砂浜に遺された茶色の手帳

あごだし

『美しいモノ』

 波の音が心地良い。

 海面に映し出される歪んだ満月は私の瞳に光を灯してくれる。ふと見上げれば、満天の星空と歪み無き真円の月がそこに在る。力強く拳を突き上げれば、粉々に砕け散って今にも消えてしまいそうである。

 すぐそばは住宅街だというのに一つとして光をこぼす窓は無い。

 いささか不謹慎ではあるが私は思った。


「文明の無い世界はこんなにも美しくて儚いのか。ならば、それもまた一興かもしれない」


 勇者とは元来、勇気のある者のことを指す言葉として存在した。

 しかし今はどうだろうか。英雄、またはその者になろうとする人を指す言葉としてもしばしば使われるようになった。


 他人ひとは私を勇者と呼んだ。

 だが私は自分のことを勇者だとは一ミリも思っていない。それどころか愚者だとさえ思っている。所詮、人なんていうものは人の道をはずれることのできない弱い存在である。

 鹿を見ろ。熊を見ろ。彼らの方がよほど勇敢ではないか。自然界には武器や防具なんて物は無い。法律なんてその最たる例だろう。そんな、時に優しく時に凶悪な大自然を、己が自ら生み出す闘争心や勇気で生き抜いている。

 そんな彼らとは壁を隔てて、鉄筋コンクリートの内側でビクビクおどおどしている生き物、それが我々人間だ。


 外からの恐怖という殻を破って立ち上がる。それで初めてやっと勇者へのスタートラインに立つ資格を得られるのだ。

 それだと言うのに、運がいいのか悪いのか、私は国に煽てられて国民に勇者、勇者と持ち上げられただけのただの一般人。

 時には、あみだくじで決めたんじゃあるまいかと思い首を傾げることもあった。だからと言って「だって」だの「嫌だ」だの言っていられないのは、国から適正検査を受けて救世主にされたその日から分かっていた。三十代にもなると諦めがつくのも早いものである。

 薄らと髭を生やした勇者がどこにいるというのだ。全く、冗談もほどほどにしてもらいたいものだ。

 そもそも今この星は、からの脅威に晒されている。当然そんじょそこらのサラリーマンが敵う相手でないのは自明の理。だいたい今ここで物思いに耽っている時点で、私には勇者の資格が無いだろう。


 きめ細やかな白砂を手ですくい上げるが、砂は手の隙間をすり抜けてサラサラと落ちていく。


 私に力があれば救えた命は沢山あった。

 けれどそれは「あれば」の話で、実際の私にはそのような力は無かった。

 だから私は勇者を諦めた。

 私はこの星の命運を懸けた戦いを諦めた。

 いつからこんなにも偏屈なオジサンになったのだろうか。私はただ、淡々とお気楽に生きていたかっただけなのに――

 皆口々に言った。


 薄情だ。


 愚かだ。


 臆病だ。


 そんなことは私自身が一番よく分かっている。

 けれども私は戦いたくない。

 私のこの気持ちを受け止めてくれる人間は、この世界のどこにもいない。

 みな自分の保身しか考えていないのだ。そういうところだけは妙に野生動物に近いのである。本当に都合のいいようにできている。

 かくいう私もその内の一人であることは間違いない。自らの命が尊いが為に戦場から逃げた。

 今頃は大勢の勇気ある軍人が大西洋に沈んでいる頃だろう。

 スーパーマンのような超人的な力は手に入れた。だが、その力を使いこなせるかはまた別の話であった。それに、力があっても怖いものは怖い。心の奥底に刻みつけられた恐怖が消えることは一生無い。


 今度は、私を嘲笑うような音をたてて波が引いていくのがぼーっとしていてもわかる。

 そんな時、視界の右端に何かが映った。いったいアレはなんだろうか。灯火? 陸から少し離れた島に焚き火と思しき光が灯っている。その火は段々と数を増やしていき――


 そして一つの言葉が露になった。


『 ガ ン バ レ 』


 私の頬を何か熱いものが伝っている。瞳から溢れ出した《それ》はやがて大河を作った。

 私は息を着く暇もなく泣いていたのだ。

 いい年した大人が、独り夜中の砂浜で、たった四文字の言葉で嗚咽している。恐らく今の私の顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっているだろう。


「こんなところ、誰にも見せられないな」


 震えたかすれ声が月明かりの渚に短く響く。

 涙は砂浜へ落ちた。ああ、土へと還ったのだ。

 人はいつか土へ還る。それは一つの例外もな。

 私とてその内の一人だ。


 私は一晩に二つも美しいモノを見つけられた。

 こんなに美しい星に骨を埋められるというのならば、行くしかないだろう。


 果たして私は勇者へのスタートラインに立てただろうか――

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