第八章 それぞれの責務(2)
ヴァイスが姿を消して、一か月半。あれからヴィオレッタは、カームスの街の斡旋所で窓口業務に戻って、忙しく日々を過ごしている
本部からの依頼は、一応は完結した形になっている。報告を受け取ったはずのエヴァンジェリンからは、今のところ、何の反応も無い。追加の依頼が出されることもない。ヴァイスが会ったという、もう一人の「イーリス王家の生き残り」かもしれない謎の女について、彼女なら正体の見当もついているはずなのに、だ。
けれど一介の窓口係である彼女には、自分からその一件に関わりに行くだけの実力も、資格もない。今はただ、目の前の自分の仕事をこなすしかないのだ。
戦況についての噂は、日々、流れて来る。
夏が近づいても、ティバイス首長国は奪った峠の砦に居座っており、そこからトラキアス王国の内部へと攻撃を仕掛け続けていた。不利なのは、今のところトラキアス側だ。北部の海岸地域の一部の港は陥落し、住民たちは逃げ出す間もなく包囲されて、ティバイスに税を収めることによって元の暮らしを保障された。対するトラキアス側は得意とする山岳地帯の戦場を何とか防衛しようと試みているが、旗色は悪い。
もともと畑を作るにも適さない山岳地帯では、穀物の輸入をティバイスに頼っていた。それが今は止まっている。
騎士団を抱えているために脱走兵こそ居ないものの、傭兵を追加で雇って戦力を増強する余裕はない。国内では、東の隣国であるアイギス聖王国からの穀物の輸入も検討し始めているという。
だが、このまま防衛しきるだけでも、勝ち目はある。半年もすれば、山地の長く厳しい冬がやって来るからだ。
そのままでは、馬は寒さに耐えきれず死ぬ。人間だってそうだ。平原育ちのティバイス兵に、どこまで耐えられるか。
そんな噂話に半分耳を傾けながら、ヴィオレッタは、仕事の内容を請負人に説明していた。
傭兵募集の依頼の張り紙はカームスにも出されているが、さすがにこんな僻地では、応募に応じる傭兵もほとんど居ない。戦争の気配を感じさせるものといえば、ときおり、街の一番高いところにある大聖堂から鳴り響く、葬儀の鐘の音くらい。
街中で見かける、喪服に身を纏った遺族たちの姿は絶えることがない。
いくら、戦場で死んだ家族は天の楽園に送られて安らかに永遠の時を過ごすのだと言われても、その家族はもう、自分たちと現世で笑い合い、会話を交わすことは出来ない。
午前の仕事が終わり、昼食のために裏の休憩室に引っ込んだヴィオレッタは、ひと息ついて椅子に腰を下ろした。
「ふう。…」
暖かい陽射しが窓辺を照らし出している。ルシアンが覗き込んでいたのは、この窓だった。
ふと春先の出来事を思い出し、彼女は思わず微笑んだ。
あの青年は、今も――最前線で、剣をふるっているのだろうか。
あれからまだ数カ月しか経っていないというのに、世界は、大きく変わってしまった。見えているものも、取り巻く環境も。
(人が…たくさん死んでいく)
今日も、鐘の音が鳴り響く。
ここのところ、戦況が芳しくないという情報ばかりが流れて来る。
トラキアスの東西に別れて存在する二つの騎士団のうち、アイギスとの国境を防衛していた東方分隊の騎士たちの姿を時々、街で見かけるようになったからだ。この街は、東のアイギスとの国境から西へ向かう道の途中に位置している。彼らは西の国境線の戦場に向かうのだと思われた。
国王まで出陣しての防衛戦線は、どうやらティバイスに押され気味らしかった。このままでは冬までに、首都近くまで攻め込まれる可能性もある。
そうなったら、一体どうなる?
いや、それ以前に、今までずっと膠着状態だった戦線がどうして、今回に限ってこんなにトラキアスの奥地まで入り込めているのか。単に
(どこに行っちゃったの…ヴァイスさん)
戦争のことを考えていると、いつも考えてしまう。
彼ならこの状況を、一体どう読むだろう。
「ヴィオレッタ」
昼食を終えて、窓口に戻ろうとした時、奥の部屋から出て来た初老の男性が彼女を呼び止めた。
所長のウィレムだ。いつも奥に引きこもって忙しそうに書類の整理などをしていて、この時間に部屋から出て来るのは珍しい。
「久しぶりに"内部依頼"が出た。これから対応できる者の手配をする予定だから、マーサにも言っておいてくれないか」
「えっ?…」
受け取った依頼内容の紙に視線を走らせる。
依頼内容は、持ち逃げされた「
前回の依頼で回収されるはずだった
ヴィオレッタは眉を寄せ、じっと紙を睨みつけた。事件が起きたのは、もう五日も前だ。以前なら、この手の依頼は素早く掲示され、最優先で処理されていたのだが、内部依頼が偽造されたヴァイスの捕縛の一件以来、依頼が正規のものかどうかの確認が厳しくなり、依頼をかけられるようになるまでに時間がかかるようになってしまったのだった。
「依頼が受理されるまで、ずいぶん時間がかかってますね。これ」
「まぁそうだな。おまけに今は戦争中で、腕利きの傭兵はほとんどそっちにとられている。」
ウィレムは小さくため息をついた。「この依頼を請けられるのは信頼度が最高ランクの傭兵だけだからねぇ。誰か、手の空いている者がつかまればいいんだが…」
「あの」
ヴィオレッタは反射的に、口を開いていた。「だったら、わたしが行って来ましょうか?」
「え?」
「
「…やれやれ。ヴィオレッタ、ずいぶん傭兵生活に慣れてしまったようだね」
苦笑しながらも、ウィレムの目は真剣そのものだ。パイプに手をやり、しばし考え込んだあとで言う。
「そうだな。これは急ぎの話だ。もし君がいけるというなら、お願いしたい。」
「はい!」
「くれぐれも、危ないことはしないで。もし相手の数が想定より多い、とかあれば、すぐに退くんだよ」
「分かってますよ」
ヴィオレッタはにっこり笑った。「生き残る方法は、ヴァイスさんに沢山、教わりましたから。」
依頼には、追うべき人物の人相描きと見た目の特徴も載っていた。
年齢は二十四、斡旋所に登録して三年目。傭兵としての活動歴は浅く、もっぱら揉め事の仲介や運び屋の仕事をしていた人物。
持ち逃げされた
逃走経路は不明だが、斡旋所の情報網では、アイギスとの国境付近のサラスの街に滞在していたという目撃情報がある。
――最後の目撃情報の日付は、一日前。
依頼内容が正しいかどうかはともかく、対象者の追跡だけは先に実施していたのだ。これなら、すぐにも追い付いて仕事を終わらせられる。
(このくらい、私だって出来るわ)
自分の部屋に戻って動きやすい服に着替え、「七里跳びの靴」と杖を装備し、手早く身支度を整えながら、彼女は心の中でつぶやいた。
(本物の戦場だってもう、知っている)
エヴァンジェリンは言っていた。
"二度と戦争に使われることがないよう、
それが、斡旋所を作った、隠された目的の一つだったと。
地面をひと蹴り、次の瞬間にはヴィオレッタは、狙い通り、サラスの街の郊外に到着している。
「ふう、巧く行った」
この靴は、距離や方角がはっきりしていないと狙い通りの場所に辿り着きづらい。一度言ったことのある場所で、風景がそう変わっていなければ確実だ。この辺りは少し前にヴァイスと一緒に、アイギス経由の街道で南へ向かう時に通ったばかりだったのが功を奏した。
(さて、と…。目的の人、まだこの辺りにいるといいんだけど)
街に入り、手配の人相描きを手に聞いてみると、その人物は確かに前日はその街の宿にいて、今朝、南へ向けて出発していったところだという。
(急けば、まだ追い付けそうね)
街道沿いに移動しているなら、「七里跳びの靴」で距離を詰められる。ヴァイスと一緒に移動していた時の移動距離を思い出しながら、彼女は、少しずつ距離を調節して街道沿いの街や村を当たって回った。
それらしい人物を見つけたのは、追跡を開始してから半日ほど経った後のことだ。
街道からそれほど離れていない小さな村に、少し前にそれらしい男が立ち寄ったと言われ、彼女は、急いで次の村に先回りして逆方向から男を探した。間もなく行く手に、街道に馬を走らせてくる旅人の姿を見つけた。
間違いない。
丁寧に声をかけるのも面倒で、ヴィオレッタは杖を取り出し、走っている馬の足元めがけて振るった。瞬時に地面ごと蹄が凍り付き、馬は驚いて高く嘶きながら跳ね上がった。
「うわああっ?!」
何の警戒もしていなかった男は、馬の背中から勢いよく放り出されて草むらに突っ伏した。ヴィオレッタは駆け寄って、地面に凍り付いた蹄を引き剥がそうと躍起になっている馬をなだめにかかった。
「ごめんね、あなたに用は無いのよ。ちょっと背中の荷物を貸してちょうだいね」
ナイフを取り出し、馬の背に荷物を縛り付けていたロープを切り取って引きはがす。放り出されて呻いていた男は、自分の荷物が漁られているのに気づいて慌てて起き上がろうとする。
「お…おい、俺の荷物に何してるんだ! やめろ!」
「あなたのじゃない荷物も入っているでしょ?」
ヴィオレッタの言葉に、はっとして男の顔が硬直する。
荷物の中身を地面にばら撒いて一瞥してから、彼女は首を傾げ、男の背中に括りつけられているほうの荷物入れに視線をやった。
「そっち?」
「あ、あっ…」
男は、真っ青になりながら背中の荷物を抱え、なおも逃げ出そうとする。
「逃がさないわよ!」
ヴィオレッタが杖を振るうと、男の足元が地面と草ごと凍り付く。
「あんたっ…斡旋所から来たのか? それとも…依頼主からの…」
「どっちでもいいでしょ。盗んでいった
男は震えながら袋の中に手を突っ込み、杖を取り出した。どうやらそれが、盗まれた"火"の杖らしい。ヴィオレッタの持っているものとほとんど同じデザインだが、火と氷で雰囲気が違う。
けれど男は、この期に及んで、悪あがきをしようとした。
取り出した杖を掴んで、ヴィオレッタめがけて振り下ろしたのだ。
「! ちょっと…」
だが、一度目は不発。二度目にようやく小さな火が出た。
ヴィオレッタが慌てて距離を取ったのを見て、男はにやりとしながら、荷物を抱えてじりじりと後退していく。
「やめなさい! これ、そんな簡単に使えるものじゃないのよ。迂闊に使おうとしたら、事故が――」
言いかけた時にはもう、遅かった。
三度目に振り下ろされた杖の先からは、ぼわっと巨大な火の玉が現れて、男の前髪と袖口ごと炎に包み込んでしまったのだ。
「うっ、うわああっ! ああああっ」
悲鳴を上げながら、男は杖を放り出して火のついた手を振り回し、頭を叩いて踊りまわる。
「ほら、だから言ったのに!」
ヴィオレッタは杖を振り、男の両手と頭の先を凍らせた。火が消えて、情けない髪型になった男が呆然と地面にへたり込んでいる。
「まったくもう」
逃げる気力も失くした様子の男を横目に、彼女は転がった杖を拾い上げて、壊れていないかを確かめる。
(…あれ?)
手にした瞬間、違和感があった。
妙に新しいのだ。
自分が使っている氷の杖は、柄がくすんだ色合いで使い込まれたような細かい傷が沢山ついているのに、いま回収したばかりの火の杖のほうは、柄がつるつるで真新しい。
まるで、最近作られたばかりのような。
(どういうこと…?)
ヴィオレッタは振り返り、男に向かってたずねた。
「あなた、これを誰かに売りつけるつもりだったの」
「ふん…そんなに質のいい品なら、間違いなく依頼の報酬より高く売れる。特に今は戦争中だからな、欲しがる奴は山ほどいるはすだ」
男は悪びれた様子もない。
「呆れた。そんな理由で持ち逃げしたの」
「景気の良い時に稼ぐのが基本だろ?」
「そう。」
溜息とともに、ヴィオレッタは杖を一振りした。男の足元が勢いよく凍っていく。
「残念だけど、この業界は信頼が大事なの。依頼の荷物を持ち逃げするような運び屋なんて、誰も雇いたがらないあなたもう仕事ないわよ、それじゃあね」
「お、おい」
彼女があっさり背を向けて立ち去りかけたので、男は慌てて情けない声になった。「待てよ、これ、溶かしてくれよ! こんなままじゃ凍傷になっちまうだろ!」
「心配しなくても、近くの斡旋所に連絡して回収に来てもらうわよ。私の仕事はこれを回収してあなたを捕獲するだけだしね。それじゃ」
言い残して、「七里跳びの靴」で最寄りの斡旋所までひとっ跳び。依頼の内容と、男を凍らせてある場所を伝えて、あとは回収を見守るだけだ。これなら、非力なヴィオレッタ一人でも仕事は出来る。
回収した杖を手にカームスの街に戻ると、所長のウィレムが待ち構えていた。
「お帰り、ヴィオレッタ。さすがだねえ。実に鮮やかな手際だよ。」
いつもの、にこにこした笑顔と一緒に付け加える。「これなら次からも、簡単な内部依頼は君に任せられそうだね」
「え、ええ…。ちょっと、それは勘弁してください」
「はは、冗談だよ。で、杖のほうは?」
「はい、ここに。だけど…何だか妙なんです」
「妙?」
「新しすぎる感じがするんですよ」
ヴィオレッタの差し出した杖を受け取って、ウィレムは、眼鏡を外しながらじっくりと眺める。
「ふうむ…確かに。これは、つい最近作られたものにしか見えないね」
「どういうことなんでしょうか」
「表面だけ換装しなおした、という可能性も在り得るが、いちど解体して、使える状態で元通りにする知識がある者なんて、そうはいないだろうな。…」
眼鏡を戻して、ヴィレムは小さく溜息をついた。
「リギアス連合国の使っている
「そんな…」
ヴィオレッタは、ごくりと息を呑んだ。
「あの…"本部"は、何て?」
ウィレムは小さく首を振る。
「何とも言って来ていない」
「そんな。このままだと、まずいですよね? 数を減らしたはずの
「ああ。元の木阿弥、だ。それは分かってる…分かってはいるが、指示は出ていないんだ。ヴィオレッタ」
「どうして」
「分からん。上の方々には、何かお考えがあってのことなんだろう。…きっと」
自分に言い聞かせるように呟いて、彼は、表情を切り替えた。
「さあ、今日はもう戻って休みなさい。明日の仕事に差支えるよ。
「…はい」
ヴィオレッタは、大人しく引き下がるしか無かった。
本音を言えば、エヴァンジェリンに直接、問いただしてみたい気持ちもあった。
けれどヴァイスのように通行証を持っているわけではなく、呼ばれたわけでもないのに勝手に森に入り込んで、無事に奥まで辿り着ける自信はなかった。それに、もし辿り着けたとしても、迷惑がられるだけかもしれない。
自分たちはただの一般人、ただの駒なのだ。
高貴な血筋と責任を背負う、あの美しい姫君に意見するなど、考えられないではないか。
職場を出ると、頭上で大聖堂の鐘が鳴り響いていた。
夕刻を告げる音だ。夏の日は長く、谷の上空に見える色はまだ明るいが、既に遅い時刻になっているはずだ。
谷間を、涼しい風が通り抜けて行く。
(でも…)
髪をかきあげながら、ヴィオレッタはふと、風の吹いてくるほうを振り返った。
(ヴァイスさんならきっと、違うと思う。――あの人は、ただ待っていたりしない)
まるで、斡旋所の秘められた使命をあざ笑うかのように、真っ向から逆の行動を取る何者かがいる。
ヴァイスが出会ったという、エヴァンジェリンそっくりの女。
もう一人の王家の末裔かもしれない、というその人物の仕業だとすれば、一体、何をしようとしているのだろう。
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