第九章 谷間の攻防戦(3)
翌朝、戦闘開始の喇叭を鳴らしたのは、攻撃側となるトラキアス王国側の軍だった。
ティバイス側は、奪ったばかりの街道第二の砦、アリアステルに閉じこもり、籠城戦の構えだ。第二と第三の砦の間にある山を楽々と越え、騎士たちは鬨の声を上げながら城門へと突撃していく。
その様子を、ヴァイスたちは、少し離れた高台の上から見守っていた。
「さすがはトラキアスの優秀な騎士団だな。山岳地帯の戦闘なら連中に利がある。しかもあの砦は元々、トラキアスのものだ。勝手知ったる場所、ティバイス側に勝ち目はない」
「だから、こんなところで"高見の見物"なんですか?」
「ただの対人戦なら、オレたちが出るまでもない。あそこには、
日が昇って間もない冷たい空気の中で白い息を吐きながら、ヴァイスは、岩に足をかけて砦のほうをじっと睨んでいる。結局、今朝になってもフィロータリアが何所にいるのかは掴めないままだった。昨日の戦闘はどこか近くで見ていたはずだから、普通に考えれば一度、砦に撤退したはずだった。しかし、もしかしたら一人だけ、夜陰に紛れて逃亡した可能性もある――ティバイスの元の首長を暗殺した時がそうだったように。
それを確かめるために、わざわざ高台に登ったのだ。
「この砦は長くはもたんだろう。となれば、指揮官は最初に逃亡する」
ヴァイスは、そう断言した。
「逃亡できる道は二つ。北の海沿いに降りる道か、西の砦へ撤退する道か。ティバイスに通じる道は後者だ。当然、そちらを選ぶだろう」
「なるほど…ちょうど、この真下ですね。」
高台の下を、尾根に沿って馬でも走れるよう整備された道が通じている。
「あとはまぁ、待つだけだ。不測の事態が起きなきゃあな」
「…はい」
今日も、雲の流れは速い。雨が降りださないかとときおり頭上を見上げながら、二人は、砦攻めの戦いを見守っていた。
午後になり、分厚い雲で空が覆われ、陽が陰り始める。
ぽつり、と雨粒が頬に流れても、ヴァイスは動かない。
「ヴィオレッタ、雨具を持ってるなら着ておいたほうがいい。体温が落ちる」
「はい、あの…ヴァイスさんは」
「動きにくくなる。もう少し、だ」
「もう少し?」
振り返って砦のほうに目を凝らしたヴィオレッタは、いつの間にか、塔門の一つから黒い煙のようなものが上がっていることに気がついた。城壁にはしごがかけられ、傭兵たちが先陣切って駆け上っていく。城壁の上にいたティバイス側の兵たちは、既に統率がとれなくなっているようだった。
「…来るぞ」
腰を下ろしていた皮岩から立ちあがり、ヴァイスは、岩陰で草を食べさせていた馬に飛び乗った。
「あんたはここで、フィロータリアを探せ。見つからなければ何もしなくていい。見つけたら、例の小鳥を寄越してくれ」
「分かりました」
頷いて、ヴィオレッタは自分の馬とともにその場に留まった。
さきほどまでぽつり、ぽつりだったのに、急速に雨脚が強まりつつある。
(この雨じゃあ、小鳥はうまく飛べないかもしれない…)
一抹の不安を感じつつも、彼女は、暗い空に視線を向けていた。
一方ヴァイスは、馬で先回りして西の砦に通じる道に張り込んでいた。
思った通り、砦にトラキアス側の兵が突入して間もなく、反対側の通用門からひっそりと、何頭かの馬が抜け出した。敗戦濃厚な場合、逃亡兵は珍しくない。ことに素人采配で元々統率の弱い軍なら猶更だ。
けれど、それが一兵卒や傭兵では無いことは、乗っている立派な馬と馬具で見てとれた。頭からすっぽり布で覆って身元を隠しているが、中央の体格のよい人物の両脇と背後に、護衛らしき馬が一頭ずつつけている。
四頭の馬は、速度を上げながら戦場を離脱し、山道を駆け抜けようとする。
そこへ、正面から立ちはだかる者がいる。
「退け!」
速度を緩めようともせず、怒鳴りながら突っ込んできた馬は、しかし、岩陰からぴんと張られた縄に突っ込んで、思い切り足を取られる。乗り手は、嘶きながら立ちあがった馬の背から、無様に地面に投げ出された。
「う…うわっ」
「領主様!」
慌てて一人が馬を飛び降り、残る二人は馬上で武器を抜こうとする。だが、間にあわない。
「遅い!」
駆け抜けざま、ヴァイスは馬の尻に短剣の先をそれぞれ、突き立てた。馬はけたたましいいななき声を上げ、上に乗っている人間のことなどお構いなしにめったやたらに駆けだした。
「わああーっ」
一人は必死に首にしがみついたまま、馬ごと崖の下に消えていく。もう一人も、馬を制御しきれず、その場ではねまわる馬の背で行動不能になっている。
ヴァイスは剣を手に、地面から起き上がろうとしている男に近付いた。
そして、喉元に切っ先を突き付けた。
「動くなよ」
「……くっ。」
被っていたフードが斜めに外れかけ、その下に、立派な髭を蓄えた男の顔が見えている。
見覚えのある顔だ。
「――ほーぉ。あんたは、確か…ドラウク領の」
「トラキアスに雇われた刺客か?! くっ、…そおお!」
「おっと」
剣を抜いて斬りかかってくるのを難なく躱し、鳩尾と背中に一発ずつ。それに後ろに周って利き腕を捻り上げ、素早く武器を奪って泥水の中に顔から叩きつける。
「ぐ、ううっ」
「ひっ…」
従者は、弓を手にしているが震えて矢を番えるどころではない。まだ実戦経験もない、少年のような面影を残した若い兵だ。
ヴァイスは思わず溜息をついた。
「カイザル、だったか? また新兵を捨て駒にしてんのか。凝りねえというか、何というか。そういうことしてるといつか身内に刺されるぞ」
「何の…ことだ…」
「カシムだよ。覚えてないのか」
ぴく、と男の表情が動いた。
「敵前逃亡なんてよくもまぁ、無様な真似が出来るもんだ。あいつは勝てない敵にも向かっていったんだぞ。部下より意気地の無い領主、それでティバイスの戦士が名乗れるのか?」
淡々としたヴァイスの言葉はよほど痛いところをついているらしく、男は何も言い返せずに、顔を真っ赤にして震えているだけだ。
「なぁ?」
「え、…え?」
側で弓を握りしめたままの若い兵士は、混乱してろくに返事も出来ないでいる。
「そこでいい子にしててくれ。あんたのご主人の首に用は無ぇ。ちょいと、話がしたいだけでな」
剣をちらつかせながら、ヴァイスは、うずくまっている男と視線を合わせた。
「アイム領の領主のそばに、妙な女を見かけなかったか。頭からすっぽり布を被って、おそらく他の連中とは話もしなかったはずだ。そいつの行方を捜している。」
「し――知らん。奴が何やら側近を何人も引き連れていたのは見かけたが…その中に女はいたかもしれんが、気にしたこともない…」
「そうかい。なら、そいつが前の首長を殺した話も、聞いてない、ってことか?」
「!」
カイザルの表情が硬直した。
頬を黒い泥が一粒、雨に流されて滴り落ちる。
「なるほど。本当に知らんらしい。まあ、もみ消される気はしてたんだが」
「どういうことだ。なぜ、そんなことを貴様が知っている」
「そりゃ、見ていたからさ。あんたも知ってのとおり、以前の首長どのが殺されたあの峠の砦攻めの時には、オレはあんたらの側で参戦していたんだ。ザール領の領主の弟…デカい傭兵と一緒に、あの女が天幕から出て来るところを追いかけた。逃げられちまったが」
「……。」
「で、あんたらの陣営に
続けざまに投げかけられる言葉はあまりに淀みなく、カイザルのような単純な武人にとっては、疑う余地すら無かった。
「では、我々は、首長を殺した者の手で踊らされていた、とでも…?」
「ありていに言えばそういうことだ。アイム領の領主を首長に選んだのは最悪の選択だったな。まあ、よそ様の政治にどうこう言う気はない。オレは、別件で用があってその女を探している。本当に見ていないのか」
「…ああ」
「なら、いい」
立ちあがって、ヴァイスはあっさりと剣を収めた。
慌てて、カイザルが顔を上げる。
「ま、待て! 貴様、一体なぜ、そんな情報をわしに教える?!」
「なぜも何も。もしその女が戻って来るようなことがあれば、言うなりになるなって警告だ。――
「!」
「意味は分かるな。出所の分からんもんに頼って戦争を仕掛けるのは感心しねぇ。次は、よく考えろ」
ヴァイスが馬に飛び乗るのと、暴れていた馬を押さえて残りの二人の従者がなんとか戻って来るのとは、ほぼ同時だ。
従者たちが駆け寄って主人を助け起こし、馬に引っ張り上げるのを遠目にちらりと眺めやってから、ヴァイスは、やれやれというように溜息をついた。
(従者を見れば主の器は分かる、とはいえ…時には、主の器に見合わん部下もいるのが残念だな…。)
戦況を確かめるまでもなく、ティバイス側は総崩れだ。砦のほうからは、ひっきりなしに逃亡兵が駆けて来る。徒歩で無我夢中に逃げている者、他の者を蹴散らすように馬を走らせている者。ヴァイスは、今は傭兵としての印をつけていないから、警戒もされていない。こんな人の群れの中に、探している女はいないだろう。それに、ヴィオレッタからの報せもまだ届いていない。
元いた高台に戻ってみると、ヴィオレッタは、まだ小鳥を飛ばして哨戒している最中だった。
「戻った。こっちの狙いは外れだ。そっちは?」
「…駄目ですね。見つからないです」
意識を引き戻し、彼女は、ふう、と一息ついた。
「アイム領の旗は見えたんですが…。たぶん、領主の人もいましたけど、フィロータリア様らしき人はどこにも」
「やっぱ、見限って昨日のうちにさっさと逃げたのかもな。特にティバイスだけに肩入れしてるわけじゃなさそうだし…どうも、あっちのお姫様のほうは、
「……。」
「となると、次はティバイス首長国とリギアス連合国の国境のほうか…?」
頭をかきながら呟いていた時、ふと、ヴィオレッタが空を見上げて声を上げた。
「あ!」
「ん?」
灰色の空を、雨で飛びにくそうに必死で羽根をばたつかせながら、赤と青の小鳥がふらふらとこちらに向かって飛んでくる。
墜落しそうになるところをなんとか受け止めて、ヴィオレッタは、足にくくりつけられた濡れた伝言を取り上げた。
油紙に包まれていても一部水で滲んだその紙には、イーリス文字で、「虹の小鳥は南へ向かった」とだけ書かれている。
「これ、エヴァンジェリン様のところの小鳥だと思います。大丈夫、改ざんはされてないはずですよ」
「ふむ。てことは、オレの読みは正しそうだな。…よし、リギアスへ向かおう」
「リギアス? ティバイスじゃなくて、ですか」
「そりゃそうだ。前回、セレーンお嬢様と約束しただろ?」
ヴァイスは、片目をつぶってみせた。「敵陣側で姿を見せたら、誤解させちまう」
「あ、そっか。…」
「しっかし、この雨。今日は夜まで続きそうだな…」
滴り落ちる水を払いのけながら、ヴァイスは、ようやく雨具を被った。
これから山あいの谷間は夜に入り、気温が下がる。着の身着のままの逃亡兵にとっては辛い夜になるだろう。
けれど、それが敗北ということ。勝者の側につく者からは、何もしてやれることは無いのだ。
それから数日後、ティバイス首長国側の軍が追加の
受け取った報酬は相場よりも多く、何やらルシアンの父の計らいで特別報酬なるものを付け足してくれたらしかった。重たすぎて持ち運べないので、途中でカームスの街の斡旋所に立ち寄って、銀行の窓口に預けておく。
「トラキアスは金に汚くないのがいい。戦場で稼ぐならやっぱりトラキアスだなぁ」
ヴァイスはのんびりとした口調で、そんなことを言う。
「何だか急に、お金持ちになっちゃいましたね…」
「勘違いするなよ。どこの戦場でもこんなに稼げるわけじゃ無い。新人で一人で参戦するなら、いいとこが今回の五分の一だ」
「分かってますよ。ヴァイスさんのお陰でしょ」
そんな掛け合いをしながらどさどさと大金を銀行の窓口に積み上げていく姿を、同僚のマーサやアーティたちは唖然として眺めている。
「えっ…と、ヴィー? まだ、しばらく旅をするつもり?」
「うん、ごめんねアーティ。大事な仕事なの。所長には許可をとってあるから」
「まったく、いつのまにこの子ったら、傭兵みたいになっちゃったのかしらねえ」
窓口の向こうから、マーサが呆れている。
「それじゃ、行ってきます。」
職場に別れを告げたら、再び、アイギスを通過する街道へ入る。そこから、南のリギアス連合国まで突き抜けていくのだ。
「だけど、素通りでいいんですか? ヴァイスさん」
馬を走らせながら、ヴィオレッタが尋ねる。
「素通りって、何がだ」
「
「準備もなしに殴り込みなんか出来るか。それじゃオレが凶悪犯になっちまうだろう。一生、国に出禁になるぞ」
「あ、そうか…ごめんなさい」
「まあ、それにな。あそこは、迂闊に手を出せるところじゃ無い」
ヴァイスの声には、珍しく、私情のような響きが混じっている。
「今のグレース家の当主はジークヴァルト・グレース。男にしちゃあ不気味なほど顔が良くて、やたらと頭がキレる男だ。財力も人脈も一流貴族、国王陛下からの信頼も篤い。そんなやつの荘園に、騎士団から追放されたオレが正面から殴り込みなんぞかけた日にゃ、実家にどんな迷惑がかかるか。」
「そうなんですね。でも、そんな人がどうして、密かに
「わからん。国王陛下がご存知なのかどうか、それだけが気になってる。もし、これが国ぐるみの話だったら、オレは…。」
言葉を切り、彼は、唇を噛んだまま行く手を見据えた。
かつての主君はもういない。騎士としての立場も失った。
それでも、アイギスは故郷であり、大切な人たちの暮らす場所であり、かつて仕えた国でもあった。
「…とにかく、今はそっちは後回しだ。どのみち、フィロータリアのほうを押さえれば、
馬の脇を、風が吹き抜けていく。
南の方から流れて来る戦場の匂いと不穏の気配。
街道をひた走る二頭の馬の行く手には、既に、新たな戦火がじわじわと燃え広がりつつあった。
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