第五章 騒乱の始まり(3)
目的地は、リギアス連合国の西の端にあるメイリエル公領。ヴァイスとヴィオレッタはそこへ向け、ティバイス首長国の東の端をかすめるようにして、街道から分岐する細い道を辿っていた。
リギアスは二十ほどの大小の国々が連なる連合国で、ほとんどの国は明確に「王」とは名乗らず、かつて大国ハイモニアの一部だった時のまま「伯爵」や「公爵」の称号を使っている。メイリエル公領の「公」とはそういう意味なのだと、道中、ヴァイスが教えてくれた。
「さあて、と。オレの勝手知ってる地方に戻って来た、…というところだが、メイリエルには行ったことが無かったな。」
「そうなんですか?」
「ああ。金がない領地で、仕事の依頼が出て来たことがない。傭兵ってぇのは雇うのに金がかかるもんだから、呼ばれるのは金のある領地ばかりだ。ま、オレが給料の安い仕事は請けなかったってのもあるんだが。」
「でも、元は公爵…公爵領なんですよね」
「そんなもん、百年以上も前の話さ。要するに、ご先祖様の威光を笠に着てるだけなのさ」
ヴァイスは、さも当たり前だというようにばっさり言ってのける。
「リギアスじゃあ、家柄だけ良くっても家計は火の車、なんてのはザラでな。逆に元が下級貴族のほうが、うまいこと商売やって金はあったりするんだよ。特に貴族ってやつは、家柄がいいほどお高く留まって、見栄に金使う」
「…あの、…ヴァイスさんも、アイギスでは貴族だったんじゃ…」
「オレのところは、元々が下流の貧乏貴族だ。代々騎士はやってたらしいが、家柄の古さ以外に何も取り得は無ぇよ」
何気ない軽口を叩きながらも、彼は用心深く周囲に目を配っている。とはいえ、この辺りは長閑な農園地帯で、旅人の姿すら殆んどなく、警戒すべきものも、異変も見当たらない。
「何も無いところですね。本当に、こんなところに寺院なんてあるんでしょうか?」
「多分、あれじゃねぇか」
行く手の丘の上に、何やら石積みのようなものが見え始めている。けれどそれは、お世辞にも「寺院」とは言い難い、ただの瓦礫の山にしか見えなかった。
「ちょうどいい、誰かいるぞ。――おーい、そこの奥さん! 少々、道を聞きたいんですか」
ヴァイスは馬を飛び降りて、道沿いで羊の群れを誘導している、地元の羊飼いらしい女性に近付いていく。話し声はヴィオレッタのところまでは聞こえてこないが、話しかけられた女性が何やらぽっと頬を赤くしたところからして、いつもの軽快な口説き文句を並べてたてているらしいことは分かった。
(はあ…。)
溜息をつきつつも、ヴィオレッタは馬の上で待っていた。ヴァイスのあの「癖」にも、いい加減、慣れてきたところだ。情報収集が上手いというのも、傭兵としては重要な資質なのかもしれない。…対象が女性に限られるのは、ともかくとして。
しばらくして、ヴァイスが戻って来た。
「間違いない、あの瓦礫の山がトールハイム寺院らしい。行ってみよう」
馬にひらりと飛び乗りながら、彼は続ける。「ついでに面白い話が聞けた。あの遺跡、十年ほど前に"お宝"が見つかって大騒動になったことがあるらしい」
「お宝?」
「"
ヴァイスの声には意味深な、期待を込めた響きがある。
「この辺りの草原は戦場跡らしくてな。今でもたまに、錆びた
「じゃあもしかして、"
「可能性はありそうだ。」
馬を走らせ、辿り着いた丘の上には、確かにただならぬ雰囲気の遺跡があった。大ぶりな灰色の石が無造作に転がり、半ば草に埋もれている。大半が砕かれたり、焼かれた跡を残していたりして、かつてここで繰り広げられた戦いの規模の大きさを物語っている。
だが、それゆえに「寺院」は跡形も無く、調査しようにも調査できるほどのものが残っていない。
分かるのは、この寺院が現在のアイギス人が得意とする工法で作られていて、おそらくハイモニア王国が大陸全土を支配していた時代に作られたものだということくらい。巧みに組み合わされた石にはほとんど隙間もなく、崩れている部分は、何か大きな衝撃で壊されたように見える。
「何もない、ですよね…。」
真っ二つに折れて斜めに傾いだ柱の下を覗き込みながら、ヴィオレッタはおずおずと呟く。
「どこかに地下室があると言っていた。そいつを探そう」
「地下室?」
「元々この遺跡は、亡霊が出るとかで地元の人間は恐れて近付かなかったらしい。それが十年ほど前、偶然、牛が穴に落ちて、階段と一緒に何やらいわくつきの遺物が出てきたそうだ。それで領主が調査に乗り出して階段の先を掘ってみたところが、厳重に封をされた、宝物庫みてぇな地下室が出たんだとさ。」
「さっきの立ち話で聞いたんですか、それ」
「ああ」
ヴィオレッタは思わず、舌を巻いた。あの短時間に、初対面の人間からそこまで聞き出せるとは、やはりただのナンパ癖のある男ではない。
「お、あったぞ」
辺りを調べていたヴァイスが足を止め、腰の皮袋から火種入れを取り出した。
「この下らしい。暗そうだ、ランプ出してくれ。」
火種をランプにうつし、灯心が十分に燃えだしたのを確認してから灯りを手に地下へと降りる。階段の奥はずいぶん深そうで、光の届かない暗がりの先まで、折れ曲がりながら続いている。両脇の壁も分厚く、石組みは、まるで城塞のようだ。
「気を付けろよ。ゆっくりでいい」
後ろをついてくるヴィオレッタのほうを気遣いながら、男は、灯りを手に少しずつ、奥の方へ踏み込んでいく。
ひんやりとした風、湿っぽい空気。
丘の上の明るさとは打って変った陰気さは、死の国にも通じるようで、亡霊が出ると信じられていたのも不思議はない。
階段は、下れども、下れども切れ間なく続く。
どこかに石の隙間でもあるのか、通り抜けてゆく風が微かに、鳴き声とも悲鳴ともつかない音を立てている。だんだん不安になってくるほどだ。
そして、幾つもの壊された石壁と、扉の跡が残されている。これだけ封印されていれば、中に何かお宝があると思っても不思議は無い。十年前の領主たちもう思って、せっせと下へ下へ掘り進んでいったのだろう。
やがて、行き止まりの空間に出た。
何も無い、がらんとした狭い部屋が一つ。床の上には、雨水とも地下水つもつかないものが黒く溜まり、池を作っている。そこから先へは進めないようだ。
「ここで終わりか。しかし、ずいぶん頑丈な作りの地下だな。宝物庫と言われれば、確かにそう見えなくもないが――どちらかというと、墓標のような…。」
壁の石組を叩きながら呟くヴァイスの声が、空間に反響している。
静けさが落ちると、どこかから水のしたたり落ちるような音が聞こえた。
「ん?…」
引き返そうとしていたヴァイスが、ふと足をとめた。「おい、ヴィオレッタ」
「はい?」
「ちょいと、こいつを見てくれ」
灯りを掲げた先の壁に、何やら大きく、跡から書きなぐった落書きのような文字が踊っている。だが、それは、標準的な文字とは異なっていた。
ヴィオレッタは息を飲んだ。
「! これ…、イーリス文字ですよ」
「やっぱりな。何て書いてある」
「ええと…。愛しい…愛している? あなた…リチュ…リチャード? 人の名前みたいです」
石で殴り書きしたような文字は乱れて、読みづらい。しかも、上から何重にも書き直したような跡がある。
「リチャード? アイギスじゃあ良くある名前だな。ハイモニア人か…で?」
「愛している…待ってる…だけどその上から、憎いって書き直してあります。憎い、憎い、これも、…こっちの文字も、憎い…」
「何だそりゃ。書き直す前と後で意味が真逆だな」
「そうみたいです。待ってる、愛してる。それが憎い、許さない、って」
「……。」
眉を寄せ、ヴァイスは、部屋をぐるりと見回した。消えかかっているものもあるが、文字は、水滴の滴った跡のある壁面一杯に踊っている。まるで文字が涙を流しているかのようだ。不気味ではあるが、同時に切ない。
「愛されてるのが"リチャード"って男なら、それを書いたのは多分、女なんだろうな。…昔、女のイーリス人がここにいた、ってことか。戦いの中、助けに来てくれない男を待ちながら女はここで息絶え…その怨念が亡霊となった…」
「ちょ、ちょっと止めて下さいよ! 怖くなってくるじゃないですかっ」
「何だよ、そういうのが怖いのか? 亡霊なんているわけないだろ。それにここにゃ何も無ぇよ、骨もな。」
あっけらかんと言って、ヴァイスは、さっさと元来た階段のほうへ戻っていく。「さてと。ここの調査はこれで終わりだ。行くぞ」
「はい――って、えっ? これで終わり?」
慌てて、ヴィオレッタは後を追う。「こんなに苦労して辿り着いたのに?」
「見るもんも無ぇんだから仕方がないだろう。調べるべきもんはここに無い、ってことだ。領主のほうに探りをいれるぞ」
「えっ?」
「かつてこの地下室に何があったのか、何が持ちだされたのか調べなきゃ話にならん。持ちだされたものの中に"
「あ、なるほど…」
それから二人は、苦労して地上まで戻った。降る時は楽でも、昇るとなると大変なのだ。
外に出ると、爽やかな風に少しほっとする。地下の空気はじめじめとして、あまり居心地がいいとは思えなかったのだ。
繋いでおいた馬に乗りながら、ヴィオレッタは尋ねる。
「探りを入れるアテはあるんですか」
「取り敢えずは、領主館のある街を目指す。聞き込みをすりゃ、少しは分かることもあるだろう」
緑の牧草地のはるか向こうに、城壁に囲まれた街らしきものが見えている。
「それでダメなら、斡旋所に情報収集を依頼するしか無ぇが、ま、何かは出て来るだろう。
いつもの気楽な口調を装いながら、どこか、微かに興奮したような響きがある気がするのは、気のせいではないかもしれない。
ヴィオレッタは、ちらと振り返って、暗い地下室の入り口を見やった。
今は何もない、がらんとしたその空間に、かつて、自分と同じイーリスの血を引く誰かがいた。
(その人は、…どうなったんだろう)
戦いの中で死んだのか。それとも生き延びて、地下室を脱出したのか。
何一つ確かなことは分らなかったけれど、彼女は不思議に、確信に近い予感を抱いていた。
あの文字を壁に刻んだ誰かはきっと、愛したはずの「リチャード」とは、二度と出会えなかったのだろう、と。
馬を走らせて向かった先は、寺院跡からそう遠くない、城壁に囲まれた、歴史のありそうな古びた街だった。
領主館を中心に広がるそこは、しかし、田舎町の域を出ない、なんとも寂れた雰囲気に包まれている。街道から外れ、見たところ主要な産業は羊毛の加工くらい。
「こりゃあまた、不景気そうな場所だなあ」
ヴァイスは小さく呟いて苦笑している。
「歴史と家名だけじゃ食ってけねぇんだがな。公爵家の名が泣くってもんだぜ。全く」
「リギアスぜんぶがこんな感じじゃないんですね」
「当たり前だ。ここの隣のワイト家の領地なんかは、街道に近いし、商売も色々やってるからな、ずいぶん羽振りがいいんだぜ。街もこの十倍は賑やかだな。連合国っつっても内情は小国の集まり、どっかにべったりくっついてなきゃ自力じゃ体裁も保てない、お荷物の国も多いのさ」
「そう…なんですね…」
「おっ、なかなか良さそうな店があるぞ。一杯やっていくか」
今回も、ヴァイスはあっという間に狙いを定め、閑古鳥の鳴いている小さな酒場に入っていく。切り盛りしているのは年配の女性だ。
(ああ、…やっぱり。)
内心溜息をつきながら、ヴィオレッタは後に続いた。初対面で知りたい情報を引き出したい時、ヴァイスは大抵、女性を相手に選ぶ。男性は苦手なのか、敢えて女性を選んでいるのかは分からないが。
「こんにちは。少し休憩させていただいてもよろしいでしょうか」
「あら旅人さん? 珍しいわねこんなところに」
お客が誰も来なくて暇を持て余していたらしい店番の女性は、物珍しそうに二人をしげしげと見比べている。
「ワイト領へ商用で向かう途中でして。こちらのお嬢様に一杯、冷たい飲み物をいただけると助かります。それと小腹を満たすものでも」
「お酒がだめならヤギ乳カクテルなんてどうかしらね。オススメは特産のチーズのビスケット載せよ。」
「ほう、それはなかなか美味しそうですね。では、それを」
言いながら、さりげなく椅子を引いてヴィオレッタを席に座らせる。従者のふりをしているのだろうが、演技臭さもなく、ごく自然に振る舞っている。誰も、彼が情報収集にやって来た傭兵だなどとは思わないはずだ。
飲み物と軽食が揃うと、彼はさりげなく、しかし狙いすましたタイミングで、本題に入っていく。
「そういえば、ここへ来る前に丘の上に廃墟のようなものを見かけました。」
「ああ、トールハイム寺院跡のこと? ただの古い遺跡なのよ、あれは」
他にお客もおらず、退屈していたらしい女性は、特に何も聞いてもいないのに自分からぺらぺらと喋ってくれる。
「昔は幽霊が出るって噂があってね。牛を追いかけてった村の男衆が、亡霊の声を聞いただとか何か見ただとか大騒ぎするもんだから、領主様が解体するって言い出したんだよ。だけど何かお宝だとかが色々出たらしくって…。もう十年以上も前だね。それで、なんだかんだで残しておくことになったのさ。たまーに宝探しの人が来たりするんでね、思わせぶりな案内をしたりして――ああ、お兄さんたちはそうじゃなさそうだから言うんだけど。お宝はもう出ないよ。」
後ろで聞いているヴィオレッタも驚くほどすんなりと、遺跡の情報が入って来る。
「そのお宝、どんなものだったんですかね。寺院というからには古い経典とか、銀の燭台とか?」
「さあー、そういうんじゃなかったはずよ。確かほとんどガラクタばっかりで…、剣やら、人形やら、古い鍋やら。だけど何だか価値はあるものらしくってね、領主様が、好事家にいいお値段で売り払っちまったらしいよ。」
「見つけた村人には何も無しでかい」
「まあね。とはいえ、本当に見た目はガラクタだったらしいから、誰も損したとは思ってないみたいだよ。幾らで売ったかも分からないし――。それでも欲しがる人がいるんだから不思議なもんさ。飾っておいて楽しいもんかねえ」
それが
ヴィオレッタは、チーズをつまみ、飲み物を啜りながら聞くともなしに二人の会話を聞いている。肝心の、"
そう思った時だった。
「そういや、領主様んとこにまだ幾つか、売れ残ったガラクタが残ってるって話を聞いたことがあるよ。アタシの妹が館で働いててね、見たってさ」
「ほう。」
ヴァイスの目が鋭く光った。
「そいつは、どういう品です」
「やたら大きな金属の人形だっていう話だよ。飾ってても悪趣味なだけだから売れなかったんだろうって」
(――
ヴィオレッタは、瞬時に理解した。内部に埋め込まれた
ちらと彼女の方を見て小さく頷くと、ヴァイスは、何事もなかったかのように世間話を続けてる。だが、彼が考えていることは明らかだった。
休憩を終えて外に出ると、ヴィオレッタがすぐさま話しかけてくる。
「まさか、直接確かめに行こうとか思ってます?」
「話が早いな。そのまさかだが」
「どうやってですか? 見せてくれ、とか正面から入るつもりじゃないですよね?」
「決まってんだろ。」
ヴァイスは、通りの向こうに見えている、領主館を取り囲む壁を見やった。「ちょいちょいと侵入して、見つからないように確かめて来ればいい。」
「ちょいちょい、って…」
ヴィオレッタの顔が青ざめる。「それっ、犯罪ですよ?!」
「まぁそうだが」
「ヴァイスさん、盗賊じゃないでしょう」
「なんでも慣れだ、こういうのはな。」男は、にやりと笑ってヴィオレッタの肩を叩いた。「度胸だ度胸! それにな、侵入されたくらいでイチイチ騒ぐこたぁ無ぇと思うぞ。何しろ、やましいところは相手のほうにあるんだからな」
「え…?」
「
「ご、…」
ヴィオレッタは思わず言葉に詰まった。それは、豪華な城でも建てられそうなくらいの巨大な額だ。
だがヴァイスは、冗談で言っているわけではないらしい。
「ありふれた品でさえ、まだ使える
「……。」
ヴィオレッタは思わず、マントの上から、ベルトにはさんで隠してある杖を確かめた。それに気づいてヴァイスが笑う。
「な? だから行ったろ、持ってることに気づかれんなって。杖は使い方が難しいからそんなに人気が無ぇが、それでも欲しがる奴はザラにいる。古遺物売買の世界ってのは、そういうもんだ」
「き、気を付けます…。だけど…。」
ヴィオレッタは、ちらと領主館のほうに目をやった。
「何を確かめるんですか? その
「まあ、それも在り得るが」
「目的の"
「そうだな、オレの考えが当たっていれば。ただ、無駄にはならんさ。そんな気がする」
「……。」
そう、確かめもしないうちから「何もない」とは言い切れないのだ。
遠路はるばるトールハイム寺院跡まで辿り着いても、そこにはほとんど何も残されていなかった。領主館に残るという遺物のほかにもう、手がかりが無い。
(確かめてみる価値はある)
彼女も、そう思うようになっていた。考えてみれば、ここまでの道中、自分はほとんど役に立っていないのだ。せめて何か、ついてきた意味を見つけなければ。
夜闇が訪れるのを待って、二人は、領主館に侵入した。
というのも、ヴァイスがあっさり侵入出来そうな塀の穴を見つけたからで、彼曰く、「見た目だけにこだわったハリボテの屋敷にはよくある」ものらしい。
「ふーん、これがメイリエル公爵家の屋敷ねえ。
豪華な庭園の隅をこそこそ進みながら、彼は、目ざとく色んなものを発見していく。
「噴水の水も止めてるな。どうせ来客が来た時だけ見栄で動かすやつだ。見張りはいない、外から見えない木は剪定すら雑。ふむ、まさにハリボテの屋敷だな。大方、ハイモニア時代のデカい屋敷を維持するだけで精一杯の、無能領主ってとこか。」
「ずいぶんな言い方ですね…。会ったこともないんでしょう?」
「ここらで仕事をしてた時期は長い。リギアスの貴族連中とは付き合いが長いんだ。だいたい判る」
這うようにして歩きながら、ヴァイスは愉快そうな口調で言う。
「ここらの連中は大抵が見栄っ張りで、アイギス以上に面子にこだわってやがるんだ。」
「そんな、…っていうか、ちゃんと前見ててくださいよ。不法侵入で捕まるなんて嫌ですからね」
「心配すんな、見てるさ。ここいらにゃ人の気配は無ぇ」
「あと、目的のものが何所にあるか、分るんですか」
「だいたいはな。このテの館の構造はどこも同じだ。偉い奴ほど上の方の階にいる。で、大事なもんは近くに置きたがる――」
ひょいと立ちあがるなり、彼は、庭の端にあった裏口の扉を無造作に潜った。
「わっ、ちょっ」
「しっ。黙ってついてこい」
「……。」
ここで騒いでも仕方がない。ヴィオレッタは、言われるまま男のあとに続いた。
けれど確かに、見張りも何もいない。使用人の数も少なく、誰かに見つかりそうな危なっかしさすらない。
不思議なものだ。
「な、言った通りだろう?」
ほとんど灯りさえ無い暗い階段を登りながら、彼は声を潜める。
「ケチなくせに見栄だけ張ってる家ってのは分るんだよ。最低限の使用人だけ雇って、夜は無駄な灯りもなし。油は高いからな。…警備を雇う金もないだろうから、金目のもんは領主が手元に置いて直に守ってると思うぜ」
階段を登り切った最上階の廊下に、一つだけ、入り口に灯りの灯る部屋がある。
「あそこだな」
驚いたことに、本当に、
ヴァイスは振り返って、静かにしているようにと口に指を当てると、足音を忍ばせてゆっくりと像に近付いて行った。
大きさは、大人より一回り高さと幅のある程度。かつてハイモニアが大陸の覇権を手中に収めていた時代によく使われていた、一般的な型式だ。胸のあたりには、ハイモニアの紋章がかすかに残されている。片腕が無く、体にはところどころヒビが入っているものの、まだ動きそうな雰囲気はある。
(売れないほど傷んでるわけじゃなさそうだが…さて)
人形の前に立って様子を確かめながら、ヴァイスは、その人形が動くとは微塵も思っていなかった。
よほど
だが――
ヴァイスが人形の横の扉の奥を伺おうと一歩、近付いた時、それは突然、軋み音とともに動き出したのだ。
「えっ?! うそ」
ヴィオレッタは思わず声を上げ、慌てて口に手をやった。けれど、声を上げてしまったとしても今さらだ。何しろ目の前で、大きな人形が馬鹿でかい音とともに動き始めているのだから。
意表を突かれたヴァイスがうろたえたのは一瞬だけのこと、彼はすぐさま踵を返して走り出した。
「逃げるぞ、ヴィオレッタ!」
「は、はいっ」
異論はない。この場は逃げるより他にない。
階段を駆け下りる二人の後ろから、キリキリと金属の軋むような音が迫って来る。
振り返ると、壁にぶつかり、床を抉り取りながら
「お、追いかけてきますよ!」
「オレたちを"敵"だと認識したんだろう。おそらく、ご主人様の寝室に勝手に近付く不審者を撃退するよう、
「え、え、え? それって…まさか」
「そうだ。
裏庭へ飛び出し、そのまま庭を突っ切って、侵入した時に使った壁の穴から外へ這い出した。けれどそのくらいでは
騒ぎを聞きつけて何事かと通りに出て来た街の人々は、猛烈な勢いで走り去る二人組と、それを追う奇妙な人形に唖然としている。人形のほうは不器用な走りっぷりで、あっちこっちにぶつかり、建物の端にぶつかって大穴を開け、敷石を跳ね上げ、目の前に馬車がいてもお構いなしだ。
「うわああっ」
背後で馬のいななく声と、馬車が壊れる音がする。
「こいつはマズいな…」
ヴァイスがぼそぼそと呟いた。
「マズいですよ! 何とかしないと、あれっ」
「あんた、
「知りませんよ、そんな方法!」
「だよなぁ。」
はあ、と一つ溜息をつくと、彼は、ちらりと城壁を見やった。「仕方ねぇ。壊すしかない、か」
「壊す? ――戦うんですか、あれと?!」
「このまま地の果てまでおっかけっこするワケにもいかねぇだろ。街の外に出たら仕掛ける。あんたは…」
言いかけたヴァイスは、隣のヴィオレッタが既に杖を手に、覚悟を決めたような顔をしているのに気づいて苦笑した。「…まあ、無理のない程度に戦ってくれ。」
夜で城門は半分閉じていたが、歩行者用の出入り口は開いたままだ。二人は、そこから外に駆けだした。ほとんど間を置かず、後ろから
「さすがは、かつて大陸中を牛耳った"金属の身体を持つ最強の兵士"。豪快なもんだ」
「ヴァイスさん、動いてるアレ、見たことあるんですか?」
「ああ。アイギスは元ハイモニアの中心部だからな、王都にゃ警備用の
ヴァイスの手にはいつの間にか、剣がある。これまでの旅で、彼が武器を抜いたのは、これが初めてだ。
「ヴィオレッタ、あんたのその杖、何が出来る? 炎か、氷か。イーリスの攻撃用
「あ、えっと。氷…氷のほうです」
「なら好都合だ。奴の足を凍らせて止めてくれ。無理なら地面を凍らせて滑らせてもいい。うまくバランスを崩してくれ」
「は、はいっ」
返事した時にはもう、男は剣を手に、向かってくる
ヴィオレッタはひとつ深呼吸して、こちらに向かってくる金属の人形の足元に狙いを定めた。ちょうどヴァイスを捕まえようと、片方しかない腕を振り上げるところだ。
(いまだ!)
意識を集中させ、杖の先から冷気を放つ。ほとんど間をおかず、地面と人形の足のあたり一面が凍り付いていく。最初の数秒こそ氷を砕きながら前進しようとしていた人形も、片足を上げたところで完全に凍り付き、それ以上は進むことも後退することも出来なくなっていた。
その隙を突いて、ヴァイスが後ろに回り込む。
「いい攻撃だ。そのまま、頼む!」
剣を両手で構え、人間でいう背筋にあたる部分に突き立てる。人形は抵抗するように身体を捻って腕を振り回すが、攻撃は彼には当たらない。
氷が砕ける。
ヴィオレッタは慌ててもう一度、地面ごと人形の足を凍らせようと試みる。金属が軋み、耳障りのするいやな音を立てて足の片方が折れた。長い年月で、金属の継ぎ目が腐りかけていたのだ。その間に、ヴァイスは人形の背中の金属を引きはがし、狙う急所めがけて剣の先を突き立てた。
ふいに、人形が動きを止めた。
そして、がくんと腕と首を垂れたかと思うと、そのまま、嘘のように静まり返ってしまった。
背中の穴に手をつっこんだヴァイスは、二つに割れた丸い金属片を取り出して、しげしげと眺めている。イーリスの文字が刻まれ、中心に石の嵌めこまれた、それが、この
「大丈夫ですか?」
ヴィオレッタが駆け寄っていく。
「ああ。問題ない」
動かなくなった
「これ、…」
「何かの手がかりにはなるかもしれん。預かっといてくれ。それに、こいつの中身を書き換えた奴は、もしかしたらオレの探してる奴なのかもしれない」
それだけ言って彼は、剣を収めてふいと背を向けた。まるで、昂った気分を覚ますかのように白み始めた空を見上げている。
ヴァイスの仇、"
何か考え込んでいるヴァイスの背中にかけるべき言葉も見つからず、ヴィオレッタが口を開きあぐねていた、その時だった。
視界の端に何か、赤と青の、色鮮やかなものが過ぎるのが見えた。
「え? あれっ?」
それは、見覚えのある、赤と青の羽根を持つ小鳥の姿だった。
斡旋所で使っている、連絡と偵察用の
小鳥はぱさぱさと羽音をたてながら、彼女の手元に舞い降りて来る。
「ん、それ…あんたんとこの牧場の近くにいた鳥じゃないか」
「作り物なんです、これ。実は
近付いてよくよく見やったヴァイスの顔に、驚きの色が走る。
遠目に見ていた時はごく普通の、少し珍しい程度の小鳥だと思っていたが、確かにそれは作り物だった。足は金属で出来ていて、目はガラス玉になっている。
その表情を見て、ヴィオレッタは少し得意げな顔になった。
「ヴァイスさんでも知らないことはあるんですね。ふふっ」
「な、…いや、分かるわけないだろ普通。こんなもの」
「そうですよね。うちとしてもバレちゃ困ります。…あ、誰にも言わないでくださいよ? これが斡旋所の連絡用の道具だなんて」
「言わねぇよ。だが、これで一体どうやって連絡するんだ」
「足に手紙を結びつけるんですよ。ほら、ここに」
ヴィオレッタは、小鳥の足に結ばれていた紙を外して広げた。イーリス文字で書かれたメモは、たとえ小鳥が誰かに捕まっても、そうそう解読されることはないはずだった。
「何て書いてあるんだ」
「ええっと…『報告は最寄りの斡旋所に。伝言がある』」
「最寄り? 最寄りって、ここから一番近いのは…」しばし考えこんだあと、ヴァイスは何故か、苦笑した。「…まさか、戻ることになるとはなぁ」
「え?」
「ベリサリオだ。オレが拠点にしてた街だよ」
手紙が渡ったことを確かめたからか、小鳥は、明け始めた夜の空の彼方へと飛び立っていく。去って行く先は間違いなく、ベリサリオの街のある方角だ。
「ちょうどいい時にそいつが届いた、ってことは、あの小鳥…もしかして、これまでも誰かがオレたちのことを監視してたったことなのか?」
「そうかも…しれません」
「まあ、見ていてくれたほうが有難い、とも言えるが」
ちょっと肩を竦め、ヴァイスは、街のほうに向かって歩き出した。「馬を取って来よう。ちょうど夜が明ける。面倒なことになる前に出発したほうがよさそうだ」
慌てて追いかけるヴィオレッタの足元に、薄い影が落ちている。
二人の頭上の空からは、いつの間にか星が消え、夜明けの最初の陽射しが届こうとしていた。
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