第七章 虹の玉座と小鳥の行方(1)
二頭の馬は、山道を縫うように一路、東へ向けて走り続けていた。
西の峠の砦が落とされてから、わずか一週間。その間に戦火は見る間に燃え広がり、主要な街を繋ぐ街道は騎士団優先とされ、最前線に人馬と物資を送る隊列がひっきりなしに続くようになった。噂では、トラキアス首長国は首長暗殺の首謀者をティバイス王国ときめつけて、弔い合戦のために王国全土を焦土にしてやるといきまいているらしい。そしてティバイス側では、その対応のために全力で防衛戦線を張らざるを得なくなった。
予想通りの展開だった。
そして、傭兵としての仕事を切り上げたヴァイスたちはその最中を、戦火を避けるように、カームスの街のある、アイギス聖王国との国境に近い東の山岳地帯を目指して、トラキアスを横断していたのだった。
「もうすぐ、ですね」
見慣れた山脈が眼前に迫って来るのを見やりながら、ヴィオレッタは、ほっとした表情になっていた。
リギアス連合国まで行って戻って来るだけのお使いのはずが、ずいぶん遠回りになってしまったが、なんとか無事にここまで戻って来られた。
「報告は、斡旋所よりも直接言いに行ったほうがいいかもしれないな」
と、ヴァイス。
「直接?」
「あんたの実家に寄って行こう。虹の樹海はすぐ隣だし、あんたも、久しぶりに家族に合いたいだろう」
「え、でも…」
言いかけた時にはもう、ヴァイスは横道に逸れ、ヴィオレッタの馴染みの地元である山間の小さな村々へと続く方向へ向きを変えていた。
(変に気を使ってくれてるんじゃなければ、いいんだけど)
後ろに続きながら、彼女は、先をゆく男の後ろ姿に目をやった。
あの
なのにヴィオレッタは肝心なところでほとんど役に立てず、正体を暴くまでいかないまま、こうして帰路についている。ヴァイスは相変わらず優しく接してくれ、愚痴の一つも零さなかったが、それがかえって彼女には罪悪感を抱かせていた。
行く手に、深い樹海の広がる谷間が広がっている。
――帰って来たのだ。
最初に出会った、ここへ。再び。
家を覗くまでもなく、牧場の端に馬を乗りつけたところで、中から母のミリアムが飛び出してきた。
「ヴィー! 戻って来たの」
「うん、母さん。ただいま」
駆け寄って来たミリアムは、上から下まで娘の様子を確かめ、どこにも怪我をしていないのを見て、ほっと胸を撫でおろす。
「良かった。マーサに聞いてた予定よりずいぶん遅れてたみたいだし、何だか戦争が始まるとかって噂だし…ああ、そうだ」
顔を上げ、彼女は、同行のヴァイスのほうを見やった。
「あなたが同行の傭兵さんね。無事に戻してくれて感謝するところよ、うちの子はご迷惑じゃなかったかしらね?」
「とんでもない。娘さんには大変助けていただきました。感謝しているのはこちらのほうですよ」
いつもの、他人の女性に向ける行儀良いほうの笑顔だ。既に取り繕っていない素の態度のほうを見慣れてしまったヴィオレッタにとっては、久しぶりな感がある。。
「ところで、これから少々、この奥に用がありましてね。――」彼は、にこやかな笑顔のまま、森の方に視線を向けた。「戻るまで、馬と荷物を預かっておいていただけると有難いのですが。お願いできませんか」
「え? それは――構いませんけれど…」
「あ、待って」
慌てて、ヴィオレッタははや歩きだそうとしているヴァイスの後を追う。「私も行きます!」
「ちょっとヴィー。あんたは、森に入るなって言われてるでしょ」
「でも、ヴァイスさんは報告に行くんですよ。私も一緒に行かないと…大丈夫、ですよね? ヴァイスさん」
「まぁ、駄目なら途中で止められるだろ。どうせ、あっちは見てるんだ」
彼は頭上で、さっきからくるくる飛び回っている、赤と青の羽根を持つ小鳥を指さし、にやりと笑ってから、ミリアムのほうに軽く頭を下げた。
「それじゃ、もう少しだけ娘さんをお借りしますよ。では」
「え、ええ…」
ヴィオレッタの母は、何とも言い難い表情で、二人が森に入っていくのを見送っていた。
森のすぐ隣に住んではいても、ヴィオレッタにとって森の奥深くまで踏み込むのは初めての体験だった。
一定の場所より奥には絶対に立ち入ってはならない――踏み込めば無事に戻れない、と、強く言い含められ、奥にあるものは墓所だと言われていたから、薄暗い不気味な森を想像していた。
だから、道中の不思議な静けさと明るさは予想外だった。樹海の奥は美しい緑豊かな世界で、思わず、これは夢ではないかと何度も目をこすったものだ。
苔むして埋もれた敷石は、かつての街道の後。
蔦の絡まる柱には美しい彫刻がまだ残っている。
時々、今にも動き出しそうな
「意外です。なんだか、普通の森みたいで」
「まぁ見た目はそうなんだが、罠だらけだぞ。」
ヴァイスは苦笑しながら、道端に落ちている、潰れた古い革靴をそれとなく指さした。
「そいつの持ち主がどうなったのかは…まぁ、お察しだろうな」
「……。」
片方だけの靴。それを履いていた誰かは、果たして生きて森を出られたのか、樹海のどこかに消えたのか。森に踏み込んだ人たちが、誰一人無事に戻ってこなかったのは、よく知っているのだ。
ふいに寒気を感じて、ヴィオレッタは足早にヴァイスに追い付いた。
「ヴァイスさんは、どうやって最初にここに入ったんですか。やっぱり"通行証"を?」
「ああ、そうだ。リギアスで手に入れた。ちょいと苦労したがな」
指輪は、まだ肌身離さず持っている。そのお陰なのか、それとも森の主の指示なのか、今回も、道中に仕掛けられている罠は反応しない。
やがて行く手に、大きな
その向こうには、お伽噺そのままの虹色の滝が流れ落ちている。
ヴィオレッタは思わず足を止め、夢のような風景をゆっくりと、咀嚼した。
「綺麗な…ところ、ですね…」
「ああ。昔はさぞ、壮麗な都だっただろうな」
けれど、その美しい光景の中に、人が暮らしている気配は無い。都は既に廃墟と化し、言い伝えのとおり植物に覆われて、樹海の中に沈み込んでいる。
ヴァイスはなにも居ず、門を潜り、真っすぐにどこかを目指して歩いていく。聞こえて来るのは流れ落ちる滝の音と、鳥の声くらいだ。
「あの、…」
やっぱり誰もいないのでは。
そう言いかけた時、行く手に、廃墟になっていない建物が見えて来た。
花の香り。
静まり返った死の都の中で、そこだけは、まだ、辛うじて生の気配が残されている。手入れされた茨の門、咲き乱れる多重の花弁を持つ色とりどりの花の奥に、黒い執事姿の少年が一人、影のように佇んでいる。まるで作り物のような端正な顔立ちの微動だにしないその姿は、一瞬、人間なのか人形なのか迷うほど。
ヴァイスが近付くと、少年は、ゆっくりと顔を上げた。
「よう、久しぶりだな。アステル」
ヴァイスは片手を上げ、気楽な挨拶をする。「"ラヴァス"の結果を報告に来たぜ。姫様は御在宅中かな」
「…お前たちを待っていた。こちらへ」
少年は無表情なまま言って、くるりと踵を返した。そして、正確な足取りであずま屋のほうに向かって歩いていく。ヴァイスの後ろにいるもう一人の来客についても気づいているはずなのに、特に何も言わない。
「行こうぜ。帰れって言われないからには、あんたはここに居てもいいらしい」
ヴァイスに促され、ぼんやりしていたヴィオレッタははっと我に返った。
「あっ、えっと。…今の人、ここに住んでいるんですか? まさか、…本当に、まだ、人が住んでるなんて」
「何だ、オレの言ったこと、信用してなかったのか」
「そ、そういうわけじゃ…」
「まあ、誰もいないと思われても仕方ないさ。住んでるのはさっきのあの執事と、お姫様の二人だけらしいからな。」
手入れされた花園の中に動き回っているのは、精巧な作りの、より人間に似せた形の
それらを通り過ぎると、前回訪れた時と同じあずま屋が近付いてくる。入り口には執事の少年が立ち、奥には喪服のような黒一色のドレスを纏った少女が一人、茶器を前に、物憂げな表情をして腰を下ろしている。
流れるような金髪に透き通る白い肌、神秘的な赤い瞳。ヴィオレッタでさえ思わずどきりとするほどの美貌だ。
「これは姫様、ご機嫌麗しゅう。相変わらずお美しい」
胸に手をやりながら流暢に格式ばった挨拶の口上を述べるヴァイスを、金髪の少女はじろりと睨んだ。
「形式ばったものは要らないわ。それに、ハイモニア式はきらいなの。単刀直入に聞くわ。見つけたの?あれを」
「――おそらくは」
"何を"とは聞かれなかったが、ヴァイスには、すぐに何のことだか判ったらしい。
ふうっと息を吐いて、エヴァンジェリンは小さく首を振った。
「では…あれが、
沈黙の中に、鳥の声が響いてくる。
「お前たちが寺院で発見したものについては、既にベリサリオの斡旋所から間接的に報告を受けている」
話が見えないと困ると思ったのか、アステルが横から補足を入れる。
「お前たちが調べに向かった
「首長が殺された直後に、その場にいたよ。あれは間違いなく、
ヴァイスは、はっきりとした口調で言った。「あれを使った奴が、首長を暗殺した本当の犯人だろう。一瞬しか姿は見えなかったが、間違いない。小柄な女だった」
「女…。」
エヴァンジェリンは片手を口元に当てた。「特徴は? 分かる限り教えて頂戴」
「顔も姿も見て無ぇんた。ただ、香炉の他に、杖を使っていたのは確かだ。氷でも炎でもない、風を打ち出して来る杖だった。そんな
「…風の杖、ね。」
「あの、ごめんなさい。本当は私が、その人を監視するはずだったんですけど…。」
ヴィオレッタは小さな声で付け加える。「途中で遠視の小鳥を壊してしまって。小鳥を通じて目が合った気がして、思わず視線を逸らしてしまったんです。そのせいで、墜落して壊れてしまったみたいです。…ごめんなさい」
「小鳥を壊した?」
少女は微かに形のよい眉を寄せ、宝石のような瞳をヴィオレッタに向けた。「対の石に反応もなく、一瞬で?」
「え、ええ…」
「…そう。それなら、壊れたのではないわ」
「え?」
「制御を、奪われたのよ。その女に」
予想もしていなかった言葉だった。
意味が分からず、ぽかんとしている彼女に気づいて、エヴァンジェリンはくるりと宙に指を回した。そこに、頭上をめいめいに飛び交っていた小鳥の一羽が、ふわりと舞い降りて来る。ヴィオレッタが使っていたものと同じ、精巧に作られた
「これを動かすには、本来、内側に仕込まれている
「それじゃ、えっと…つまり…?」
ヴィオレッタは両手で頭を抱えた。「目が合ったのは気のせいじゃ無くて、あの小鳥は壊れたんじゃなくて、あの人に取られちゃったってことです…か?」
「そうね。おそらくは。」
「ええー!」
「騒がしい娘だ。」
ぼそりとアステルが愚痴る声が、ヴァイスの耳にだけ届く。彼は思わず苦笑した。確かに、物静かなエヴァンジェリンと、何かにつけて感情を露わにするヴィオレッタは、全く異なるタイプだ。けれど同時に、エヴァンジェリンが妙に楽しそうなのも事実だった。アステルやヴァイスと接する時より僅かに、表情も口調も柔らかい。見た目の年齢とは逆に、まるで、無知な妹を諭しているようでもある。
「お前は森の番人をしている家の娘ね。名は」
「あっ、えっと、ヴィオレッタです。」
「ではヴィオレッタ、覚えておくことよ。
重々しい言葉だった。
少女は膝の上で指を組みながら、鋭い瞳でヴァイスを見上げた。
「だからこそ私たちは、王国が滅びた後も、奪われた
「ベリサリオの斡旋所でもそんな話を聞いた。それが、"斡旋所"の隠された存在意義の一つなのだと」
「ええ。
「…それじゃあ、私の家も?」
少女は、ヴィオレッタに頷いてみせる。
「ただ、彼らの全員が全ての事情を知っていたわけではない。都は滅びたことにしておきたかった。そうでなければ、余計な侵入者がやって来る。財宝探索家や好事家くらいならまだしも、軍隊で攻め込まれては対処出来ないかもしれない。知らなければ口の割りようもない。情報が漏れることもない」
「それで、森の番人の家でさえ、ここに何があるか知らなかった、ってわけだ。――斡旋所の"本部"ってのは、あんたのことなんだな? よく"本部"の正体を隠しおおせたもんだな」
「明言されていなくとも、古参の者は薄々気づいてはいるのでしょう。貴方が脅した、ベリサリオの会計係のようにね。少なくとも、カールムの斡旋所の代々の所長は知っている。私から直接、指示を出しているのだから」
「えっ?」
ヴィオレッタが驚いて、声を上げる。「ウィレム所長が?!」
それでは、この依頼の事情も、依頼主のことも、全て分かった上でヴィオレッタを同行者に指名して来ていたのか。
どおりで、というより、それなら理解できる。
頭に手をやって考えこんでいるヴィオレッタをそのままに、ヴァイスは、話を続けた。
「それで、あの女の正体は一体、何なんだ。今の話からして、あんたたちはイーリス人の末裔の行方はほとんど把握していそうだったな。なら、見当がついてるんじゃないのか?」
「……。」
少女は、固い表情で沈黙している。さっきからアステルは、心配そうに何度も主人の顔色を伺っている。余程、言いにくいようなことなのか。
ゆっくりと茶器を持ち上げ、一口。
それから、ようやく、意を決したように口を開いた。
「亡霊よ。…」
「亡霊?」
「居るはずの無いもの。裏切り者。かつて、このイーリスにハイモニアを引き込み、秘密を渡してしまった者…」
赤い瞳が、じっ、とヴァイスを見上げる。
「ハイモニアがどうやって魔法王国イーリスから
「……。」
一瞬、男の表情に戸惑いのようなものが過った。
それは、分裂したハイモニア王国の中心部をそのまま受け継ぎ、ハイモニアの正当な後継者を自負するアイギス聖王国の学校では、教えられることのない歴史の闇の一つだ。
けれど、ひとたび国外に出れば、多くの歴史書物と伝承が残されている。そして、
だから彼女は、ヴァイスなら"知っているはずだ"、と言ったのだろう。
「友好を装い、使者を送り込んで、王族の一人を篭絡した…言い伝えでは、そうなっているな」
「そうよ。愚かにも、王女の一人がハイモニアの王子に熱を上げ、駆け落ち同然に都を棄てた。それが、自身と故郷の破滅に繋がるとも知らず」
はっとして、ヴィオレッタは顔を上げた。
――裏切られた哀しみのあまり、都を樹林で覆ってしまったというお姫様の話。
かつて祖父に聞いたお伽噺は、部分的に本当のことだったのか?
「貴方たち、トールハイム寺院の地下で、イーリス文字の落書きを見た、と言ったわね」
「ああ」
「"リチャード"。…それが百五十年前、王女を誑かしたハイモニアの第二王子の名よ」
ヴァイスは、一瞬、言葉を失った。
「それじゃあ、あれは、裏切られた王女が遺したものだとでも?」
「
「墓…」
ヴィオレッタは、胸の前で拳を握りしめた。
「でも、あの。おかしいです。墓なら、中の壁にあんなに、文字がたくさん書かれてるはず、ないですよね? あれじゃあまるで、中で…しばらく、生きてたみたいな」
「生き埋めか」
ぼそりと、ヴァイスが呟く。
「!」
「そのリチャードって奴がオレの信じがたいほどの卑怯者なら、用済みになった厄介な女を死んだことにして生き埋めにして、強固な墓を築くくらいのことはやるかもしれん。…あんたもそう考えたんだな? 姫様」
「……ええ」
エヴァンジェリンが目を伏せると、細い、金糸のような髪がさらりと一筋、額に零れ落ちる。
「愚かなフィロータリア。もしそうだとしたら、あまりに代償は大きかった」
「酷い…そんな」
「そして、その墓が偶然暴かれて、まだ無事だった
「だから亡霊なのよ。…今の私には、そう言うことしか出来ない。」
「つまり、正体は分からないっていうんだな」
沈黙は肯定であり、否定でもある。彼女は何か、隠しているのだと、ヴァイスは思った。だが、何となく察しは着く。
彼女は、王家の血筋に連なる王家の最後の一人だ。この国を滅ぼす切っ掛けを作った百五十年前の王女は、いわば血縁者。その王女に纏わる醜聞か何か、明かしたくない身内の事情を抱えているに違いない。
「まあ、細かい話はいい。オレは、あの女の正体を突き止めたいんだ。あんたもそれは同じだろう? どうすればいい」
「もしも貴方にまだ"ラヴァス"を引き受けてくれるつもりがあるのなら、フィロータリアの最後の足取りを辿って欲しいの」
間を置かず、エヴァンジェリンはそう言った。
「新しい依頼だな。いいぜ、詳しく教えてくれ」
「現在のリギアス連合国は、かつてハイモニアの一部で、主に貴族たちの所領だった。その中に、フィロータリアが懇意にしていた一族の領地がある。子孫がまだ暮らしているはずよ。その子孫と接触して、何か心当たりを探ってほしいの」
「随分と漠然とした内容だな」
「私にも、全てが見えているわけではないわ。でも、報告のとおり、メイリエル領で掘り出された
「…資金?」ヴァイスは片手を顎に当て、しばらく考えこんでから、口元に笑みを浮かべた。「…成程な」
「フィロータリアが滞在していたのは、ワイト家のはずよ。かつて、近くにハイモニア王家の避暑地があった。」
「そこなら良く知った場所だ。了解した、姫様。この仕事、請け負わせてもらおう」
頷いて、エヴァンジェリンは傍らの少年のほうに視線をやる。
「アステル」
「はい。部屋の準備は整えております」
「え? 泊めてくれるんですか?」
空を見上げたヴィオレッタは、いつの間にか、薄暗がりが辺りに落ちていることに気づく。
既に日は西の山の端に消えている。気づかなかったのは、庭や建物にいつのまにか無数の光が灯されて、昼のように明るく辺りを照らし出しているからだ。
炎も熱もない光を放つ
驚いてきょろきょろ辺りを見回しているヴィオレッタを見て、エヴァンジェリンは、微かに微笑んだ。
「そんなに珍しいの」
「あっ…はい…あの、まるでおとぎの国みたいで」
「そう。それなら、好きなだけ見て回るといいわ。」
言い残して、少女はかすかな衣擦れの音とともに椅子から立ち上がる。そして、コツ、コツと靴音を響かせながら、庭園の奥のほうへと消えて行った。
アステルに案内されたのは、前回と同じ客間だ。相変わらず埃っぽいのは同じだが、引っ張るだけで糸くずになりそうなほど朽ちていたカーテンは新しいものに取り替えられている。よく見れば、絨毯や寝台の脇に置かれたクッションも、最近のものに変えられている。
彼らの話しぶりからしても、ここを訪れた外部の生きた人間は、イーリスが滅びて以来、初めてのことだったのだろう。ヴァイスたちが戻って来ることを想定して、その日のために準備していたのかもしれない。
「好きに使え。ただし、ここには無数の目がある。余計な真似はしないことだ」
前回と一言一句同じことを繰り返し、少年は、くるりと踵を返した。
だが、今回は少しだけ違っていた。
部屋の出口で足を止め、彼は、一言付け足した。
「エヴァ様は、お前たちを信用しようとなさっている。…裏切ろうなどと思うな。」
「…?」
振り返った時にはもう、扉が閉まるところだ。
かすかな、規則正しい足音が、廊下の向こうへと消えて行く。
(信用、ね。)
ヴァイスは、扉を見やったまま苦笑していた。ここを訪れるのは二度目。交わした言葉もそう多くは無い。斡旋所を通してヴァイスの素性や、この十年の働きぶりを調べたのかもしれないが、ずいぶんあっさり信用してくれたものだなと思ってしまう。
本当を言えば、彼は最初、エヴァンジェリンたちが「首謀者」だと疑っていたのだった。
誰も知らない
滅びたはずの都にひっそりと暮らすイーリス人。
そして、かつての宿敵ハイモニア王国の系譜に繋がる、アイギス聖王国。
疑う理由は十分すぎるほどあった。けれどその可能性は、あの二人の言動を見ていれば、簡単に排除できた。
エヴァンジェリンは本当に、
そしてヴィオレッタに対する気遣いから、同胞たちが生き残るために斡旋所を運営してきたという言葉にも信憑性があった。
つまり真犯人――
(あの姫様が斡旋所の"総元締め"なら、オレが斡旋所を通して
部屋の中をゆっくりと歩きながら、ヴァイスは考え込んでいた
(亡霊…か)
彼は窓の外に見えている、崩れかけた尖塔に目をやった。花園の奥にある建物で、さっき少女が去って行った方角だ。
あの異様な
エヴァンジェリンが何か隠しているのは確かだが、多分それは大きな問題ではない。
問題は、自分に「亡霊」を斬れるだけの力があるのか、だ。
その頃、ヴィオレッタは庭に出て、あちこちきょろきょろと見回しながら歩き回っていた。
部屋に案内されたところまではヴァイスと同じだったが、アステルの言葉を文字通り、「余計なことをしなければ好きにしていい」と解釈したのだ。
何しろ、生まれ育った家のすぐ近くにありながら、一度も奥まで踏み込むことの無かった場所だ。既に亡くなった祖父も、今の守り人である父も、この奥に何があるのかははっきりとは知らなかった。もしかしたら一緒に一度の機会かもしれないのだ。大人しく部屋に閉じ困っているなんて出来るわけがない。
辺りは真昼のように照らし出されていて、足元を危なく感じることもない。
お伽噺のように思っていた、かつての魔法王国の面影が、ここには、そのまま残されている。夜闇の中を漂う花の香り、静かに動き回っている
(すごい、すごい…本当に夢の国みたい。戻ったら、父さんや兄さんに教えてあげないと)
引き寄せられるようにして回廊を進んでいた彼女の前に、虹色の滝の輝きと音が近付いてくる。
その先にあったものは、滝壺を見下ろす場所に大きくせり出した展望台のような場所だった。水しぶきが足元まで飛んでくる。月明かりに照らされた滝の神秘的な輝きの前に足を止め、ヴィオレッタは、しばし水の輝きを見つめていた。
どのくらい、そうしていたのだろう。
「貴方、そんなにこの滝が気に入ったの」
「え?」
ふいに暗がりから聞こえて来た声に、ヴィオレッタは慌てて振り返った。
展望台の隅、灯りのない一画に置かれたベンチに、黒いドレスの少女が腰を下ろしていたのだ。
最初から言たのに違いない。暗がりで、しかも全く身じろぎもしなかったせいで、全く気づいていなかった。
「わあっ、す、すいません! 気づかなくて」
「構わなくてよ」
無表情なまま、ではあったが、エヴァンジェリンは自分の隣の、開いている場所に手をやった。「どう? ここに来ては。一番よく見える場所よ」
「えっと、はい」
断るのも失礼な気がして、ヴィオレッタは、おずおずと隣に腰を下ろした。遠目に見ていても信じられないほどの美貌だが、近くで見ると余計に、人ではないような神秘的な美しさを感じる。整った鼻筋に、どこか憂いを帯びた長い睫。この薄暗がり中では、触れれば消えてしまいそうな儚げな雰囲気だ。
ヴィオレッタが滝ではなく自分を見つめていることに気づいて、エヴァンジェリンは自嘲するように微笑んだ。
「まるで"亡霊"のようだと思っているのでしょう?」
「い、いえ! その、…なんだか消えちゃいそうな感じはしましたけど。」
慌てて手を振ってから、彼女は、視線を滝の方に向けた。
「祖父からは、ここには墓しかないと聞かされていたんです。私も、ここにはもう廃墟しかないと思ってて。だから、こんな素敵な場所が残っていて、まだ人が住んでいたのが、不思議な気がして」
「…墓、というのは間違ってはいない。
同じ方向を見上げ、少女はぽつりと言う。「ここは私の墓。戒めを負う最後の一人である私の身がいつか朽ちる時、この都の最後の灯も消えるでしょう。」
「……。」
どうして、ずっとここに暮らしているのか。他の王家の生き残りはどうなったのか。
聞きたいことはあるのに、言葉が出てこなかった。見た目の年齢はそれほど離れていないのに、その人はどこか異なる世界に生きているように感じられた。これが身分の差というものなのかな、とヴィオレッタは思った。もし魔法王国が今も存続していたら、それこそ、"王女"と"庭師の娘"なのだから。
ヴィオレッタがもじもじしながら俯いているのに気づいてか、エヴァンジェリンは、自ら話題を振った。
「貴方は、カールムの斡旋所で働いているのだったわね。どう? 街で暮らすのは」
まるで深窓の令嬢が、下々の暮らしでも尋ねるような口調だ。
「えっと、あの、結構楽しいです。家がやっぱり一番落ち着きますけど、毎日、色んな人に会えるし。」
「そう。私は――イーリス人が、イーリス人であることを隠さずに生きられる世界を作りたかったの。まだ完全ではなくても、巧く行っているなら良かった」
「あ…。」
それは、実はそれほど巧くいってはいない。
斡旋所の職員たちは今も、自分たちがイーリスの末裔であることをかたくなに隠している。彼女自身も、それを知られることを恐れて、親しくするのは同僚の、ごく一部の人間だけだ。興味本位で根掘り葉掘り聞かれることや、好奇の視線が怖い。何より、隠し持っている
かつてのハイモニア時代から、状況はそう好転していない。
ただ、
けれどヴィオレッタは、それが言えなかった。言えばこの少女は、悲しい顔をするに違いない。
胸の辺りにやった手が、ふと、細長いものに突きあたる。はっとして指でまさぐった。ベルトに挟んでおいた杖の先端。――そうだ。
「あ、あのっ」
彼女は急いで、エヴァンジェリンのほうに身体を向けた。
「私、もっと役に立ちたいです! 今だとヴァイスさんばっかり戦ってて、私はくっついてるしか出来なくて。…
たった一人で重い責任を背負い、"斡旋所"に託した百年越しの願いを叶えようと努力しているこの少女に、少しでも明るい顔をして貰いたいと思った。イーリス人が素性を隠さず生きられる時代がすぐにやって来るとは思えないけれど、少なくとも、かつてのように
首を傾げ、エヴァンジェリンはじっとヴィオレッタを見つめる。そして、彼女が本気だと分かると、僅かに表情を崩した。
「そう。――確かに貴方は
「そりゃあ、戦うのは無理かもしれないです。だけど私にしか出来ないことは、あるでしょう? イーリス人の末裔の一人として」
「イーリス人の、ね」
少女は言い含めるように繰り返し、しばし、考えこんだ。
「…では、ひとつ、大切な秘密を教えましょう」
「秘密?」
「
ヴィオレッタは、思わず姿勢を正した。
「はい」
「…
ちょうど回廊を、一体のメイド方の
「"
パキン、と微かな音を立て、人形が停止する。続けて、彼女は幾つかの単語を発する。
「アイシア、"
カリカリと微かな起動音とともに人形が、ぎこちない動きでこちら向かってやってくる。そして、彼女の目の前でぴたりと停止した。
「アイシア、というのが人形の名よ。この城に動いているものは全て同じ名になっている。これで、前の命令は消去された。核に触れて次の命令を書き込んで、始動の言葉を唱えればいい」
「え…それだけ? 今の言葉だけなんですか」
「そう。ただの合言葉。別にイーリス人でなくても、言葉さえ知っていれば誰でも止められる。命令の書き込みはイーリス語でなければ受付けないから、そこはイーリス人以外には難しかったかもしれないけれど、お決まりの命令なら、あらかじめメモしておけばいいだけのこと。"
「……。」
「貴方の小鳥が奪われたのも、個体識別名と合言葉を知っていたからでしょう。"
唖然としているヴィオレッタを見て、エヴァンジェリンは続けた。
「どう? イーリスがあっさり滅びた理由が、理解出来たかしら?」
「…はい」
たった一人の王女の裏切りで、どうしてハイモニアが魔法王国の全てを手にすることが出来なかったのは、話を聞いた時はぴんときていなかったが、今ならいやというほど理解できる。フィロータリアは、防衛に使われる
その人形の
金属の蓋を取り外して中に嵌めこまれた球体に触れ、エヴァンジェリンは、新たに掃除と巡回の命令をイーリス語で書き込んだ。命令の書き込みは、核に触れて話すだけでいいらしい。
それから、蓋を元通りにして、「"
カリカリカリ…という音とともに、再び
「これだけよ。簡単でしょう? 次に
「はい…」
たったこれだけなら、誰にでも出来てしまいそうだ。「でも、あの、この人形ってどのくらい、複雑な命令を入れられるんですか」
「どのくらい?」
「門を三つ壊したら戻って来るように、とかは」
「貴方たちが出会ったという、四足歩行の
ヴィオレッタは頷く。
「それにあれは、見た目が綺麗だったし、凄く静かに動いていたんです」
回廊には、まだ、さっきのメイド姿の
「そうね。多少複雑な動きをさせることは可能だけれど、そんな人形はもう残っていないはずだし…新造したとも考えづらい。イーリスの外で
エヴァンジェリンの言葉が途切れ、滝の流れ落ちる音が響いてくる。
ふいに、彼女はベンチから立ちあがった。
「…そろそろ、月も隠れてしまうわね。夜も更けた。もう部屋にお戻りなさい」
「あ、…」
もう少し話していたかったのだが、いつのまにか、時が経っていたらしい。滝の上にあった月は傾いて、もう、崖の向こう側に消えようとしている。
「お邪魔しました。おやすみなさい」
ぺこりと頭を下げ、ヴィオレッタは、元来た回廊を辿って客室に向かって歩き出した。
明るかった光が少し減り、沢山動き回っていた
人間ではないから眠る必要はないのだろうが、夜はを静かにするために、どこかへ姿を隠しているらしい。
しん、と静まり返った動く者のない宮殿は、今さらのように、ここが「既に死んだ都」であることを実感させた。
こんなところに、あの姫君は執事とたった二人きり、ずっと暮らしているのだ。
歩きながら、ヴィオレッタはなぜか無償に悲しくなった。森のすぐ側の牧場で、自分は今日まで何も知らず、賑やかな家族とともに暖かい家に過ごしていた。それなのに。
――風もない夜の薄暗がりに、花園から漂う微かな花の香りが漂っていた。
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