第七章 虹の玉座と小鳥の行方(2)
エヴァンジェリンからの新たな依頼をこなすためには、もう一度、リギアス連合国へ戻らなければならない。
けれどトラキアスとティバイスの戦争が続いている今、以前と同じ街道は使えない。
「遠回りだが、アイギスから周る街道を行くしかないな…。」
ヴァイスは、気乗りのしない様子でそう言っていた。「一度、カームスの斡旋所に行ってくる。他に道が無いかは、そこで少し情報収集をしてみよう。あんたは少し体を休めるなり、ゆっくりしててくれ」
本部依頼とはいえ、一応は斡旋所の窓口で正式に受けた依頼だ。報告のために斡旋所に寄って、ついでに事務手続きをして来る、という。ヴィオレッタも、しばらく戻っていない社員寮がわりの部屋のことや、同僚たちの様子が気になって、一緒に行くことにした。
久しぶりに戻って来たカームスの街は、表面上は以前と変わらないように見受けられた。だが、お祭りの時期でもないのに巡礼者が多い。
大聖堂へと続く坂道を徒歩で歩く、喪服に身を纏った女性たちの姿を見た時、その理由は判明した。
エデン教の十字架を握りしめ、祈りの文句を呟きながら俯いて歩く女性たち――戦場で家族を失くした遺族なのだ。エデン教の教義では、戦って死んだ者は、最高の栄誉と共に永遠の楽園へと到達できる。彼らの名は大司教によって読み上げられ、祝福され、天へ送られることになっている。これから、その儀式を兼ねた合同葬儀が行われるのだろう。
(戦いはまだ、続いているんだ…。)
死者は日々、増えていくことだろう。そしてこの儀式も、これからも、何度も繰り返されるに違いない。
一時のこととはいえティバイス側で参加していたヴィオレッタは、複雑な思いで大聖堂へと続く行列を見上げていた。
ここには、あの日の戦いで倒れた騎士たちの家族も、いるかもしれないのだから。
斡旋所は思っていたより空いていたが、いつもよりは混雑していた。明らかに、仕事を求める傭兵の姿が多い。
「ヴィオレッタ!」
いつものように掲示板の前に立って読み上げをしていたアーティが、入り口から求職者のように入って来たヴィオレッタを目ざとく見つけて声をかける。「戻って来たの?」
「ええ、でも、まだ全部は終わっていないの」
彼女はそう言って、窓口に向かうヴァイスのほうにちらと視線をやった。「所長はいらっしゃる?」
「奥にいるはずよ。あ――こっちまだ仕事中だから。あとでね」
「うん」
視線を掲示板のほうに戻し、アーティは、にこやかな仕事用の笑顔で求職者たちのむうに向きなおる。張り出されている依頼の中に、「トラキアス王国公式依頼 防衛戦線」という文字がちらりと見えた。王国からも、正式に志願兵の募集が出ているのだ。ここの窓口なら、最新の戦況も情報として入って来ているだろう。
ヴァイスは、窓口でマーサと話し込んでいる。前回の仕事の報告か、情報収集のための相談か。
そちらは彼に任せておくことにして、ヴィオレッタは、職員用の入り口のほうへ周った。休憩室の奥に事務作業のための部屋がある。所長は、いつもならそこにいる。
「失礼します」
声をかけて扉を開くと、椅子に腰を下ろし、パイプの煙をくゆらせている穏やかな雰囲気を持つ初老の男性の背中が見えた。
この斡旋所の所長、ウィレムだ。
いつもと同じように洒落たベストを着こみ、新しく入って来た依頼の紙を捲っている。
ウィレムは、ヴィオレッタが入ってきたのに気づいて振り返り、目尻に皺を寄せて微笑んだ。
「おや、お帰りヴィオレッタ。初めての遠出はどうだったかな?」
「こんなに大変だと思いませんでしたよ。…私を指名したの、所長でしたよね」
「はは、すまんな。一番元気なのが君だと思ってね」
笑いながら、男は椅子を反対側に回して、ヴィオレッタにソファを勧めた。「まあ、そこに座りなさい。
「ええ」
部屋の奥にいるのに、この男は斡旋所の中で起きていることはいつだってお見通しなのだ。それもきっと、どこかに
「どうだった。彼の仕事ぶりは」
「どう、…ですか。傭兵としての腕、って意味なら、すごく強いです。難易度の高い仕事でも安心できます。あと、元騎士っていうだけあって、意外と上品なところがあるし、それとなく気を遣ってくれて…。最初は信用ならないと思ってたんですけど、ほんとは、正直でいい人だと思います。」
「ふうん、それじゃ、姫様の見立ても、ベリサリオの斡旋所からの報告も合っていたんだねえ」
ヴィオレッタは、思わずはっとして男を見やった。
「そうだ、所長は前からご存知だったんですよね? あの森の奥に、まだ住んでいる人がいるって。連絡を取り合っていたって」
「…ああ」
ウィレムはゆったりと煙管を口から外し、ふうっと煙を吐き出した。
「我が家のご先祖様は、かつてイーリス王家に仕えていた執事だったんだ。王家の最後の願いとして、生き残った民の避難と各地への移住を手伝ったのも我一族さ。そして、ある目的をもって"斡旋所"という仕組みを作り上げた――まあ、斡旋所の作られた目的は、既にどこかで聞いたと思うが」
ヴィオレッタは頷いた。
二度と戦争に使われることがないよう、
イーリス人の末裔たちが平穏に暮らしていけるよう、手助けすること。
「あの方は、責任を感じておいでなんだ。魔法王国が滅びる原因を作ったのは、王族の一人だったという話だからね」
「…はい。それは、分かります。私も出来る限りお手伝いしたい。」
「そうか。そう言ってくれるか」
目尻に皺を寄せ、ウィレムは嬉しそうに微笑んだ。それから、椅子をくるりと回して机の引き出しから小さな箱を取り出した。
「では、新たに"虹の座"に仕えることになった君に、ささやかな贈り物をさせていただこう」
箱の中には、目を閉じ、足を折って身をちぢ込めた小鳥が一羽、入っている。赤と青の羽根を持つ見慣れた偵察用の
「えっと、…これは?」
「この子の名前は、リュピアだよ」
にこにこしながら、ウィレムは箱の中に一緒に入っていた操作用の球体を指さした。
「使っていた小鳥を取られてしまったんだろう? 量産型の小鳥は全部、個体識別名が同じなんだ。だけどこの子は特別製、個体名は、その玉にしか書かれていない。」
「あ、ほんとだ」
確かに球体の表面にうっすらと、イーリス文字で名前が刻まれている。
「これなら、簡単に操作権限を奪われることはないはずだ。それでも、もしも干渉されるようなら、操作用の球体のほうに"
「わかりました。」
ヴィオレッタは、小鳥を大切に荷物の中に仕舞いこんだ。でも、これを預けてくれるということは、彼女がこの先も本部依頼――"ラヴァス"に付き合うことを、疑っていない、ということでもある。
「えっと、あの。所長…」
「これからまた、リギアス連合国まで行くんだろう。長旅になるね」
「…はい」
驚きつつも、やっぱり、と思った。
謎の女に、小鳥を奪われた話を知っていたくらいなのだ。既にエヴァンジェリンと連絡をとって、状況を把握していたのだろう。
「君だから頼むんだよ、ヴィオレッタ。君の行動力と、恐れ知らずなところは高く買っている。この一件、どうやら、斡旋所の総力を上げて追わなければならない事態になりそうだ。」
「任せて下さい」
ヴィオレッタは頷いて、ちらと窓口のある方を見やった。そろそろ、話し込んでいたヴァイスも用事を済ませている頃だろうか。
表の入り口に周ってみると、思った通り、ヴァイスは既に外に出て、往来を眺めながら待って居た。
「お待たせしました。所長に挨拶終わりました」
「そうか。…こっちも今、正式に"次の依頼"としてリギアス行きを請けてきたところだ」
ヴァイスの手には、依頼の契約書の写しと新しい地図がある。だが、彼はどこか浮かない顔だ。
「何か、あったんですか」
「大したことじゃないんだが、目的地までは、やはりアイギス聖王国内の街道を通っていくしかないらしい。それと、どうやらリギアスでは、ティバイスが北の戦線に戦力を割いている今のうちに南の国境へ攻め入るべきじゃないかという好戦派の意見が高まっているそうでな。」
はあ、と小さくため息をつく。
「リギアスでも傭兵の募集が始まっているそうだ。ったく、どこもかしこも。どうしてそう、戦争をしたがるんだかな」
「それじゃあ、急がないといけないんですね。戦争が始まったら、リギアスに入りづらくなるんじゃないですか」
「いや。入ること自体は難しくない。リギアス連合国は、その名の通り小国の集まりだ。ただ、目的地がワイト家の領地だからな…」
言いながら、彼は手にした地図をヴィオレッタの目の前に広げてみせた。
「リギアスには、島嶼地域は除いて二十ほどの国がある。まとめ役と言うべき国はここ、ラフェンディ大公領。かつての大貴族の筆頭にして、有力貴族たちを率いてハイモニアから離反した筆頭だ。この領地の領主館のある街が、実質の首都でもある」
「ふむふむ」
「で、ワイト領はここ。…西の端で、一部がティバイスの東の端と接している。つまりは国境沿いの最前線、ってことだな。ここの領主は代々、専守防衛に務めていて、いちばん話がつけやすい。で、そのワイト領の隣が少々難のあるアルアドラス領。どちらも最近、家長が急死して代替わりしている。もしティバイスとリギアスの間で開戦するとしたら、このあたりの国境線沿いになる可能性が高い」
「さすが、詳しいですね」
「当たり前だ。政治情勢の情報は、傭兵に必須の商売道具だぞ。参加する陣営を選ぶのにも相手の状況を知らなきゃ無理だろうが」
ヴァイスはさも当たり前のように言うが、実際は、斡旋所の窓口を訪れる傭兵たちはさほど事情に詳しくないことを、ヴィオレッタは薄々知っている。勝ち目があるとか無いとか、どの戦場がどうかということより、報酬額や他の仲間の動向を重視する傾向にある。
「――と、いうわけで、ワイト家の新領主様と話が出来るかどうかは、現地の状況次第になる。」
「それは、確かに面倒ですね…」
「何にせよ、急いだほうが良さそうだ。あんたのほうの準備は?」
「問題無いですよ」
「…そうか。もう少し、家族とゆっくりしていたかったんじゃないのか」
「いいえ」
彼女は、首を振ってきっぱりと言った。ヴァイスだって、一刻も早く使命を果たして家族の元に戻りたいはずなのだ。「七里跳びの靴」に偵察用の小鳥ので持っていて、会いたければいつでも家族に会える自分が、我儘など言っている場合ではない。
「すぐ発ちましょう。そのほうがいいと思います」
「分かった」
それ以上は何も言わず、ヴァイスは、ひらりと馬に飛び乗った。
おりしも頭上の、崖の上の大聖堂のほうから、哀悼の鐘が高らかに鳴り響くところだった。
戦死者の魂を天の国へ送り届ける儀式の鐘だ。
「戦場に斃れし者たちに栄光あれ!」
街中にいた信徒たちが両手を組み合わせ、天を振り仰いで口々に唱和する。
「勇敢なる者たちに永遠あれ!」
手にした鐘が、ちりん、と音を立てる。
「ティバイスに死を!」
「トラキアスに勝利を!」
熱心に祈る人々の脇を、振り返りもせずに二頭の馬が駆け抜けてゆく。
死せる者には、もはや何も出来ない。戦いを始めるのも、終わらせるのも、まだ生きている者の仕事なのだ。
北の山岳地帯から続く道は、やがてなだらかな斜面へと至る。開けた高原に、石造りの見張り塔が見えたら、そこから先がアイギス聖王国なのだという。
道は、トラキアスから坂道を下るようにして続いていく。馬を走らせながら、ヴァイスは、どこか落ち着かなさそうにしていた。
「街道に出るまでは、この先をずっと真っすぐでいいんでしょうか」
「ああ。早く通り抜けたほうがいいだろう。この辺りにはあまり街や村は無くてな、ああいう見張り塔を起点に、たまに兵が巡回しているくらいだ」
ヴァイスが視線を向けた先には、アイギスではよく見かける円筒型の塔が、一定の間隔を置いて築かれている。それらの塔の間には、所々、城の残骸らしきものや、何か大きな柱のようなものが転がっている。
「あれは?」
「ハイモニア時代の遺跡だな。このシルシラ平原にはかつて、第二首都に匹敵する街があったらしい。トラキアスが独立する時の戦争で滅ぼされて、そのまんまだが」
「それって、ハイモニアが分裂した時の話ですよね」
「そうだ、百数十年前のな」
トラキアス王国の成り立ちについては、ヴィオレッタは学校の歴史の時間に習っていた。
大陸全土の制覇を成し遂げた統一王バルディダスの死後、二人の息子たちと、それぞれを支持する家臣たちによる後継者争いが起きたこと。
皇太子の暗殺後、その遺児は北の地へ亡命し、それがトラキアス王国の基礎となった。
「そういえば、トールハイム寺院で見た"リチャード"って名前ですけど、私、思い出しました。第二王子の名前です。兄である皇太子を暗殺して、一時はハイモニアの王に収まった人ですよ。合ってますよね?」
「……。」
ヴァイスは黙ったまま、遠くに視線を投げかけ、何かを考え込んでいた。
あの後、ヴァイス自身も少し記憶を辿って、調べてみたのだ。
現在のアイギス聖王国の祖は、統一王バルディダスの「娘」、マデリーン王女だ。兄二人が戦乱で早世し、妹姫とその夫によって国の命脈が保たれた、…と、アイギスの公の歴史では語られている。
けれどその実、語られない部分にあるものは、兄弟の家系の凄惨な権力の争奪戦。中でも話をややこしくしたのが、第二王子だったリチャードの、多数の側室と子供たちの存在だった。
(リチャードは女に目が無い浮気性な男で、離縁と結婚を繰り返し、愛人もいた、という話だ。…主要な妻だけでも三人いる。イーリスの王女を誑かしたのがリチャードだというなら、何も不思議はない)
王国の分裂は、そのリチャードが皇太子である兄を暗殺したところから始まった。
人望に厚く、騎士団からの支持を得ていた堅気な皇太子クロヴィスが死んだ後、リチャードに反旗を翻した一部の騎士たちが遺児である幼い王子を連れて北方の山岳地帯に逃亡。ほどなくして、王の座に収まった弟のリチャードは、愛人と結婚するために正妻を離縁。息子ともども追い出してしまった。そのために、妻の実家である宰相一族も反旗を翻し、南部で他の貴族たちをとりまとめ、王の権力の及ばぬ独立領のように振る舞い始めた。それが、今のリギアス連合国の元だ。
時を同じくして、草原の部族もまた、ハイモニアからの離反をもくろみ始めた。その動きがやがて、ティバイス首長国成立の切っ掛けとなる。
要するに、ハイモニアの崩壊は、敵を作りすぎた浮気な男が引き金となったのだ。
けれどそもそも、ハイモニアが大陸の覇者となる切っ掛けも、リチャードによるイーリスの王女の篭絡だったとすれば、始まりと終わりは繋がっている。全ては必然、因果応報と言わざるを得ない。
けれど、アイギスで生まれ育ったヴァイスですら、そんな、百年以上も昔の話など意識したことは、ほとんど無かった。
主と仲間たちの仇を探す旅が、アイギス聖王国の成り立ちにまつわる事実と繋がるなど思いもよらず、せいぜいが、
(亡霊、…とはな。)
彼は無意識に、腰の剣に指を滑らせていた。
果たして亡霊に、この剣は届くのだろうか?
視界の端に、見覚えのある風景が流れていく。確かこの先には、あの場所があったはずだ。
「……。」
彼は意を決し、馬の向きを変えた。
「え? どうしたんですか、ヴァイスさん」
慌てて、ヴィオレッタも馬の向きを変えて追って来る。
「悪ぃ、ちょいと寄っていきたいところがある。」
ヴァイスの視線の先には、草原に埋もれるようにして建つ、半ば崩れた石壁の残骸がある。城というには無骨すぎ、館というには小さすぎるそれは、どうやら、何か古い軍事施設の跡のようだ。
何の目印もない廃墟の前には、小さな白い花の群れが塊になって揺れている。
馬を降りたヴァイスは、深呼吸しながら苔むした壁を見上げた。
記憶にあるままだ。ここは何も、変わっていない。あの日の惨劇の痕跡は何も残されていないが、最初に異変を感じた塔の跡も、霧に包まれて逃げ惑った中庭も、混乱するルートヴィッヒを連れて逃げた門の辺りも、そっくりそのままだ。
「ここは…?」
「ハイモニア時代に作られた砦跡。…十年前、オレが仲間たちを失った場所だ」
ヴィオレッタは、はっとして、微かに顔色を曇らせた。
「…それじゃ、私はここで待って居ます。」
「ああ。」
記憶を辿りながら、ヴァイスは、一人で砦の中の、天井のない広間に歩いていった。
(盗賊たちを追い詰めた場所が、ここだ)
出口を塞ぎ、取り囲んで、楽勝だと思われた。立てこもっていた盗賊たちは大した腕でもなく、それまでの討伐隊がなぜやられてしまったのかが分からない。他に腕利きの仲間でもいるのかと、ルートヴィッヒが詰問していた時、異変が起こった。
(塔で見張っていたクロードが突然、敵襲だと叫んだ)
広間の先に見えている、半ば崩れた塔の跡を見あげ、ヴァイスは、当時と同じようにそこを駆け上がる。
(最後尾にいたオレは急いで塔に向かった。でも間に合わなかった。あいつは、塔から真っ逆さまに落ちてきて…その時、匂いがした)
塔の上に立つと、周囲の草原がよく見渡せた。穏やかな風に、草が輝きながら波打っている。
奇妙で不快な匂いに眉をひそめ、口元に袖口を当てながら霧の中に匂いの出所を探して居た時、不明瞭な視界の中で、何かが大きなものが蠢くのが見えた。何だろうと目を凝らそうとした時、背後で他の仲間たちの叫び声が聞こえたのだ。
「止めろキール! 俺だ、ライアスだ。俺が分からないのか?!」
騎士の一人が、別の騎士に突然斬りかかったのだ。混乱と怒声。慌てて広間に戻った時にはもう、事態はどうしようもなくなっていた。最初は辛うじて正気だったルートヴィッヒも、ほどなくして幻覚を見るようになった。そして――。
今にして思えば、傭兵たちによって砦の中に誘いこまれたのは罠だった。
天井が欠けているとはいえ、そこは四方が壁に囲まれている。風通しが悪く、匂いが籠りやすいのだ。「
計算の外にあったのは、
そのお陰でヴァイスは、幻覚を見ることもなく、幻聴に惑わされることもなく、最後まで正気でいられた。
(そうだ。だから、あの時に見た白い獣は、幻ではない)
正気と幻惑の間を行き来するルートヴィッヒをなだめすかし、苦労して馬を繋いでいた門のあたりまで逃げた時、それは、狙いすましたように目の前に立ちはだかったのだ。
咄嗟に剣を抜こうとしたヴァイスの手を押し
「お前は…退け。脱出して、このことを…王都に報せるんだ」
「しかし!」
「このままでは全滅だ…」
額に手をやり、荒い息を吐きながら、ルートヴィッヒは自らの剣を抜いた。
「ここで起きたことを、誰かが伝えなければ…次の隊もまた、同じように全滅する…行け、ヴィンセント。これは命令だ」
「…殿下、しかし、」
「お前は何としても、生き延びろ…お前だけは」
そうして、若い騎士の胸を突き飛ばすようにして、彼は、霧の中へと消えて行った。
「…くっ」
小さく呟いて、ヴァイスは思わず目の前の石壁に拳を打ち付けた。
何度思い出しても、悔しさで脳裏が焼けそうになる。何度考えても、あれがあの時の自分に出来た最良の行動だったのかどうか、分からないのだ。
必死で最寄りの街の騎士団分隊の駐屯地に駆け込んで救援を要請し、引き返した時にはもう、全てが終わっていた。精鋭騎士同士の相打ちの現場は誰もが正視出来ないほど凄惨で、砦から離れた場所で見つかった王子ルートヴィッヒの遺体の状態は、さらに酷いものだった。人体の原型をほとんど留めないほどに引き裂かれていたのだ。
失意のまま王都に戻った、ただ一人の生き残りを待って居たのは、主君を見捨てて逃げたという疑いと、仲間の遺族たちからの罵倒と、世間の冷たい視線だけだった。
引退騎士の父は何も反論せず、沈黙を守って家に籠り続けた。母は泣きながら、ただただ謝り続けた。
そんな二人を見ていることが辛かった。
何より、世間の冷たい視線が、娶ったばかりの妻にまで向けられることに耐えられなかった。
だから――
かすかな足音と人の気配を感じて、はっとして彼は振り返った。
咄嗟に剣に手をやりながら、足音を忍ばせて塔を駆け下りる。誰かが砦にやってくる。ヴィオレッタを待たせているのとは逆方向だ。一体だれが、こんな廃墟に用がある?
足音は、ゆっくりと広間に近付いてくる。足音からして一人だが、武装しているようだ。構えたまま、ヴァイスはその人物が壁の切れ目を潜ってくるのを待った。そして、相手とすれ違うのとほぼ同時に背後に滑り込み、剣の柄をとん、と相手の首筋に当てた。
「動くな」
「ひっ!」
ひょろりとした初老の男が、悲鳴を上げて両手を上げる。身に着けているのは粗末な皮鎧に脛宛て、それに使い古しの小手だ。頭には兜もつけておらず、灰色になった髪の毛がちょろちょろと何本か勿体ぶって垂れている以外、地肌が見えている。
いかにもみすぼらしい、地元の儲からない傭兵か、盗賊崩れ…といった風体だが、ヴァイスには、その男に見覚えがあった。
「…あんた、まさか、…アイザック?」
「む?」
ヴァイスが剣を下ろすと、男が振り返る。たるんだ目尻でしょぼしょぼと瞬きし、それから、大きく口を開けて破顔した。
「ヴィン坊! ヴィン坊じゃないか?! うはぁ、本物か? 亡霊じゃないのか?」
「生きてるよ。はぁ…ったく、あんたこそ、よく生きてたなあ」
「おうよ。そう簡単には死ねんわい」
かっかっと笑う口元に見える並びの悪い歯は、ほとんどが茶色くなり、何本も欠けている。
十年前、騎士団を追い出されて国を出ようとしていたヴァイスに、斡旋所の存在と、傭兵として生きていく道を教えてくれた男。
「相変わらずだなあ、あんた。その格好からして、斡旋所の信頼度ランクは上がって無さそうだな。」
「ふん、わしは危ない仕事はせんからな。日銭が稼げりゃあ、それでええわい。そういうお前は、噂じゃあ最高ランクまで行ったとか。ふん、出世したもんだよ」
男は、しみだらけの腕でヴァイスの胸をこづいた。
「で? お前さん、何でまたこんなところをウロついとる」
「仕事の途中だ。リギアスまで移動するのに、他の街道が封鎖されてな。そう言うあんたこそ、こんなところで何をしてる」
「こっちも仕事の途中じゃい。この廃墟の定期的な見回り。どこの酔狂が依頼したんだか知らんが、見て回るだけでいい金になるんだぞ」
「…はあ?」
素っ頓狂な声を上げたのは、ヴァイスのほうだ。
「おい、まさかその依頼、毎日朝夕に見回りして報告を上げれば週に五十ギニーってやつか」
「そうだが?」
「…。」
ヴァイスは、思わず苦笑した。まさか、依頼を請けていたのが昔の知り合いだったとは。
「その依頼、出したのはオレだよ。」
「んなっ?!」
「オレの仲間を罠にかけた奴が戻ってこないかが気になってな。あまり意味のない依頼だと思いつつ、どうしても気になって…ま、多少は昔の恩もある。あんたに金が入ってんなら、無駄じゃあなかったってことだな」
笑いながら、彼は歩きだす。
「そんじゃ、後は宜しく頼むぜ。オレも先を急ぐ旅だ。報告は上げといてくれ」
「お、おいおい。待たんかヴィン坊。わしは――」
あたふたしている老傭兵を後に、ヴァイスは、足早に馬をとめていた場所に戻る。
「待たせたな。遅れた分、少し急ぐぞ」
「はい」
馬に乗って振り返ると、息せき切って追いかけてきたアイザックが、大きく手を振っているところだった。せめて別れの挨拶を、ということなのだろう。
「あの人、知り合いですか?」
「ああ、オレがまだ傭兵になりたてだった頃に、少しばかり仕事のいろはを教わった」
夕暮れの近付く陽射しが、草原を西から照らし出す。
西の空の赤い色。
あの日、草原を染めた色。
『来るな…』
ルートヴィッヒの、呻くような声は、今も脳裏にこびりついている。
『恨み? 知らない。何のことだ。違う…私は、そんな名ではない』
片手で頭を抱え、辺りをきょろきょろと見回しながら、怯えた様子で何かを探していた。あの時、一体、彼は誰と話していたのだろう。
『誰だ? 名を言え! お前は…』
思い出しながら考えていた時、ふいに、ヴァイスの脳裏に貫くような閃光が駆け抜けた。
『…フィロータリア? 知らない。私は』
「!」
思わず勢いよく手綱を退いたせいで、馬が驚いて嘶きながら棒立ちになる。側を駆け抜けたヴィオレッタが、ヴァイスの馬が停止したことに気づき、慌てて戻って来る。
「どうしたんですか、ヴァイスさん」
「……。」
西日に照らされながら、馬の背の上で、ヴァイスは、たった今思い出した言葉に自分でも驚いていた。
フィロータリア。
確かにあの時、ルートヴィッヒは、その名を口走っていた。そうだ。――それが、あの時の襲撃者の名乗った名前だったのだ。
「亡霊…」
「え?」
「まさか、本当にそうだとでもいうのか」
彼の口元には、凄みのある笑みが浮かんでいた。
「くそっ!」
再びヴァイスの馬が走り出す。ヴィオレッタは、心配そうに後を追って来る。
そう、あの時は必死で、一刻も早く救援を呼んでこなければと、そればかり考えていた。だから意識から抜け落ちていたのだ。今になって思い出すとは――十年ぶりに惨劇の場所を訪れた、今になって。
風を切りながら、ヴァイスは唇を噛んだまま、行く手を睨み据えた。
たとえ相手が亡霊だろうと構わない。あの日の贖いは、必ずその身で払ってもらわねばならないのだ。
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