第八章 それぞれの責務(3)

 夏の初め、いつもなら心浮かれる季節のはずだったのに、ヴィルヘルムは重い気持ちで馬上にあった。

 故郷の街では、例年通り夏至祭りの準備がされているが、皆、どこか表情が暗い。戦争の終わりが見えないからだ。

 北の最前線からは、連戦連勝の如き報せが届き続けるものの、誰もそれを文字通りの意味では信じていない。北のトラキアス王国の急峻な山々に、いつまでも食らいついてはいられないと彼らは知っている。何より、ティバイス首長国に暮らす人々は平原の民なのだ。本気でトラキアスの一部を切り取って保持できるなどと思っている者は少ないはずだ。

 停戦協定は、有利な側から言い出さねば纏まらない。

 理性ある者ならば、冬が来る前に兵を引き、和平交渉で手打ちにする。…はずだ。

 だが、その交渉をまとめるはずの者がいない。首長サルマンは何者かによって暗殺され、――今は、理性を持って十二の部族を纏められる者が…不在なのだ。


 ヴィルヘルムは今、兄に代わってザール領の見回りと、南のリギアス連合国に睨みをきかせる役目を担っている。

 長兄である領主ハインツは、次兄を伴って合議の丘へ出掛けている。毎年夏に開催される、定例の集会へ出掛けて行ったのだ。新たな首長の選任と、今後の戦局について。それが、主な議題になるはずの事柄だった。

 (巧く次の首長に、理性的な者が選任されれば良いのだがな)

溜息をつきながら、彼は隣り町へ向かって馬を走らせている。

 首長は、十二の部族の代表者の中から選ばれる。

 サルマン亡きあと、彼を継いでカイセリ領の領主になったのは甥のムラード。善良だがやや気が弱く、酸いも甘いもかみ分けたサルマンのような老獪さは持ち合わせていない。

 となると、有力なのは経済的に豊かなベリル領の老獪な男、カイザルか。もしくは、中央のバールベル領か、街道沿いのクルシュ領の領主あたりだろう。

 いずれにしても、彼らはどちらかといえば反戦派のはずだ。この戦いはそう長くは続かないと、彼は思っていた。一体誰が、冬まで戦い続けられるなどという話を信じるだろう。そう、赤子にだって分かることだ。トラキアスの山の上に草原の民は長く居つけない。誰が次の首長に選ばれるにせよ、政治的に正しい判断が下されるに違いないのだ。

 あと、少しの辛抱だ。




 住んでいる街から二つ隣にある商業都市、フォリアンを訪れるのは、久しぶりのことだった。

 いつもならこの時期は、フォリアンの斡旋所で請けた依頼で何がしかの仕事の旅に出ている。それが、今年は珍しく故郷の街に留まったまま夏を迎えようとしている。こんな夏は、父が亡くなった十五の年以来かもしれない。

 いつもどおり人の少ない斡旋所の入り口を潜ると、いつもの受付の若者が、しょんぼりした様子で腰を下ろしている。掲示板にはいくつかの依頼が張り出されているが、その前に立っている求職者はおらず、いつも以上に閑散としている。

 掲示板に貼られた依頼をちらと一瞥してから、ヴィルヘルムは、窓口に近付いて若者に話しかけた。

 「どうしたハンス、そんな顔をして。」

 「あ、いえ。ちょっと仕事の方で、色々と。」

青年は、はは、と力無く笑った。「…まあ、ちょっとした仕事上の失敗みたいなものですよ。気にしないでください」

 「ふむ、そうか。…ところで」ヴィルヘルムは、掲示板に張り出された依頼を指さす。「あれのことだが。」

 「ヴィルヘルムさんのお兄さんが出された依頼ですよね。残念ながら、請負人は、まだ現れていません。」

そう、依頼は、兄のハインツに出してもらったものだ。


 "アイム領が手に入れた、魔法人形ゴーレムの出所を探る"。


どうしても、その件が引っかかっていた。ハリールは一体、あのデカぶつを一体どこから手に入れて来たのか?

 そんなもの自分でやればいい、と言われそうだが、ここのところリギアス連合国側の動きが不穏で、とても国境を離れて自分で動き回れそうにはないのだ。悩んだ挙句、彼は、他の傭兵に依頼を出そうと考えた。予算は潤沢ではないが、情報を探るだけならそれほど熟練の傭兵でなくてもいいだろう、と。

 しかし、あちこちで傭兵募集がかかっている今、敢えて報酬的に劣るこんな依頼に名乗りを上げてくれる請負人は、いなさそうだった。

 ましてや募集している場所がこんな辺境では。

 「どうしたもんかな。情報屋から買うという手も考えたのだが、わしはとんと、そっちのほうは疎い」

 「難しいと思いますよ。斡旋所が懇意にしている情報屋もいるにはいるんですが…彼らも知っているかどうか。それに、もし誰かが出所を突き止めたら、噂になるんじゃないですか?」

 「まあ、そうだよなあ」

ぼりぼりと頭をかいて、大男は溜息をつく。

 「まあ、掲載期限が切れるまでは置いといてくれ。それを過ぎて誰も来なかったら、その時は他の方法を考える」

 「ええ。」

 「それじゃあな、また来る」

のそりと受付の前を離れ、外に出ようとした時、同時に、外から勢いよく駆け込んで来る者があった。

 「あっ」

 「おっ…と」

ぶつかりかけた少女の身体を受け止めたヴィルヘルムは、驚いた。「なんだ、マティアじゃないか。どうした、こんなところで」

 「父さん! 良かった、すぐ見つかって。母さんからここに行ったって聞いて大急ぎで追いかけてきたのよ。」

息せき切って、黒髪の少女は一息に続ける。「すぐ戻って! リギアス軍が国境を越えて進行して来たって。マイアス領の領主様からの救援要請が来てるのよ!」

 「…何だと?」

普段の、のんびりした人のよさそうな表情は、一瞬にして戦士のそれへと変貌する。

 今、この時期に仕掛けてきたということは、夏の集会で領主が不在になる時期を狙ってのことだ。

 だとすれば、明確な敵対行為になる。

 「分かった、すぐに戻る。お前はあとからゆっくり戻りなさい」

馬に飛び乗り、駆け去ってゆく親子の姿を、ハンスは窓口の奥で息を呑んで見守っていた。

 (やっぱり、リギアスも動くのか…。)

一介の窓口係である彼には何も出来ない。いつもどおり、ここに座って依頼の請負人を待ちながら往来を眺め、話に耳をそばだてているしか出来ない。

 ただ一つ出来ることは、大陸中に張り巡らされた斡旋所の情報門の末端の一拠点として、このことを近隣の斡旋所に報せる、ということだけ。

 席を立ち、彼は、奥の小部屋に入って同僚の事務員に声をかけた。

 「ベルナさん、ちょっとの間、表をお願いできますか。」

 「んー? いいけど、どうしたの」

くしゃくしゃの癖っ毛をした女性が、紙の束を手に振り返る。

 「リギアスの軍が進攻して来たらしいんで、本部連絡です。ちょっと小鳥をお借りしますね」

引き出しから箱を取り出して開くと、中には、赤と青の羽根を持つ小鳥と石が入っている。

 本部連絡といっても、まず報せるのは、ここから近いベリサリオの街の斡旋所だ。ここ一帯の斡旋所のまとめ役でもある。とはいえ、ベリサリオは国境を越えた向こう側、リギアス連合国にある。もしかしたら、進軍の報せは既に他の拠点から受け取っているかもしれないのだが。




 ヴィルヘルムが領主館まで戻ってみると、そこには既に、武装した兵たちが集まっていた。

 「ヴィルヘルムさん! 準備、出来てます」

 「おお、さすが手際いいな。で? マイアス領からの使者は」

 「私です」

集会で何度か見かけたことのある、マイアス領の領主フリードの側近が片手を上げ、人々の間を縫うように進み出て来る。

 「確か、フリード殿のところの女婿、だったな?」

 「はい、ヘイワーズです。宜しくお願いします」

既にそう若くもない年のはずなのに、妙に幼い顔立ちに見える男は、ぺこりとひとつ頭を下げた。明るい髪の色や細身なところからして、リギアス連合国に縁者が居るか、そちらの血が濃いのだろう。ヴィルヘルム自身、人のことは言えないが、この辺りの国境沿いの地域は純粋なティバイス風の人間は少なく、双方が程よく入り混じっているものだ。

 「それで? 戦況はどうなっている。国境を越えてきたというのは、どのくらいの数だ」

 「数?」

 「兵力、という意味だ。一勢力なのか、それとも複数の――」

 「アルアドラス男爵という人が攻めて来たようです」

それだけ言って、男は口をつぐんでしまう。報告としてはあまりに短すぎるし、まるで誰かが見たものを伝聞しているだけのような他人行儀さだ。ヴィルヘルムは僅かに眉を寄せた。

 「…で、兵力は」

 「人数は聞いてません」

 「それでは、話にならんではないか」彼は微かに苛立った口調になっていた。「どの程度の敵がいて、味方がどれくらいか。それによって、戦況が変わるだろう」

 「…はあ」

 「まったく、子供のお使いじゃないんだぞ」

ぶつぶつ言いながら、ヴィルヘルムは、集まっている仲間たちのほうに向きなおった。

 「取り敢えずは、ここにいる全員でマイアス領に向かう。もしそれほど大事になっていないようなら、半数は引き返して貰う」

 「え? そんな、それじゃ困りますよ」

何故かヘイワーズが、慌てて口を挟んだ。「帰るだなんて、そんな」

 ヴィルヘルムは、じろりと男を見下ろした。――身長差があるので。

 「不要な戦力を国境に置いておけば、それ自体が火だねになりかねん。それにこの者たちは、それぞれ自分たちの仕事を持っておるのだ。必要がないのに念のためで拘束しておくなど出来ん。それとも何か? マイアス領の領主殿が、この者たちのメシを払い、雇用代金を支払ってくれるか」

 「それは…ええと。相談してみないと」

男はもじもじ言って、口を閉ざす。

 なんとも煮え切らない、子供っぽい態度だ。ヴィルヘルムは内心で天を振り仰いだ。恋愛結婚とは聞いたが、よくもまあ、フリードの一人娘はこんな男を選んだものだ。自分の娘が連れてきたら、婿にするどころか家から叩き出しているだろう。

 おまけに、これが次期領主とは先が思いやられる。

 「では、準備が出来たら出発するぞ。いいな」

ヴィルヘルムは、怒りを抑えながら男を無視して話を進めた。よその領地の家庭事情をとやかく言う権利もないのだ。今は一刻も早く、現地に辿り着いて自分の目で戦況を確かめたい。

 街の人々が心配そうに見守る中を、ヴィルヘルムたち一行は、列を成して隣のマイアス領、リギアス連合国と境界を接する国境の領地へと、旅立って行った。 

 ヘイワーズは自分からは何も言わず、黙って最後尾をついてくる。それもまた、ヴィルヘルムを軽く苛立たせていたのだが。




 ヴィルヘルムたちが現地に到着するのと、マイアスの領主フリードが戻って来るのとは、ほぼ同時だった。フリードは屈強な男で、ヴィルヘルムも認める百戦錬磨の豪傑だ。彼が姿を現すと、国境で陣を設営していたマイアス領の兵たちの雰囲気が、明らかに変わった。

 「フリード殿、集会のほうは?」

 「代理の者に頼んで抜けて来たのだ。自領が攻め立てられている時に、のんびり会議など出ておれるか」

言いながら、男は荒っぽく馬から飛び降り、ヴィルヘルムと握手だけ交わして、慌ただしく陣のほうに駆けていく。その後ろに、役に立たなさそうな娘婿が影のように付き従う。

 (あの男では、ろくに戦場も任せておけんだろうし、妥当な判断だな…。)

二人の後ろ姿を見やりながら、ヴィルヘルムは心の中でつぶやいた。

 ここへ来て話を聞いてみれば、アルアドラス男爵領から攻め込まれたといっても、相手方は数十人の規模。それも国境から少し入ったところで警備兵と小競り合いになってすぐに逃亡しただけと言い、ここまで大事にする必要は無かったはずなのだ。ヴィルヘルムなら、わざわざ隣の領地まで救援を求めずに、自領だけで処理を済ませていただろう。

 それが、フリードが飛んで帰ってきたということは、留守番役がよほど信頼の出来ない相手だった、ということなのだ。

 彼はこれからどうするつもりだろう。娘婿を叱り飛ばし、こういう時はこうしろ、ああしろと、一から教えるつもりだろうか。それとも、しばらく留まって様子を見て、それから会議に戻るつもりだろうか。

 どちらにしろ、一度マイアスまで戻ってきてしまったからには、もう一度会議に参加するために合議の丘を目指すのは、日程的には現実的ではなさそうだ。新たな首長を決めるこの大事な会議の時に、これは手痛い事態だった。


 アルアドラス男爵は血気盛んで後先考えないタチだと聞いていた。

 どうせ、今回のことも、領主が不在で手薄な間に様子見でちょっかいをかけて来ただけのことだろう。ヴィルヘルムはそう判断し、その日のうちに、連れてきた兵の半数を帰還させることを決めた。

 その指示の最中に、フリードがやって来た。

 「ヴィルヘルム殿」

会議のための軽装から、がっちりした武装に着替えている。

 「先ほどはろくにご挨拶も出来ず、失礼した。愚息が大騒ぎにしたせいで、わざわざご足労までいただいてしまって、申し訳ない。」

 「いやいや。備えあれば憂いなしでしょう。国境が一触即発なのは間違いないんだ。こうして我らが迅速に動けることが示せれば、相手方もそう簡単に手だしでんと察してくれるでしょう」

 「本当に、そのくらい察しのよい相手であればいいんだがな。」

フリードは、憂いを帯びた目でちらりと草原の向こうの国境のほうを見やった。

 「アルアドラスの領主は、どうも少しばかり頭が抜けている。くだらない火遊びに打ち興じる癖があってな。いずれ、ユースフがそうだったトラキアスとの一件のように、何か取り返しのつかないことが起きるのではないかと冷や冷やしておるのです」

 「ふむ、…。」

 「取り敢えずは、今はアルアドラス以外の兵は目撃されていない。リギアス連合国側も、それほど本腰を入れて踏み込んで来る気は無さそうだ。警戒線を敷いていればこれ以上は手だしせんでしょう。あとは、…冬が来る前に、北の戦線をどうにか出来れば」

そう、いつまでも北の戦線に兵力を割き続ければ、それこそ、「ティバイス首長国の戦力低下」を口実に、本腰を入れて攻め込まれかねない。そして厄介なことに、たとえ攻め込まれても、報復としてこちらから攻め入るには不利な事情があるのだ。

 リギアス連合国は小国家群の集まりで、国ごとに財力も兵力も大きく差があるが、連合国憲章によって「同盟国のいずれかが同盟国外からの敵対行動に晒される時には、他の全ての同盟国が一丸となって事態に対処する」となっている。これは、たとえばアルアドラス男爵領が単独でティバイスに攻め込み、その報復として攻め込まれた場合にも、ある程度まで有効となる。

 リギアスとしても、みすみすアルアドラス男爵領が攻め落とされるのを見ているわけにはいかない。よほどの自業自得と見なされない限り、こちらから攻め入れば、開戦の口実として利用しつつ、他の小国群も参戦してくるだろう。

 一つ一つであれば戦力的に大したことのない小国も、数十がひとまとまりになれば一大勢力として機能する。

 内部の経済格差に不満を抱えつつ、"小国群"が成立し、今日まで維持されて来たゆえんだ。


 だから、この南の戦線は、よほどのことがない限りは小競り合いのまま、膠着状態で終わる。

 ヴィルヘルムは、そう踏んでいた。――まさか、到着したその夜のうちに見込みが外れるなどとは、思いもよらなかった。




 日が暮れる頃、雨が降り始めた。

 夏の最中のこと、草原に張った陣地の中でも寒くはないが、霧が出て視界が良くない。特にリギアスとの国境線付近は靄のように真っ白に煙って何も見えない。

 気温が高いせいだろう、とヴィルヘルムは思っていた。けれど妙に胸騒ぎがする。雨の中に繋がれている馬たちがやけに騒がしい。

 何となく落ち着かない気持ちで天幕を出て、温い雨の中に出ていくと、馬の世話をしていた兵の一人が振り返って怪訝そうな顔をした。

 「ヴィルヘルムさん、どうされたんですか」

 「なに、眠れなくてな。少し、見回りがてら散歩して来る」

自分の馬を引き立てて、彼は、どこへともなくふらりと駆けだした。見回りならばマイアス領の兵たちが十分やっているはずで、異変があればすぐにも警戒の笛が鳴らされる。まさかリギアス側とて、夜霧に紛れて侵入して来よう、などとは――


 「!」


だから、草陰に、這うようにして身をひそめる黒っぽい、一団の人影に気づいた時には、まさかという思いで一瞬、反応が遅れた。

 その一瞬に、相手がこちらに気づき、慌てて武器らしきものを掲げる。

 とっさにヴィルヘルムは、手綱を引かず、逆に速度を上げて相手の頭上を飛び越えた。

 「うわぁ…」

声が上がり、被っていたフードが剥がれる。下から現れたのは、間違いない。赤地に白い線、リギアス側の、アルアドラス領の兵の制服だ。

 「夜襲だ! 敵兵がおるぞ!」

見張りに出るつもりはなく、笛は持っていなかったから、ヴィルヘルムは代わりに太い声を張り上げた。よく通る怒鳴り声がびりびりと空気を震わし、瞬く間に、ザール領の陣から兵たちが駆けだして来るのが見える。

 草むらに潜んでいた兵たちは、もはやこれまでとばかり匍匐前進をやめ、黒いフードを脱ぎ捨てて、下からめいめい武器を抜く。こちらからも、あちらからも。正規兵の他に、傭兵も雇っているらしい。

 (これほどの数…こんな近くまで侵入されるとは! わしとしたことが、敵の良心を買いかぶり過ぎたわい)

それに、マイアス領の兵士たちの見張り能力を信用し過ぎてもいたのだ。

 味方が駆け付けるまでの間、ヴィルヘルムは大剣を振りかざし、単独で立ち回っていた。もとより体格が良く、しかも戦場を渡り歩いてきた熟練の気迫を持つ彼は、たとえ一人であっても敵を威圧する。

 「おおおお!」

男が吠えると、初陣とおぼしき新兵たちはそれだけで怖気づく。

 「退くならば追わぬ。だが、かかって来るならば容赦は無し。斬り捨てられたい者は誰か!」

 「ひっ」

背後で、ようやくマイアス領のほうも騒がしくなってきた。準備が遅すぎる。既に、ザール領の兵士たちが現場に到着しているにも関わらず、だ。

 (こんなことなら、半数を帰らせるのではなかったな)

あの軟弱そうな娘婿が指揮してるわけでもあるまいし、この体たらくは一体何なのだろう。

 剣が激しく打ち合わされる音。天より滴り落ちる雨粒の合間を縫って、リギアスの兵たちはじりじりと撤退していく。数の上では、こちらが有利なのだ。奇襲作戦が失敗した以上、退く以外に方法はないはずだ。

 …だが、ヴィルヘルムはここでも、相手の良心と手の内を見誤っていた。

 国境線がすぐそこまで見えて来た時、彼は気づいてしまった。


 国境に沿って、騎馬兵と弓兵が一列に並べられている。

 「…な」

ここまでヴィルヘルムたちを誘導してきた奇襲の兵たちが、後ろも振り返らず一目散に友軍目指して逃げて行く。

 その代わりに、待ち構えていたリギアス側の弓兵たちが、引き絞った矢を空高く放ったのだ。

 (しまった、罠だ! わしらは、ここまで引き寄せられた…)

気づいて転進しようとした時には、もう遅かった。

 「突―撃――!」

リギアス陣営側で喇叭が高らかに鳴り響く。矢の雨の向こうから、ヴィルヘルムたちティバイス側の二倍近い数の騎馬兵たちが一斉に突撃してくる。

 この距離では、もはや、正面から激突することは避けられない。

 「ひるむな! 行けーッ」

後ろから、鬼のような形相で馬を駆り、突進してくるフリードの姿が見えた。得意の槍を振りかざし、敵陣のど真ん中に突っ込んでゆく。慌てて、ヴィルヘルムはその側まで馬を走らせた。誰も護衛なしに、領主を一人で戦わせるわけにはいかない。

 「フリード殿! 数では不利だぞ。すまぬ、わしの兵は既に半分帰らせてしまったのだ」

 「貴殿の責ではない。こちらの読みも甘かったのだ。なぁに、この程度、わが兵どもでも何とかなる!」

 「しかし…」

剣をふるい、向かってくるリギアスの兵たちを切り伏せながら、彼の目は、戦場を広く見渡していた。

 既にあちこちで怪我人や戦死者が出ている。

 乗り手を失ってさまよう馬や、打ち捨てられた盾。地面に投げ出されたままぴくりとも動かない泥まみれの体。

 既に小競り合いの域は越えている。数十年前の、最後にリギアス勢力と本格的な戦争が起きた時の記憶が蘇って来る。これは、あの時と同じではないか。ひとたび血が流されれば、戦いは、同じだけの贖いをもってしか終結させることは出来ないのだ。

 どこか遠くで、雷のような音が轟き、悲鳴が上がった。

 「…?」

振り返ったヴィルヘルムは、暗がりの中に横向きに走る稲光のような光を見た。悲鳴は、その辺りから上がっている。何か焦げ臭い、とてつもなく嫌な臭い。

 「フリード殿! あちらの様子を見てまいります」

言い残して、彼は、途中すれ違った自軍の兵に怒鳴る。「あちらで戦っているフリード殿を護衛して差し上げろ。わしは向こうを見て来る」

 「かしこまりました!」

雨はいつしか本降りに変わっている。馬のひづめの下で泥水がはねる。嫌な予感は、確信へと変わっていった。

 バリバリと天の轟くような音とともに、味方の兵が吹き飛ばされるのが見えた。

 リギアス側の軍の先頭で、何者かが魔法道具アーティファクトらしき杖を振るっているのだ。その杖が雷に似た電撃を放ち、触れた兵たちが痙攣しながら地面に倒れてゆく。剣も馬具も金属、おまけに今は電流の流れやすい雨の中。最初から、この状況を狙っていたのか。

 だが、ヴィルヘルムはうろたえなかった。いついかなる時も冷静に状況を読み、活路を見出す。それが、傭兵として生きていくために必須の技術だ。

 足元に落ちていた皮盾をひょいと拾い上げるなり、大きく振りかぶってそれを、杖を持つ兵めがけて放り投げた。

 「どおりゃあああ!」

わざと声を上げたのは、盾に気づかせるため。

 相手はとっさに杖を振りかざし、電撃を放つ。それは盾に命中して勢いを多少は殺したが、向かってくる勢いを相殺はできない。慌てて避けようとしているその隙に、ヴィルヘルムがその兵の目の前まで迫っていた。

 「ぬぅん!」

腕を掴んでねじり上げ、力任せに杖をもぎ取って地面に叩きつける。

 「あっ…」

フードが外れ、一瞬、どこかで見た様な顔が見えた気がした。けれど考えている暇なかった。ヴィルヘルムは一連の動作のまま、その兵を地面に叩きつけ、利き腕に力を込めた。ごりっ、という嫌な音。

 「ぎゃあああっ!」

悲鳴とともに、その兵は泡を吹いて痛みで失神した。

 「…お前は」

白目をむいた男の顔を見下ろして、ヴィルヘルムはようやく、それが誰だったのかを思い出した。

 「リューベン…か?」

そうだ。ワイト家の次期領主、セレーンの義理の叔父。卑劣な手段を用いて姪から魔法道具アーティファクトを奪おうとしていた、あの男だ。

 なぜ、ここに ――こんな戦場の只中に? しかも、一族の面汚し扱いされていたとはいえ、一応はワイト家の縁者であるはずのこの男が、なぜアルアドラス領の兵たちと共にいる? しかも、…魔法道具アーティファクトまで携えて。

 ヴィルヘルムは思わず辺りを見回して、ワイト家の兵らしき者が他にいないことを確かめた。

 分からないことはあるが、今ここで考えても仕方がないのも事実だ。戦いはまだ続いている。彼はすぐさま頭を切り替え、壊れた杖の上を踏み越えて、痺れたまま動けなくなってる見方を助け起こして回る。まだ馬が近くにいる者は、その馬に乗せてやる。

 「大丈夫か? まだ動けるなら退却しろ。体の痺れが取れたら戻ってこい」

 「す、すいません…ヴィルヘルムさん」

見たところ、他に魔法道具アーティファクト使いは居ないようだ。それに、戦場の騒音は、少しずつ収まり始めている。正規兵の姿はなく、残っているのは傭兵たちだけ。奇襲が思ったほど成功しなかったことを知って、アルアドラス男爵は自領の兵に撤退の指示を出したようだった。

 (そうだ。フリード殿は…)

味方をあらかた回収し終えたところで、ヴィルヘルムは、自分の馬に乗って大急ぎでマイアス領の兵たちが戦っているあたりを目指した。そちらからは、まだ戦いの喧騒が響いている。ひと塊になって戦う黒い群れの中に、槍を振りかざすマイアス領の領主の姿が見て取れた。良かった。まだ、無事らしい。

 ――そう、ほっとするのもつかの間だった。


 今まさにヴィルヘルムが駆け寄ろうとしたその時、天から落ちて来た一本の矢が、フリードの肩と首の間に吸い込まれるように貫いたのだ。

 「…ん、ぬううっ」

 「フリード殿!」

動きを止め、馬からずり落ちようとする男の身体を、間一髪で駆け寄ったヴィルヘルムが抱きかかえる。そして、自分の馬に引っ張り上げ、馬の向きを変えて、混戦の中を突破するようにティバイス陣営のある方目指して拍車をかけた。

 頭上で、更に多くの矢がひらめいた。

 「うわああーっ」

 「ぎゃーっ」

悲鳴が響き渡る。まだ、戦場にはどちらの兵もいる。それなのに、もろともに矢の雨を振らせているのだ。

 (傭兵だから殺しても構わん、ということか?! 何たることを)

逃げるヴィルヘルムたちの両脇にも、何本もの矢が振って来る。馬の尻やヴィルヘルムの腕を掠めるものもある。けれど、駆ける速度は弱まらない。皮の上着で頭を覆いながら、ヴィルヘルムは、馬の背にしっかとへばりついて、ただただ祈っていた。


 矢の雨を逃れ、息も絶え絶えの馬の背から滑り落ちるように地面に降り立ったのは、マイアス領の陣営の前だった。控えの兵や後方支援の者たちが大慌てに駆けだしてくる。ヴィルヘルムも、馬も、あちこちに傷を負って血まみれだ。だが彼は、自分のことなどどうでも良かった。

 「フリード殿が傷を負った! 早く手当を!」

 「は、はい」

地面に仰向けにされたフリードは、陶器のような真っ白な顔をして、身体を震わせている。矢傷は深く、吹き出す鮮血は体の半分を真っ赤に染めている。首の、太い血管が破られたのに違いない。即死こそ免れてはいたものの、見込みが薄いことは明らかだった。

 「む、娘に…伝言を…」

震える手は冷たく、既に死に囚われようとしている。

 「どうか、身体を大切に…生まれて来る子を…立派に…育て、よ…と…」

搾りだすように紡がれた言葉が途切れ、男は口から赤い泡を吹いた。そして、がくりと頭を落とす。

 「フリード殿!」

 「領主様、しっかり! 領主様!」

 「急げ、湯を早く。布を…」

医療班の注意はもはや、フリードではなく、助かる見込みのあるヴィルヘルムのほうに向けられていた。医者が呼ばれ、血まみれの巨体を止血し、大きな傷を洗って縫い合わせようとしている間、彼自身はただ呆然と、フリードの冷たくなった手を握ったままその場に座り込んでいた。


 一体、何が起きたのだ? これは一体、何なのだ。


 いくら好戦的とはいえ、今までなら、リギアスのたった一か国がこれほどまでに急激に、しかも明確な敵対行動でもって接して来ることなど無かった。それに戦略も、何かがおかしかった。雨の日を待っての兵の誘導。夜霧に紛れての奇襲。魔法道具アーティファクトを使った兵の無力化。

 そして、自軍の傭兵もろとも敵軍の領主の抹殺を企むという、後先考えないあまりにも卑劣な手段。


 全てが悪い夢のようだった。

 これから――この戦場は、一体どうなってしまうのだろう?




 夜が明ける。

 損害は、マイアス領に顕著だった。戦場にした兵の八割が戦死か重症。領主が斃れたのと同じ、あの矢の雨によって命を奪われた者がほとんどだった。

 ザール領の兵はそれほどではなかったものの、やはり数人は命を落とした。ヴィルヘルムは、それらの遺体とともに戦況の報せを持たせ、ザール領へ伝令を入らせた。昨日帰らせた兵を呼び戻すだけでなく、追加の兵も必要になる。それから、近隣の他の領地にも援軍要請が必要だ。

 本来はフリードの代わりに新領主となったヘイワーズにやらせるべき仕事なのだが、そのヘイワーズがただ呆然として、妻にどう連絡しようかなどとうろたえているばかりで全く役に立たないので、期待するのも面倒になったのだった。

 ヴィルヘルムは今、包帯だらけの太い腕を組み、雨上がりの草原をじっと睨みつけていた。

 リギアス側の動きは、今のところ見えない。さすがに昨夜のなりふり構わない作戦では、向こうもそれなりの損傷は受けたのだろう。特に、高い金を出して雇った傭兵たちを捨て駒にしたのは、痛かったはずだ。

 (全く。…傭兵の世界は信用が大事なのだがな。)

リギアス連合国側の軍が傭兵を使い捨てにしたという噂は、すぐに広まるだろう。そうなれば、次からはもはや、募集に応じる者はいなくななる。

 (どうもリギアスの連中は、傭兵の世界を甘く見過ぎている気がするわい。ま、わしの知ったことではないが。…)

顎鬚をひと撫でし、天幕に戻ろうとした時、彼はふと、草原の向こうから勢いよく駆けて来る兄の馬に気が付いた。

 会議に出た時の格好まま、裾の長い白い上着を翻し、伝令とともにこちらに向かってくる。

 「おう、兄貴。どうしてこんなところにいる? まさか、兄貴まで会議を抜け出してきたんじゃあるまいなあ」

 「まさか。ちょうど、終わって家に戻ってところで報せを受け取ってすっ飛んできたんだ」

馬からひらりと飛び降りて、ハインツは、傷だらけの弟の姿に顔をしかめた。

 「…ずいぶんとまた、酷くやられたものだな。」

 「なに、深い傷は無いんだ。マイアスの医者どもが大げさに手当をしただけでな。それより、会議は、どうなった」

 「……。」

ハインツの表情が陰った

 「何かあったのか?」

 「新首長には、ハリールが選任された」

 「何?」

ぽかん、として、ヴィルヘルムはまじまじと兄の顔を見つめた。

 平時なら、悪い冗談だと笑い飛ばしていたところだ。しかし今のハインツの表情は、そんな愉快な気分にさせる余裕などひとかけらも抱かせない。

 「どういうことだ。なぜハリールが」

 「根回し…と、あとは、単純にトラキアスとの戦線の状況だ。勝っている、というのはどうやら、本当らしいしな」

 「しかし! あの男が首長では、講和など在り得んぞ」

 「そうだ。」

ハインツは、空の彼方を睨むように顔を上げた。「…この戦いは、行くところまで行く、ということだ」

 「……。」

 「決戦投票は、ベリル領のカイザル殿とハリールの一騎打ちとなった。本人たちを除く九票、結果は四対五。…マイアス領の領主殿がおらず、代理人には決選投票の権利が無かったからだ。もしもフリード殿がおられればな…」

 「…決選投票で同数ならば、前首長の後継者が一年間、仮の首長として任務に就く。」

 「そうだ。しかし、一人欠けていたばかりに…。運が悪かった、としか言いようがない」

全てが悪い冗談のようだった。まるで、誰かに仕組まれた出来の悪い台本に従って踊ったような気分だ。

 だが、現実として受け入れるより他に方法がない。一つ確かなことは、夏には終わると思っていたこの戦争は、どうやら、夏では終わりそうもない、ということ。

 そして、この南の国境線の防衛も、これまで考えていたような手ぬるい方法では足りない、ということだけだった。


 ヴィルヘルムは、つい数カ月前に行動を共にした、リギアス側のワイト領の次期党首である少女のことを思い出していた。

 セレーン。あの娘は今ごろ、どんな報せを受け取り、どんな顔をしているだろう。ワイト領はアルアドラス領のすぐ隣にある。もめ事が長引けば、代理の領主である彼女の義父は戦場に出て来ざるを得ないだろう。

 (気が重いが…、こちらも既に何人か失っているのだ。もはや止められぬか)

大きく息を吸い込んで、ヴィルヘルムは腹を括った。

 元より傭兵とは、そういうものだ。昨日の友も今日の敵となる。立場に応じて倒すべき者は変化する。戦わざるを得ないなら戦う。そのために、武器を持ち、戦うための職業がある。


 もはや、話合いで何とかなる段階は過ぎ去ったのだ。あとは、武力をもって優劣を定めるのみ。必要なだけの犠牲を積み重ねたあとでこそ、ようやく、歩みよりの余地も生まれよう。

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