第六章 草原の戦場、鈍色の魔法人形(4)
砦が落ちようとしているその頃、目指すドラウク領の旗は既に第一の門の内側にあって、陣地をはるのに丁度よい場所の品定めをしていた。勝利を確信し、一刻も早くこの敵の砦を自陣営のものに作り変えようと考えているようだった。
得意満面に辺りを見回し、部下たちにあれこれと指図をしている立派な身なりの髭面の男を見つけると、ヴァイスは、亡骸を乗せた馬を引いて近付いて行った。
「失礼します、閣下。ドラウクの領主どのとお見受け致しましたが」
男は、いきなり話に割って入って来た不躾な傭兵をじろりと睨んだが、その傭兵が退いてきた馬の背にあるものに目を留めて、太い眉を寄せた。
「おお、カシム…死んだのか」
「立派に指揮をとって死にましたよ。あなたの息子の仇とも果敢に戦った」
ヴァイスの言葉に、男の眼がぎらりと光る。
「仇を討ったか」
「いえ。今一歩のところで――」
「ふん、では無駄死にということか。まあいい。こやつは良く働いてくれた。一族の名誉も、これで守られるだろう」
「……。」
ヴァイスは黙って、顔を伏せたままでいる。
「家族のところへ連れて行ってやるといい。後方の支援部隊の中に母親がいる。誰かに聞けばだろう」
「…承知しました」
それきり、ドラウク領の領主は死んだ若者には興味を失くしてしまったようで、部下たちに指示を出す仕事のほうに戻っていってしまった。まだ戦いは終わっていない、死んだ者より生きている者の今後のほうが大事、ということなのだろう。
言われたとおり馬を引いて、ヴァイスは、支援部隊の中に若者の家族を探した。やがて辿り着いたのは、食料や飼い葉などの物資を砦に運び込もうとしている輸送部隊だった。重たそうな食料袋をせっせと運んでいた年配の女性が、仲間に呼ばれて顔を上げ、慌てて駆けて来る。一目で、死んだ若者の身内と判る、よく似た顔立ちをしている。
ヴァイスが若者の体を地面に抱き下ろしてやると、女性は、無言にその傍らに座り込んで、血の気のなくなった白い貌に手をやった。
「…カシム?」
呆然としたまま、まだ、現実が受け入れられずにいるようだった。
「伝言がある。」
ヴァイスは、女性の傍らに膝をついて、目線の高さを合わせて告げた。
「死ぬ間際に、母と妹によろしく、と言っていた。…あんたが母親か」
女性は唇を噛み、ぎこちなく頷いた。
「…この子は、…責任感が強い子でした。ユースフ様をお守りできなかったこと…自分をずっと…責めて」
震える声とともに、涙が一粒、それからもう一粒と、堰を切ったように溢れ出してくる。
「婚約者もいるのに…まだ若いのに、どうして…どうして! あああ…」
ひとたび流れ出した涙は留まることを知らず、叫び声は、その場にいた人々を振り返らせるのに十分だった。仲間たちが駆けつけて、激しい慟哭に身を震わせ、感情を露わに泣きじゃくる女性を支え、落ち着かせようとする。
ヴァイスはそっと立ちあがり、その場を後にした。本当なら、生きたまま連れて帰ってやりたかったが、それは叶わなかった。
戦場に斃れた者の亡骸を家族の元に届け、最期の言葉を伝える。してやれることは、今となっては、それだけだ。
(…慣れないもんだな、こればっかりは)
遺された家族の慟哭は、幾度経験しても辛いものだ。
死者を下ろして空荷になった馬を引き、待たせていたヴィオレッタのところに戻ってみると、彼女もまた、膝を抱えて俯いたまま落ち込んでいた。
ヴァイスは、隣に腰を下ろして話しかけた。
「さっきの新米騎士、友達だったのか?」
「…友達ってほどじゃ、ありません。少し前に、窓口に仕事を請けにきた人です。」
「そうか。…あいつは西方分団の騎士団長の息子だそうだ。自分でそう名乗った。トラキアスの騎士団は東と西で二つに別れてる。そのうちの半分だから、まぁ、そこそこ実力のある名門の家の出なんだろうな」
「……。」
膝を抱えたまま、ヴィオレッタはぼそぼそと呟く。
「窓口に来た時、彼はまだ、人殺しはしたことがない、と言っていたんです。」
そう、落とし穴に落ちて盗賊に捕まっていたあの時、確かにそう言っていた。「初めて殺す相手は選びたい」と。
それなのに今日、彼は目の前で、ごく自然にあの、カシムという若者を殺して見せた。
血に染まった剣、返り血を浴びていた鎧。他にもきっと、この戦場で他にも、何人も命を奪ってきたのだろう。
前回会ったのは、たった一か月前のこと。
まだ騎士に叙任されてから、それだけの時しか経っていない。
「ちょっと変わった人で…物凄く腕は立つのに危なっかしくって…盗賊退治の仕事で落とし穴に落ちて…。」
彼の瞳はあの時と同じように、澄んだ色を湛えていたというのに。
「…なあ、ヴィオレッタ」
ヴァイスは、静かに言った。
「それを言うなら、隣にいるこのオレなんてな、もう何十人殺したか分からんぞ。傭兵だけじゃない、兵士でも騎士でも、戦場に立つ職業というのは、そういうもんだ。手加減して敵の命を奪わずに倒せるのは、相手が自分よりよほど弱い時だけなんだ。殺さなければ殺される。大抵はそうなる」
「……。」
「それに、あいつはトラキアスの騎士なんだ。戦っていた時、あいつはオレに言った。"ここでの仕事は指揮官の手助けだから退けない"とな。今回のことだって、自分の役目に従って戦ったまでのことだ。誰にも責められるものじゃない。違うか?」
「……。」
頭では判っているつもりなのだ。今まで仕事を仲介してきた傭兵たちがそうだったように、請け負った仕事のため、役割のために戦い、敵を倒すということ。
ただ、心がついていかない。
「――ふうーん。」
黙ったまま俯いているヴィオレッタを眺めていたヴァイスが、ふいに口元を歪めてにやりとした。
「あんた、さてはあいつのことを気に入っているんだな? まぁそりゃ悩むよな。ちょっと気になる男の子と、まさかの敵同士だもんなあ。いやあ、甘酸っぺえ。青春ってやつだな」
「な、…」
ヴィオレッタは、思わず顔を赤らめた。
「違いますよ! 何で、そういう方向に話を持っていくんですか!」
「はっはっは、冗談だ。――まあ、心配するな。オレたち傭兵の出番は多分、ここまでだ。この先はもう、騎士団とやり合う場面は無ぇだろうよ」
「もう…さっきまで必死で戦ってたっていうのに…」
頬を膨らませながら言い返すヴィオレッタの表情からは、いつの間にか、強張った表情が消えている。
笑いながら、ヴァイスは立ちあがり、鋭い視線を砦の奥に向けた。
「さて、と」
その視線の先を追ったヴィオレッタは、数人の味方に付き従われてこちらに向かってくる
人形に向かって歓声を上げるティバイス側の兵士たちと、そちらに向かって慇懃に手を振り、まるで王様のように堂々と歩いている人物がいる。アイム領の若き領主ハリールだ。そして、その少し後ろを、頭からすっぽりとフードをかぶり、足の先まで隠した人物が、なるべく目だたぬよう俯きがちに歩を進めている。
「…あの人!」
ヴィオレッタが囁く。「私が見たの、あの人ですよ! 間違いありません」
「ふん、ようやく見つけたな。これが最後の機会だぞ。」
「判ってます」
ヴァイスたちはその場を去って、様子を伺える場所を探した。彼らの戦いは、これからが本番なのだ。
足元には、長い影が落ちている。
長い一日が終わる。
ティバイス首長国軍による峠の要塞攻めは、じつにわずか一日で終わりをつげた。ハイモニアが滅び、四大勢力が拮抗するようになってから今まで、誰も成し遂げることのなかった偉業だ。
峠の要所を押さえたことで、ティバイスは、山を下った反対側の平原、海岸沿いの地域へ攻め降ることも、山々を越えて東のトラキアスの中心部へ攻め上ることも可能になった。けれどいずれを選ぶにせよ、トラキアスの騎士団は死に物狂いの猛反撃をしてくるだろう。奇襲によって一時的に支配領域を拡大することは容易でも、戦線を維持するのは難しく、とてつもない労力と戦力を必要とする。
それが分かっている者にとって、この勝利は、決して手放しに喜べるものではなく、苦い道の始まりに過ぎなかった。
砦を守っていたトラキアスの騎士たちが身一つで逃げていったせいで、後には大量の物資が残されていた。
普段は滅多に口にすることのないトラキアス産の蒸留酒やチーズなどの珍味を前に、ティバイスの兵たちは、傭兵も含めて、どこもかしこも戦勝気分の宴で飲めや歌えの大騒ぎになっている。
そんな浮かれ騒ぎを渋い顔で横目に見やりながら、ヴィルヘルムは、首長サルマンの元を目指していた。
この戦いをもって、一足先に自領に帰還する許可をもらうつもりだった。
兄のハインツに任せきりの、自領の防衛のことが気になっていた。確かに短期決戦という狙いは当たったが、問題はここから先だ。要所をひとつ落としたくらいでは、トラキアスとの戦いは終結しない。むしろここからが本番と言ってもいいくらいで、長々とした消耗戦になるだろうことは見えていた。
だからこそ、南の国境は固く守っておかねばならない。既にリギアス連合国で不穏な動きがあることは判っているのだ。南の国境の守りも手薄にはなっていない、と、リギアス側に強く示しておく必要がある。
首長サルマンは、敵の砦の中ではなく、入り口に近い第一の門のあたりに天幕を張っていた。
草原の見渡せる場所だ。ティバイスの領土が見えない場所に陣取りたくない、という気持ちからだろう。
声をかけて入り口を潜ろうとした彼は、ふと、中から聞こえてくる話し声に気づいて足を止めた。
「何度も言っておるがな、ハリールよ。戦争というものは、そう簡単に終わらん。
「またそんなことを。ご覧になったでしょう、あの人形の力を。誰も止めることは出来ず、あっと言う間にここまで戦線を押し上げた。この百年、誰も届かなかった場所まで手が届いたんですよ」
興奮したような若者の声と、老賢者のたしなめるような落ち着いた声が交互に聞こえて来る。ハリールとサルマンが会話しているのだ。天幕の奥で揺れる灯りに、二人の影が映し出されている。
「ハリールよ。判っているのか…、あれは、かつて大陸全土を荒廃させ、多くの家に破滅をもたらした戦いの遺産なのだぞ。道具など、しょせんただの道具に過ぎぬ。いつ何時、敵の手に渡るかもしれぬものに、あまり頼りすぎてはならん」
「杞憂ですよ。心配しすぎるのは、お年寄りの悪い癖だ。我が父上も、貴方も」
「ハリール!…」
天幕の入り口がさっと開いて、若者が姿を現した。そして、入り口で待って居る大男に気づいて軽く足を止める。
「おや。これは、ザール領の」
ヴィルヘルムは軽く頭を下げ、一歩、後ろに引いた。年若いとはいえ、相手は領主だ。序列で言えば彼よりも上になる。
「何か首長に用事? 待たせちゃって悪かったね。お次、どうぞ」
気楽に言って、若者はひらひらと手を振って去ってゆく。頭を下げたままそれをやり過ごしてから、ヴィルヘルムは、首長の天幕の中に滑り込んだ。
「夜分、失礼致しまする。ヴィルヘルム・アッシャーでございます」
「…む」
物憂げな顔で考え込んでいた老人が、顔を上げる。
「そろそろ潮時かと存じます。わしらザール領の兵は、ここで退かせてもらいたい。」
「リギアスのことか」
「そうです。何もない、とは思いますが、あまり長く南の戦力をからにしておくのは得策ではないかと。」
「…そうだな」
サルマンは髭に手をやって、しばし考え込んだ。
「ドラウク領のギムレイと、アイム領のハリールが追加で兵を寄越すと言っておる。それで足りるだろう。あまり多すぎても、兵糧が厳しくなるだけだ。…良いだろう。お前たちはこれで、義務を果たしたと見なそう。引き上げてよい」
「は。ありがとうございます」
頭を下げながら、ヴィルヘルムは、ちらと入り口のほうを見やった。
「――時に、先ほどアイムの領主殿と何かお話をされていたようですが。」
「ああ。この先の進軍をどうするか、についてな」
「あの
彼の頭には、昨日、味方の陣で出会った二人組の傭兵の言葉があった。
「
「ふうむ…。」
老賢者は眉を寄せ、小さくため息をついた。
「実はわしも、同じことを考えていたのだ。あれはただの道具、敵側の手に渡れば今度はこちらがやられる、と。ハリールにもそう指摘したのだが、奴めは、そんなこと在り得るはずもないと自信たっぷりで聞く耳を持たん。正体の知れぬ力には、頼らぬほうがよいのだが」
「勝利さえ得られれば、…というところでしょうかな。」
「もっとも、わしは一介の首長に過ぎぬ。トラキアスの君主のような権限は持たん。宣戦布告をしてしまった以上、行くところまでは行くしかない。…」
ヴィルヘルムも、重々しく頷いた。
「開戦に賛成した領主たちの中から、停戦か休戦の声が上がるまでは、…ですな」
開戦が十二の部族の代表者による議決で決められたものならば、終戦もまた、議決によって決められねばならない。勝利に酔っている今はまだ、停戦も、休戦も、過半数の賛成は取れないだろう。
「あと何カ月かすれば、夏が来る」
一縷の望みを託すように、サルマンは呟いた。「年に一度の会議、その席で再び議決を取ることになるだろう。それまでに、皆に嫌気がさしておれば良いのだがな…。」
首長の苦悩は、ヴィルヘルムにはよく判っていた。サルマンは元々、開戦には反対だった。隣国トラキアスとも、小競り合いはありつつも穏便に友好的な関係を築きたいと思っていたはずなのだ。この戦いに乗り気でない領主たちにとっては、出来るだけ自領の兵の損害を少なく、早めに戦いを切り上げたいところだろう。
「カイザル殿は短気な方だ。そう何カ月もかからずに、気が済むでしょう。」
せめてもの気休めに、ヴィルヘルムはそう言った。
「夏になれば牧草の刈り入れもある。兵たちとて、こんな山奥で夏を過ごしたい者は多くない」
「そうだといいと、願っている」
「では、わしはこれにて。」
席を立ち、のそりと天幕を後にするヴィルヘルムの背を、サルマンは、憂いに満ちた顔をして見送っていた。
どこか遠くのほうから、まだ、宴で騒ぐ声が響いてくる。
既に日はとっぷりと暮れ落ち。頭上には、星空が広がっている。辺りの空気は肌寒く、日が落ちてから、気温は急速に下がりつつある。砦は山の上にあり、標高が高いせいだ。
(これで、良かったのだろうか…。)
白い息を履きながら、ヴィルヘルムは自問自答した。
南の国境が心配なのは確かだが、今、自分たちが引き揚げたら、サルマンの元には嫌戦派の戦力がほとんど残らないことになる。
とはいえ、自分はあくまで領主である兄の代理に過ぎない。名の知れた古兵として、サルマンとも旧知の仲ではあるが、他の領地の首長たちのような議決権も、発言権もない。
やはり、兵たちとともにザール領へ取って返すのが得策だ。その上で、夏の定例会議までに何をすべきか、兄と相談しよう。
そんなことを考えながら、第二の門の奥にある兵舎のあたりまで差し掛かった時、ふと、辺りを伺いながら小走に暗がりを横切ってゆく、フードを被った人物が目に留まった。
「ん?」
顔は隠していたので判らなかったが、雰囲気からして直観的に女だと思った。何やら急いでいるようで、こちらに気づいた風もない。
(傭兵か? あんな格好の者は…ふむ)
昨日出会った、手練れの傭兵と一緒にいた少女とは、違う気がした。
どうも、ただの傭兵とは思えない。味方が勝利に酔いしれて、守りが手薄になっている今、見張りも穴だらけに違いない。良からぬ輩が暗躍していてはまずい。
直観に従って、ヴィルヘルムはのそりと、その人物の消えた方角に向けて歩き出した。
一方で、ヴァイスたちは、その光景をはからずも頭上から眺めていた。
彼らがいたのは、アイム領の兵たちが集まっている兵舎のすぐ近く、
自分たちで破った三つの門は、まだ応急修理すらされていない。そのせいで砦は無防備な状態だというのに、ティバイスの兵たちは勝利の酒盛りを初めてしまったらしく、賑やかに騒ぐ声がここまで響いてくる。あちこちに松明の灯りが焚かれ、人がそこに集まっている。逆に言えば、それ以外の場所には人影がなく、警戒要員すら居なさそうだ。
「まったく、ド素人もいいところだな。戦争のやり方も知らないとは」
呆れたように呟いてから、ヴァイスは、すぐ眼下の陣営のほうに視線を向けなおした。
「どうだ? 見えるか、ヴィオレッタ」
「はい。でも、ちょっと遠いですね…うう。あの鳥が無事ならなあ」
「失くしたもんはしょうがねぇ。もう少し下に降りて、近付いてみるか?」
「大丈夫です。人の顔は分からないけど、雰囲気くらいは…あ」
目を凝らしていたヴィオレッタが、灯りに照らされた兵舎の入り口のあたりを指さした。
「あれ、領主の人だと思いますよ。戻って来たみたいです」
洒落た外套を羽織った若い男は、遠目にも、確かにハリールのように見えた。部下たちと話しながら兵舎に近付いて、そこで足を止め、一人で
「どこかへ報告にでも行っていたんだろう。これから、何かするつもりか」
「でも、もう一人の姿が見えないです。うーん、また物陰に隠れてるんでしょうか…」
眺めていた時、ふと、風に乗って何か、奇妙な香りが鼻孔をくすぐった。
花のような香り、だ。甘い、どこか眠くなるような甘ったるい、人工的な香り。
はっとして、ヴァイスは風の吹いてくる方向を探った。
「ふぁ…」
隣にいたヴィオレッタが大きな欠伸をする。「なんだか、眠くなってきちゃいました。疲れてるのかな…」
「息を止めろ、ヴィオレッタ!
「ふぁ…へっ?!」
慌てて、彼女はあくびを止めて袖口で口元を覆った。「こ、攻撃って。一体」
「匂いだよ。風に乗って流れてる、この匂いが眠りを誘ってるんだ! 確か、あのお姫様は言っていた。
だとしたら、探していた香炉の持ち主が今、この近くにいるということになる。
目の前にある、謎めいた
追っていた二つの手がかりが繋がろうとしている。だとすれば、そこには、必ず「誰か」、ずっと追って来た相手が居るはずだ。
「ここにいろ!」
いてもたってもたまらず、ヴァイスは飛び出した。崖を直接、滑るようにして駆け下りていく。ブーツの底が削れるのもお構いなしだ。
(何所だ?!)
十年の間、追い続けて尻尾すら掴むことの出来なかった相手。かつての主と、仲間たちの仇。
(何所にいる! 姿を…)
さっきまでどんちゃん騒ぎをしていた砦の中は嘘のように静まり返り、皆、その場でだらしなく寝入ってしまっている。目覚めたまま動いているのは、ヴァイスと、効きの甘いらしい馬たちだけ。寝入ってしまった仲間の側で、不安げに嘶いている。
なるべく匂いを吸わないよう口元を押さえながら、彼は、アイム領の兵士たちのいる兵舎の前を通り過ぎ、風上にある第一の門のほうを伺った。
風はティバイスの平原のほうから吹いてくる。香炉が使われたのは、そちらのはずだ。
走り出そうとしたその時、ちょうど、厩の陰から、よろめきながら出て来る大男とぶつかりそうになった。
「ん? あんたは、確かザール領の」
「む…」
確か、領主の弟だと言っていた傭兵だ。眠気と必死に戦っている様子で、必死に閉じかかる瞼を押し上げている。どうやら、並外れた精神力で持ちこたえているようだ。
「驚いたな。まだ目を覚ましてる奴がいるとは」
「妙な女を追っていたら、急に…眠気が。何か知っているのか」
「ああ、攻撃だ。おそらくは
「…なんだと?」
「匂いを嗅がないように気を付けろ。それか、風下に顔を向けておくといい。オレはこの先へ行って、犯人を見つけてくる」
「わしも、…行くぞ」
唸るように言って、ヴィルヘルムは、ぐいと顔を上げた。「ふざけた真似をしおって…このわしのいる間は…誰であろうと、妙な真似はさせん…ッ」
(ほう)
ヴァイスは思わず苦笑した。精神力だけで
この男とは、戦場で敵対したくない。そう思った。
「なら、ついて来てくれ。遅れたら置いていく」
ヴァイスは、言いながら走り出し出した。
もう、匂いが薄まって来ている。眠りの効果が十分に発揮されたことを知って、香炉の使い手が撤退しようとしているのかもしれない。だとしたらマズい。何とかして、使い手を見つけなければならないのだ。
(匂いは…こっちからか?)
第一の門が見えて来た。その側にはひときわ大きな、昨日は本陣に張られていた天幕が見える。
「首長殿のところだ」
後ろでヴィルヘルムが唸る。そしてまさに、匂いは、その辺りから発しているようだった。
見張りの兵も、馬も、みな眠りこけて地面に倒れている。
駆け付けようとする二人の目の前で、天幕の縁がするりと持ち上がり、何かを抱えた黒っぽい人影が一つ、滑るように外に出る。
「止まれ!」
ヴァイスが剣を抜きながら叫んだ。驚いたように、その人物が振り返る。
小柄な容姿に、白い肌。
目深に被ったフードの下に見える、意思の強そうな、引き絞られた整った唇。
(――女か!)
「お前が、
「……。」
返事はない。代わりに、女は取り出した杖を掲げ、ヴァイス目掛けて振り下ろした。
避けたのは、とっさの行動だ。
けれど結果的にそれで正しかった。杖の先から噴出したのは、氷でも炎でもなく、鋭い空気の鎌だったからだ。さっきまでヴァイスのいた場所の空を切り裂いて、攻撃は、後ろにいたヴィルヘルムの袖口をすっぱりと切り裂いていた。
「うおッ?!」
「ちっ、…」
振り返って、ヴァイスは舌打ちした。まだ眠気が取れず、動きの鈍い大男を庇いながら戦うのは不利だ。
けれど、それを心配する必要は無かった。
ヴァイスが足を止めた一瞬の間に、謎の女は素早く身を翻し、門の外の暗がりに向かって駆け去ってしまったのだ。
「! 待て」
慌てて門まで追いかけるも、ヴァイスが見たものは、風上に待機させていたらしい馬に乗って、既にはるか視界の彼方へ消えてゆこうとしている、女の後ろ姿だった。
他の馬はすべて眠らされていて、追い付けそうもない。
「…くっ」
拳で門の柱を叩いて、彼は歯がみした。風に乗って遠くから、駆け去ってゆく馬の嘶きの声が響いてくる。
ここまで来て、あと一歩のところまで追い詰めたのに。
それなのに。…
「あ、あああ!」
背後で、ヴィルヘルムの雄たけびのような声が響き渡る。
「サルマン殿! 首長…殿が…ッ」
振り返ると、天幕の入り口にへたりこんで震えている男の姿があった。
その肩越しに中を覗き込んだヴァイスも、思わず息を呑む。
中は、血の海だった。
その真ん中に老人が一人、胸に剣を突き立て、目を見開いて天井を見上げたままこと切れている。
(あの女の狙いは、これだったのか…)
彼は額に手をやった。
(だとしたら、あれはトラキアスの手の者? いや、そんなはずはない。それにあいつは、
合理的な説明が思いつかない。ただの判っていることは、眠りから目覚めたティバイスの兵たちは、首長の暗殺がトラキアスの仕業だと思い込むはずだということだった。戦局はさらに混迷を極め、終わりの見えない長期戦へともつれ込むはずだった。
その結果は――
その先に待っているものは、一体、どういう事態なのだろう。
(嵐が来る)
風に乗って薄雲のかかりはじめた星空を見上げて、ヴァイスは、心の中で呟いた。
(嫌な雲だ。戦争は傭兵にとっちゃ稼ぎ時かもしれんが、今回は、どうやらそれどころじゃ無さそうだな…)
呆然としているヴィルヘルムを残し、彼は、そっと、その場を後にした。
もはや、ここに留まるべき理由はなくなった。長居をすればするほど、泥沼のような報復戦争に巻き込まれる。そうなる前に、一刻も早く戦場を離れたほうが良さそうだ。
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