第四章 放浪の元騎士ヴァイスの誓い(2)
ヴァイスの故郷であるアイギス神聖王国は、大陸東部の高原地帯に首都を構える王国だ。
前身となるハイモニア王国の首都と、かつての国の中心部をそのまま引き継いでおり、ハイモニア時代に築かれた古い建物や歴史的な建造物も多い。高原地帯は良質の石材の産地でもあり、ハイモニア人は、優れた建造技術で堅牢な要塞を築くことを得意としていた。現在でも、王都は何重もの巨大な城壁に取り囲まれ、外からは決して破られないと言われている。事実、防衛戦ではほぼ負けなしだった。
にもかかわらずハイモニア王国が分裂してしまった原因は、主に内に巣くう獅子身中の虫にあった。つまりは王位継承を巡る王族たちの争いと、血で血を洗う内輪揉めの結果なのだった。
百五十年ほど前、ハイモニア王国は、近隣諸国の一つだった魔法王国イーリスと親交を結び、それとなく
けれど瞬く間に大国となったハイモニアは、滅び去る時もほんの一瞬だった。
統一王の死後は王子たちとその子供たち、身内や家臣による血で血を洗う後継者争い。そして国土は分割され、今では東西南北に位置する四つの大勢力に分れている。
かつての王都を含む東部高地を支配するのが、アイギス聖王国。
北方の海に面した山岳地帯に位置するのが、トラキアス王国。
西方の草原地帯に展開するのが、ティバイス首長国。
そして南方の、後継者争いが最も激しく行われた権力の空白地帯に成立したのが、新興小国家群と島嶼群を含むリギアス連合国だった。
現在、ハイモニアが奪った
逆にアイギス聖王国に残っているもののほとんどは、王家が管理していて、表に出て来ることはまずない。それに、残っているものも、戦争で使われるものというよりは、「油も継ぎ足さないのにひとりでに灯り続けるランプ」や「朝になると声をあげて目を覚まさせてくれる人形の鳥」のような、生活に役立つ品が多い。兵器となりうるものは戦争で使われて、ことごとく失なわれてしまった結果だ。
だから、現存する
以前の何も知らなかった頃なら、自分の証言が頭ごなしに否定されたことに憤るばかりだったのだが、今なら判る。あまりにも在り得ない話すぎて、新米騎士の妄想話だと退けるほうが、よっぽど筋が通っている。
そう、あれは――あの、ルートヴィッヒ殺害に使われた強力すぎる
街道に馬を走らせ、北へ北へと向かううち行く手には、剣のように尖った険しい山脈が見えて来る。
トラキアス王国と他国との国境を成す天然要塞のような山脈だ。峰は幾重にも重なって、その隙間に深い谷を形作る。
精鋭ぞろいだが兵力が少なく、気候に恵まれず作物もあまり育たないトラキアスが、長年、勢力圏を保ち続けてこられた秘密は、この山脈にこそあった。どんな軍隊でも、狭く険しい峠道を越えることは容易では無いのだ。
ヴァイスにとって、トラキアスはあまり馴染みのない国だった。騎士だった頃に、賓客として招かれる主について何度か訪れたことはあるが、急峻な山にへばりつくようにして暮らすトラキアスの街並みが落ち着かなかったことくらいしか覚えていない。
それよりは、山を越えた先に広がる、凍てつく色をした穏やかな北の海のほうがずっと印象に残っている。荒れて常に波の逆巻いている南の海とは違い、それは遥か彼方まで広々と澄み渡り、威厳に満ちて、まるで別世界の海のように見えたのだ。
あの時に辿ったのは今辿っているティバイスの端を掠める平原の街道ではなく、アイギス聖王国からトラキアスへ直接向かう高地の道だった。そのため景色に覚えもなく、記憶が刺激されることもなく、ヴァイスは、ある意味で気楽に馬を進めることが出来た。
やがて街道の先に上り坂が現れる。
トラキアス王国の入り口だ。そこからは、つづら折りの傾斜の厳しい道が山を越えて延々と続く。
目的の樹海、かつて魔法王国イーリスのあった谷間へ続く道は、その先に繋がっているのだった。
山を越え、地図を確かめ、村々を通り過ぎながら何日かかけてようやく辿り着いた目的地は、谷間にいっぱいに張り付くようにして、鬱蒼とした森が広がる牧場だった。正確には、牧場の裏手に森がすっぽり隠れている。敷地の外から見ていると、ちょっとした森があるだけのように見えるが、実際には、かなり広大な面積が、四方のどこからも出入り口のない「樹海」に覆われている。
(ここが、イーリスのあった場所…か)
かつては石で舗装されていたはずの道中の道は百五十年のうちに荒れ果てて、かつての宿場町は鄙びた小さな村に姿を変えている。それでも、そこに「何かがあった」という痕跡までは消してしまえない。
そして、ここにある牧場も、かつての魔法王国と無関係なものでは無さそうだった。
動物たちを放牧するための牧草地の境界を仕切る柵に仕掛けられた
(警戒用の仕掛けか。おそらく目的は、侵入者の感知だな。…ということは、ここの住人もイーリス人の生き残りか。上手いこと隠したもんだ)
にやりとしながら、彼は馬を降り、辺りの進入できそうな場所を探した。
時間はまだ朝早く、谷間には朝日も届いていない。ここの牧場の住人たちも、朝の仕事に気を取られているようだ。
やがて、柵の僅かな切れ目を見つけた彼は、
* * * * * *
いつものように窓口で仕事に就いていたヴィオレッタのもとに、慌てふためいた様子のアーティが駆けて来たのは、昼休憩が終わって少し経った頃のことだった。
「ヴィー、ちょっと、ちょっと来て」
「え?」
裏の控室のほうから、同僚のアーティが手招きしている。ちょうど前の希望者に依頼内容の説明を終えたところだったヴィオレッタは、椅子から立ち上がり、そちらへ近付いた。
「何、どうしたの。」
「ちょっと――こっち」
ヴィオレッタを控室に引き込んで扉を閉めてしまうと、彼女は、隠していた片手を突き出した。
「これ、たぶんあんたの実家からでしょ。さっき休憩室にいたら飛び込んできたのよ」
彼女の手にちょこんと乗っているのは、赤と青の羽根を持つ、見なれた
ヴィオレッタは思わず息を呑んだ。確かに、この印はひとつ山向こうの彼女の実家で、監理している森の見回り用に使われているものに違いない。見ると、小鳥の足には手紙が括りつけられてる。ヴィオレッタは、慌ててそれを外して、開いてみた。
「何て書いてあるの」
見覚えのある、書きなぐったようなイーリス文字の短い文章。兄の字に違いない。
「…森に、…侵入された、って」
「侵入? それって、イーリスの樹海のこと? どういうことなの」
「分からないわよ。だけど、何か起きてるのは間違いないわ。あの森は、私たちだって迂闊に立ち入れないのに。…急いで帰らなきゃ! マーサに伝えるわ。アーティは支部長に報告しておいてくれる?」
「うん、分かった。」
伝言が伝わったことを知ると、小鳥はもぞもぞと動き出し、羽根を広げてアーティの掌から飛び立っていく。
その日、ヴィオレッタは午後の休みをとって、大急ぎで宿に取って返し、「七里跳びの靴」を履いて、山をひとっ飛びして実家へ駆け戻った。
彼女の実家は、近くの村から少し離れた場所にぽつんと立っている牧場だ。
柵に囲われた広い牧草地には牛や馬が放し飼いにされていて、敷地の背後には森が広がっている。森に辿り着くためには、牧場を突き抜けて行く必要がある。だから、森の管理人であるヴィオレッタの家族に気づかれずに森に勝手に立ち入ることは、出来ないはずだった。
その森の奥に、かつてイーリスの首都があったことは、この辺りでは周知の事実だった。
だからこそ、近隣の住人は誰も、勝手に入り込んだりしない。魔法王国が滅びる際に発動された防御の仕掛けによって、中に入り込んだ者は無事ではいられないことは、実体験を持って知っているからだ。
高く売れる
――けれど、だからこそ今回、わざわざ勤務時間中に連絡が来たことか不思議だった。
森に侵入者があったとしても、いつもなら家に残っている家族だけで後始末までされていて、休暇で実家に戻った時に話を聞くくらいだった。なのになぜ、今回に限ってヴィレッタまで呼び戻されることになったのだろう。
実家に戻ってみると、そこには難しい顔をした兄とおろおろしている母がいて、二人の間には、主のいない乗り捨てられた黒毛の馬が一頭、のんびりと草を食んでいた。
「今朝、この馬が牧場にいたんだ。最初は迷い馬だと思ったんだが…」
兄のライルは腕組みをしたまま、渋い顔をしている。
「その時にはもう、とっくに森に侵入されていたらしい。さっき森の奥のほうで"警報"が鳴った。最終防衛線が突破された合図だ」
「最終? それって…あの、…都の入り口の門にある、っていう?」
「そうだ、おそらくな。警報の話は祖父さんから聞いたことがあったが、今まで一度も鳴るのを聞いたことは無かったから」
もしそれが本当なら、侵入者は、森の中に仕掛けられているはずの無数の罠を潜り抜け、誰も到達し得なかった、かつての都の入り口の門まで辿りついたことになる。
「だとしても、早すぎるわ。朝に侵入して、昼に門だなんて。この森、私たちですら罠に引っかかってなかなか進めないところなのに」
「そうよ。だから分からないのよ。同胞…ってわけでもないと思うし…。お父さんは今、侵入者がどうやって中に入ったのか、森の入り口に抜け道か綻びが無いか探しているところよ。あなたも手伝って欲しいのよ、ヴィー」
「…分かった。」
「ライルは近くの村を周って、この馬の持ち主を探して頂戴。最近宿をとった旅人とか、他所から来た人だと思うから。宿を取らずに野宿してたとしても、誰か見た人はいるかもしれないわ」
「ああ。行ってくる」
兄のライルは手慣れた様子で馬に乗り、鞍をつけたままの黒毛の馬の手綱を引いて、村に向かう道を走り出す。
「母さんは、他にもう誰も侵入しないか見張っているから。…仕事中に呼び戻してごめんなさいね、ヴィー。気を付けて」
「うん」
ヴィオレッタは頷くと、森に向かって駆けだした。侵入者は、一体何者なのだろう。それに目的は? 馬が一頭だけということは、単身でやって来たのだろうか。
鬱蒼とした森の入り口に辿り着くと、ちょうど父のフレデリクが、かつての街道の入り口があったあたりの茂みを点検しているところだった。
「父さん。」
「ああ、ヴィーか。わざわざ戻ってきてもらってすまんな」
「いいのよ。それより、一体どうなってるの?」
口ひげをたくわえた男は、大きく首を振って溜息をついた。
「どこにも問題はない。森を囲む結界に異常はない。罠もすべて正常に作動している。
「そんな。それなら、一体どうやって?」
「考えられることはある。もしかしたら、侵入者はどこかで"通行証"を見つけたのかもしれん」
ふーっと大きく息をつき、フレデリクは汗を拭って帽子をかぶりなおした。
「通行証って?」
「かつてイーリスがまだそれほど閉鎖的ではなかった頃に作られた、あらゆる道中の魔法の障害を無効にするという
「それが、どこかに残っていたかもしれないってことね? どうすればいいの? 追いかけても、今からじゃ遅すぎる」
「ああ。だからここで、待つしかない。」
「待つ、って…。」
「…森の奥には、…墓所がある」
顔を上げ、フレデリクは遠い目をして、どこか森の奥へと視線を彷徨わせた。「墓所の
「送還場所を見ていればいいのね」
「そうするしかないな。もしまだ息があるようなら、手当はしてやらにゃならん。相手が誰であれ、牧場で行き倒れられるのは御免だからな」
そう言って、父は足元に転がっていたまぐさ入れを拾い上げ、のっそりと牧場の方へ向かって歩き出した。
ヴィオレッタは振り返り、番人である自分たちすら拒む、濃い緑の結界を眺めやった。
その森の奥には、「決して立ち入ってはいけない」と子供の頃から聞かされていた。
かつてイーリスの姫君は、ハイモニアの王子を深く愛し、信じてもいた。
けれどそれは偽りの愛で、王子は姫君を裏切り、王国の全てを奪い去った。それを知った姫君は、哀しみのあまり心臓の鼓動を止め、同時に、国全体に呪いをかけて、茨と木々で覆ってしまった、という。
――今は亡き祖父から聞いたお伽噺だ。
都にいたイーリス人も、攻め込んだハイモニア人も、みな木々に飲み込まれて死んでしまった。都は今も時を止め、姫君とともに永遠の眠りの中にある。墓は
お伽噺がどこまで本当のことなのかは誰も知らない。ただ事実として都は今も深い緑に覆われ、誰ひとり、イーリス人の末裔でさえ、出入りすることは叶わなくなってしまった。
だから森の奥、かつてのイーリスの都に何が遺されているのかは、実はヴィオレッタの家族も知らないのだ。
(
谷を渡る風が吹き抜けてゆく。
本当を言えば、子供の頃に少しばかりの興味を持ったことはある。でも、ほんの少し森に入っただけでもう、そこが危険な場所だと判ったのだ。
近付く者を拒む仕掛けの数々と、容赦なく致命傷を与える罠とが、王都を森で覆った者の外界を拒絶する強い意思を否応なく叩きつけてきた。
森の入り口を後に、彼女は、牧場の端にある見張り台に登った。
森に紛れ込んだ者が「運よく」森の中で転送の
昼を過ぎた太陽が、じわじわと西の山際へ傾いていく。
兄はまだ戻ってこない。母と妹たちの様子からして、近くに侵入者の仲間は見当たらないらしい。
やがて太陽は山の向こうへ姿を隠し、空に朱の色だけを残して、夜風とともに星が輝き始める時間になっていた。
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