第二章 傭兵ヴィルヘルムの仕事(3)
前回、ティバイス首長国とリギアス連合国との間で大きな戦争が起きたのは、二十数年前、まだヴィルヘルムが独身だった頃のことだ。
首長の命によって各領地に割り当てられた最低数に足る若者たちが集められ、戦場に送られた。当時、既に傭兵として各地を渡り歩いていたヴィルヘルムも、実家に呼び戻されて参加した。
戦闘の経験はあっても戦場は初めてで、対峙する双方の軍勢が剥き出しの殺意を漲らせ本気でぶつかりあおうとするさまには、心躍ることなど何もなく、恐ろしくさえ思えた。
あれから二十年――傭兵を雇っての小競り合いこそあれ、正規軍同士がぶつかり合うような事態には発展していない。
現在のティバイスの首長サルマンは、老獪な頭の良い男で、各領地の物流や生産力の向上に力を注ぎ、内政を優先している。対してリギアス側も、ティバイスに近い西側諸国の有力な家の当主がほぼ世代交代し、現在の当主たちの中には好戦的な者は少ない。
とはいえ、かつて敵国として戦ったリギアスに踏み入るのは、ヴィルヘルムにとっては奇妙な感覚だった。
国境の向こうには、平原や砂地の多いティバイスと違って起伏に富んだ、リギアスの緑が広がっている。
「この道よ、そのまま真っすぐ進んで!」
セレーンの指示に従って馬を走らせる間、ヴィルヘルムは、逃げたマウリツィオが何所かにいないかと用心深く辺りに目を光らせていた。
だが、休息も最低限にして馬を走らせて来たというのに、追いつく気配が無い。目立つ街道ではなく別の道を通ったか、途中で馬車にでも乗り換えて不眠不休で移動したか、だ。
「もうすぐよ。この辺りから、私の家の領地なの」
馬の後ろに乗ったセレーンが言う。小さな森の間に畑が広がり、小さな村がまばらに存在する。
髪をかき上げながら、少女は、心配そうにあたりを見回している。
「…まだ、何も起きていないわよね?」
その口ぶりからして、奪われた首輪が何がしかの強力な道具を封印しているという話を、彼女が心から信じていることは間違いなさそうだ。
「そう心配するな。向こうが不眠不休で飛ばしたにしても、それほど遅れたとは思わん」
疲れた様子の馬を急かして走らせ続けていると、やがて行く手に、青く光を反射する水の煌めきが見え始めた。
湖だ。
川が一本繋がっているが、流れ込むほうではなく出ていくほうのようだ。湖の真ん中に小さな島がある。
「あそこよ! あの小島に
セレーンは湖の向こうに広がる森を指した。鬱蒼とした森の中に、赤い、尖った屋根が見えている。
「我が家の別荘なの。叔父様はあそこによく出入りしていたわ。首飾りも、あそこに持ち込まれるはずよ」
「承知だ。」
言われたとおり馬を森のほうに向け、走ってゆくと、森の入り口に門が見えて来た。けれどその門は固く閉ざされ、内側から閂がかけられている。
「もう、こんな時に。誰かいないの?!」
中に向かって声をかけるが、返事はない。
だが、建物の中には人が居る気配がある。門の奥には、別荘の入り口が見えていて、馬車らしきものが停められているのが見える。とすると、門を閉ざしているのは、誰も中に入れたくないからだろう。
「どこから侵入するか、だが…裏口は? それとも、あんたを塀の向こうに放り投げたほうがいいか?」
「裏口にしましょう。壁を乗り越えるにしても、裏口のほうが低いから」
セレーンの案内で向かったのは、敷地の裏の目立たない場所にある勝手口だ。表の分厚い門と違って、鉄の閂は嵌っていない。ヴィルヘルムが扉の隙間から剣を突っ込んで力任せに縄を切り落とすと、あっさり外側に開いた。
「余計な時間を食っちまったな。さて、中に…おっと」
一歩踏み込んだとたん、勝手口の先にある台所から、武装した荒くれが数人、待ち構えていたというように飛び出してくるのが見えた。どう見ても正規軍の兵士ではないし、ヴィルヘルムの同業者にしては練度が足りない。――せいぜいが、貧民街のちんぴらといったところか。
「こんな品の無い連中を、うちの別荘に引き入れていたなんて」
セレーンは妙なところに憤慨している。
「どうする?」
「掃除をお願いするわ!」
「あいわかった。それでは、失礼して…」
ヴィルヘルムは腰から二本めの剣を抜いた、両手にそれぞれ、長さと形状の異なる武器。一見して非効率に見えるが、彼にとってはこれが使いやすいのだ。左手に盾を持って防いだり攻撃を流したりするよりは、受け止めて動きを封じるほうが強い、というのが彼の持論だった。それに、うまくノコギリ刃で受け止められれば、相手の武器を破壊することも出来る。
明らかに対人戦慣れした大柄な傭兵を前に、荒くれたちは一瞬、たじろいだ。
その隙をついて、ヴィルヘルムのほうから容赦なく襲い掛かっていく。
「うっ…うわあぁ!」
腰をぬかして逃げ惑うさまは、あまりにも情けない。
野良猫でも追い払うかのように荒くれたちを門の外に追いやってしまうと、彼は、セレーンのほうに向きなおった。
少女は、荒れ果てた台所の入り口に立ち、中を覗き込んでしかめ面をしている。床には酒の香りが充満し、食べかすが床に散らばり、机の上には土足を乗せたような跡までついている。
「ひどい、…よくもこんなに散らかして」
別荘を荒らされた少女の怒りの表情は、早くも女家長然とした責任と威厳を宿している。
きっ、と奥を睨みつけ、セレーンは、きっぱりとした口調で言った。
「叔父様には二度とここを使わせないわ。首飾りの件もあるし、さっさと領地から出て行ってもらわなくちゃ!」
「あんたのお父上が何て言うかだな」
「父様は弟に甘すぎるのよ。いつまでも子供じゃないんだから、やったことの責任は取ってもらうわ」
たった十六歳とは思えない口調で言って、彼女は、後ろにヴィルヘルムを従えて奥の部屋に入っていく。そこでは丁度、二人の男が顔を近づけあってヒソヒソと内緒話をしているところだった。セレーンが入って来たのを見て、びくっとなって一歩後退ったのは、例のマウリツィオ。そしてもう一人はというと、やけに立派なガウンを来た、まだ寝起きのような顔をしたぼさぼさ髪の中年男だった。
ぽかんとした顔で椅子に腰を下ろしたままの男の前に立ち、少女は、腰に手をやった。
「おはようございます、リューベン叔父様。そのご様子だとお目覚めになったばかりのようですね? まずは一言。私はもう、あなたを身内とは思っていませんから。私の首飾りを返しなさい。それが済んだら即刻、荷物をまとめて我が領内から出て行きなさい」
「なっ、…はっ、ははっ。ずいぶん妙な寝言だなぁマルセル? この姪っ子は一体、何を言ってるんだろうな。」
「…その、…旦那様」
マルセル、と呼ばれた男――マウリツィオの本名はマルセルといったらしい――は、震える声でちらりとヴィルヘルムのほうを見やったあと、ひそひそと囁いた。
「セレーン様の後ろにいるのは、私が雇っていた傭兵です。此度のことは全てバレているものと…」
「はっ? 何?」
「そういうことだ」ヴィルヘルムは、見下ろすようにして目の前の男二人を睨みつけた。「あんたの部下が、口封じに俺に手勢をけしかけてきた。傭兵って商売は、ナメられちゃあ仕舞いでな。俺としても、この落とし前はキッチリつけてもらわにゃならん」
「……。」
男は固まったまま、椅子から立ち上がろうともしない。どうすればいいのか考えこんでいるらしい。
しびれを切らしたセレーンが、ヴィルヘルムのほうに視線をやった。
「ヴィルヘルム。首飾りを探して」
「承知」
「う、うわっ」
ヴィルヘルムはまず、小男のマルセルのほうを捕まえて、足を掴んで逆さまにぶら下げた。思い切りゆすると、上着のポケットから小銭や小刀、紙切れ、ハンカチなど、あらゆるものが降って来る。だが、ヴィルヘルムから受け取ったはずの首飾りが無い。
「そっちか」
もう一人のリューベンのほうに手を伸ばそうとした、その時だ。
椅子に腰を下ろしたまま硬直していた男が、突然、思いもよらぬ行動に出た。
「うわあああっ」
「きゃっ…」
男は叫びながら少女に体当たりして転ばせると、ガウンの裾を翻し、驚くほど俊敏な動きで裏口から走り出ていく。脱兎のごとく、という言葉が相応しいほどの瞬発力だ。逃げることに対しては、という意味だが。
「セレーン!」
駆け寄ったヴィルヘルムは、慌てて雇い主に手を貸して立たせた。「すまんな、油断した。大丈夫か。」
「え、ええ…でも、逃げられたわ。急いで、後を追いかけなきゃ!」
勝手口から先は裏庭になっていて、森と湖に通じている。あんな寝起きの格好で森に逃げ込むはずはない。とすると、湖のほうのはずだ。
「船が!」
セレーンが声を挙げた。見ると、棚付き場から小舟を漕ぎだしている男がいる。湖の真ん中にある小島に向かうようだ。
「首飾りを持っていくつもりだわ! 早く追いかけないと。ヴィルヘルム、あそこの舟を使って!」
「判った」
桟橋に小舟を繋いでいた縄を断ち切って飛び乗り、櫂をとる。
「船の先に座ってくれ。俺が漕ぐ」
「ええ」
「いくぞ」
櫂で大きく水を押しやると、小舟は勢いをつけて湖の真ん中の小島目指して進み始めた。ヴィルヘルムの漕ぐ速度はかなりのものだったが、相手のほうは既に小島の近くまで進んでおり、上陸前に追い付くのは難しそうだ。セレーンは歯を食いしばり、叔父の動きを見つめている。
「あっ…上陸する! やめて、何もしないで…」
「もう少しだ! 岸に着くと衝撃が来るぞ。しっかり縁につかまってろ」
遅れること僅か。男を追って、ヴィルヘルムたちのほうも小島に辿り着く。ほんの小さな島で、僅かな低木と草、それに、石畳の跡のようなものが地面に見え隠れしているほかは何もない。
「リューベン叔父様!」
セレーンは、スカートをたくし上げながら真っすぐに島の中心に向かって駆けだしていく。
「おい、待て」
小舟をしっかり繋ぐ暇もない。ヴィルヘルムも、慌てて後を追いかけた。
島の上部に辿り着いてみると、セレーンとリューベンは、何か石の台座のようなものを挟んで、じりじりと睨み合っていた。
「首飾りを返しなさい! 封印を解いてはいけないわ」
「ふん、ここに何が眠っているかも知らないくせによくもまあ。もし使える
「危険なものかもしれないでしょ!
「だったら尚更、試してみなきゃ始まらんだろう? そおれ!」
ごそごそとガウンの内側を探って取り出した青い石を、男は、高らかに掲げたあと、おもむろに台座の中心にはめ込んだ。
「ここをこうして、回すと…こうだ!」
得意満面の男の声とともに、島が、細かく振動を始めた。よろめいて倒れかかるセレーンを、駆け寄ったヴィルヘルムが支える。
「はっはははー、どうだ! 何が出る?!」
周囲が見る見る間に真っ白な靄に覆われていく。すぐ近くにあるはずの台座も見えなくなって、リューベンの笑い声も消えてしまった。
「何が起きてる?! あいつは何所に行った」
「判らない…でも、これは…」
そのまま、どれくらいの時が流れただろう。実際は、そう長い時間ではなかったのかもしれない。
風が吹いて靄を散らして行く。足元が見え始め、そろそろと歩きだそうとした、その時だった。
「ひぃーっ!」
どこかから、情けない悲鳴が聞こえて来た。
「あっちだ!」
声を頼りに駆け付けたヴィルヘルムは、行く手にいきなり崖が現れたことに気づいて、慌てて足をとめた。さっきまでは無かった断崖絶壁が、目の前にある。
「何? どうし…きゃっ」
セレーンも足を止め、そして、断崖と、下に転がり落ちてもがいている叔父とを見比べた。
ついさっきまで目の前にあったはずの、きらめく水をたたえた湖が、無い。
湖底の窪みに僅かに水が残るのみで、赤茶けた土の地面が広がっている。
「これは…さっきの
「待って、あれを見て」
セレーンは、湖底だった場所に残った僅かな水たまりをじっと見つめている。「あそこ、何か石を並べてあるように見えない?」
「ん? どこだ…」
少女の指さしている場所に目を凝らすと、確かに、水たまりのふちに白い石が幾つか、不自然に真っすぐ並んでいる場所がある。そして一菓子をに気が付くと他にも、同じように石を並べられた水たまりがあることに気が付いた。
文字になっている。
既に長い年月を経て、その文字は不明瞭になりつつあったけれど、確かにこう読めた。――「結婚してほしい」。
「…何だ、これは」
「愛の告白? 何故こんな場所に…あっ」
セレーンの顔が微かに赤くなった。「そうだわ。思い出した…この
「つまり、何か? この装置は大昔の当主さまが女を口説くために造ったもので、封印を解くなと子孫に言い伝えさせたのは、恥ずかしいから、ってコトか?」
「そういう…ことになるかしらね…。」
眺めているうちに、石で作られた文字は水の中に見えていく。湖底には水の湧き出す場所がいくつもあり、染み出した水がすぐに窪みを覆い隠してしまうのだ。そして文字として意味が判るのは、湖の真ん中のこの島から眺めた時だけだ。
百年以上も前、この装置を作らせたはるか昔のセレーンの先祖は、意中の女性をここに立たせて、からくりを作動させたのだ。
台座に戻ると、セレーンは無言に首飾りの石を取り外し、大事そうに胸に抱いた。
「良かったじゃないか、戦争の道具じゃなくて」
「そうね。…それに、この
「だ、誰かぁ…助けてくれぇぇ…」
どこかから聞こえて来るか細い声を無視して、ヴィルヘルムは、目の前の台座をぺたぺたと撫でてみた、
「しっかし、湖のを一瞬で蒸発させるたぁ、なかなかの装置だな。こいつがうちの領地にもありゃ便利なのに。」
「どうして?」
「川がすぐ氾濫するんだよ。今も家ごと流されちまって、復旧に人手と金がいるんで、こうして俺が金を稼ぎに出て来てるってわけだ」
「あら、そうなの。それって…どのくらい人手が必要? 報酬はお金より人のほうがいいのかしら」
「ん。人も融通できるのか?」
「ええ、資材が必要なら、領内の木材を切り出してもいいわ。あなたには、ずいぶんお世話になったし」
少女は、難しいことではないというように微笑んだ。「館に戻りましょう。父様に報告もしたいしね」
湖には、薄く水が満ちている。このぶんなら、あと半日もすれば元のなみなみと水をたたえた姿に戻るだろう。
蒸発して靄となって流れていった元の水は、空の高いところで雲になり、森にひっかかって、ゆらゆらと白く棚引きながら揺れていた。
こうしてヴィルヘルムは、最初の依頼で巻き上げた大金と、二度目の依頼で手に入れた人手と資材を手に、意気揚々と故郷へ帰りついた。
彼の兄で領主のハインツは、驚きつつも大喜びで、さっそく、壊れた堤防と領主館の建て直しが始まった。工事の間には、あのセレーンも見学にやって来て、初めて見るティバイスの街並みを楽しんでいた。案内はヴィルヘルムの長女マティアがつとめ、気の合う二人は仲良くなったようだった。
友情はどんな時でもあったほうがいい。
けれどヴィルヘルムは、少し複雑な気分でもあった。傭兵、という職業柄、いつどこで誰を敵としなければならないかは判らない。それに、ティバイス首長国とリギアス連合国の関係も、いつまで今のままでいられるか。
もう百年近く、幾度となく干戈を交えて来たのだ。ほんの僅かに均衡が狂うだけでも戦火は再び起きるだろう。そうすればヴィルヘルムは再び戦場に立ち、西の国境に位置するワイト家の領地にも、攻め入らなければならなくなるだろう。
(そんな日は、来ない方がいいんだがな。…本当は)
溜息とともに、彼は空を振り仰いだ。
明日の運命は誰にも判らない。それが、傭兵として生きるヴィルヘルムの日常なのだった。
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