第三章 受付嬢ヴィオレッタの秘め事(1)
まだ昼には早いという時間だというのに、谷に荘厳な鐘の音が鳴り響く。
受付で志願者の応対をしていたヴィオレッタは顔を挙げ、天窓のほうをちょっと見やってから手元に視線を戻した。
(そういえば、今日は叙任式の日ね)
谷の上にはエデン教の総本山がある。教会の行事に合わせて鳴らされる鐘の音は、谷間の街にとってはお馴染みのものだ。
「…と、いう依頼内容になっています。どうされますか? 請けられる場合は、こちらに署名を」
応対している志願者は、まだそばかすの残る装備もおぼつかない若者。以前も何度か、この窓口で仕事を請けていたはずだ。
しばらく考え込んだのち、若者は傍らのペンを取り上げて、文字らしきものを紙に書きなぐる。
「では、契約成立となります。こちらは期限ありの依頼ですので、依頼期限が過ぎますと、自動的に未達となります。ご了承ください」
署名された契約書を手に、にこやかな笑顔で依頼人を見送る。
ふう、とひとつ息をついた彼女に、隣の窓口から、同僚で、この窓口をもう三十年も務めている大ベテランのマーサが、ひそひそと話しかけてくる。
「大丈夫かね。さっきの依頼、ちと期限が厳しいよ? あの傭兵じゃあキツいんじゃないのかね」
「でも、難易度はそれほどでは」
「難易度じゃないよ、期限のほうさ。期限付きの依頼には、仕事を完遂しよう、って気概が必要でね。あたしの目に狂いはないよ。デキる傭兵は一目で判る」
言いながら、自分でうんうん、と力強く頷いている。
「どんなに年季が入っていようが、装備が立派だろうが、それだけじゃあないのさ。この仕事はね」
「はあ…。」
次の志願客がやって来る。今度のお客は、さっきまで依頼を書きつけた紙を掲示した掲示板の前でひとしきり内容を読んでいたから、文字が読める人のはずだ。
窓口の奥で素早く接客用の笑顔を作り直し、ヴィオレッタは、にこやかに問いかけた。
「いらっしゃいませ。何番の依頼をご希望ですか?」
ここは急峻な山々が壁のようにそそりたつトラキアス王国の、山の峰の中にある谷間の街カームスだ。
街道からは外れているが、トラキアスで篤い信仰を集めているエデン教の総主教座があるために、日々、多くの信徒が訪れる。巡礼のためだったり、お祭りに参加するためだったり、聖職者が上の階級に昇進する叙階を受けるためだったり。騎士見習いたちを一人前にする叙任式も、半年に一度、エデン教総本山の大聖堂で執り行われる。今日はちょうど、その日なのだ。
エデン教の教えでは、戦って死んだ者は花咲き乱れる楽園に導かれることになっている。
これは戦場に出ることだけを意味するのではない。生きること自体が戦いそのものであり、たとえ敵わぬ相手であっても果敢に立ち向かうことに意味がある、という。厳しい自然環境に囲まれたこの国ならではの教えだ。
だが、昔ながらの教えとして、特に戦場で死んだ者がいっとう高い楽園に導かれる、という話は残っている。勢い、若者たちは騎士へや兵士になりたがる。聖職者が武器を持ち歩くことも認められていて、人々を困らせる獣や悪漢を打ち倒すことは「お勤め」とされ、功徳を積む行為だと考えられているのだ。
そんなわけで、ヴィオレッタの職場はいつも忙しい。
彼女の職場は「斡旋所」と呼ばれる組合いの窓口だった。大陸全土に根を広げた情報網と、各地に居る傭兵たちの労働の集積点の一つ。窓口係は、依頼人が持ち込んだ依頼に対し、仕事を探している荒くれや傭兵たちを割り当てていく仲介業が主な仕事だ。
ただの仲介業ではないのは、依頼人も仕事を請け負う側も登録制で、それぞれに信頼度が監理されているという点だ。非合法だったり死亡率が高かったりする仕事を依頼できるのは、信頼度が高い依頼人のみだ。それに対して、より難易度の高い依頼は、ある程度の実績ある登録者しか受けられない。それによって、依頼の成功率と効率を上げるという仕組みになっている。
逆に言えば、初心者には初心者向けの依頼を見繕ってくれる場所なわけで、初陣代わりに腕試しをしてみたい新米騎士にとっては、実戦の登竜門代わりに使いやすいのだ。
叙任日の午後には、大抵、騎士になりたてのぴかぴかの新米が連れ立ってやって来るもの、と相場は決まっている。
依頼人のほうも判ったもので、その日に合わせてほどよい難易度の依頼を安値で出して来る。相場を知らない騎士見習いたちは、本職の傭兵なら見向きもしないような値段でも引き受けるので、依頼する側にとっても買いたたくチャンスなのだ。
掲示板には、この日のために出された依頼の真新しい紙が幾つか貼りつけられている。そのうちの幾つかは、実は新米を鍛えたいエデン教の教会自身が依頼者なのではないかとヴィオレッタは疑っていた。毎回、あまりにも"お手頃"過ぎる依頼が並ぶのも、この時期の斡旋所の特徴なのだ。
「ヴィー、そろそろ休憩の時間じゃない?」
人が途切れた時間に掲示板に新しい紙を貼りつけていると、同僚のアーティが声をかけてきた。彼女は掲示板の横にいて、文字の読めない志願者に頼まれた時に依頼を読み上げる係なのだ。
「午後から新米さんたちが押し寄せてくるかも。今のうちにお昼いっときなよ。」
「うん、そうする。ありがと」
「行ってらっしゃーい。」
大陸全体の識字率は、半数止まりだ。それも斡旋所で使われる標準的なハイモニア文字が読めるとなるとさらに割合いは減る。その関係で、読み上げ係はどこの斡旋所にもいるのだが、この街は仕事の請負人に騎士や聖職者が多いことから他よりは暇だ。それにこの辺りは、かつてのハイモニア王国の中心部に近い。文字が読めるとすれば、知っている文字はハイモニア文字に違いないのだ。
窓口を閉め、隣の窓口のマーサにあとを頼むと、ヴィオレッタは裏の控室に引っ込んで、家から持って来たお弁当を広げた。
今日はお天気がいい。谷の底までよく見える。
窓辺でパンをかじっていると、どこかから灰色の小鳥が舞い降りて来て、パンをくれとねだるような仕草を見せた。端のほうをちぎって投げてやりながら、彼女はふと、谷のずっと先の山向こうにある実家のことを思い出していた。
ヴィオレッタがここで働き始めて、そろそろ一年が経つ。
十五で学校を卒業して、しばらくは父を手伝って森の管理人をしていた。けれどあまりに平和過ぎ、なんとなく馴染むことが出来なくて、母の紹介でこの街にやって来たのだ。ここは母のかつての職場でもある。だからマーサは、元の母の同僚でもあるのだ。他にも母のことを古くから知っている、同族の人々がここにはいる。それはつまり、――ここでは、素性を何も隠さなくていいことを意味していた、
ヴィオレッタは、イーリス人の生き残りの末裔なのだ。
魔法王国イーリス。百五十年ほど前、ハイモニア王国に滅ぼされた小国の名だ。
そこに住む人々は、体格に優れない代わりに道具を作り出す能力に長け、
けれどその道具は、道具であるがゆえに持ち主を選ぶものではなかった。多くが持ちだされ、使い方が知れ渡ると、やがて道具はイーリス自身を脅かすものとなっていく。そしてほどになくして、イーリスの持っていた様々な優れた
ごく一部、何らかの事情でイーリスを出て他の国で暮らしていた人々や混血者などの生き残りは、素性を隠して生き延びた。ハイモニアが滅びて長い時間が経った今でも、それは変わっていない。
例外はこの斡旋所の中くらいで、ここでは、イーリス人の末裔が優先的に雇われ、多く働いている。なぜなら斡旋所の情報伝達の仕組みは、実は、
つまりここは、イーリス人の生き残りが、素性を隠すことなく、自らの力を活かして仕事をすることの出来る。数少ない職場の一つなのだった。
(家族のみんな、元気かなぁ…。)
一つ溜息をつき、彼女は机の中から小さな小鳥を取り出した。腹の羽毛は真っ白だが、背中から頭にかけて赤く、翼の先は青い。本物そっくりな精巧な作りの玩具のような小鳥は、指先で背中を撫でてやるとぱちりと目を開き、起き上がって羽ばたいた。
「行っといで」
小鳥を窓から、空に向かって放つ。
窓辺でパンくずをついばんでいた灰色の小鳥が、びっくりして警戒した様子で飛びのいた。赤と青の小鳥は、人間から見れば本物なのだが、他の動物から見れば何かおかしいとすぐに判る。実はこれも
小鳥を向かわせた先は、実家のある森だ。
仕事以外で使うのはあまり良くないのだが、ヴィオレッタは時々こうして、家の様子を見に小鳥を飛ばしていた。
まもなく、視界に山向こうの見慣れた森と小さな家が見えて来た。
(あ、お父さんだ。…今日はお仕事に出てないのね。庭の草刈りしてる…)
父の足元では、年下の妹がおぼつかない手つきでせっせと刈られた草を拾い集めている。ヴィオレッタは思わず微笑んだ。離れた場所にいながら、家の様子が見て取れる。
家の屋根の端に留まって見下ろしていると、母が玄関に現れた。そして、目ざとく小鳥を見つけて眉を寄せる。
「誰か覗き見してるのは誰? …ヴィーなんでしょう。しようの無い子。また、仕事道具を勝手に使って」
「あはは、ごめんねお母さん。ちょっとだけよ、すぐ戻るから」
こちらからの声は聞こえないのを判っていて、ヴィオレッタは舌をぺろりと出した。
これは本来は、行方不明になった志願者を探す時や、依頼に不審な点があって探りを入れたい時に使う道具だ。
操作にはコツが必要で、案外難しく、扱える者はそう多くは無い。とはいえ、そうした者が集められているのが斡旋所なわけで、どこの窓口でも、必ず一人はこれを扱える者がいることになっている。
あまり眺めていても昼休みが終わってしまう。
小鳥が舞い戻って来るのを待って、ヴィオレッタは、意識を部屋に戻した。
――その時だ。視線に気づいたのは。
「え?」
「…あ」
窓の向こうに、きょとんとした顔の若者がいる。数秒見つめ合ったあと、ヴィオレッタは、悲鳴を上げて椅子から立ち上がった。
「わああっ、な、何ですか?! ここ、裏口ですよ! 受付は、反対側の入り口です!」
覗き込んでいた若者が剣を帯び、叙任刻で白い外套を着ていたから、きっと志願者だと判断したのだ。いつの間にか、もう午後の受付開始の時間になっている。
「ごめん。僕は仲間と斡旋所の見学に来たんだ。誰かいると思ったら、ずいぶん大きな寝言が聞こえてきたんで、つい…」
「き、き、聞いてたんですかっ?!」
ヴィオレッタは耳まで真っ赤になり、窓に駆け寄ると勢いよくカーテンを閉めた。
「早く! 離れてくださいっ。ここは部外者の立ち入り禁止ですからね!」
「……。」
カーテンの向こうで若者が頭をかき、立ち去っていく気配がする。ほっと胸を撫でおろしながら、ヴィオレッタは、一体どこまで見られただろうと心配になった。
机の上には小鳥が戻って来て、置物のように佇んでいる。手を開くと、握っていた対の石がある。
母に向けた言葉を聞かれていたのなら――きっと、小鳥が戻ってきて机の上にとまるところも、それと同時に彼女が動き出したことも見ていたに違いない。
斡旋所が
長い歴史の中、イーリス人は
それに、
(まさか、正規の騎士が盗みなんてするわけないと思うけど…誰かに喋らないとも限らない…ああ、どうしよう。何も気づかれてなきゃいいんだけど。私、なんてヘマを…)
「ヴィー? 何してるの? 昼休み終わってるわよ」
扉を叩くアーティの声がする。
「い、今行く!」
(依頼を請けに来たのよね。だったら、窓口に来れば名前と身元くらいは判るはずよ)
急いで窓口に戻ったはいいものの、けれど、ヴィオレッタの期待とは裏腹に、その日の午後の志願者の中に、問題の若者の姿は見えなかった。
谷の日暮れは早い。
夕方になるとどこの店も入り口を閉ざし始め、開いているのは宿と酒場くらいになる。斡旋所も戸締りの時間だ。
「戦場に
ちりん、と手にした鐘を打ち鳴らしながら、白いローブを纏ったエデン教の聖職者が托鉢の深皿を手に通り過ぎてゆく。
「勇敢なる者たちに永遠あれ!」
唱和しているのは、死者の楽園と死後の永遠を謳うエデン教の祈りの文言だ。宿に泊まっているエデン教徒の巡礼者たちは、ありがたそうに手を合わせ、皿にいくばくかを喜捨していく。この街では毎日見かけられる光景だ。
戸締りをしながら、ヴィオレッタは深いため息をついて通りを眺めている。
(どこいっちゃったんだろう。あの人…。)
窓から覗いていた青年は、見たところ、この辺りでは珍しくない浅黒い肌と明るい茶色の髪に、透き通るような青い目をしていた。山向こうに見える北の海の色だ。依頼を請けるつもりでなかったのなら、本当に、仲間に連れられて見学に来ただけだったのか。
「何よ、ヴィー。溜息なんてついちゃって。」
「名前くらい聞いておけば良かったなあ…」
「何のこと? …あ、もしかして」
アーティがふいに、何かに気づいたようににやにやしはじめる。「さては、今日来た若い騎士さんにいい人がいたんだな? そーでしょ。」
「ち、違うわよ! 今日は来なかったもの。」
「今日は? …ってことは、お目当ての人が来てくれなかった、とか? ふーーん…」
「いやっ、そういう意味じゃ…っ」
「ヴィーもそういうことに興味の出る年頃かぁ~…」
「だから、違うってば…!」
必死で否定しようとするも、アーティは聞く耳を持ってくれない。
「叙任式に来てるんなら、数日は泊っていくんじゃない? うちは谷の出口だから、それらしい人が通ったら教えてあげてもいいわ。どんな人なの」
「いいよ…。別に…」
詳しい事情を説明するわけにはいかないのだ。説明するためには、休み時間に勝手に
結局、なんとかごまかしてその日は職場を後にした。
けれど家に帰る間も、ヴィオレッタの気持ちは晴れなかった。
もし、あの青年が何か悪意を持って斡旋所の裏の顔を探っていたりしたら、自分のせいで世間に秘密がバレてしまったら。そんな、嫌な想像ばかりが膨らんでいくのだった。
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