第四章 放浪の元騎士ヴァイスの誓い(4)
夜が明ける。
山の間から射して来た太陽の光が、静かに端から牧場を朝の色に染め上げて行く。
結局、昨日は黒い馬の持ち主は戻って来なかった。ヴィオレッタの家族は全員、侵入者はきっと森の中で死んでしまったのだろうと思っていた。よくある、ことではないが、初めてというわけでもない。
だからこそ、森の番人という役目が必要なのだ。侵入を防ぎ、無駄に死者や怪我人を出さないために。
今日は誰も侵入者のことを口にせず、既に忘れようと努めている。ヴィオレッタも、朝食を食べたら今日はカームスの職場に戻るつもりで早起きしていた。
「んー…」
けれど大きく伸びをしながら外に出た彼女の視界の端に、思いもよらなかったものがあった。
牧場の柵の外を、男が一人、無造作に通り過ぎてゆこうとしている。
「んッ?!」
思わず声を上げ、彼女は手すりから身を乗り出した「ちょ…ちょっと! あなた何処から?!」
「やあ、おはようございます。美しいお嬢さん」
歯の浮く様な挨拶をさらりと口にして、男は軽く片目を瞑って見せる。いかにも余所者らしい、この辺りでは見かけないデザインの外套を纏ったその男は、確かに今、森の方から出てきたように見えた。
くすんだ茶色の髪に灰色の瞳を持つ長身の男――昨日、兄のライルが近くの村で聞き込みをして来た、不審な旅人の外見そのままだ。
唖然としているヴィオレッタをよそに、男は、辺りをきょろきょろと見回してから、気さくな笑みで声をかけて来た。
「あー、お嬢さん。この辺りに黒い馬が彷徨っていませんでしたかね? オレの馬なんですが。」
「あ、あ、あ、」
ヴィオレッタはとっさに部屋に飛び込んで、寝台の脇に置いてあった杖をひっつかむと、スカートたくし上げながら外に飛び出した。
「動かないで!」
言いながら、杖の先を男に向ける。
「おおっと。いきなり物騒だな、オレは――」
「父さん! 兄さん! 侵入者よ!」
叫び声に、家の中からパンをくわえた青年、それに裏手のほうから鋤をかついだ中年の男が、ほぼ同時に駆けだして来る。
「あー、勝手に牧場に立ち入ったことは謝りますが。…」
ヴァイスは、両手を上げながら苦笑した。
「いきなり
「なっ、」
さっとヴィオレッタの顔が赤くなった。慌てて杖を背後に隠す彼女に苦笑しながら、ヴァイスは続けた。
「まぁオレは敵じゃない、安心してくれ。で、オレの馬を返してくれると助かるんだがな。オレはこれから、『虹の座のラヴァス』を請けにいかにゃならんのだが」
「……!」
三人の表情が、ほぼ同時に硬直する。家の中からひょこっと顔を出した幼い少女たちが、後ろから、母親らしい女性につまみ上げて家の中に引きずり込まれる。
鋤を構えていた中年の男が、腕を下ろして帽子に片手をやった。
「あんた、どこでそんな言葉を…」
「なに、この森の奥に住むお姫様からな。ここを守ってるんなら、あんたらもイーリス人の末裔なんだろう? オレはこれからカームスの斡旋所まで行かにゃならん。馬を返してくれると有難いんだが。」
「……。」
ごくり、と息を飲み込んで、牧場主らしい中年の男が、息子らしい青年のほうにあごをしゃくる。青年はくわえていたパンを飲み込んで、裏の厩舎のほうに駆けてゆく。
ヴィオレッタは杖を下ろながら、胡散臭そうなその男――あんなの歯の浮くような台詞をさらりと口にできるのは、おおよそ、詐欺師か何かの類に違いない――を用心ぶかく伺った。
この男は罠にもかからず森に侵入し、はじめて五体満足で戻って来た。
それに、イーリス人しか知らない言葉を口にした。どう見てもイーリス人ではないにも関わらず、だ。
(「お姫様」ですって? 「森の奥に住む」って。…どういうこと? この森の奥にあるのは墓所で、誰も住んでいないはずなのに)
余計な言葉は交わさないほうが良さそうだが、好奇心は膨らんでゆく。
その誘惑に負けそうになった時、ちょうど、ライルが、馬具をつけた馬を引いて小走に駆け戻って来た。
「ありがとう。預かってくれてて助かったよ。それじゃ、失礼」
男はひらりと馬に乗って、そのまま、カームスへと続く山道のほうへ向かって走り出す。
馬と人の姿が牧場の外へと消えるや否や、ヴィオレッタは父のフレデリクのほうを振り返った。
「父さん! あいつ、一体…」
「分からん。」
フレデリクは、小さく首を振って森の方を振り返った。
「だが、『虹の座』というのは確かに、イーリス王家のことだ。姫君と言ったな…生き残りがまだ…?」
「そんな話、聞いたこともないけどね」
ライルが溜息をつきながら近付いてくる。
「それに、イーリス人でもないあの男がなぜそんなことを知ってる? なぜ森に入って生きて戻って来られるんだ。わけが分からないよ。ヴィー、あの男はカームスへ行くと言っていた。これから街に戻るなら、少し探りを入れられないか」
「うん、そうしてみる」
ヴィオレッタは頷いた。もとより、そのつもりだった。カームスは広い街だが、険しい谷に張り付くようにして広がる街は見晴らしがよく、旅人の訪れる宿場町の場所は決まっている。すぐに見つけられるはずだ。
だが、再会は、思いもよらない形でやってきた。
「あ、…え?」
その日の仕事で、窓口で最初に出迎えた請負人。それが、――今朝、牧場で出くわした、あの男だったのだ。
ぽかんとしているヴィオレッタ同様、男の方も驚いた顔だった。
だが、その表情はすぐに、今朝と同じ、取り繕ったものに変化する。
「これは、今朝のお嬢さん。まさかこんなに早く再びお目に掛かれるとは。しかも、オレの馬の後ろには誰もいなかったはずなのに、何故か先回りされているとはね」
「あ、あの…えっと」
事情を知らないアーティが、窓口の向こうで何やら慌てている。
(あんた、この間の若い騎士さんはいいの?!)
ぱくぱく動かしている口のセリフを読み取って、ヴィオレッタは頭を抱えた。
(違うのよ、アーティ…色々誤解してるわ)
「ヴィオレッタ、ヴィオレッタ」
隣の窓口からマーサが声をかける。「仕事中だよ。何してるんだい」
「あ、あー…えっと」
「ここにオレ宛ての依頼が届いてるはずなんだ。確認してもらえないか」言いながら、男は囁くように言った。「"虹の座のラヴァスのために来た"。」
ヴィオレッタと、そして隣のマーサが、はっとして顔を見合わせる。
今朝、ヴィオレッタが出勤してすぐ、窓口の二人は、この斡旋所の所長であるウィレムに呼び出され、今日は特別な依頼がある、と告げられていたのだ。
「本部からの依頼だ」
ウィレムは一言、そう言った。
「本部…って、内部依頼ってこと、ですよね?」
「まあそうだ。窓口で合言葉を言うことになっている。いつもの――あれだ」
"ラヴァス"。イーリス語で「仕事」を意味するその言葉が、本部からの依頼を請け負う者の合言葉だった。
「内容によく目を通しておいてくれ。問題や不明点があれば、依頼人が来る前に言うように」
「分かりました。」
そしてそれから、いつものように、窓口を開ける準備に取り掛かったのだった。
斡旋所の"本部"が何所にあるのかは、ヴィオレッタのような一般職員には知らされていなかった。ただ、各地の窓口や出張所の代表者だけは知っているようだった。ごく稀に出て来る依頼で、斡旋所内部の誰かが依頼人となっている。
その依頼は、問題を起こした請負人の追跡や捕縛がほとんどだ。
依頼を踏み倒して逃げたとか、依頼を達成したと虚偽報告をしたとか、依頼主に損害を与えて逃亡したとか、――そうした請負人を、契約に従って罰するためのもの。請け負うのは、請負人の中でも特に信頼の置かれている者や、専属で契約している傭兵のことが多い。
(でもまさか、この男も、そうだったなんて)
怪訝そうな顔をしながらも、ヴィオレッタは、手元の依頼一覧を捲った。どうせいつもと同じ内容ではないだろうと思っていたから、まだ、依頼の詳細に目を通していなかったのだ。
「ありました。ええっと…」
依頼の詳細の書かれた紙を取り出して、彼女は、本部依頼の内容を読み上げた。
「廃墟となったトールハイムの寺院跡を探索して欲しい、という依頼です。」
言ってから、思わず首をひねる。遺跡の探索? いつもとはずいぶん違う内容だ。
「遠いですね。場所は、リギアス連合国の西部、メイリエル公領。こちらが依頼人の提示してきた地図です」
窓口に置かれた地図を取り上げ、男は、それをしげしげと眺める。
「メイリエル、か。この辺りはまだ、一度も行ったことが無いな。ふうん…」
文字は読めているらしい。
ヴィオレッタはそれとなく、男の様子を確かめていた。今のところ素性も何も分からないが、少なくとも、腰に下げた剣はお飾りではなさそうだ。それなりに経験値を積んだ気配がある。芝居がかったキザな口調さえしなければ、――むしろそちらのほうが、好ましく感じられるというのに。
「内容は? それだけか」
「あ、はい」
「ふうん。判った、じゃあ行ってくるとするか。契約書は」
「はい、こちらに」
ヴィオレッタは、平静を装いながら手続き用の書類を差し出した。隣のマーサが興味津々な顔で、自分の窓口の応対をしながら、ちらちらとこちらを見ている。アーティのほうは、依頼を貼りだした掲示板の前で、文字の読めない請負希望者に内容を説明するのに手一杯だ。今日は朝から仕事の希望者が多い。
ペンを取り上げ、書類に署名をしようとしていた男の手が止まった。
「なあ、お嬢さん」
「はい?」
「同行人、というのは、誰のことなんだ?」
「――はい?」
「ほら、ここ」
書類をヴィオレッタのほうに向け、男は、下の方に但し書きされた部分を指で示す
「ここに、"尚、この依頼には当斡旋所推薦の同行者を必要とする。同行人については窓口での紹介とする"ってあるぞ」
「え、え? ちょっとお待ちくださいね。同行人なんて、そんな――」
手元の書類に視線をやった彼女は、依頼内容を記した紙の下の方に、ウィレムの字で、走り書きが付け足されていることに気が付いた。
"本件は
ヴィオレッタが適任だろう。お願いしたい"
「……。」
しばし呆然として、彼女は、その文字を何度も目で辿った。間違いない。所長の指示書きだ。
(だから今朝、あんなことを…)
依頼人が来る前に言うように、と言っていたのは、そういうことなのか。
ヴィオレッタは、思わず額に手をやった。
「えーっと、ちょっとお待ちくださいね…。」
この斡旋所の職員で
「……。」
手元の書類に書かれた文字が、揺らいで見える。所長からの頼みだ。理由もなしには断れない。それに…そう、これは、ただの
「それは――私が、承ります」
ひとつ息を飲み込んで、彼女は、目の前の男に挑むような視線を向けた。そう、これは絶好の機会だ。家族の管理する森に勝手に侵入したこの男の正体を、ぜひ、見極めてやりたい。
「あ、でも、あの」
と、決心した矢先に、彼女は慌てて付け足した。
「あの…リギアスなんて行ったことが無くて…。南の方でしたよね? 結構かかります?」
ヴァイスは、思わず苦笑した。
「普通に往復すれば、馬の足で一か月半ってところだな」
「い、一か月半…?」
「いいぜ。ゆっくり準備してくれ。荷造りとか、家族への挨拶とか、色々あるだろ。明日、街の出口で待っている。準備が終わったら、適当に声かけてくれ」
そう言って、男は、署名の終わった書類を彼女の手元に残して去って行って行く。
ヴィオレッタは、まだ考えの整理が付かないまま、呆然と窓口の向こうを見つめていた。
それから、旅の支度は大急ぎで進められた。
旅の間の窓口の仕事を代わってもらうため、同僚たちに声をかけ、実家の牧場から丈夫な馬を一頭借りる。
本部からの依頼にヴィオレッタもついていくと知って、アーティはとても驚いたようだった。
「大丈夫なの?」
「たぶん…。所長が言うには、あの人、斡旋所で長年仕事してて、信頼度ランクは最高なんだって。一応、本部の仕事請けられるだけはあるっていうか…。全然、そうは見えないけど。」
「うーん、だけど何も、窓口係のあんたまで仕事させることはないと思うんだけどなあ。
「お年寄りや家族がいる職員には厳しいと思ったんじゃない? 長旅になるみたいだし」
初めての長旅で何を持っていけばいいか分からず、馬の鞍には、必要そうなものを手あたり次第に詰め込んだ、大きな荷物がくくりつけられている。その中にはもちろん、いつもの杖と、「七里跳びの靴」も入っている。
「それじゃ行ってくるからね。後はお願いね、アーティ」
「いってらっしゃい。無事に戻って来るのよ」
山の狭間に位置するカームスの街を吹き抜ける早春の風は、まだ少し冷たい。
待ち合わせの街の出口に、ヴァイスは先に来て、街の一番高い場所に突き出して見えるエデン教大聖堂の尖った屋根を見上げていた。
ヴィオレッタが近付いていくと、彼はにやりと笑い、自分の馬に飛び乗った。
「よし、じゃあ行くか」
「は、――はい」
「そう緊張するな。目的地まではほとんど街道を道なりだ。難しいことは何も無い」
先を行くヴァイスの馬の少し後ろを、ヴィオレッタの乗った馬が続く。
遠ざかってゆくカームスの街並みと見なれた山脈。仕事で旅をすることになるなんて、思ってもみなかった。生まれてからこの方、故郷を長く離れたことなど無かった。
不安と、僅かな好奇心。自分がこの旅に必要とされた理由も、これから何が起きるのかも、今の彼女には、何一つ確かに見えていることは無かった。
街を出てからずっと、後ろをついてくる少女は押し黙ったままだ。
トラキアス王国からリギアス連合国へ向けて繋がる街道を目指して馬を走らせながら。ヴァイスは、時々後ろを振り返ってヴィオレッタの様子を確かめた。馬の歩みから、馬上で緊張しているのが判る。
(旅は初めて、か。――ま、あの牧場の位置からして、おおかた、守り人みたいな立場だったんだろうからな)
自己紹介がわりに軽く名乗り合ったくらいで、互いの素性はほとんど何も知らない。ただ、ヴィオレッタが、
「なあ、お嬢さん」
「その呼び方は止めて下さい。私はヴィオレッタです」
「ああ、すまんな。それじゃヴィオレッタ。聞きたいんだが、あんたらイーリス人の末裔ってのは、ほとんど斡旋所で働いているのか?」
「どうしてそんなこと聞くんですか」
少女は明らかに、その問いに不満を持ったようだった。「あなたには関係ないことでしょ。」
「すまん、聞き方が悪かったな。つまりだ、あんたらが把握していない仲間がいる可能性はあるのか、ってことだよ。これは仕事の話なんだ。今回の依頼は、本来使われちゃならねぇ
ぴくり、と少女の表情が動く。どうやら、この話は初耳らしい。
ヴァイスは馬の速度を少し緩め、ヴィオレッタの乗る後続の馬が並べるようにした。
「しばらく旅路を共にするんだ、知っておいてもらった方がいいだろう。――これからオレたちが行く先の寺院というのは、かつて"
聞いたことは無い、って顔だな。無理もないそいつは元々一つしか存在せず、とっくの昔に失われたはずのものらしい。それを何者かが悪用した。この依頼はな、その手がかりを探しに行くためのものだ」
「待って、おかしいわ。そんな
「そうだな。」
「私たちも知らないのに。…えっ? もしかして、イーリス人の末裔の誰かが使ったって疑ってるんですか?」
「その可能性もある。
「まさか。そんな…」
ヴィオレッタは手元に視線を落とし、俯きがちに考え込んでいる。ヴァイスのほうは逆に、行く手の、はるか彼方を見やっていた。
「ま、悪意があったとは限らん。もしかしたら利用されただけかもしれん。オレはただ、なぜオレの仲間を殺されなければならなかったのか、それを知りたいだけだ」
「殺され…た?」
「ああ。その
「……。」
警戒一色だった少女の気配が、ほんの少し和らいだ気がする。返事はないが、納得はしてくれたのだろう。
(ただ、もしイーリス人の仕業だとしたら、このお嬢さんには荷が重いな…)
ヴァイスは仇討ちを望んでいる。もし問題の
もしそうなるようなら、ヴィオレッタには戦線を離脱してもらうつもりだった。
もとよりこれは、彼自身の個人的な問題でもある。依頼内容は「調査」まで。その先は、斡旋所の仕事とは無関係だ。
主君を見捨てて逃げた卑怯者と糾弾され、騎士団から罷免された十年前の屈辱。
誰一人救うことが出来なかった悔しさと、誰一人証言を信じてくれなかった怒り。真実を闇に葬りたくはないと、「仇を討つまでは戻らない」と啖呵を切って飛び出した。
家族は止めもしなかった。引き留めれば、国中から後ろ指をさされつづけて一生を過ごすことになると判っていたからだ。
見送りに姿も見せなかった父。
何も言わず玄関でただ泣き崩れていた母。
そして、――窓の向こうからじっとこちらを見つめていた、愛しい人。
必ず帰ると約束した。
その誓いを忘れた日は、一日たりとも無い。たとえどこへたどり着こうとも、この誓いだけは果たさねばならないのだ。
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