26 悪意
26 悪意
水と鎮痛剤を口の中に放り込み、喉に流す。アワレにお茶のおかわりを頼み、再びソファに座る。まだ仄かに温もりを残したお茶が注がれたティーカップが、ソファの横のテーブルにそっと置かれる。
アワレはポットの雫を拭き取り丁寧に置くと、再びベッドへと座り直し、先程と同じポーズを取った。
暫し無言で、色を作る。
肌色は使わず、白にゆっくりと色を足していき、アワレの肌の色を作る。
先程塗った頬のチークの上に薄く、水を多めにしたゆるい肌色をそっと乗せる。肌の色の中に淡い頬紅が咲いて、質感が随分とリアルになった。そのままゆっくり、光の加減を考えながら色を乗せていく。水でぼかし、陰影をさらに滑らかにする。
そうして絵を描く事に集中していると、薬が効いてきたのか心が安定して来たのか、次第に頭痛は治まってきた。
「長々とすまん。もうちょっとだから、そのまま聞いててくれ」
そう前置きするとアワレは、仰せのままに、と微笑んだ。いや、元々笑顔なのだが、その笑顔が少しだけ、柔らかく動いた。
一つ息を吐いて、記憶をさらう。
「宮内グループは、他の一般の奴らを使って、俺に対して総攻撃を始めたようだった。力による支配でもあったが、周りの連中の俺への妬みも、随分あったみたいだ。勿論、これは後で父さんが、事後処理の為に調べさせた時に分かった事だ」
「事後処理、とは?」
「順番に話すよ」
絵筆を一度左手に持ち替え、右手でジャスミンを啜る。
「熊坂との約束があった俺は、そのまま何もしないで居た。ほとんどは誰がやったのかも分からない陰険なものだったけど、俺の心はそんな些細な悪戯でも、少しずつ悲鳴を上げていった……。矛先が俺に向いた為、宮内グループの目が熊坂を離れたのが、せめてもの救いだった。これは、熊坂が俺に謝りに来た時に、こっそり聞いた」
ごめんねと言う熊坂の声が、耳に残っている。学校の中ではなく、態々帰り道で俺を待っていた熊坂は、夕陽の中で沈んだ顔をしていた。
あの時期の事を思い出す。
机や椅子の、落書き、破損。黒板に書いてあった下らない悪口。靴は持ち歩くようにしていたが、靴箱には砂や土が入れられていた。プリントは配られる前に捨てられ、机の中に剃刀を仕込まれた時は流石にヒヤリとした。
どれもこれも陰険で幼稚で、今となっては取るに足らないものばかりだけど、あの時の俺は、自分でも気づかない内に、随分と弱っていたんだ。どれだけ虚勢を張っていても、どれだけ強がっても、花は水が綺麗でなければ生き長らえない。この程度の泥水、いくらでも啜ってやると笑っても、確実にその汚さは体内に蔓延していくのだ。
そして、この時期からだ。定期的に、頭痛が蝕むようになったのは……。
「そんな日々が続いてから二週間程経った頃だろうか、変化が訪れた。俺のクラスの連中が、俺を直接的に攻撃するようになったんだ。恐らく、宮内グループがバックにいると思い、気の大きくなった連中が始まりだろうな。金をせびられる事もあったが、払った事は無かった。クラスの連中に、下らない理由で殴られたりする事も、ままあるようになった。だけど、そっちの方が随分と気が楽にもなった。人は肉体的苦痛には耐えられても、精神的苦痛には、脆く出来てるのかもな」
『おい、皆藤、ちょっと金貸してくれよ』
『近づかないでくれない、気持ち悪いんだけど』
『てめぇ、何生意気にこっち見てるんだよ!』
『あんた、本当に死んだ方がいいよ』
『てめぇは俺たちに殴られる位しか価値がねぇんだからよ、しっかりサンドバッグやれや』
『お前がいると、なんかくせぇんだよな』
『皆藤、お前さっさと学校辞めちまえよ』
『お前金持ちなんだってなぁ。俺今月ピンチなんだよね、ちょっと貸してくんない?』
『気持ち悪い、こっちに近づかないでくれる』
『こいつ、殴っても全然怯えた目しないんだぜ、なんかムカツク』
様々な言葉が頭の中で廻る。
宮内は俺のことが気に入らなかった。だから、俺に対して敵意を向け、宣戦布告をした。だけど、あいつの起こした行動が、結果として周りの人間の悪意に火を点けた。
敵意と悪意は、似て非なるものだ。自覚と無自覚、と言うのが一番妥当かもしれない。集団を覆う悪意には、加害者意識が欠如する。あいつもこいつもやってる、じゃあ俺もやろうと、罪の意識を共有、分散する事で、心を痛めずに、標的を攻撃する事が出来る。人間だけが、この愚かしい感情を持っているかと思うと、それだけで吐き気がする。敵意をむき出しにする動物達は、皆生きる為に他者を襲う。それが、人間と比べどれだけ純粋な事か。
事の発端は宮内だが、正直そこまで奴の心証は悪くない。
あいつは俺に敵意を見せた。それが、周りにいた有象無象共よりも、どれだけ純粋だったことか。
そして、熊坂……。
あいつはきっと、一番苦しかっただろう。標的が自分から俺に変わり、しかもその規模がどんどん大きくなっていくのを見て、心穏やかで居られるほど、残念ながら、冷たい奴では無い。あいつが俺のせいだと言ったのも、俺に感謝をしながら、それでも俺の事を恨んでしまっていたからかも知れない。肉体的苦痛が、精神的苦痛に変わったんだ。きつさは、俺もよく知ってる……。
「幸い俺は黙っていたし、教師も熱心に取り合おうとはしなかった。小杉先生だけはたまに気に掛けてくれてたけど、事を荒立てたくなかったし、気弱そうな先生だったから大丈夫ですと言っておけばいいだろうと思っていた。だけど、小杉先生は、俺が思っていたよりずっと、いい先生だったんだ。それがいけなかった……」
そこでふと、筆の止まっている右腕に気がついた。アワレの右腕だけに肌色が塗られ、左側は白いままだ。そのままモデルに目を移すと、アワレの顔からは笑顔が消えていた。
「怖い顔するなよ」
「すいません。私、どうやら今怒っているようです」
アワレの声が冷たく響く。
「よく分かりませんが、過度な感情の変化が起こりませんと、この変化は訪れませんので。過去の事、過ぎた事とは申されましても、やはり武文様を追い詰めたその方々達に、怒りを禁じえないのでしょう。申し訳ございません」
「謝る事は無い」
寧ろ、その行為が少し嬉しい位だ。
だけど、アワレがもし怒ったとしても、実際押し黙ってむっつり怒ってるんじゃないかと想像出来る。そして、その想像に少しだけ胸が軽くなる。
アワレは一度こちらに会釈をした。
「すぐに元に戻りますので、暫しお待ち頂いても宜しいですか?」
眠たそうにも聞こえる平坦な声に、いや、ゆっくりでいいと返す。
「そのまま聞いててくれ。小杉先生は、担任だけあって、クラスの雰囲気に気づいていたんだろう。事を荒立てたくないと言う、俺と熊坂の切なる願いは、それで打ち砕かれてしまう。小杉先生の口から、父さんの耳に入ってしまった……」
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