第九章 谷間の攻防戦(2)
夜明け前、地鳴りのような音とともに、ヴァイスは目を覚ました。
飛び起きて枕元の剣を掴むのと同時に、頭上の見張り台のほうから、けたたましく鐘を打ち鳴らす音が響いてくる。
「敵兵移動! 敵兵移動!」
伝令が忙しなく駆け回り、復唱の輪が広がっていく。
「敵兵移動! こちらに向かって来ます…東門、予想到達時間は三十分後!」
「各員、戦闘準備! 持ち場につけ!」
「騎士団は四方向の門に分散配備! それ以外の兵は中央待機!」
野外宿泊所のような屋根だけのある寝床から、傭兵たちが次々と跳ね起きて手早く身支度を整えていく。トラキアスの戦場ではお馴染みの、エデン教の僧侶たちも、白い衣の裾を翻して駆けていく。戦場で祈りの言葉を唱え、戦士たちを鼓舞するためだ。
ヴァイスはそれらを眺めながら、ヴィオレッタがあたふたと長い髪をまとめあげるのを気長に待っていた。
「お待たせしました!」
「朝飯の時間も無ぇが、何か腹に入れとけ。始まったら夕方まで何も食えんかもしれんからな」
言いながら、ヴァイスも干し果物をぽいぽいと口に放り込んで、水で流し込んでいる。
「オレたちの狙いは
「分かりました」
頷いてから、ヴィオレッタは、ふと不安げな表情になった。
「あの、…フィロータリア王女も、来るんでしょうか?」
「さぁな。少なくとも、あんたの小鳥に反応したんなら、オレたちが来てることには気づいているはずだ。どこかから様子は見ているだろうな」
「……。」
緊張した面持ちで拳を握りしめているヴィオレッタを見て、ヴァイスは、にやりと笑った。
「なぁに、出くわしたらそん時はそん時だ。そう身構えるな。気が持たなくなるぞ」
「うう…」
「準備が出来たら、オレらも行くとしよう」
前回は砦を落とす攻撃側だったが、今度は純然たる防衛側だ。ティバイスの兵たちが山を越え、道をかけ降って門の前までくるのを眺めながら待って居るしかない。
「このヴェンサリル砦はな、周囲を囲む城壁は一重なんだ。しかし高さは普通の倍もあって、分厚さも一級品。この辺りは冬に雪が多くてな。積雪に耐えて、雪が積もっても敵が越えられんよう、壁をきっちり作ってあるんだ」
他の傭兵たちとともに出撃の合図を待ちながら、ヴァイスは、のんびりした口調で知識を披露する。
「こんな時にうんちくですか?」
「大事なことだぞ、守るにしろ、攻めるにしろ、砦の特性を分かっていることは」
ヴァイスは、城壁の上に並んで待ち構えている、おびただしい数の弓兵を見やった。
「それにな、ここは峠の要所なんだ。ということは、峠から降りて来た真ん前に城門がある。そこに弓兵が待ち構えているとなると、…どうなる?」
「えっ?」
ヴィオレッタが答えを考え出すより早く、伝令が怒鳴った。
「北西城門前、まもなく敵兵到達!」
「弓兵配備、完了してます!」
喇叭の音が鳴り響く。トラキアス軍の、突撃開始の合図だ。
「弓兵構え……撃て――!」
天に向けて引き絞られた弓の先から、次々と矢が放たれて飛び出していく。
「着弾! 命中しています」
歓声が上がる。
(素人かよ)
ヴァイスは、内心舌打ちをする。密集して突っ込めば、矢弾のいい的でしかない。攻寄る砦の特性を理解していれば、散開した陣形で複数の門から攻めるのが定石。それすら出来ていないティバイス側の指揮官には、おそらく基本的な兵法の知識も無い。
元より、こんな兵站の伸びきった奥地まで後先考えず攻め込むくらいなのだ。相手の常識は、期待しないほうがいいのかもしれない。
(本来なら、ここまで苦戦する相手じゃない。やはり問題は、あの
「先遣隊、左右に割れます。後続に
丁度、伝令の声が飛ぶ。
「傭兵部隊、騎士団、それぞれ左右の門より出陣! 騎馬兵は南東門から出撃! 何としても
それに応えて声を張り上げているのは、何やら威厳のある顔立ちに大層な鎧を着こんだ、いかにも総大将といった出で立ちの人物。
(おそらくあれが、トラキアスの国王だな。戦場に出て来ている、とは聞いていたが…)
ヴァイスは心の中で呟きながら、怒鳴っている男を横目に駆け抜ける。
「ヴァイスさん、
ヴィオレッタが後ろから怒鳴っている。そうしなければ、周囲の喧騒にかき消されて声が聞こえないからだ。
「ああ。少し遠回りになるが、しっかりついて来いよ」
「はい!」
今回のヴァイスたちは、トラキアス側で参戦している印の青い布を腕と武器に巻いていた。周囲を、同じ色の布をつけた傭兵たちが我先にと駆けだしていく。戦功狙いの彼らは、おそらく、
(よし、それでいい。お前らは、オレらの露払いを頼むぜ)
遅れがちなヴィオレッタを待ちながら、ヴァイスは、突っ込んで来るティバイス側の傭兵たちには目もくれず北西の門を目指して走り続けた。角を曲がると、ちょうど峠道から見覚えのある銀色の巨体が、四足歩行でのろのろと、門に向かってくるのが見えた。しかも後ろに、数体の小型の
「ちっ…面倒なことを」
ヴァイスは振り返って、ヴィオレッタに向かって叫んだ。
「まず、あのちっこいのを倒すぞ! まとめて足止めしてくれ。氷のほうを使え!」
「え…」戸惑ったのもつかの間、目の前の状況と、言われた言葉の意味を瞬時に理解する。「…分かりました!」
ヴィオレッタの振りかざした杖の先から冷気が迸り、地面を一気に凍らせていく。ちょうど坂道から降りようとしていた
「よし、いけるぞ」
「
ヴィオレッタが停止の言葉を叫ぶと、
だが、それも長くは続かない。
ガクガクと揺れ動きながら、まず四足の大型のものが、続いて、後ろの小型のものも、再び動き出す。
「…再起動されてる。やっぱり、近くにフィロータリア様がいます!」
「かまわん。一瞬でも動きを止められれば、それでいい!」
言いながら、ヴァイスは一番手前にいた小型の
「次!」
「
怒鳴りながら、ヴィオレッタは、なおも前進を続けようとしている四足の
その間にもヴァイスは、他の小型の
「ヴィオレッタ! あれは、まだ使うなよ!」
人形たちの攻撃をかわしながら、ヴァイスど怒鳴る。「あの女がどこで見てるか分からん。奥の手は最後までとっとくんだ、いいな!」
「…はい!」
あれ、とは、ここへ来る前にエヴァンジェリンから預かった、電撃を放つ杖のことだ。
ヴァイスが戦いやすいよう補佐に徹しながら、彼女は、それとなく周囲の様子を伺った。フィロータリアは、一体どこにいる? 遠隔にしろ
そう思いながらふと、視線を頭上に向けた時、見慣れた赤と青の羽根を持つ小鳥が一羽、羽ばたきながらほとんど一定の場所に留まっていることに気づいた。
(あれ、私が盗られた小鳥じゃない!そうか、あれで見てるんだ!)
ヴィオレッタは、素早く杖を頭上に向かって振るった。氷つぶてが空中に現れ、逃げようとした小鳥の翼の端を、辛うじて凍りつかせる。バランスを失った小鳥は、高度を下げながら、よろよろと視界の端に落ちていく。
「やったあ!」
「危ない、ヴィオレッタ!」
「え?」
振り返った時、目の前に、
「あ、…」
だめだ、避け切れない、と思った。
頭上に夢中になりすぎて、自分が狙われていることに気づいていなかったのだ。何という初歩的な失敗だろう。こんなところで…、足手まといにはならないと豪語したのに…。
しかし、目を閉じかけたその時、何かが横から飛び掛かって彼女の腰の辺りを掴んで引き倒した。
地面に仰向けに投げ出され、頭上で金属音が響く。ぎゅっと固く閉じていた目をおそるおそる開いてみると、目の前に、騎士団の鎧を身にまとった後ろ姿があった。剣で、
「すまない、加勢が遅れた」
「え、いえ、ぜんぜん遅れてないですし、来てくれるとは思ってなくて…ありがとうございます…」
自分でも何を言っているのか分からないまま、ヴィオレッタは起き上がって辺りを見回した。
さっきまで自分とヴァイスしかいないと思っていたのに、いつのまにか、騎士や傭兵たち、味方の兵が、周囲に集まって来ている。
「あの傭兵を援護しろ!
門の前で、騎士たちを率いて怒鳴っているのはルシアンの父、西方分隊の騎士団長だ。
「僕らは一度も、あのデカぶつに勝てなかった。でも君たちなら…頼めるかい」
「はい、勿論!」
頷いて、ヴィオレッタは大急ぎで、ヴァイスが戦っている場所に駆け寄る。
「
「分かってる。お供もこいつで最後だ。…せいっ!」
人形は今まさに、門に頭突きを入れようとしている。
「やべぇな。今さらだが、あいつの
「さっき、フィロータリア様の飛ばしていた小鳥を落としたんです。復帰してくるまで少し時間がかかると思います。停止させて、調べましょう」
ずんぐりとした体に近付いて、ヴィオレッタは唱える。
「
同時に、ヴァイスは
「くそ、固ぇ…背中は一枚金属だ。首の付け根? まさか腹側ってことは無いだろうな。おいヴィオレッタ、ちょいとこいつをひっくり返してくれ!」
「え? ひっくり返す…って」
「下から氷柱を作るんだ! 持ち上げればひっくり返るだろ」
「あ、はい!」
実を言えば、そんな使い方をしたことは無かったのだが、やれと言われれば出来る気がした。ヴィオレッタは杖をふるい、地面から太い氷柱を何本も出現させた。下から勢いよく突きあげられた
「よし! そのまま維持」
「はい!」
「すげぇ…何だあれ…」
城壁の上から見守っている弓兵たちは、唖然としている。
「あんな
「何者だよ、あの女の子。」
「昨日、騎士とやりあってた傭兵だけじゃなく、連れもヤバいのか…」
「――あった! ここだ」
仰向けになった
彼は力任せに剣を振り下ろし、
ヴィオレッタは、けんめいに杖を振るって
周囲では、友軍の兵たちが二人に敵を近づけまいと奮闘している。
そしてついに、
バキン、と音をたてて、巨大な金属の人形の首が地面に落ちた。もがいていた四肢が力を失い、ぴたりと停止する。それはまるで、人間が息絶える瞬間のようだった。
「やった!」
ヴァイスは汗を滴らせながら叫んだ。「デカぶつが沈黙したぞ!」
と同時に、山の上のほうから、ティバイス側の太鼓が打ち鳴らされる音が谷間に響き渡る。
頼みの綱だった
「逃げるぞ、奴らが!」
「逃がすな、追え! 態勢を整える間を与えるな!」
徒歩の兵たちを追い越して、馬に乗った騎士たちが撤退する敵兵を追いかけてゆく。ティバイス側に馬に乗っている者はほとんどおらず、人の走る速度では馬から逃げきれない。
掃討戦だ。敗残兵を狩るという、あまり誇らしい気分にはなれない後始末の戦い。
功績狙いの傭兵たちが我先にと、逃げ惑うティバイス側の敵を追いかけて走り出す。砦には安堵と、敵を撃退出来たことに信じられないという空気が漂っている。
動かなくなった金属の小山から滑り降りてきたヴァイスを、ヴィオレッタと、駆け寄ってきたルシアンとが出迎える。
「巧く行きましたね、ヴァイスさん」
「ああ、…首の皮一枚だがな」
「さすがです。」
ヴァイスは、ルシアンを見て驚いた顔になりつつも、微かに笑った。
「何だ、見てたのか。…で、参考になったか? 剣で人形を殴りつけるだけの、野蛮なオレたちの仕事ぶりは」
「ええ。」
彼は頷いて、笑い返す。「それに野蛮だなんて。とても格好良かったですよ。」
「そうか?」
汗を拭いながら、ヴァイスは山のほうを見上げる。ティバイスの兵たちに撤退を命ずる太鼓の音はまだ響き渡っているが、帰りつけた者の数は少ないだろう。それは、戦場に落ちている、多数の緑の布切れを見れば分かる。
明日からは、攻撃と防衛が逆転する。今度はトラキアスの軍が、山を越えて、ティバイスに奪われた砦を奪還するために戦いを仕掛けることになる。
おそらくティバイス側は、攻め一方でろくな防衛の手段も講じていないのに違いない。
流れは変わったのだ。
けれどヴァイスたちには、戦局の行方よりも、もっとにするべきことがあった。
山間の天候は変わりやすく、雲の流れが早くなっている。谷間には強い風が吹き抜け、臨時の兵舎として作られた幕屋の布が膨らんで、ばたばたと大きな音を立てている。
「ヴァイスさん、…」
「ああ。これなら今回は、"
日が暮れる前に独自の見回りを終え、二人は、見張り台から宿へと戻っていた。前回の反省を踏まえて、今回は念には念を入れている。ティバイス側の陣の位置、兵たちの動き。それに味方の、トラキアス側の陣の中に不審な人物がいないかどうかも、一通り調べておいたのだ。そして、おそらく今夜は仕掛けてこないはずだと結論づけた。
フィロータリアが何所か、近くにいることは間違いない。手駒の
城壁の近くまで戻ってきた時、誰かを探すように歩き回っていた騎士が足を止め、こちらを振り返って手を挙げた。
「あれ? ルシアンさんじゃないですか」
「良かった。探していたんですよ」
青年は笑顔で、小走に二人の方にやって来る。
「夕食を一緒にいかがですか。明日になるとゆっくり話も出来なさそうですし」
「ん、話ならオレは要らんだろう。二人で仲良く行ってこい」
「え、ちょっと何ですかそれ。困ります。」
「そうですよ。今日の活躍は、二人ともの手柄でしょう? 父からは、ぜひ丁重におもてなしするようにと言われているんです」
そう言って、彼は少し声を落とした。「…お陰で、父は職を追われずに済むことになりそうですし」
「ああ。そういうことか。まぁ、構わんが」
「戦場ですし、大したおもてなしは出来ませんが、少なくとも、一般兵の配給よりは良いものをお出し出来ますよ」
ルシアンの案内で、ヴァイスたちは砦の端の、騎士たちが詰めている兵舎の一画に向かった。さすがに、勝ったからといって酒を飲んで騒いでいるような者はいない。ティバイス陣営で参加していた時とは、ずいぶん雰囲気が違うが、本来はこうであるべきだ。
見晴らしのよい部屋に通されて、ヴァイスは思わず苦笑する。テーブルの上は封の切られていない葡萄酒に、大きなチーズの塊まで置かれていたからだ。
「上級士官向けの待遇だな、これは。オレは、酒は遠慮しておく。」
「構いませんよ。これは食卓の飾りのようなものです。父も、この砦に来てから手を付けていませんから。」
ヴァイスはにこやかだが、内心、何かを警戒しているようでもある。ヴィオレッタも、ここに招かれた真意は図りかねていた。もちろん、ルシアンに何か不審な点があるわけでは無かったが、ただの食事の誘いではない気がしていた。
湯気の立つ料理が運ばれて、次々とテーブルの上に並べられる。ルシアンは、もてなし役として三人分の杯に水を注いでいく。
「父は今、国王様との軍議に出ています。本来なら父が直接ご挨拶するべきなのでしょうが、今は僕が、父に代わってお礼を。この困難な戦況を覆していただき、ありがとうございました」
「傭兵としての仕事を果たしたまでだ。それに、まだ何も終わっちゃいない。ここからが本番だろう」
「…そうですね」
微かに微笑んで、彼は、料理を運んできた料理人たちが出ていくのを待って、口を開いた。
「ここなら、誰も来ません。――実は、折り入って確認したいことが、あるのです」
「答えられるかは分からんが、何を聞きたい」
「あの、ティバイスの使っていた
「ふむ」
ヴァイスは、ちらと隣の少女を見やる。彼女が何といって説明したのかまでは把握していなかったが、どうやら、ほとんどのことを話してしまっていたらしい。
「えっと…合ってます」
ヴィオレッタは、あたふたと付け加える。「それで、今日、
「あれは、やはり何者かが意図してティバイスに売り込んだものなんですよね」
「そうだな。その首謀者に辿り着くことが、最終的なオレたちの目的――大元の依頼なわけだが、まあ、依頼主については聞かないでくれ。」
「分かってます。聞きたかったのは、そこではないんです」
真剣な眼差しが、二人を交互に見つめる。
「あれが、遺物ではなく"新しく作られたもの"だとするならば、破壊しても、再び世に出て来ることは在り得る、ということですね?」
「そうだな」
「あなた方が居ない時に、再びティバイスに攻め込まれるとか、他の敵が――あるいは、国内の誰かが、
「そうなる。…
「やはり、そうなんですね」
青年は、小さくため息をついて額に手をやった。「大問題だ」
「ま、だからこそオレたちが居る。心配すんな。新しく作るったって、そう大量に作ってホイホイ運用できる代物じゃねぇ。取り敢えずはメシでも食いながら、ゆっくり話そうぜ」
言いながら、ヴァイスはフォークを取り、まだ湯気を立てている料理にとりかかった。
「ほう、香辛料効かせてんな。ちょいとお上品すぎる味だが悪くない。」
「……。」
遠慮なく料理を口に運ぶヴァイスに少し呆れながらも、ヴィオレッタもナイフを手にとる。相変わらず、乱暴に食事をしているように見えてテーブルマナーだけは完璧なのが妙に癪に障る。
しばらく興味深そうにヴァイスの手つきを見つめていたルシアンも、ナプキンを膝に置いてフォークを取り上げた。
「
「ああ。あいつらは
「というと」
「あいつらはただの人形だ。単純な命令しか書き込めない。城門を破って戻って来い、とかな。今日の場合だと、デカいやつが門を壊す役。それ以外の小さいのは護衛役で、デカいのに近付く人間を排除するよう動いていた。要するに、デカいやつがこっちを攻撃して来ないことは最初から分かっていた。小さいほうも、近付かなきゃあ攻撃して来なかったから、もし投石機でもあれば、遠くから倒せたかもな」
「なるほど。参考になります」
ルシアンは真顔で頷いている。
「それではもう一つ、あの"アウク"という掛け声には、何か意味があるんですか?」
「んんッ!」
ヴィオレッタが思わずパンを喉に詰まらせ、せき込んだ。
「おい、おい。大丈夫か」
「げっほげほ…うう、すいません」
「何か、まずいことを聞いたかな」
「そういやあ、あの掛け声、何だったんだ? オレも初めて聞いたぞ」
「……。」
水でパンを流し込みながら、ヴィオレッタは渋い顔で隣のヴァイスを見やった。そういえば、この停止の方法は、ヴァイスにも伝えていなかったのだ。
仕方なく、彼女は説明する。
「…イーリス語ですよ。
「ということは、それを近くで唱えれば、誰でも
「ええ、おそらく。ただ、全部かどうかは分かりません。あと、近くに
「なるほどなぁ」
ヴァイスまで一緒になって、ふんふんと頷いている。「なら、何でその鍵の言葉を世の中に広めておかないんだ」
「えっ?」
「誰でも知っていれば、
「あ…」
一瞬、その通りだと思いかけたが、すぐに気づく。
「いえ、でも、今回のは新しく作られているんですよ? 作る時に、鍵の言葉を変えられたら意味ないじゃないですか。たぶん変えて来ますよ、今回の相手だと」
「ああ、そうか。それも面倒だな」
「そうですよ。」
言いながら、でも、と思う。
「イーリス語、か」
ルシアンはしばらく考え込んでいたが、ふいに、澄んだ薄い瞳をヴィオレッタに向けた。
「君は、――やっぱり、イーリス人なのか?」
「―!」
またもパンを喉に詰めそうになるが、二度目はなんとか回避する。「え、え?」
「ほら、最初に出会った時、玩具の小鳥を操作していただろう? それに
ヴィオレッタは真っ赤になった。全部見られていたし、覚えられていた――巧く誤魔化せた気になっていたのは、自分だけだったのか。
「き、気づいてたなら、早く言ってくださいよ!」
「いや…。食事に誘った時に尋ねるつもりだったんだけど、雰囲気からして、聞いてはいけないことかと思って」
「ほう。ふーん。食事に誘ったのか。なるほど?」
「ちょっ…ヴァイスさん?」
「女心は難しいよな。プライベートなことはなかなか聞きづらい。分かる。その奥ゆかしさは実に感心するところだ、若者よ」
「ありがとうございます」
「ルシアンさんまで!」
にやにやしながら、隣の男が椅子から腰を浮かすふりをする。
「席を外したほうがいいか?」
「ここに居て下さい!」
ぴしゃりと言って、ヴィオレッタは、覚悟を決めたように正面の青年を見つめた。
「…誰かに言いましたか、このこと」
「誰にも言っていないよ。君が忘れて欲しいなら、そうしてもいいけど…だけど、なぜ隠そうとするんだい? かつて魔法王国イーリスがあった場所がカームスの街の近くだということは知られている。いくらハイモニアに攻め滅ぼされたといっても、一人残らず殺されたなんてことは無いだろうと誰でも思う。」
「そりゃ、…だって、イーリス人だと知られたら、何かに悪用されそうじゃないですか。
膝の上のスカートを両手でぎゅっと握りしめて、ヴィオレッタは俯いた。
「百五十年前の戦争の時、
「…すまない」
ルシアンも、視線を落とす。
だが彼は、すぐに顔を上げ、熱意を込めて言った。
「だったら尚更、僕にも手伝わせてほしい。
「それは、…分かりません」
「ま、少なくとも、今の状況がマズいってのは確かだ。オレは構わんと思うがな。味方は多いに越したことはない。」
「ヴァイスさん…でも、この依頼は」
「勿論、依頼を請けたのはオレらだが、どんな依頼だって、現地で独自に協力者を募ることはある」
にやりと、いつもの笑みを浮かべて、ヴァイスはルシアンの前で指をぱちんと鳴らした。
「というわけでだ、ルシアン。協力してくれるなら、あんたには約束してもらいたいことがある。オレたちが持っている首謀者と
「分かりました」
「協力の報酬は――そうだな。こちらのお嬢さんの好物と、苦手なものについての情報でどうだ」
「は? ちょっと、何を勝手に! ていうか、いつそんな情報を?!」
「この間、牧場に行った時にミリアムさんから聞き出したんだ」
「嘘! お母さんったら…」
二人のやりとりを前にして、ルシアンは、くっくっと小さく笑っている。
「いいですね。では、それで」
「ルシアンさんまで…」
ひとしきり笑ったあと、青年は、真顔に戻ってヴァイスのほうに視線を向ける。
「では、具体的に何をすればいいか、教えていただけますか」
「ああ。まずは明日以降、山向こうの砦を奪還する必要があるが、その後でしなければならないことは、こうだ。――」
ヴァイスは外から誰かに聞かれないよう、細心の注意を払って他の二人に説明した。
街道を押さえ、物資の流入を阻止すること。可能であれば、輸送を請け負っている者を捕縛して出来る限りの情報を引き出すこと。
トラキアスを通過する近道が使えなくなれば、少なくとも、ティバイスが今の戦線を
「南方周りの道で
「自分で街道を封鎖してる以上、むずかしいだろうな。それをやるにはまず、街道の封鎖を解く必要がある。それに遠回りだ。時間稼ぎにはなる」
「なるほど」
「アイギスとトラキアスの国境は東方分団の管轄だろうが、なんとか親父さんか国王を説得して巧くやってくれ。これは、あんたにしか頼めない」
「…はい」
頷いてから、ルシアンはヴィオレッタのほうに向きなおって、微笑んだ。
「ようやく少し、君のことが分かった気がするよ。これで少しは、君にも恩返しが出来るのかな」
「……。」
ヴィオレッタは、何も言わずに俯いたままだった。
イーリス人の末裔であることは、一生隠して生きてゆくしかないのだと思っていた。両親がそうだったように、事情を知っている同胞たちの間でだけ本音を明かし、それ以外の人々とは距離を置いて暮らしていくしかないのだと。
けれど気が付けば、秘密を共有する仲間がいて、当たり前のように行動を共にするようになっていた。
(私は、…この人たちと一緒に、生きていけるの?)
視線は、ヴァイスと熱心に語り合っている若い騎士のほうに向けられる。
(この人を…信用してもいい?)
少し前まで故意に無視し、考えないようにしていた複雑な思いが、彼女の中に生まれつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます