第六章 草原の戦場、鈍色の魔法人形(3)
戦端が開かれるのは、夜明けと同時。
それゆえに兵たちは、陣営もまだ暗いうちから起き出し、腹ごしらえをし、身支度をする。そして朝日が射す頃には、既に持ち場について、駆けだす準備を整えている。
その朝、ヴァイスたち選びだされた傭兵たちは、一足先にドラウク領の陣営を出て、国境を越えた辺りに集まっていた。
遠目にもよく見える。普通なら格好の標的だが、火矢でも石弓でも打ち壊せない以上、遠距離攻撃を心配する必要はない。問題はむしろ、
「作戦通りに行くぞ!」
腕組みをして、馬上で張り切っているのは、昨日の説明係だ。身なりからしても、それほど地位の高い人物ではなさそうだ。彼が何故、たった一人でこんな無茶な作戦を指揮させられているのかは謎だった。
(ドラウク領の領主は確か、見るからにいかつい男だったはずだ。似ているようにも見えない。息子や親族ではないのだろうな)
ヴァイスは周囲に視線を走らせ、それらしい男の姿を探す。けれど、近くには居ない。後方に翻るドラウク領の旗印とともに、自領の兵を率いているのだろう。
先陣を切るために集まっているのは、傭兵ばかり。
先陣切って敵の要塞まで突っ込む危険な役目だ。自領の兵を使いたくないのだろう。
(ま、傭兵の使い方としては正しい。…戦端を切り開くのはいつも、捨て駒同士のぶつかりあいだ)
彼は冷めた思考で計算している。昨日聞いた作戦を思い出し、見せられた地形図を頭の中に思い描く。
(どうせ向こうも傭兵を出してくる。
「いざ、出陣だ!」
気合いばかり入っている説明係が勇ましく吠えるが、もとより経験豊かな傭兵たちはそんな若者の指揮に従うつもりなど毛頭なく、にやにや笑いながら、やる気なく
ここに集められている、"護衛係"の傭兵は二十人ばかり。撤退したトラキアス王国側の騎士たちが引きこもっているはずの砦を目指し、北の山脈へと向かっていく。
平原から山道へ。最初は広々としいた道は次第に狭くなり、やがて、つづら折りの細い道と、崖に挟まれた、いかにも待ち伏せのしやすそうな
それが判っているから、地形と戦術の関係を理解している傭兵たちは、山道に入ったとたん、てんでバラバラに散り始めた。
「あっ、こら! お前たち、勝手な行動をとるな!」
仮初めの指揮官が喚いても、聞く耳は持たない。
重たい足音を響かせながら、一歩ずつ道を登ってゆく
「オレたちも抜けるぞ。この先の隘路、おそらく待ち伏せがいる。固まってるところを頭上から狙われちゃどうしようもないからな。先回りする」
「はい」
ヴィオレッタは、真剣な表情で頷く。「何をすればいいか、指示してください」
「よし。いい返事だ。あんたの持ってる
「わかりました」
彼女は、にっこりと微笑む。「そういうのなら得意です」
「お? …お、おう。そうか」
ヴァイスは苦笑する。
「…なあ、あんた、本当に元・受付嬢なのか?」
「元じゃないですよ、私、今でも正式な仕事は窓口係なんですからね」
「そうだったか。ははっ、ま、度胸が据わってんのは助かる。」
言いながら、彼は荷物の中から小さな皮張りの盾を取り出し、左腕につけた。片手で簡単に振り回せるような軽いものだが、丈夫そうだ。それに、驚いたことに、クロスボウまで準備している。
「え、ヴァイスさん…それ」
「いかなる状況にも対応できる備えをしておくのは、傭兵のたしなみだ。遠距離用の武器くらい準備してある」
「……。」
さすが、というところなのか、どうなのか。少なくとも、自分の得意武器以外のものをわざわざ持ち歩いている傭兵は、今まで見たことが無い。それは他の傭兵たちも同じなようで、槍使いは槍を、大剣は大剣を握ったまま進んでいる。
やがて頭上で、鋭い悲鳴が上がった。
顔を上げるとちょうど、頭上から、緑の布を腕に巻いた傭兵が落ちてくるところだった。下からでは死角になっているあたりだ。どうやら、途中で散っていった他の傭兵たちが、先回りして待ち伏せを排除してくれているらしい。
「さすがだな。判ってる奴らが味方にいると助かる」
ヴァイスは飄々としている。「だが、そろそろ来るぞ」
「来る? なに…」
言い終わらないうちに、谷間に、高らかな喇叭の音が響き渡った。
崖の上にいっせいに人影が現れた。手に弓やボウガンを持ち、さらには投石機まで押し出されようとしている。人間たちは慌てて馬を止めようとしているが、
分断作戦だ。このまま引き離されたら、門を壊すこと以外の命令を受けていない無防備そのものの
「ちっ、思ってたより敵の数が多い」
ヴァイスは急いで盾を構えながら、ヴィオレッタのほうを振り返る。
「
「いえ! 私…、大丈夫です!」
言いながら、ヴィオレッタは馬を飛び降りる。「あの、やってきます!」
「やってくるって、おい…」
次の瞬間、地面を蹴った彼女の姿は、どこかへ消えていた。
崖の上まで跳びあがったのだ。
「七里跳びの靴」の力だ。移動できる距離は水平線上だけではない。慣れた者なら垂直に、つまりは、高い場所にも一気に跳びあがることが出来る。
狙った通り、崖の上に着地した彼女は、間髪おかず腰のベルトに挟んでいた杖を引き抜いて、周囲一帯をぐるりと見回すように、思い切り杖を振った。
「ぇえいっ!」
パキパキと小さな音をたてながら、空中に無数の氷の粒が現れて、その場にいた人間の腕といわず顔といわず、片っ端から打ち付けていく。ほとんど闇雲な攻撃だったが、人が密集していれば話は別だ。
「うわーっ」
「な、何だ!」
弓の弦が切れたり、手を怪我したり、辺りは一瞬にして混乱の渦に飲まれる。
「いっけええ!」
ヴィオレッタは尚も杖を降る。こんなに力いっぱい杖の力を解放したのは、いつぶりだろう。子供の頃、手加減というものを知らずに牧場の一画を丸ごと凍らせて、両親にこっぴどく怒られた日いらいか。
崖の上に集まっていたのは、まだあまり戦い慣れていない若い傭兵たちが多い。いきなり
運を味方につけて、彼女はさらに、反対側の崖へと跳んだ。
そこには丁度、投石機が準備されている。今まさに眼前の道を進んでゆこうとしている
(!いけない)
慌てて、彼女は岩めがけて杖を振るった。落下しようとしていた岩が凍り付き、そのまま、半分空中にせりだしたところで止まる。長くは持たないだろうが、時間稼ぎさえ出来れば、
ちょうどその頃、途中で姿を消していたティバイス側の傭兵たちが追い付いて来た。
ヴィオレッタに向かってこようとしていた兵士を後ろから一突きにして、ガラの悪い傭兵が、にやりと笑った。
「お嬢ちゃん、やるじゃねぇか」
槍先から赤い血が滴り落ち、たったいまこと切れたばかりの若い傭兵の体が、彼女の足元に転がっている。
「ちょいと見直したぜぇ」
「は、はあ…ありがとうございます」
慌ててフードの端を引っ張り下げると、彼女は、大急ぎで崖の下のヴァイスのところへ戻った。戦うこと自体は怖くはないが、死体は見慣れていないし、今は敵とはいえ、自国の騎士が目の前で人が殺されるのを見るのは、あまり気持ちのいいものではない。
差し出した手綱を受け取り、黙って馬に這い上がる彼女を見て、ヴァイスは何かを察した表情になった。
「…無理はしなくていいぞ」
ぽつりと、それだけ言って、頭上を警戒しながらゆっくり進み始める。
崖の上では、双方の傭兵たちが混戦状態だ。状況はティバイス側が優先。ヴァイスの予想したとおり、トラキアスの正規の騎士の姿は無い。
固く閉ざされた門が、目の前に迫りつつある。
攻撃目標を認識した
「護衛しろ!
「怒鳴らなくても皆、判ってる」
たしなめるように、ヴァイスが言った。「あんた、突っ込み過ぎて傷だらけじゃないか。無理せず、そこで待って居ろ」
「出来るものか!」
ふいに若者は、血を吐くような勢いで叫んだ。
「ユースフ様を見殺しにして、おめおめと逃げ帰って、俺は…! この挽回の機を逃したら、い、一族を追放される…!」
ぴくりと、ヴァイスの表情が動いた。
「この戦い、ドラウク領の領主の息子が殺されたのが切っ掛けだとか聞いたが。あんた、その場にいたのか」
「ああそうだ。俺と仲間、それにユースフ様の三人だった。国境の見回りの途中で…いつもの見回りだった。トラキアスの新米騎士と出くわすのも、いつもの…」
若者は肩を震わせ、馬の背にある自分の膝を拳で叩いた。涙が、ぽたぽたと零れ落ちる。
「いつもなら、向こうがビビって逃げ出すはずだったんだ! それなのに、あの時は自信満々に剣なんて抜いて、たった一人で向かって来た奴がいて…。あっという間に…あっという間だった…助ける間も、止める間も無かったっ!」
「それで
「ううっ…」
「…命を棄ててでも仇を取ってこい、と命じられたのか。」
溜息をついて、ヴァイスは門のほうを見やった。
この若者の気持ちも、境遇も、判りすぎるほど判ってしまう。何も出来ず、主を見殺しにしたと詰られたのは、かつての自分と同じ。
違うのは、この若者には、無理難題とはいえ「名誉挽回」の機が与えられたということ。
――それが、この作戦なのだ。
「なあ、あんたは幸運だぜ。」
手にしていた長距離用の武器を構え直すと、彼は呟いた。
「この作戦は成功する。生きて戻れば、戦功を立てたいっぱしの指揮官だ。だから死ぬな」
「…へ?」
その瞬間、ヴァイスの雰囲気が切り替わったことに気づいたのは、ヴィオレッタだけだっただろう。
戦場にいる時は、普段とは存在感が段近いだが、今、それがさらに増した。近くにいるだけで気圧されそうなほどの熱気。敵ならば、恐れを成して逃げたくなるだろう、肌がぴりぴりとするような緊張感だ。
(これが…、)
これが、数々の戦場を渡って来た傭兵の"本気"なのか。
「ヴィオレッタ」
「あ、はい!」
「ここにいろ」
ついてくるな、という意味だ。
もとより、ついていけるはずもなかった。返事をする間もなく、彼は馬を駆っていたからだ。城門めがけて突っ込んでいく。いや、正確には、城門の上から攻撃して来ようとしている騎士たち目掛けて、だ。
城門の上には投石機はない。代わりに、油と松明を構えた騎士がいる。
狙いは正確だ。
油壺と松明が同時に貫かれ、足元に落ちたそれらは、一気に炎上して周囲を巻き込んで燃え上がる。
「うわー!」
「ぎゃああっ、危ない! 消せ、消せっ」
その間にも
「まずいぞ! 破られる」
傭兵と若い騎士たちが、大慌てで門の上から飛び降りて来る。直接、
「相手はただの人形だ、どこかに必ず
(させるかよ)
ヴァイスたちティバイス側の傭兵たちは、まさにその時のためにこの場に呼び集められているのだ。
そして、相手が同じ高さの地面に降り立ち、直接戦えるようになった時が本番開始の合図だった。
ヴァイスは遠距離攻撃用の武器を足元の皮袋に滑り込ませ、代わりに剣を抜くと、
「うおおー、戦功を寄越せええ!」
城門の前はあっという間に混戦状態だ。遠目に見ているヴィオレッタにも、そこは自分の出る幕ではないことがはっきり分かった。あんなところにいたら、一分も生きていられないに違いない。主力のぶつかりあう戦場の恐ろしさは、側で見ているだけで十分すぎるほど理解できる。
傍らで戦いが続いている中、
何度も頭突きされ、固い木材がたわんでいる。頑丈な金属の留め具が歪み、嵌めこまれていた部分の岩がミシミシと崩れていく。
破れる。
「ま、まずい」
騎士たちが怯えた表情になる。
「このままでは…」
バリバリと大きな音が谷間に響き渡り、砦の一番外側の門の半分を道連れにしながら、門が内側へと押し込まれていく。石が転がり、砂埃が舞い上がる。
呆然と見守っていた仮初めの指揮官は、はっと我に返ると、慌てて懐から角笛を取り出し、あらんかぎりの息を吸い込んで、高らかに吹きならした。そして、滾る眼差しで腕を振り回した。
「やったぞ! 第二の門はすぐそこだ。第二の門まで辿り着いたら、本隊が来てくれる! もう少しだ! もう少し…」
だが、その「もう少し」がはるかに遠いのだった。
最初に予想されていたとおり、第二の門に迫る
雇われの傭兵とは違う、士気が高く、練度も忠誠心も一定以上に保たれた精鋭たち。何より彼らには、死を恐れるなというエデン教の教義が、訓練兵の頃から叩き込まれている。
「ひるむな!」
隊列を組んだ騎士たちの揃いの甲冑が、天頂に差し掛かろうとする太陽の下に凛々しく輝く。
「左隊、右隊はティバイスの傭兵どもの相手をしろ! 中央隊は人形を狙え!」
「報告! 敵本体、山道入り口に差し掛かります!」
「第二の門を破ると同時に総攻撃を仕掛けるつもりだ。絶対にここを死守しろ! あの人形さえ止めれば時間は稼げる!」
矢継ぎ早に飛び交うトラキアス側の報告と指示は、ヴァイスたちにも聞こえている。頭上の見張り櫓からは、ティバイスの本隊のいる草原を警戒する様子も見て取れた。
第一の門が破られたことを知って、待機していたティバイス首長国側の本隊が動き出したのだ。このまま第二の門が破られれば、総攻撃が始まることは、誰の目にも明らかだった。
地の利はトラキアス側にあるが、戦力差は歴然としている。
兵の数が違いすぎるのだ。――おそらくトラキアス側は、長年膠着状態を続けてきたティバイス側が、まさか本当に総戦力に近い兵をこの戦場に割いてくるとは、思っていなかったのだろう。傭兵の数も、ティバイス側のほうが多い。各地の斡旋所に依頼を出して、片っ端からかき集めた結果だ。
(ただ、それでも普通なら、守りのほうが強い。トラキアスの山岳地帯、隘路と崖に挟まれたここは難攻不落の要塞のはずだった)
急所となる
(誰も予想しなかった――)
向かってくる若い騎士の攻撃を軽くかわし、後頭部に脳震盪を起こして動けなくなる程度の強打を打ち込みながら、一方で、彼は考えている。
魔法王国イーリスの滅亡後、ほどなくして
その人物を突き止めることが目的なのだ。この戦いが終わったあと、
「ん…」
ふと、自分に向けられている視線に気づいて、彼は顔を上げた。
トラキアス王国の騎士が一人、こちらを見つめている。
まだ若く、新人のような顔立ちをしているが、手にした剣は赤く染まり、足元には、たった今倒したばかりらしい、緑の布を巻いた傭兵が倒れ伏している。
今ここに来ているティバイス側の傭兵は、選りすぐられた手練ればかりのはずだ。
それを倒したのがまぐれでないことは、身に纏う雰囲気から判る。
(ほう。こんな奴がいたのか)
ヴァイスは剣を構えると、警戒の体制を取った。間髪入れず、若い騎士が一気に間合いを詰めて来る。
鋼の打ち合わされる音。それに、背後で軋む
(筋がいい。天性のものだな)
両手で剣を押し返しながら、ヴァイスは思わず口元に笑みを浮かべた。真っ向からの力勝負は、自分の腕に自信がある証拠。それに、若さを感じさせる正直な太刀筋。相手を新人と侮って油断していれば、不意の一撃を食らってもおかしくないほどに洗練された攻撃だ。
けれど、ヴァイスには敵を侮る気持ちはなく、最初から隙など無かった。
「青いな。」
呟いて、彼はいきなり力を抜いた。体重をかけて力いっぱい剣を押し込んでいた騎士は、予想外の相手の動きにバランスを崩し、一瞬、前のめりになる。そこへヴァイスが膝を叩き込んだ。
「…!」
身体を下り、無防備な首筋が晒される一瞬。しかしヴァイスはそこを狙わず、騎士が腹を押さえながら後ろへ跳びすさり、体制を整えるまで待っていた。
「いい反射速度だが、まだまだ駆け引きが下手くそだな。今の隙ならお前の首は飛んでたぞ」
騎士は驚いたように、澄んだ青い瞳でヴァイスを見つめる。
「なぜ、手加減を…」
「才能ある新人を潰すのは惜しいからだ。それに、オレの仕事はこのデカいのを護衛すること、だからな。ま、悪いことは言わん。無駄死にしたくないなら、ここは退け」
お前では勝てないから見逃してやる、という意味だ。
数秒、じっとヴァイスを見つめたあと、若い騎士は、ふいに口を開いて名乗った。
「…僕は、ルシアン・エディルフォードといいます」
「ん?」
「父は、この砦の責任者なんです。僕のここでの任務は父を助けること。ですから…」
真っすぐな、真剣な瞳が見つめている。「…退けません」
「ああ。そういうことか」
小さくため息をついて、ヴァイスは頭をかいた。この若者にも、退けない"理由"があるのだ。
「なら、――しょうがねぇな」
彼も真顔に戻り、剣を構える。こちらも相手も退けないのなら、どちらかが動けなくなるまで戦うのみ、だ。
「オレはヴァイスだ。お前の名前は覚えといてやるよ」
「…すいません」
それが合図となった。
ルシアンは、一気に間合いを詰めてヴァイスの懐に飛び込んできた。大胆な動きだ。それに素早い。
(ほぉ。見た目は甘ちゃんのわりに思考はやんちゃなもんだ)
力量の差を察してなお恐れない。最初から死も覚悟した者の動きだ。覚悟とは、「死んでもいい」という投げやりな感情とは違う。「死ぬ気は無いが、力を尽くして死ぬなら仕方がない」。エデン教の教義に聞く、最も栄誉ある戦場の死そのものだ。
力強い攻撃をかわしながら、ヴァイスは、少しずつ後ろへ、つまりは
隙は何度もあったが、出来れば致命傷は負わせたくない、と彼は思っていた。
第二の門が破られれば、ティバイスの本隊が雪崩れ込んで来る。そうなれば流石にトラキアス側の騎士たちも、人形にばかり構ってはいられなくなる。あと少しの時間稼ぎをすればいい。
「…くっ」
ルシアンの表情に、汗とともに微かな焦りのようなものが滲んでいる。早くヴァイスを倒して、人形が門にとりつく前に止めなければならない。なのに、思うように進めないからだ。
ヴァイスは少し、この若い騎士が気の毒になっていた。もし自分が反対の立場なら、同じような苛立ちを感じていたに違いない。
「お前は腕はいいが、少し焦りすぎる癖があるな」
言いながら、左腕のにはめた皮の盾に相手の攻撃を滑らせ、懐に入り込んで襟首を掴んだ。
「!」
「よっ、と」
そのまま、軽々と相手の体を跳ね上げて投げ飛ばす。地面に仰向けに転がされたルシアンは、跳ね起きて剣を掴もうとするが、間髪入れず目の前にヴァイスが剣の切っ先を突き付ける。
「な? こうだ。気持ちが前に出過ぎると、すぐにひっくり返される」
「……。」
「まぁ、このへんは経験の差だな。それと、お前はちと真面目にトラキアスの騎士たちの剣の基本型をなぞりすぎてる。今のお前じゃあ、倒せるのは新米と侮ってくれる間抜けくらいだぞ」
青年は目をしばたかせ、じっとヴァイスを見つめている。持ち上げも侮りもせず、怒りや興奮もなく、ただ淡々と、余裕をもって弱点を告げて来る――それは、彼にとっては初めて出会う種類の人間だった。
その時、背後で、ずずん、と地響きのような音が響いた。
角笛の音が鳴り響き、悲鳴にも似た「敵襲! 敵襲!」という叫び声が、見張り台のほうから聞こえて来る。じきに門が破られると確信したティバイスの本隊が、総攻撃の合図を出して、山の下から押し寄せつつあるのだ。
それを裏付けるように、轟音のような馬の足音が山道の方から迫って来る。
「無理はするなよ。お前にはまだ、未来がある。こんなところで死ぬな」
それだけ言って、大急ぎで
砦の中は大混乱に陥っている。
負け戦と見た傭兵たちが我先にと逃げ出して、最前線が崩壊しているのだ。元より雇われの身に過ぎない彼らには、命を懸けてまでここを守る理由は無い。それに、戦功が稼げるのは、双方の勢力に属する傭兵同士で戦っている間だけ。本隊が出て来て数で蹂躙されるようになれば、傭兵の出番はお終いだ。
残っているのは、トラキアスの正規の騎士たちだけ。それも、実戦経験の浅い新人たちはほとんどが戦闘不能か負傷で戦線を離脱し、残っているのは一握りの熟練騎士ばかりだ。
既に第一の門のあたりはティバイスの傭兵たちに征圧されていて、主戦場は砦の中、第一の門と第二の門の間になっている。このまま第二の門が破られれば、第三の門まで押し切られるのは時間の問題と思われた。
ずん、と重たい音とともに、
勝利を告げる、ティバイス側の鬨の声。
「門が開いた! 開いたぞ」
「行け、砦を落とせ! 指揮官を逃がすな!」
勢いに乗ったティバイスの騎馬兵たちが、次々と雪崩れ込んで来る。
既に勝敗は決したも同然だ。
傭兵の役目も終わりだ。あとは、第三の門を陥落させるまで、正規の兵同士で最後の血なまぐさい仕上げをするのを見守るだけだ。ヴァイスは剣を収め、後方に残していたヴィオレッタの姿を探しはじめた。
(いた)
傷だらけになった若者に付き添って、こちらにやってくるところだ。後から進軍してくる味方の大軍に押し上げられるようにして、砦の中まで進んで来たらしい。
ちょうど、ヴァイスと戦っていた若い騎士が起き上がって、破られたばかりの代理の門を呆然と見上げているところだった。
他の味方が逃げるか、敵の本隊と交戦するかしている中で、彼だけが取り残されたような格好になっている。進んできたヴィオレッタたちが、真正面に立ち尽くすその騎士に視線を留めるのは必然のことだった。
その姿を見た瞬間、ドラウク領出身の若者ははっとした顔になった。そして、付き添いのヴィオレッタの腕を振りほどき、馬を駆った。
「き、貴様!」
怒鳴りながら剣を抜き、止める間もなく、血走った目で斬りかかってゆく。
一瞬のことだった。
「貴様…ユースフ様を殺したな! よくも!」
「あっ」
「!」
間に入る余裕など無かった。そしておそらく、ルシアンのほうも、状況が判っておらず、咄嗟に手加減することが出来なかったのだ。
攻撃を避けて反射的に振り下ろした騎士の剣は、勢いよく、馬上の若者の肩から斜めに体を切り裂いた。
「ぐ…ふッ…」
手綱から手が離れ、若者は後ろ向きに馬から投げ出される。慌てて駆け寄ったヴァイスが、辛うじてその体を受け止めるが、地面への激突が免れたとはいえ、受けた傷が致命傷であることは一目瞭然だった。若者の上着を引き裂いて傷口を縛り上げようとするが、深く切り裂かれた傷口から吹き出す鮮血は、そのくらいでは止まりそうもなかった。
「ヴァイスさん!」
馬を駆って追い付いてきたヴィオレッタは、慌てて馬を飛び降りたところで、はっとして動きを止めた。
見覚えのある澄んだ青い瞳が、大きく見開かれ、こちらを見つめている。
まさか。こんなところで出会うなんて。
「…ヴィオレッタ?」
「嘘…、ルシアンさん…」
誤魔化そうとする暇すらなかった。時が止まったように、ヴィオレッタとルシアンは、信じられないという表情で互いをじっと見つめていた。
ヴィオレッタは、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。見間違うはずもない。それは、ほんの一か月ほど前に斡旋所で出会ったばかりの、あの、新米騎士の姿だった。
彼女の視線が、ルシアンの返り血を浴びた鎧と剣に届く。と同時に、ルシアンの視線は、ヴィオレッタの腕に巻かれた緑の布に留まっていた。
「なぜ、君が…」
「どうしてあなたが…」
双方が口を開きかけた時、頭上で、トラキアス側の合図に使われている喇叭の音が高らかに鳴り響いた。
「撤収! 総員、撤収せよ! 戦闘可能なものは、西の塔へ!」
盾を叩き、撤収を触れ周っている騎士がいる。戦場を駆ける伝令が、必死に叫んでいる。「西の塔へ迎え! 撤退だ!」
まだ戦っていた騎士たちは、急いで相手をつき離し、後ろも振り返らずに後退していく。ルシアンも、後ろを振り返りながら、撤収する仲間たちの波の中に消えていく。
「…ああ」
ヴィオレッタは、思わずその場にへたりこんでしまった。まさか、ルシアンとこんなところで出会ってしまうなんて。それに、…さっきまで一緒にいた人が、彼に殺されるなんて。
「どうやらあいつと知り合いらしいが、今は事情を聞いてる場合じゃなさそうだな。」
ヴァイスは、今にもこと切れようとしている若者に顔を近づけて、痙攣している頬を叩いた。
「お前、名前は。伝言があれば聞いてやるぞ」
「カシム…」
言葉と共に、口の端に赤いものが流れ落ちた。
「母と、…妹に…どうか、よろしくと…」
涙が一滴、流れ落ち、最後の吐息が空に消えた。
呼吸を止めた体から力が抜け、首がかくんと落ちた。ヴァイスは黙って、開いたままの瞼をそっと閉じてやった。
それから、若者の体を馬の背に載せ、踵を返す。
「お前も馬に乗れ。行くぞ」
「行くって…」
「こいつを味方のところに届けてやらにゃならんだろうが。ドラウク領の旗のあるとこだ。どうせ、他の傭兵どもも、生き残ってりゃそこに向かってる」
ヴァイスの言うとおり、周囲には、
「出る幕が終わったらとっとと撤収するんだ。傭兵ってやつはな」
彼らの側を、勢いに乗ったティバイスの軍が突進していく。
「あとは、あいつらに任せておけばいい。」
トラキアス側には
この地方の防衛の要だった砦は、ティバイスの手に落ちたのだ。
西の塔へと逃げていった生き残りの騎士たちが、そこを守り切れず撤退するのも時間の問題だろう。
難攻不落の要塞の常として、味方の手にあるうちは頼りがいのあるものだが、敵の手に入るなり厄介な代物と化す。彼らはいずれ、かつて自分たちのものだった砦を奪還するために苦しい戦いを強いられることになるのだった。
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