしたがるものか。それとも、彼らの気持ちが分からないのは、我々が年老いたからなのかね? ヴィルヘルム。」

 「どうだろうな。兄貴は昔から落ち着いていたし、わしとて、さすがにあそこまで向こう見ずではなかったと思う。」

 「…北の戦況が、気になるな」

ふと顔を上げ、ハインツは、視線を遠く、草原の彼方へと向けた。

 「あちらがどうなっているかによって、状況も変わるだろう。そろそろ伝令が戻って来る頃合いだが…」

言いかけた時、ちょうど、ザール領の陣営のほうから馬を駆けさせてくる者が見えた。伝令の旗印、白い布を掲げている。

 ハインツの側で馬を降りた伝令は、きびきびとした口調で伝えるべき内容を語る。

 「失礼いたします! アッシャー殿、クルシュ領の伝令より先ほど、北の戦況が入ってまいりました」

クルシュ領はザール領のすぐ隣にある。伝令は各領地の境界に配置されており、報せを受け取って次の領地へ、次の領地へと回していくことになっているのだ。

 「それで」

 「大敗です。第三の砦、ヴェンサリルの後略に失敗し、魔法人形ゴーレムは全て破壊されました。アリアステルに撤退するも、そこも陥落。現在は峠の第一の砦まで戻っているとのことですが…」

 「そこも、そう長くはもたん、だろうな」

ハインツは、小さくため息をついた。「それで。被害は」

 「各領主殿たちはご無事のはず、とのことですが、首長殿が撤退時に怪我をされたとの報もあります。また、ドラウク領の領主殿からの申し立てにより、首長殿に弾劾裁判の申請が上がっているとか」

 「ギムレイが、か?」

驚いたような声。

 「奴はハリールを推していたはずだ。何故また急に、心変わりをした」

 「首長選時の虚偽報告による誓約違反、ならびに前首長暗殺への関与疑い、とのことです。」

 「暗殺…?」

 「詳しくはまだ、情報が入ってきていませんが。どうやら、魔法人形ゴーレムの出所が自領であるというのは虚偽であり、実際はアイギス聖王国で製造されたものを入手した疑いがある、とのことです。」

 「アイギスだと」

これには、ヴィルヘルムが食いついた。

 「確かなのか? 斡旋所で依頼をかけても出てこなかった情報だぞ」

 「はあ…ギムレイ殿には何か確証がおありになるものかと…。」

 「在り得なくはない。確かに、アイム領で遺物が発見されたという証拠は何も無かったし、ハリールの説明が曖昧なのは誰もが認めていた。が…」

腕組みをしながら、ハインツは難しい顔だ。

 「…もし、それが事実なら、確かに弾劾の条件は満たす。他国からの干渉、癒着を禁ずるという誓約への違反。嘘の説明で味方を戦争に駆り立てたこと。首長選のやり直しだけでなく、領主の座を追われるだろう」

 「急転直下だな」

と、ヴィルヘルム。

 「とはいえ、これ以上、状況が悪化することもないだろう」

ハインツは空を振り仰いでしばし、考え込んでから、伝令に向かって言った。

 「同じ内容、マイアス領のほうにも出来るだけ早く伝えてくれ」

 「は」

伝令は再び馬に飛び乗り、向こう側に見えている、マイアス領の陣の方に向かって駆けて行った。




 それから十日ほどの間、国境線の戦況は、動かないままだった。

 物別れに終わったとはいえ、一度は和平交渉の席が設けられたのだ。ハインツは何とかヘイワーズを説得して早期の収拾を図ろうとしているし、おそらくリギアス側でもセドリックが、ルイや中央議会に賠償金の上積みを交渉しているのだろう。双方の気まぐれな若者たちも、お目付け役が側にいる中で勝手に戦争を仕掛けるわけにもいかず、今は、つかの間の停戦状態にある。

 (しかし、これも、いつまで続くかどうか)

ヴィルヘルムは、内心恐れながら、日々、国境線を見守っていた。

 こんな、神経の磨り減る睨み合いが何カ月も続くのはごめんだった。全ては気まぐれな二人の若者の動きにかかっているのだ。

 それに、先日の伝令が持って来た、北の戦線が崩壊したという話が事実なら、そちらの救援も必要になるかもしれないのだ。

 (まさか、トラキアスがティバイスまで攻め入ってくるとは思えんが。…元通りの国境線に落ち着くかどうか、それも現首長であるハリール次第…)

弾劾裁判をするとなっても、今は非常時だ。首長たちを一堂に集めて会議を開くことは難しい。それに、首長選が短期間に二度も開かれた実績はない。そもそも不祥事が発覚して首長の座を追われた者など今までいなかったのだ。前代未聞の事態では、会議は紛糾するだろう。


 ただ座して待つ今の状況が正しいのか、ヴィルヘルム自身、迷いはじめていたその日、何の前触れもなく事件が起こった。


 その日は風もなく、空は良く晴れて、長閑な夏の一日の始まりを予感させた。ヴィルヘルムは爽やかな風の下で、いつものように兄とともに朝食をとっていた。そこへ、見回りに出ていた、ザール領の兵が息せき切って駆け戻ってきた。

 「――ヴィルヘルムさん! 領主様!」

馬から飛び降りるなり、兵が叫んだ。「し、死体が…国境線で、マイアス領の兵が殺されているのが見つかりました!」

 「何だと」

ヴィルヘルムは思わず席を立つ。

 「本当なのか? 何所だ、場所は」

 「ここから半時間の場所です。昨夜の巡回兵の一人が戻っていなかったらしいんです。」

彼は唸った。

 「なぜ、その時点でこちらに報告をよこさん?! ヘイワーズ、あの、阿呆めが!」

 「夜の間に探してはいたらしいのですが…。とにかく、マイアスの領主殿はお怒りで、すぐにも報復の用意をせよと――」

 「ええい、余計なことだけ手が早い!」

ヴィルヘルムは、武器を取る間もあらばこそ、兵の乗って来た馬に駆け寄ってひらりと飛び乗った。

 「馬を借りるぞ! わしが行く。兄貴は後から来てくれ」

 「分かった」

止めるべきは味方のほうだ。誰がそんな余計な挑発行為をしたかはともかく、ヘイワーズの先走った行動は、悪い結果しか齎さない。

 (くそっ。間に合ってくれ…)

だが、願い空しく、ヴィルヘルムの馬が到着した時には、既にマイアス領の軍は、国境線を越えて、リギアス側へ雪崩れ込もうとしているところだった。

 「徹底的にやれ! 皆殺しにしてしまえ!」

ヘイワーズは軍の最後尾で、やたら物騒なことを生き生きと叫んでいる。

 「ヘイワーズ! 何ということを」

 「ああ、ザール領の。…おや、どうしたんです? そんな顔をして。切っ掛けは向こうがくれたんですよ。このまま、無駄な時間を過ごすよりはマシでしょう」

 「なぜ貴殿は…、」

怒りで顔を真っ赤にしたまま、ヴィルヘルムは拳を握りしめて、殴り掛かりそうになる自分を賢明に押さえていた。あまりに愚かしい行為に、何から言えばいいかすら分からない。

 (この男には、何を言っても無駄なのか…。)

ギリッと歯を噛みしめて、ヴィルヘルムは、あわてふためいているリギアス側の陣営を見やった。

 (もはや、この状況ではどうにもならん…。)

今ごろは、アルアドラスの好戦的な若者が、ほくそえみながら進軍開始の合図を出しているだろうか。

 指揮官の若者たちは、どちらも自分から最前線に出たことはない。実際の戦争は、盤上の駒遊びとは違うのだということすら分かっていない。

 最後の大規模な衝突から数十年。彼らには、平和しか記憶に無いのだろう。


 その日、戦場には、おびただしい量の血が流れた。

 次の日も、そしてまた、次の日も。


 もはやヴィルヘルムにも、ハインツやセドリックにも、その流れを止めることは、出来なかった。


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