第七章 虹の玉座と小鳥の行方(3)

 やがて草原の細い道は、リギアスに向けて南下する街道へと合流した。

 やけに人が多いのは、ティバイス首長国の街道が封鎖されているせいだろう。迂回してきた商隊や旅人たちがごったがえし、街道沿いの街はどこも人で溢れている。噂では、トラキアスとの戦線は一進一退の攻防で、今はティバイス側が優勢だという。だがこのまま冬になれば、ティバイスの兵たちは寒冷な山岳地帯には耐えられないだろう。夏の間が勝負だと、ヴァイスもそう思っていた。

 宿を探すのも一苦労で、結局、二人は街道から少し離れた街まで移動することにした。

 「あ」

街の通りに見慣れた看板を見つけて、ヴィオレッタは、少し嬉しくなった。

 「斡旋所があります。ほら」

以前リギアスへ向かった時は、街道沿いの街なら大抵見かけていたその看板は、アイギスに入ってからは皆無だったのだ。

 「傭兵嫌いだからな、この国は。自前で騎士団と兵団を抱えていて、厄介ごとが起きれば地方の分団が対処する。傭兵向けの仕事は殆んどない」

と、ヴァイス。

 「ここを除けば、国境沿いの辺鄙なところにしか窓口がない。オレが国を出たのも、仕事が無かったからだ」

 「そうなんですね…」

少し覗いてみたところでは、この街の斡旋所も、他の斡旋所とほとんど構造は変わらないようだった。依頼を貼り出す掲示板があり、読み上げ係がおり、依頼受け付けの窓口と銀行が併設されている。違うのは、すぐ隣が酒場になっていて、傭兵とも、正規の兵士ともつかない砕けた格好の男たちが、飲んだくれて大騒ぎしているところくらいか。

 その前を通り過ぎようとした時だ。

 「お? 何だお前、クビになったコルネリウスんとこの息子じゃねぇか」

ふいに、酔っ払いの一人が声を上げた。

 どきりとしたのは、むしろヴィオレッタのほうだった。ヴァイスは無視して通り過ぎようとするが、席を立った一人が、わざわざ馬の前に立ちふさがる。

 「何だよ、つれねぇなぁ。訓練生時代の馴染みだろ? 俺たちのこと、忘れたとはいわせねぇぜぇ」

どのくらい前から飲んだくれていたのか、キツい匂いがむっと漂う。腰に下げた剣からして、正規の兵ではあるようだが、今日は非番なのかもしれない・

 「この親不孝者が、尻尾まいて国から逃げ出したかと思ったら、まだこんなところでウロウロ生きてやがったのか~。他の女連れてフラフラしてるところ見ると、どうやら嫁さんのことは諦めちまったらしいなぁ」

 「ハハッ。睨むなよ睨むなよ。名門の娘を十年もほっぽらかしといて、まさかヨリが戻せるなんざ思ってねぇんだろ。あんたの愛しの奥様は、とっくに実家に連れ戻されちまってるよ」

 「……。」

 「噂じゃあ、グレーン公に娶らせるって話で進めてるらしいぜ。良かったな、これであんたも心残り無く好き勝手出来るなぁ」

ゲラゲラと笑う声が通りに響き渡る。

 むっとして何か言い返そうとするヴィオレッタだったが、ヴァイスは腕をつかんで制止し、小さく首を振ると、行く手を阻んでいた男の身体を押しのけてその場を後にする。茶化すような笑い声にも、口汚い野次にも、一切反応しない。

 次の通りに入ったところで、ヴァイスは、ようやくヴィオレッタの腕を放した。

 「ヴァイスさん…」

 「ほっとけ。あいつらだって、こんな時間にこんな辺境で飲んだくれてるからには、出世街道からは外れちまってるんだよ。大方、何かやらかして騎士団からは追放されたんだろう」

随分と、淡々とした口調だ。

 「でも…奥さんのことは…。」

 「エリーズのことは心配していない。実家に連れ戻されたなら、少なくとも、生活には苦労してないはずだ。元気でやってるなら、それでいい。」

振り返って、彼は、俯いているヴィオレッタの頭にぽん、と手をやった。

 「そんな顔するなよ。心配してくれるのは有難ぇが、あいつのことは、オレが一番よく知ってる。幼馴染でもあるしな。オレが戻るまで待ってるって言ってくれたんだ。再婚なんて承諾するはずがない。一度決めたことや約束は、絶対に曲げねぇ。昔っから、そういう女なんだ。」

 「……。」

 「オレは、今のオレに出来ることをやるだけさ」

そして、自分に言い聞かせるためでもあるかのように、付け加えた。

 「焦っても仕方無い。死んじまったら元も子も無い。絶対に生きて戻る。そう約束したからな…」



 それからアイギスを抜けるまでの数日間、ヴァイスは、立ち寄る街を細心の注意で選び、休憩を極力少なくして旅路を急いだ。

 戦火が迫っているという理由以上に、顔見知りの多い国を早く出たい思いがあったのだろう。そのお陰で、リギアス連合国との境界には予定より数日早く到達することが出来た。

 戦況の噂を聞いたのは、ちょうど、その頃だった。


 「旗色の悪いトラキアス王国は、遂に国王自ら精鋭を率いて出陣するらしい」


と。




 リギアス連合国から先は、各領地を繋ぐ木の枝のように張り巡らされた道へ入っていく。

 何年もリギアスで仕事をしていたヴァイスにとっては、良く知った道ばかりだ。馬の足取りは軽快で、旅路は順調だ。今のところ。ティバイス首長国との間で小競り合いが起きているという噂も流れて来ない。

 「ワイト領は、この間行ったメイリエル領のすぐ隣だ。一周してきた、って感じだな」

長閑な牧草地を駆け抜けながら、ヴァイスが言う。

 「昔のイーリスの王女様が滞在していたところ…って、言ってましたよね。でも、ハイモニアの首都って今のアイギスの首都と一緒ですよね? どうして、こんな離れたところに来ていたんでしょうか」

 「ああ、そりゃ多分、リチャード王子の別荘でもあったんだろう」

ヴァイスはこともなげにいう。

 「リチャードってのは女ったらしで、王都にいる正妻の他に、各地に何人も愛人を抱えてたらしい。イーリスの王女も、妻や他の愛人とハチ会わせない場所に体よく監禁していたんだろう」

 「…それ、…酷くないですか?」

 「あぁ、酷いな。まぁ、イーリスのお姫様はよくも、そんな男に騙されたもんだとは思う」

馬を走らせながら、ヴァイスは複雑な表情で笑う。「運が悪かったか、よっぽどの世間知らずだったか。惚れる相手を間違えたんだ。こればっかりはしょうがねぅ」

 「しょうがねぇ、って。」

ヴィオレッタは、むすっとした顔になる。「それで騙されて殺されるなんて、あんまりですよ。私がフィロータリアなら、化けて出てでも恨みます」

 「だろうなあ。オレも、もしかしたらあれは、王女フィロータリアの亡霊だったんじゃないかって説を信じかけてる」

 「え?」

 「憎い男の子孫を探して、よく似たアイギスの王子に辿り着いてとり殺した。――なんてな。だが、オレたちは戦場で、生きてる女を見た。そいつは無関係なはずのティバイスの首長を暗殺した。あれは断じて亡霊なんかじゃ無ぇ、オレたちと同じ、肉体を持った生きた人間だ。とはいえ、百五十年前の悲劇とも無関係じゃ無いんだろう。正体も目的も、分からないんだ。今はな」

真っすぐだった道がゆっくりと曲がり、広大な農地へと入ってゆく。行く手に大きな湖があり、そこから流れ出す小川の水を引いて作物を作っているらしい。


 農地を過ぎると、小高い丘の上に立つ領主の館が見え始めた。

 「あそこが目的地だ。」

 「ここまで来ておいて今さらなんですけど…どうやって話を聞くんですか?」

 「まあ、難しくは無い。実はここの前領主には昔、雇われていたことがあってな。一人娘に武術指南もやっていた。いい子だよ」

ぽくぽくと、馬の蹄の音が並んで響く。

 「――虹のお姫様は、ワイト家がメイリエル公爵からの魔法道具アーティファクトの買い上げたんじゃないかと疑っていたが、それは無いだろう。オレは何年もかけて、リギアス諸国を周って魔法道具アーティファクトの情報を集めてた。そんな分かりやすい取引があれば気づいたはずだ。ここの領主は武人気質で、効果の不確かな"魔法"になんて頼る人じゃなかった」

馬は、領主館の目の前に広がる街に入っていく。正確には、街の側に併設する訓練場のような場所だ。

 広場には、威勢の良い掛け声とともに剣を打ち合わせる者、障害物を飛び越える馬術訓練をする者、槍で藁筒を突く練習をしている者など、若い訓練兵たちが集まっている。

 その中に、髪を結いあげて真剣に槍を構えている少女が一人、いる。

 年はヴィオレッタと同じくらいに見えるが、顔つきは既にいっぱしの兵士のようで、気の強そうな横顔には隙が無い。

 ヴァイスは馬を下りると、ヴィオレッタに手綱を任せた。

 「ちょっと待っててくれ」

部外者の男が近づいて来るのに気づいた少女が手を止めて、汗を拭いながら振り返る。

 「こんにちは、セレーンお嬢様。ずいぶんお綺麗になられましたね」

 「あなた…」

こんな若い少女にまで浮気な言葉をかけるのか、とはらはらしながら見守っていたが、心配は杞憂に終わった。

 相手が誰なのか思い出した少女は、吹き出しながら親し気に傭兵と握手した。

 「ヴァイス! その勿体ぶった態度、相変わらずじゃない。お久しぶりね、五年ぶりくらいかしら」

 「覚えていていただけたとは、我が身に余る光栄です」

 「相変わらず、大げさね」

くすくす笑いながら、セレーンはヴァイスと、その後ろで待っている。ヴィオレッタとを見比べた。ヴィオレッタは、慌てて小さく頭を下げる。今は旅装束だし、少しは傭兵仲間らしく見えるといいのだけれど、と思いながら。

 「今は傭兵の募集はしていないんだけど、何かご用?」

 「ティバイスとの間で何やらきな臭い情勢とのこと、ご領主の座を継がれたばかりで、てっきりお困りかと思い立ち寄ってみたのですがね」

 「それなら、お隣のアルアドラス男爵領のほうへ行ってみたら? あちらは、仕掛けたくてウズウズしているみたいだし。私はそういうのは興味ないの。隙を突いてティバイスに攻め込むなんて、それで相手から恨みを買って、お互い殺し合うなんて馬鹿らしいじゃない。ティバイスに友達だっているし、何も得るものもない。平和が一番よ」

 「なるほど。お母上に似て、さすがご聡明な方だ」

セレーンが僅かに表情を曇らせるのを見て、ヴァイスも声の調子を変える。

 「…お母上は、落馬事故だったとか。残念でしたね」

 「ええ。乗馬は得意な方だったのに、今でも信じられない。領地の見回りに行った帰りに雷雨に遭って、…きっと、雷に馬が驚いたんだと思うわ。父様はそりゃあひどい落ち込みようで、今でもお墓参りを欠かさないの」

 「セドリック殿ですね。かつてはお母上との関係を、ずいぶん疑われたものです」

 「そういえば、恋敵扱いだったわね。あなた母様のお気に入りだったし」

少女は愉快に笑って、明るさを取り戻す。「それで? それだけなの? あなたのことだし、まだ何かあるんでしょう」

 「ご明察です。実をいうと、ここを訪れたのは傭兵として雇われるためでは無いんですよ。仕事の依頼で、伺いたいことがありまして」

 「どんなこと?」

 「百五十年ほど前、この地に滞在していたはずのイーリス人について、です。名はフィロータリア。魔法道具アーティファクトの知識に長けた人物だったらしいのですが、彼女にまつわる情報や、魔法道具アーティファクトについての情報は何か、残っていませんかね。」

 「……うーん」

セレーンは、地面にさした槍の柄にもたれかかりながら、ちょっと考え込んだ。

 「……思いつくのは、プロポーズの装置のことかしら」

 「プロポーズ?」

 「そうなの。まったく、うちのご先祖様ったら」

少女は、なぜかくすくす笑った。

 「最近判明したことなんだけど、家宝の魔法道具アーティファクトが、実はワイト家の初代の当主が、恋人にプロポーズするために湖に作られた仕掛けだったのよ。まったく、うちのご先祖様と来たら…そっか、あれを作ったのは魔法王国の人だったのね? 考えてみれば、そうよね。ここにしかない特別な魔法道具アーティファクトだもの」

 「その魔法道具アーティファクトの作り手についての情報はありませんか。」

 「館に戻れば、何か残ってるかもしれない…でも、聞いてみいいかしら。腕利きの傭兵のあなたが、どうしてそんな、歴史家みたいなことを調べてるの?」

 「さる姫君の、たってのご依頼でして。」

 「そう。相変わらず、といえば相変わらず、なのね」

セレーンは微笑んだ。

 「いいわ。館にいらっしゃい。でもお父様には見つからないようにね」悪戯っぽく片目をつぶって見せる。「お父様、今でもあなたのこと大嫌いだから。」

 「心得ております。」

胸に手をやって、ヴァイスは、優雅に一礼してみせる。


 少女は、ヴァイスたちと一緒に館のほうに向かって歩きだした。

 「そういえば、そちらの方は? お仲間?」

 「あ、はい。ヴィオレッタと言います」

 「お若い傭兵さんなのね。ヴァイスが誰かと組むなんて珍しい」

よかった、同業者に見て貰えた。ほっとしながら、ヴィオレッタは話を合わせる。

 「今回は魔法道具アーティファクトの仕事なので、少しだけお手伝いをしているんです。あの、…領主様なんですよね。すごいです」

 「正確には、まだ継いではいないの。成人まであと二年あるから。今はまだ、父様が代理を務めているわ」

気さくな口調で言いながら、少女は、裏口から館に入っていく。

 「おかえりなさいませ、お嬢様」

すぐに使用人が駆け寄って来て、抱えていた練習用の武器などの荷物を受け取る。

 「お客様が来ているの、馬を預かってあげて。父様は?」

 「旦那様はお出かけ中です。おそらくアルアドラス様のところへ行かれたかと。」

 「ああ、挑発は思いとどまるように、っていう説得ね。まったく、面倒だこと」

まだ地位を継ぐ前だという話だったが、少女は、既に一人前の領主のように堂々と振る舞っている。

 「こっちよ」

ヴァイスたちを案内して、裏庭を突っ切って館の中へ入っていく。

 厩には立派な馬が何頭も繋がれ、使用人たちが世話をしている。

 台所では召使いたちが食事の準備。ニワトリの声。見上げると、窓枠にはワイト領の印の旗が掲げられている。

 以前訪れた、近隣のメイリエル領の領主館とは全く違う、館の隅々まで手の行き届いた雰囲気だ。それに、裏口にも関わらず活気がある。なるほど、リギアスの小国群に経済力の差があるというのは確かなようだ。




 セレーンが案内してくれたのは、館の奥にある書斎だった。領主の部屋らしく、整頓された室内には大きな書き物机があり、書類や、古そうな本を詰め込んだ書架が幾つも並んでいる。窓の向こうには、来るときに脇を通って来た大きな湖。その向こうには森が広がっている。

 「ええっと…、初代のご先祖様の覚え書きみたいなものが、確かこの辺りにあった気がするのよね」

言いながら、彼女は踏み台に乗って、書架の上の方を探る。

 「ワイト家のご先祖は、確か、元ハイモニアの衛兵長でしたね」

 「ええ。貴族じゃなかったし、だから今でも、武人であることにこだわりを持ってるの。ハイモニアが分裂する時には、つく勢力に悩んだって――あっ、在ったわ」

ヴァイスがそれとなく踏み台に近付いて、下りる時に滑り落ちないよう台を支える。特に意識した様子もなく自然にそうした振舞いが出来るのは、いつもながら見ていて感心するとヴィオレッタは思った。

 本棚から取り出した小さな手帳のようなものを、セレーンは、窓際の書き物机の上で広げた。

 百年以上も前のものだ。革表紙も中の紙もずいぶん色あせて、インクで書かれた文字も掠れている。

 「ええっと…フィロータリア、だったわよね? イーリス人の客人がいたっていう記述を見つければいいのかしら」

 「ええ。名前が違っていても、誰かイーリス人がいたか、魔法道具アーティファクトに関する話が出て来ればいいのですが」

 「ちょっと待ってね。後ろの方は戦争の話ばっかりだし、もっと前かしら…」

少女はしばらく、頁を行きつ戻りつしていたが、やがて、探していた部分を見つけ出した。

 「あったわ。ここね。…『今日、ランセルに客人を迎える。リチャード様から申しつけられた方を迎えに行った。イーリスの姫君。まだ幼く見える。美しい方だった。しばし当家で預かることになる』」

ヴィオレッタは、思わずヴァイスのほうを見やった。黙ってはいるが、彼も、驚いている。

 まさか本当に、記録が残っているとは思わなかったのだ。

 「…それで?」

 「ちょっと待ってね。日付が少し飛ぶみたい。財政の話とか、新しく建てた館のこととか、求婚したい人のこととか…ここね。続きがあったわ。『エルローネの件を相談した。フィロータリア殿は快諾してくれた。私と彼女のために、特別な魔法道具アーティファクトを作ってくれるという。きっと気に入ってくれるに違いない。』…まあ、あの魔法道具アーティファクトのこと、こんなところに書いてあったんだ。全然気づかなかったわ」

 「情報を得てからでないと気づかないこととうのは、あるものですよ。マリーベルというのが、ご先祖がプロポーズされた方なんですね?」

 「ええ、そうよ。」

 「そのあと、どうなったんですか? その人は。」 

 「ちょっと待ってね」

頁をめくっていたセレーンだったが、ふと、指を止めた。

 「…あら」

進んで戻り、また進む。「続きが無いわね。この後は、結婚式とか新居の話とかが続いて、すぐに戦争の話になってしまっているわ」

 「戦争?」

 「このあと、ハイモニアの王様が亡くなったみたいなの。ずいぶん日付が飛んでいるから、きっと忙しかったんだと思う。」

 「…王位継承戦争の始まりか」

ヴァイスは、顎に手をやった。

 「第二王子リチャードが兄を暗殺したのは、統一王バルディダスが死んだ半年後、王位継承の儀式の真っ最中だったはずだ。その場で即位を宣言、国中が大混乱に陥った…。衛兵の長ともなれば、ワイト家のご先祖様はその時、王都にいて事件に巻き込まれていた可能性が高い。しばらく家に戻れなかったのかもしれませんね」

 「なるほど、それは在り得そうね。でも、それじゃあ、リチャード王子から預かったお客様は一体どうなったのかしら。」

 「……。」

沈黙が落ちる。

 「…フィロータリア王女は、イーリスが滅ぼされたことを知っていたのかしら」

と、ヴィオレッタ。

 「その時にはもう、イーリスは滅ぼされていたんでしょう? いくら故郷を遠く離れていたとしても、何か聞いていたかもしれない」

 「それは、彼女がどういうつもりで国を出奔したかにもよるだろうな。最初から故郷を裏切るつもりでリチャードについたのか、何も考えず無邪気に協力したのか」

 「うーん。どうやら、あまりお役には立てなかったみたいね」

古びた手帳を閉じ、セレーンは、首を傾げた。

 「それに何か、あなたたちには複雑な事情があるみたいね。他に、私に何か他に手助けできることはあるかしら?」

 「いいえ。十分ですよ、お嬢様」

にこやかな笑顔を作って、ヴァイスは丁寧に頭を下げた。

 「我々のために、お時間を割いていただき誠に感謝いたします。この御恩に報いて、いつかお嬢様がお困りの際には必ずや、お力になりましょう」

 「あら、いいの? そんな約束なんてしちゃって」

笑ってから、少女はふと真顔になり、真っすぐに男を見上げた。

 「…でも、約束してくれるなら、一つだけ。もし近い将来、我が家が戦争に巻き込まれて傭兵の募集をかけざるを得なくなったら、その時は、あなたには敵側で参戦しないでいただきたいわ。そんなことは起きないように務めるつもりだけれど、もしどうしても、というなら、あなたほどの傭兵は、絶対に敵にしたくない」

 「分かりました。約束しますよ」

数秒、真剣な眼差しが交わる。


 ヴァイスが別れの言葉を告げようとした、その時だ。

 「お嬢様。」

使用人が、扉を叩く音がする。「旦那様がお戻りのようです」

 「あ…分かったわ。ありがとう」

慌てて、セレーンはヴァイスたちのほうに視線をやった。

 「裏口から出て頂戴。私は、表門で父様を迎えるから」

 「おっと。かしこまりました。それでは、ご縁があればいずれまた」

 「ありがとうございました」

ヴィオレッタも、出来る限り丁寧に頭を下げる。


 別れは慌ただしく、セレーンとはその場で別れた。

 預けていた馬に乗り、大急ぎで裏門を出るのと入れ変わるように、セレーンの義父とお付きの乗る馬が表門の跳ね橋を渡っていくのが見えた。難しい表情をして、何やら考え込んでいるふうでもある。

 「あの様子だと、どうやらアルアドラス家の当主の説得には失敗したらしいな」

ヴァイスが呟く。

 「セレーンお嬢様との約束、考えておいたほうがいいかもしれん。」

 「……。」

もし、ティバイスとリギアスの間で戦争が起きるとすれば、戦場は両者の国境に近い地方になる。筆頭はマイアス領、その奥にあるのがザール領。

 (ザール領というと、あの、ヴィルヘルムって傭兵の故郷だな。)

ヴァイスは、以前、戦場で出会った、大柄な領主の代理人のことを思い出していた。腕がたちそうな雰囲気だけでなく、幻霧げんむの香炉の効力に絶えてみせた、恐るべき精神力の持ちぬしだ。

 (もしリギアス側につくとなると、今度は、あいつとは敵として戦うことになるな。…)

馬を走らせながら、彼は苦笑する。

 昨日の友も、明日には敵となる。

 つく陣営がその時によって異なる傭兵ならではの事情ではあるが、味方にして心強い者は、ほぼ例外なく、敵に回すと厄介なのだ。

 「あの…、これからどうするんですか?」

隣からヴィオレッタが尋ねる。

 「まだ手がかりは、ある。ランセルだ」

 「ランセル?」

 「ワイト領の北にある別荘地でな。さっきの手記に『ランセルに客人を迎える』と、あっただろう。…おそらく、ワイト家の当主は、フィロータリアを別荘に住まわせていたんだろう」

 「ああ! なるほど。それで…」

 「ただ、何か残ってるかどうかは分からん。もし何もなければ、地元の歴史研究家でも探すしかないかもな」

畑と牧草地が、その向こうに、きらめく湖面が通り過ぎて行く。

 (――あの手記には日付の記録が無かったが、イーリスが滅ぼされたのはハイモニアが大陸全土を支配した直後だったはずだ。統一王バルディダスが死んだのは、その二年後。…プロポーズのための魔法道具アーティファクトが作られたのが王位継承戦争の始まる少し前だというのなら、フィロータリアがここへ来た時と、イーリス滅亡は、かなり近い時期かもしれない)

フィロータリアは、故郷が滅びたことを知って安心してリチャードの側を離れたのか。或いは、リチャードがフィロータリアにイーリス滅亡を報せないためわざと遠方へやったのか。

 いずれにしても、その後の王位継承戦争でワイト家は、リチャードではなく、リチャードに離縁された妻とその息子の側につき、リギアス連合国の一部として独立する道を選ぶ。トールハイム寺院の近辺は、その際に戦場となり、多くの兵が命を落とした。

 最初にリチャードへの愛の言葉を書き残していたからには、フィロータリアは、おそらくハイモニア側の防衛軍として参加していたはずなのだ。


 彼女は愛する人が援軍を連れて助けに来てくれると信じ、孤軍奮闘したのかもしれない。

 それでも待ち望んだ援軍は現れず、――だとしたら、あの暗がりの中に一人取り残された絶望は、どれほどのものだっただろう。

 リチャードが彼女を故意に見捨てたのか、助けようとして援軍を回す余裕が無かったのかは分からない。ただ言えることは、フィロータリアは最後に、自分は見捨てられたのだと理解したのだ。

 そして愛は、憎しみへと転嫁された。


 おそらくフィロータリアの戦線離脱後、強力な魔法道具アーティファクトの使い手を失ったハイモニアの防衛線は崩され、南部はリギアス連合国として独立を果たす。王位を宣言したリチャードが凶刃に倒れるのは、それから七年後。自らの暗殺した兄の息子による復讐だった。当時皇太子だったリチャードの息子は、草原の民を頼って国外に逃亡し、それがティバイス首長国成立の決定打となる。

 領土と主要な王族、有力貴族を次々と失ったハイモニア王国は、過去を清算し、周囲に誕生した各勢力との友好を結ぶため、統一王の末娘、王女マデリーンの家系を王家として、新たに「アイギス聖王国」を名乗り始める。


 それは、大陸全土の統一からわずか十数年後のことだった。

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