第五章 騒乱の始まり(1)
雪解けの洪水からはや数カ月。
ザール地方の泥水に埋もれた街もなんとかほぼ元に戻り、ヴィルヘルムたちの暮らしにも日常が戻りつつあった。
最後の仕上げは、決壊した川の堤防の増強と作り直しだ。そのための資材と人夫の目途も付き、工事は大急ぎで進んでいる。力自慢のヴィルヘルムも、街の男たちに混じって上半身をあらわに、泥まみれになりながら資材を担いでいた。
そこへ、彼の兄で、この地方の領主のハインツがやって来るのが見えた。領主の視察なのだろうと勝手に思っていたのだが、…。
「ヴィルヘルム。ちょっと」
呼ばれて、彼は両手の泥を払いながら作業を抜け、兄のほうへ向かった。
「これから集会へ行かねばならん。付き合ってもらえないか」
「集会?」
意外な一言だった。ヴィルヘルムはかすかに眉を寄せ、訝しげに首を捻る。
「何でまた、こんな時期に」
集会、とは、他国における国会のような位置づけの集まりだ。首長を頂点に各地方の代表者である領主たちが共同体を結成しているティバイス首長国では、毎年一度、領主たちを集めて全体の方針を決めたり問題事を解決したりするための会が行われることになっている。だが、今はまだ、春の初めだ。
「今回は臨時開催になる。最近、トラキアスの連中との小競り合いで色々あったらしい」
「ああ…。」
ヴィルヘルムは、無骨な大きな手でぼりぼりと頭をかいた。
なるほど。夏まで待てないような、緊急の事態が起きたのだ。
ティバイス首長国と、北に隣接するトラキアス王国とは、とにかく仲が悪い。というより、定期的に衝突しあうのがお約束のような関係だ。
"馬に乗り、剣を振るえてはじめて一人前"とするティバイスの諸部族。
"戦場で戦って死ぬことが最高の名誉"という宗教観を持つトラキアスの騎士たち。
元々、山の民と草原の民の因縁ははるか昔から続く宿命のようなものだ。しかも今のトラキアスは、元々の北の山地に住む山岳民族を、かつての大国ハイモニアから分離した王族が亡命しひとまとめにして作り上げた。いわば、山と草原の対立に、支配者であった大国への反発の、二重の因縁が籠っている。
出くわせば、いい機会だとでも言わんばかりにどちらも武器を抜く。若い連中などは、口実さえあれば戦いたくてうずうずしている。手加減などまだ知らないような連中では、勢いで、殺傷も在り得ることだった。
「で、今回は何が起きた」
「二週間前、ドラウク領の領主の息子が殺された。トラキアスの騎士どもとの小競り合いで」
「ほう――。」
ヴィルヘルムは、思わず声を上げた。
「よく殺せたもんだ。あそこのドラ息子はしょっちゅう喧嘩沙汰を起こしている問題児で、性格に問題は在るが腕と経験は確かだったはずだが。」
「うむ。殺しても死なない類の、いい年こいた悪ガキだと思っていたんだがな。それに、タチの悪いことに喧嘩をしかける相手も選んでいた。確実に勝てる新米騎士ばかりに喧嘩をふっかけて――それが、今回はどうも運悪く、相手方によほどの手練れがいたらしい」
「それで引き際を見誤って、か。ま、調子に乗って弱い者いじめにかまけた奴の末路としてはありがちな話だが。…」
話しながら、二人は領主館の辺りまで戻って来ていた。馬が準備されていて、ハインツとヴィルヘルム双方の妻が荷物を持って待っている。
「なんだ、見送りか? 準備がいいな」
「
がっちりと引き締まった体つきの、いかにも女丈夫なヴィルヘルムの妻は、いつものように明るく笑って旅の荷物を差し出した。「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「ああ。子供らと家をよろしく頼むぞ」
黒髪の妻を抱き寄せて頬に別れの挨拶をすると、ヴィルヘルムは、受け取った荷物を肩にかけ、馬に飛び乗った。兄のハインツのほうも同じように、自分の妻に挨拶して鞍に上がる。
集会は、ティバイス諸侯領の中心にある"合議の丘"と呼ばれる場所で行われる。ザールからは、馬を飛ばせば、ほんの数日の距離だった。
集会の場所は、草原に囲まれた丘陵地帯の中心部にある、見晴らしのよい高台の一つだった。切り立った、巨大な柱のような無骨な黒い岩がせり上がっているのが目印だ。背後には草原の真ん中に突き立つ岩山の威容がある。
"合議の丘"。
何か大事な決めごとや年ごとの集会の時には、その丘に、ティバイス首長国を構成する十二の部族を代表する領主たちが寄り集まる。
参加できるのは部族の代表と、護衛をつとめる身内が一名のみ。首長を入れて合計二十四人だ。ハインツが集会に参加する時は、例外を除けばいつもヴィルヘルムが護衛役を務めている。
何事もない時ならば一族郎党を引き連れて、ちょっとしたお祭りのようになるのだが、今回は緊急開催の臨時集会とあって、どの部族も数人の供しか連れてきていないようだった。
丘に張り巡らされた幕の内側には、今のティバイス首長国の代表である首長サルマンが岩の柱を背に堂々と敷物に腰を下ろし、威厳たっぷりに他の氏族の代表者たちが揃うのを見守っていた。彼は白い髭をたっぷりと蓄えた高齢の男で、若い頃は勇者と讃えられていた人物だ。年を取ってからはティバイスいちの知恵者として名高い。曲者揃いのティバイスを何とかまとめられているのは、この人物のお陰なのだと、ヴィルヘルムは常々思っていた。
「皆、集まったようだな」
全員が席についたのを見計らって、サルマンはおもむろに口を開いた。
「それでは始めよう。」
集会はいつも、同じ手順で開始される。
まず最初に現職の首長による職務への宣誓と、誓約の確認。「誓約」とは、全部で十条からなる、首長の権限を規定するものになっている。
曰く、首長は十二の部族の代表者であり、独立した決定権は持たず、全ての重大な決定は十二人の合議によって行われる。
曰く、首長は代表者として知りうる特定重要事項を秘匿する権限を有するが、十二人の他の者に対しいかなる虚偽の報告も行ってはならない。
曰く、首長はトラキアスの第一の者たる自覚を持ち、いかなる時も威厳と節度を持って領民の手本となるよう臨むものである。…。
それらの条項に違反した時には弾劾裁判が行われ、有罪とされた場合には所定の法律に従い権限を剥奪され、罰則が与えられるものとする。
それから、諸部族の代表者による首長への挨拶であり、通常の開催であれば、それから諸部族ごとに近況の報告や議題の提出が順番に行われる。だが、今回は臨時集会とあって、挨拶の後、いきなり本題から始まった。
サルマンはひとつ息を継いでから、集まった各領の代表者たちを見回し、切り出した。
「さて、今回集まってもらったのは他でもない。すでに聞き及んでいるだろうが、先日、ドラウクの領主ギムレイの息子ユースフが、トラキアスの騎士どもに殺された」
いかつい顔のギムレイは、首長のすぐ隣にあぐらをかいている。握りしめている、どこかで見覚えのあるスカーフは、殺された息子の遺品だろうか。
「この一か月で他にも何件か、場所はトラキアスとの境界近くで連中との交戦が発生している。そのたびに当方の巡回は敗北している、と聞く。このままでは我らティバイスの沽券に関わるのではないか、トラキアスを調子づかせないために、こちらからも反撃をするべきではないか、という意見があるのだが。」
「子供の喧嘩を口実に大人が出る、というのは、あまり感心できませんな」
真っ先に口を挟んだのは、ギムレイの反対側にいる温和そうな顔をした男だ。髭はひょろりと細く垂れ、下がった目尻からして、いかにも好々爺、といった風貌をしている。ティバイスを構成する領地の中でも最も大きな面積を持つ、海沿いのベリル地方の領主、カイザルだ。基本的に草原の国であるトラキアスの中でも例外的に貿易港を持ち、海の馬も乗りこなす。
「ふん、貴様のところはどうせ、トラキアスとの商売で儲けられなくなることを気にしているんだろう」
「そういうお前は自分の倅の不始末を自分でとらずに、わしら全員に肩代わりさせるつもりじゃあないだろうね?」
「なッ」
顔を真っ赤にして立ちあがりかけるギムレイを、溜息交じりにサルマンが手で押さえる。
「静かにせよ。合議の丘では争いごとはご法度だ。破った者は永久にこの場から追放される。双方とも矛を収めよ。カイザルも、口を慎め」
「これは失礼を」
「ふん」
ギムレイは腰を落ち着け、カイザルは底の見えない笑みを浮かべたまま口を閉ざした。
「ユースフの仇討ちはともかく、トラキアスの連中がなぜ今になって手練れを境界沿いに出してきたのかは、気になりますね」
別の首長が口を開く。ドラウクの隣、アイムの領主。この場では最も若く、父の座を継いだばかりのハリールだ。まだ二十代そこそこの若者だが、既に一族の代表者らしい堂々とした威厳を身に着けている。
「ともかく、とは何だ。お前も倅の知己だったろう」
「あ、すいませんギムレイ様。…とはいえ、まあ、あんまり仲はよくありませんでしたしね」
にこやかにそんなことを言うあたり、肝は座っている。「でもユースフ様とは長い付き合いですし、腕がたつのは良く知っています。あのユースフ様ほどの方が殺されるなんて、相手は本当に新米の騎士だったんですか?」
「ふん、そうらしい。少なくとも見た目はな。…と、生きて戻って来た従者に聞いた。」
「どういう状況だったんです」
「いつものことだ。倅たちはうちの領地を巡回中で、向こうも同じだ。それで境界ですれ違って、境界ギリギリのところで…小競り合いになった。こっちは三人、相手は五人。先に抜いたのは向こうだ、間違いない」
「そこで、こちらが抜かなければ良かったのだ」
ぽつりと、ハインツが言う。「抜かねば争いごとにはならなかったものを」
「どちらが先かなど関係ない。なぜ、わざわざ挑発に乗るような浅はかな真似を? 領主の嫡男ともあろう者が、少しの自制心も無かったのか」
と、カイザル。
「ふん、自領の境界を敵と接したことのない者には分からんだろうな。いつ侵入されるかも分からず、いざコトが起きれば真っ先に矢面に立たされる。そんな領地を持ってみるといい」
「ならば尚のこと、自制が必要だろう。…まあ、過ぎたことは良い。偶発的な事故ならば、敢えて皆を集めることなど無かったのではないのか?」
ハインツが視線を向けると、議長でもあるサルマンは小さく頷いて、再び皆を見回した。
「実はな。この件でギムレイは、皆の同意が得られぬとしても自領単独で報復に出る、と申しておるのだ。くだんの新米騎士を引きずり出し、敵討ちをするのだと。」
「な――」
小さなざわめきが起こる。
「なんと、馬鹿なことを」
「トラキアス国内に攻め込みでもするつもりか? そんなことをすれば騎士団の本体が出て来るぞ。ドラウク領の兵力だけでかなうものか」
「わざわざ、こちらに攻め返される口実をつくって敵を引き入れるのか? 正気に戻れ、ギムレイ!」
「何が正気だ。貴殿らこそ正気に戻れ!」
怒鳴りながら、強面の男が立ちあがる。ぎらつく瞳はまるで獣のようだ。
「この百年、奴らは何度、攻め入って来た? 休戦協定を結んでもすぐに破られ、コケにされ、身内を何人も殺されて。このまま耐えておれというのか、お前たちは? 奴らは余所者のハイモニアの末裔ではないか。このティバイス首長国の望みは何だ。集っている目的は何だ? この大陸の本来の住人は、我々草原の民なのだぞ! この大地は、我らのものではなかったのか?!」
「……。」
あまりの剣幕に、誰もが口を閉ざす。
(そうは言うが、トラキアスの連中を大陸から追い出すなど現実的ではない)
兄の後ろに控えたままで、ヴィルヘルムは心の中で呟く。
(血など、数百年もたてば、どこかで混じり合っているものだ。それに余所者たちが移住してきたのは、もう、五百年も昔の話だぞ。今や連中もまた、この大地の住人なのだ。そこではない――そんな大義では、人は動かぬ)
"この大陸は元々、草原の民のものだった。後から来た連中は余所者に過ぎない"
――それは、ティバイスに昔からはびこる、国粋主義とでも言うべき過激思想の一種だ。
この大陸における先住民は、草原の民、北方の山岳民、南方の島嶼に住む海洋人、そして今は滅びた魔法王国のイーリス人。その中でも最も古いのが草原の民で、ハイモニアを築いたのは海を渡ってきた新参の渡来の民。だから草原の民こそが、この大陸の覇者として相応しい――。
だが、あまりにも荒唐無稽で、一部の過激な意見という認識に留まっているのが現実だ。
困り果てたようなサルマンの表情からして、彼の心づもりは見て取れた。彼は敢えて会議の場を設けることで、他の領主たちにギムレイを説得させ、自暴自棄な復讐戦を諦めさせるつもりなのだ。
いくら一領主とはいえ、ティバイス側の領主がまとまった兵を率いてトラキアス領に攻め込めば、正式な宣戦布告も同然と見なされる。
そうなれば、国境警備の新兵などではない、騎士団本体の主戦力が山を駆け下って来るだろう。この数十年起きていなかった大きな戦争が始まる。それは避けたい、と誰もが思うところだ。いくら敵国とはいえ、人やモノのやり取りはあるし、商売相手や親族がトラキアスにいる領主も多い。
だが、その時ふいに年若いハリールが、思いもよらない言葉を口にしたのだ。
「いいんじゃないですか? 要は、勝てればいいんでしょう。思い切って全面戦争をしてみてはいかがです?」
年かさの領主たちがぴくりと眉を跳ね上げて、ちらと彼の方を見やった。ハインツでさえ、あっけにとられている。
「何をばかなことを…。」
ぼそりと呟いたのは、サルマンに継ぐ勢力と人望を持つカイザルだった。
だが、ハリールはにこやかに続ける。
「ドラウク領だけ、などというケチなやり方では、この均衡は崩せませんよ。二度とちょっかいを出す気が無くなるくらい、トラキアスを思い切り痛めつけてやればよい。そうすれば、全て解決するのでは? トラキアスはろくに畑も作れない山だらけの土地だ。特に西部は、このティバイスから輸出される穀物に頼っている。ならば我々が吸収してやったほうが住人も喜ぶでしょ。あの辺りを少しいただいて、北岸の良港を手に入れる、というのはどうですか?」
しん、と水を打ったような沈黙が落ちた。
ハリールは笑みを湛えたまま、並居る領主と護衛たちを見回している。この青年は、自分が何を言っているか判っているのだろうか。
「おやおや? まさかギムレイ殿まで黙ってしまうとは。そう、皆さん本当は心の中で思っていらっしゃるんですよね。トラキアスとは、全力で戦っても勝てない、と。いいところ相打ちだ、と。」
「違う」
ギムレイが、汗を拭いながら賢明に口を開く。
「北の山岳地は急峻すぎて馬では走れんのだ。おまけに、トラキアスに深く攻め入れば簡単には戻って来られんようになる。南は――南の国境はどうするつもりだ。リギアス連合国の血気盛んな連中が、主力の不在を何カ月も見逃してくれると思うのか」
「いやだなあ、なぜ長期戦の話になるんです? 戦は、一瞬で決めればいいんですよ。奇襲こそ我々の得意とするところでしょ?」
そう言って、ハリールは腰を浮かし、軽く指を鳴らした。「奥の手があるんですよ。少しだけ、お見せします。どうぞ天幕の外へ」
「奥の手? 一体――」
言いかけた時、どこからともなく地鳴りのような音が響いてくるのが聞こえた。
「何事だ」
首長たちの集まる場所を丸く囲む幕屋の柱も揺れ始め、ヴィルヘルムは、思わず腰を浮かせていた。
(騎馬群? いや、違う。何だ、これは――)
それは足音のようだったが、無数の、というよりは、たった一体の生き物のもののように聞こえた。ずしん、ずしん、と地面を揺らしながら、何かがこちらに向かってやってくる。
そして、草原の彼方に長い首をもたげる「怪物」がちらりと見えた時、首長たちはみな、唖然として、言葉も出ないまま固まっていた。
金属で出来た人形だ。
「さあ、どうです? ご覧ください! 意のままに動くのです、あれは。あいつを使って、トラキアスの生意気な騎士どもを踏み荒らしてやりましょうよ!」
笑いながら両手を広げ、空を振り仰いで笑う青年の顔を見やりながら、ヴィルヘルムは、ぞっとする感覚を覚えていた。
戦争の何たるかを知らぬ、こんな若者がーー戦争の意味と概念を壊そうとしている。
否。おそらくこれは、――かつて行われた、現在の常識にはそぐわない、忌まわしい過去の再現なのだ。
「ヴィルヘルム、あれはまさか…」
「ああ。おそらくは、
ハインツは、心配そうに他の首長たちを見回した。
この圧倒的な奥の手の存在は、首長たちの心境を一変させていた。
先ほどまで全面戦争には否定的だったギムレイですら恍惚とした表情になり、期待に満ちた表情になっている。
ただ一人、首長サルマンだけは渋い顔をしている。経験豊富で、ヴィルヘルム同様にかつて兵士として実際の戦場に出ていたこともある老賢者は、たった一つの、得体のしれない秘密兵器などに頼って行われる戦争の危険さを良く知っているのだ。
だが、ティバイス首長国全体の方針は、各部族の代表者、十二人全員の多数決によって決められる。首長といえど、それを覆すことは出来ない。
(これは、大変なことになる…)
ヴィルヘルムの予感は的中する。
平穏な時代の終わり。
それから半月と絶たないうちに、ティバイス首長国北方の各部族からなる軍は、隣のトラキアス王国領との境界を越えて、進軍を開始することになる。
大陸には再び、大きな戦火が燃え広がろうとしていた。
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