第八章 それぞれの責務(1)

 嫉妬と、羨望。

 最初から、それが彼に向けられる感情の大半だった。


 入り口から玉座の前まで、射るような眼差しに囲まれながら、それでも彼は堂々と胸を張り、顔を上げて絨毯の上を真っすぐに歩いた。たとえどれだけの敵がいようとも、固唾を飲んでこの場を見守る大衆の中には、彼を認め、援護してくれる一握りの人々がいることを知っているからだ。

 光に照らされた玉座の前まで進んで、彼は片足を下り、膝をついて国王の前に首を垂れる。

 国王は、側に控える侍従に手渡された杖を手に、ゆっくりと、若き騎士の両肩に一度ずつ、先端を下ろす。

 「ヴィンセント・コルネリウス」

おごそかな声に名を呼ばれ、彼は顔を上げた。

 「そなたを、黒鷹こくよう騎士団の団員として任命する。皇太子の手足となり、この国のため身命を賭して励め」

目の前に差し出される、黒い鷹の紋様を染め抜いた騎士団の外套。

 「は。」

もう一度頭を下げてから、彼は、ヴィンセントは、それを受け取り、外套を身に着けて見守る人々のほうを振り返って、優雅に一礼した。一瞬、時が止まったように見えた。それから、ぱらぱらと拍手と歓声が、少しずつ波のように大きくなっていく。

 戸惑いと、認めざるを得ないという現実。

 彼は最前列にいて、真っ先に拍手をはじめたうら若き乙女に視線を向けて微笑んだ。彼女もまた、ほっとした様子でこちらを見つめている。あとで、二人きりになった時にゆっくり話そう。時間ならたっぷりある。挙式をしたのは数日前とはいえ、今はもう正式な夫婦で、誰に憚ることなく二人きりになれるのだから。

 この時、ヴィンセントは十七歳。妻エリーズは十八歳。

 代々騎士を務めてきた、由緒だけはあるとはいえ下級の家柄であるコルネリウス家に、名門貴族ディアルワイズ家の娘が嫁ぐのは前代未聞の珍事だったし、そのコルネリウス家の一人息子が、騎士に任命されてまだ一年しか経っておらず、目立った功績もないまま皇太子づきの精鋭騎士団に入団を認められるというのも、何か裏があるのではと勘ぐる貴族たちも多かった。


 有力貴族と縁組や皇太子との親密な関係を羨む者、口さがなく憶測の噂を流す者。

 早くも取り入ろうと接近して来る者。

 これまでの見えざる努力を知る者も、陰ながら行ってきた働きを認めてくれる者も少ないのだ。仕方がないと言えば、仕方がない。だが、分かってくれている人は分かっている。国王に近い前列の段にいて、親し気な瞳でこちらを見ている皇太子ルートヴィッヒも、その一人だ。

 だから彼は堂々と胸を張る。

 何ひとつ人に恥じることはしておらず、自分自身の力で、今、ここに立っているのだから。




 エリーズと初めて出会ったのは、七歳の時、将来騎士を目指す同年代の子供たちを集めて王城で行われた交流会でのことだった。

 いや、正確には、その会のために王城に行き、退屈になってこっそり抜け出した時、と言うべきか。ヴィンセントは、引退騎士である父に習って既に剣術の稽古をはじめていたが、他の子供たちはまだ剣を握ったことすらなく、憧れや理想を口にするばかりでちっとも話が合わず退屈だったのだ。

 (ここに来れば、誰か稽古の相手くらいしてくれると思ったのに)

貴族につきものの人脈作りだとか、お愛想だとか、そういうものには全く興味が無かった。お行儀よく雑談などしていても時間の無駄だ。

 そう思った彼は、隙を見て交流会の場を抜け出し、城の探検に出かけたのだった。

 何しろ、街から毎日見上げてはいても、城の中に入るのは初めてだ。外は厳しい警備の目があるが、中に入ってしまえば、監視など殆んどない。

 交流会の会場から建物を抜けて、反対側の庭へ。そうして、庭園をうろうろしている時にばったり、植え込みの間に腰を下ろして読書をしていた少女に出くわしたのだった。少しぽっちゃりとした、どこか内気そうな、ぱっとしない感じの地味な少女に。

 「わっ、と」

 「きゃあ!」

花壇の端に腰を下ろしていた少女に気づかずに、足につまずいて思い切り転んでしまった。しかも運の悪いことに、相手の体の上に覆いかぶさるようにして。

 ふわ、と花の香りがした。

 「うわー、ごめん。オレ、何か踏んづけてない?」

 「…うっ…」

少女は驚きからか、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせている。手元から転がり落ちた本は、すぐ側にページを開いたまま落ちている。ヴィンセントは素早くそれを拾い上げて土を払い、ページの折れているところを直して少女に差し出した。

 「ほら。」

 「…って」

 「ん?」

 「"ごめん"、って何よ! "ほら"ですって? "ほら"って…あ、あなたねぇぇ!」

突然、雷のような声とともに、怒りの感情が彼に猛然と遅いかかって来た。地味でおとなしそうな娘だと思っていたヴィンセントは面食らって、ただ目をぱちくりさせているしかない。

 少女は顔を真っ赤にしながら、手を腰に当てて彼の目の前に迫った。

 「淑女に対してその態度は何? 女性に対する礼儀作法も弁えていないとか、一体どこの馬の骨よ。あなた、名前は?」

 「ヴィ…ヴィンセント」

 「ヴィンセント、何? 家名から名乗りなさい。こういう時はそうするものよ、そんなことも知らないの?!」

 「何だよ、人に名前聞くんなら、自分は…」

 「女性に名前を聞くなら、自分が名乗ってからよっ! 当然でしょうが」

初対面だというのにあまりにも手厳しい、その少女の名前をようやく聞きだせたのは、家名を名乗って相手のいうとおり丁重に非礼を詫びて、ようやく少し機嫌を直してもらってからのことだった。


 エリーズ・ディアルワイズ。


 貴族の家名や格に疎いヴィンセントはその時なにも知らなかったが、それは、アイギス聖王国で一、二を争う有力貴族の家の家名だった。

 そして後で知ったのだが、その頃、彼女、エリーズの姉ローザには、早くに妻と死別して嫡男のいない国王の後妻に迎えようという話が持ち上がっていたのだった。

 ローザは美しく聡明で、「社交界の花」と名高い女性だった。輝かんばかりの金の髪に、透き通るような白い肌。気立ても良く、声麗しく、非の打ちどころのない淑女として評判も高かった。

 対して、その妹で年の離れたエリーズは、父に似て暗い色の髪に浅黒い肌、体質のせいで太りやすく、ぽっちゃりとして、姉に比べて見劣りのする愚鈍な娘と見られてしまっていた。本人もそのことを認識していて、だから、人前に出ることも、お茶会のような華やかな場に出ることも気が向かずにいた。当然、同年代の少女たちともろくに話が出来ず、いつも口ごもって俯いているばかりだった。ヴィンセントと出会ったその日も、気の浮かないお茶会に呼ばれて、一人になりたくて抜けだして来ていたところだった。

 彼女にとって、異性とは、見え透いたおべっかを使うか、あからさまに見下してくるか、父のように命令口調で頭ごなしに何かを言いつける存在だった。

 そのどれでもなく、しかも最低限の礼節さえなく、ずけずけと接して来る者など、生まれて初めて出くわした。それが彼女の、密かに抱いていた矜持と誇りに火をつけたのだ。


 怒りで頭が真っ白になったことで、全て忘れて怒鳴り散らしてしまったあと、最初の怒りが冷めて来るにつれて、少女の顔は別の意味で赤く染まっていった。

 「…あ、…の、まあ、その。謝ってくれたから…今日は許すわ。それじゃあ!」

 「っておい! そんなに走らなくても――」

スカートの裾を翻し、逃げるように去っていってしまう少女をぽかんとして見送ったあと、ヴィンセントは、はっとして手元を見下ろした。

 「いっけね、本…返すの忘れてた」

謝罪の仕方やら名乗り方やら、指示されるまま必死になってやっているうちに、返すのを忘れてしまっていたのだ。

 (まあ、次の機会…かな)

溜息をついて、彼は、本の赤い表紙を見下ろした。そして、それがこの国で良く読まれている、著名な騎士物語であることに気が付いた。

 ヴィンセントの家にもある本だ。

 一度くらいは読んだことがあって、確か、麗しのご令嬢と凛々しい騎士が恋をするとか、そういうありふれた話だったはず。

 (――ふうん。あの子、こういうのが好きなのか)

思わずにやりとして、彼はそれを大事に、上着の内側に滑り込ませた。

 面白いご令嬢だった。

 上流貴族の娘なんて、みんな取り澄まして何を考えているんだか分からないものだと思っていた。妙に気取ってツンツンしているか、触れただけで壊れてしまいそうな感じがして近付けないと思っていたけれど、あの子は少し違っていた。あんな風に、真正面から堂々と口を利いてくる女の子は初めてだ。

 それに、あの、怒鳴り散らしていた時の瞳の輝きといったら。


 一目ぼれとは少し違う意味で、ヴィンセントは、エリーズのことが気に入ったのだ。

 彼女が世間で何と言われているかなど気にしてもいなかった。というより、そうした評判にはとことん疎かった。


 だから次の機会、彼女の姉と国王の婚礼のあとに開かれた披露宴には、両親に頼みこんで無理やり出席者の枠に入れて貰った。

 新たに夫婦となり、美しく着飾って、国王の隣に立つ若き王妃と、彼女を取り囲むディアルワイズ家の親族一同の誇らしげな様子とは裏腹に、エリーズはただ一人、高価そうなドレスに身を包んで、少し離れた場所に憂鬱そうな顔でぽつんと立っていた。

 ヴィンセントはにやにやしながらそっと近付いて、彼女の肩を叩き、練習してきた気取った口上で声をかけた。

 「エリーズ殿、お久しぶりでございます」

 「…え?」

一瞬、怪訝そうな顔をしていたエリーズの顔が、さっと赤くなっていく。「あなた…この間の!」

 「お久しぶりでございます。覚えていてくださったとは、このヴィンセント・コルネリウス、恐悦至極…」

舌を噛みそうな単語も何とか言い終え、胸に手をやって一礼してから、彼はいたずらっぽく顔を上げて笑いかける。

 「どう? 少しは巧くなった?」

 「なにをばかなことを」

言いながら、少女も笑い出しかけている。

 新婦の妹が、誰とも知れない少年に声をかけられているのに、奇妙なことに誰も、見咎める者も、声をかけることもしないのだ。彼女は誰からも注目されてはいなかった。…日陰者、というより、ほとんど「居ないもの」として扱われていたのだった。

 周囲を見回して、エリーズは、ヴィンセントの手を取った。

 「こっちへ来て」

言いながら、近くの植え込みの陰に引っ張り込む。

 「何しに来たのよ。あなた、こんなところに来られる身分じゃないでしょ?」

 「何って、…ほら、これ」

抱えていた本を取り出し、少女の手に置く。「忘れてっただろ。返さなきゃと思って」

 「え? そんなことのために?」

 「ずいぶん読み込んだ跡があったしさ。大事なものかと思って」

 「……。」

本を受け取って、少女は、それを両手で抱いた。「ありがとう。感謝はしてよ。だけど、…こういうのは、もう、これっきりにして頂戴」

 「こういうのって?」

 「分からないの? わたしに気安く声をかけるってことよ」

 「気安く、って…。」少年は、頭をかく。「ちゃんと礼儀とか作法とかに則って声かけたじゃん。また怒られるの? どうすればいいんだよ」

 「いいこと。わたしは王妃の妹で、家の格式も高いの。あなた下級貴族じゃない。財産も無くて、土地も無くて…ほとんど…一般人みたいな家の子で」

 「うーん、よく分からないな。それがどうして、オレがあんたと話をするのに邪魔になるんだ?」

 「貴族っていうのは、そういうものなの!」

 「あんたはオレと話するのが嫌なのか?」

 「そういうわけじゃ…ないけど。」

 「なら別に良くないか? ああ、あんたの親とかが嫌がって怒るっていうんなら、ちゃんと、こっそり話しかけるから」

 「……。」

白い歯を見せて屈託なく笑う、恐れを知らない少年を前に、エリーズは狼狽えていた。今まで同年代の男の子とまともに話したことはない。話しかけられることはあっても答えられないし、それどころか、遠巻きにしてばかにされているような気配ばかり感じ取って自分から距離を置いていた。

 それなのに、この少年はそんな心の垣根さえ、いともたやすく飛び越えて、すぐ目の前にやって来た。

 「あなた、わたしを馬鹿にしているんでしょう」

本を両手で抱いたまま、エリーズは俯いていた。

 「何で?」

 「だって、お姉様はあんなにお綺麗なのに、わたしはこんなにブスで、ぽっちゃりしてて、ろくに話も愛想笑いも出来なくて…。家柄だけは良くても嫁の貰い手もないうすのろだって、馬鹿にしてるんでしょう」

 「ブス? 嘘だろ。あんた綺麗じゃないか。特にその目が」

 「…え」

 「オレはあんたの目が気に入ったんだ。嫁の貰い手ないなら、オレが貰ってやるよ。だから心配すんなって」

 「…な」

顔を上げたエリーズの顔が、みるみる真っ赤になっていく。

 「な、な…あ」

何か言おうと口をぱくぱくさせていた時、植え込みの向こうから、召使いらしき声が彼女を呼ぶ声が聞こえて来た。

 「エリーズ様? エリーズお嬢様、どちらですか?」

 「い、いけない、もう行かなきゃ。あの! ご本、ありがとうございました。」

最後くらいはとりつくろおうと、精一杯、大人びた仕草でスカートをつまみ、一礼してみせる。

 「それでは、ごきげんよう。ヴィンセント殿」

以前と同じように、スカートを翻して慌てて逃げるように去っていく少女の後ろ姿を見送りながら、少年は満面の笑みだった。

 (また、あの子に話しかけるために練習して来なきゃな)

人目を惹くから、ではない。そうしなければ、エリーズに怒られるからだ。

 エリーズもまた、それまで誰も自分のことなど見向きもしてくれないと思っていた意識に変化が生まれ、ようやく、自分にわずかに自信を持てるようになっていた。鏡の前で自分の瞳を見つめ、姉ほどではなくとも、せめてもう少し美しくなれるよう努力をしようと思い始めた。


 それから幾度もの機会を経て、二人は少しずつ、親交を深めていった。

 ヴィンセントは礼儀作法を磨き、エリーズは美しさを磨く。互いに、相手を思って身に着けていったものだ。

 そして十二の年、ヴィンセントは晴れて騎士の卵たちの寄宿舎つきの学校に入学し、目指す騎士への道を歩き始める。最初は世間のことなど何も知らなかった彼も、その頃には、エリーズとの未来を望むなら並大抵の努力では足りないことに気づいていた。

 国王の愛妃の妹、それも名門ディアルワイズ家の娘ともなれば、ただでさえ求婚の申し込みは絶えない。

 しかもその頃には彼女は、幼少の頃の評判を覆すほどの目の覚めるような美人に成長していた。「嫁の貰い手もない」などと嘆いていた頃とは、勝手が違ったのである。

 けれど、それでもヴィンセントは、妻を迎えるなら輝く瞳を持つ彼女を置いて他にいないと思っていた。

 エリーズも、婚約話を片っ端からことわり続けていた。はっきりと約束したわけではないけれど、たとえ自分が今の家柄でなかったとしても、年老いて醜くなったとしても、彼ならば、決して見捨てずにいてくれるはずだと分かっていたからだ。


 "誰にも文句の言わせない縁組となるようにする"。


それが、ヴィンセントの目標となった。

 騎士学校では見習いでありながら正規の騎士たちとの訓練では圧勝を収め、課外活動では率先して先輩騎士たちの任務を手伝った。休日も訓練を怠らず、苦手だった勉学にも必死で取り込んで好成績を収めた。

 それが皇太子ルートヴィッヒの目に留まり、正規の騎士になった暁には黒鷹騎士団に誘ってもよいとまで言ってくれた。

 最終的に、エリーズの両親が娘と下流貴族との婚約を認めたのも、その若い騎士が皇太子と懇意だったのが大きな理由だった。

 「仮に国王に嫁いだ姉のほうに男の子が生まれなかったとしても、妹の夫が次の国王になる王子の親しい友人であれば、王室との交流は持ち続けられる」。

そんな打算も当然、あったのだろう。けれど若い二人にとっては、ついに困難を乗り越えた、勝利の瞬間でもあった。


 そして、晴れの舞台。

 名もなき下級貴族の騎士と、誰も見向きをしなかった容色の優れない令嬢は、誰もがうらやむ理想の夫婦として、花道を歩いた。

 あの日、縁を繋いだ騎士物語の二人のように。




 けれど幸せに包まれた、順調そのものの日々は、突然の悲劇によって打ち砕かれた。

 皇太子ルートヴィッヒ以下、黒鷹騎士団の壊滅。ただ一人の生き残りだったヴィンセントは、誹謗中傷の嵐に晒され、あることないこと噂を流されて不利な状態に陥っていた。

 彼自身、決して浅くはない傷を負っていたにも関わらず、すぐさま弾劾裁判が開かれ、騎士団から追放された。罪状は、団規違反。「仕える主を見捨てて己の保身を図り、敵前にて逃亡することは、騎士団員にあるまじき行為である。」――そう、断罪された。

 かつて騎士団への入団を許可された時に見守っていてくれた力強い皇太子も、庇ってくれる仲間たちも、もはやこの世には居なかった。

 反論の余地すら与えられず、有罪判決とともにヴィンセントは全ての権限を取り上げられ、自宅謹慎とされた。とはいえ彼が犯人であるはずもなく、不可解な同士討ちの理由をつけられる者もいない。ありていに言えば、騎士団や王室は、そう身分も高くなく、有力な交友関係や後ろ盾も持たない年若いただ一人の生き残りに全てを押し付けて、強引に幕引きを図ろうとしただけなのだった。


 失意のヴィンセントには、もはや打てる手が無かった。

 不可解なあの霧、魔法道具アーティファクトのせいではないかと疑ってはいたものの、そのような品は無いという学者の断言があっては主張し続けることも出来ない。討伐するはずだった盗賊団についても目撃情報もなく、手がかりは見つからずじまい。

 ヴィンセントの両親、特に母は、世間や他の貴族たちからの誹謗中傷に参ってしまい、エリーズの実家は怒り心頭で早くも彼女を連れ戻したいと言って来ていた。

 八方ふさがりの中、決心がつくまでそう長い時間はかからなかった。このまま、恥辱にまみれて嘘つきの卑怯者として死ぬなんて、絶対に、嫌だった。

 「エリーズ、話がある」

薄暗い曇天が空を覆う冬のある日、ヴィンセントは、妻に切り出した。

 「オレは国を出ようと思う。あの時見たものを、誰も信じてくれない。…オレの手で仇を探し出すしかない。そのためには、どうしても、この国では駄目なんだ」

 「そう。やっぱり、そうなるわよね」

エリーズはひとつ溜息をつき、きっ、と夫を睨みつけた。

 「必ず生きて帰らなきゃ、駄目よ。それだけは約束して頂戴」

 「え」

 「相打ちで満足とか、そういうのは無し。当たり前でしょ? わたしが待ってるのよ。あなた一人で幸せな結末なんて絶対に許さない。そういうの認めませんからね」

 「…長い時間がかかるかもしれないぞ」

 「だから何?」

きっ、と挑むように見つめるエリーズの瞳には、初めて出会った時と同じ吸い込まれるような輝きが宿っている。

 「いいんだな、本当に」

 「良くはないけど。あなたが戻って来た時、わたしがおばあちゃんになっていたら、それはあなたのせいですから。文句は言わないで頂戴ね」

澄ました顔で言って、彼女は少し、笑った。釣られて、ヴィンセントも微笑む。


 出会ってから結婚するまで、約十年。

 お互いのことは、良く知っている。


 「約束だ。必ず生きて帰る。」

 「行ってらっしゃい、あなた。どうか、使命を果たし無事のお戻りを」

旅立つ騎士と妻の、それはありふれた、型どおりの挨拶ではあったが、その裏には、言葉に言い尽くせないほどの思いが積み重なっていた。


 本当は側にいたい、けれどそれは出来ない。手伝うことすら出来ない。

 旅立つ夫に一体、何をしてあげられるだろう? ただ待つことしかないのか?


 仇討ちをして、それで全てが解決するわけでもない。ただ着せられた汚名を雪ぐことだけは出来る。

 この旅をいつ終えられるのか、どうすれば終えられるのかも分からない。けれど必ず生きて戻らなければならない。


 初雪がちらほらと舞い始める冷たい風の中、ヴィンセントは、泣き崩れる母に見送られて家を後にした。

 手袋をはめていても手はかじかみそうに冷たく、白く曇ってゆく行く手を睨みつける眼差しの向こうに、まだ、目的の場所は輪郭すら見えていなかった。

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