27 登校拒否

 27 登校拒否


 夏休みが明けて一ヶ月程が経った。

 その日、帰り道で久しぶりに熊坂と話をした。

 帰り道で俺を待っていた熊坂は、俺の姿を見た瞬間泣きそうな顔をした。

「皆藤君、ごめんね……」

 学校で話が出来なくなった分、こうして熊坂と話をするのも久しぶりだ。

「熊坂、今時間ある?」

「え? あるけど?」

「喫茶店でも寄らないか?」


 いつも乗っている電車に乗り、いつもは降りない駅で降りる。

 学区から離れたこの駅なら、他の生徒に見つかる事もないだろう。俺と一緒にいるのを見られて、折角払った火の粉をまた被ることも無い。

 家に呼んでも良かったのだが、この時間だ、流石に遠い。

 駅周辺にあった全国チェーンのコーヒー屋に入る。

 ドアを開けると、充満するコーヒーの匂いとは裏腹に、客足は疎らだった。

 ブレンドコーヒーを二つ注文して、一番奥の席に座る。熊坂はあまり学校帰りに寄ることが無いのか、キョロキョロと店内を見渡している。

 席に腰掛け、一口コーヒーを啜る。家でコーヒーメーカーが淹れてくれるコーヒーより、随分と薄い。

 熊坂も同じく一口啜り、美味しいと呟いた。

「俺の心配なら要らないぞ」

 熊坂はコーヒーカップを置き、こちらへ顔を向けた。

「皆藤君……、だけど、僕の所為で……」

「いや、お前の所為じゃないよ。それに、俺はこの状況は、宮内の所為ですら無いと思っている」

 意外に聞こえたのか、熊坂はいつもよりも大きく目を見開いた。

「確かに、あいつが俺の事を敵視してるのは事実だ。だけど、この状況になってから、あいつは俺の周りに現れなくなった。あいつが種火を仕掛けたんだとしても、もういいと思ったのかもな。だから、それに便乗してるやつらが騒いでるだけなんだよ。そんな奴ら、大した奴らじゃない。ま、加害者意識が無いってのは、問題だけどな」

 火事の際に、野次馬が群がったせいで消防車が入れず、被害が大きくなる事なんて良くあることだ。過失だろうがなんだろうが、そんな群集心理程怖いものは無い。

「すごいな、皆藤君。僕は、とても、そんな風には考えられないよ……」

 熊坂は自分の前にあるコーヒーカップに、そう語りかけた。

「今でも、皆藤君がみんなに嫌がらせを受けてるのを、何も言えずに黙って見てるし……。自分が被害を受けてない事に、むしろ安心してるくらいだし……」

 カップの中のコーヒーに、雫が落ちる。波紋は一瞬だけ広がり、すぐにコーヒーの海は凪ぐ。

「それに、皆藤君の、そういう強さを感じる度に、僕は……、自分の事が嫌で嫌で堪らなくなるんだ……。皆藤君の所為だ……」

 奥歯を噛み締めながらそう吐き出す熊坂の気持ちが、俺には痛かった。

 恐らくこいつが、一番苦しんでいるのだろう。俺の存在を暖かく感じるが、それ故に、自分自身が嫌になるのだろう。だけど、誰かを責める事も、何かをする事も出来ない。俺にこんな言葉を吐くのも、本心じゃない事くらい分かる。

「熊坂、絵を描けばいいんだ」

 ふいに口をついたその言葉に、熊坂は顔を上げた。

「お前、前に俺に言ったよな。絵は見せたり評価を貰ったりする為に描くものじゃない。自分の中の、言葉にも感情にも出来ないモヤモヤした想いを吐き出す為に、キャンバスと絵筆があるんだって」

「だけど、僕はもう……」

「いいから、描いてみろって、別にあの美術室じゃないと描けない訳じゃないだろ? 家に画材道具とか無いのか?」

「あるよ、あるけど……」

「じゃあ、その絵俺に見せてくれよ。何日かかってもいいからさ、お前のモヤモヤを吐き出したもん、俺に見せてくれよ」

 自分の青臭さが少し鼻につくが、この位の勢いは必要だろう。

 熊坂は力無くではあるが、わかったと、首を縦に振った。


 コーヒー屋を出ると、夜はもうそこまで近づいていた。

 いいよと言い張る熊坂に、俺がつき合わせたんだからと無理矢理コーヒー代と交通費を押し付けて、俺はいつもの駅で電車を降りた。

 熊坂は頭を下げながら、揺れる電車に運ばれていった。

 俺はその電車を見えなくなるまで眺めてから、駅の階段を下りた。

 だけどまさか、これが熊坂との最後の別れになろうとは、その時の俺には想像出来る訳が無かった。


 家に着くと、久しぶりに父さんが帰宅していた。

 疲れているのか、随分と覇気の無い顔をしている。

「おかえり、武文」

「ああ、ただいま」

 父さんの横を通り過ぎて、一度部屋に行こうとした時、声を掛けられた。

「武文、着替えが終わったら一度食堂に来なさい。食事の前に、話がある」

「何?」

 父さんは一つ息を吐くと、とりあえず着替えてきなさい、とだけ言い残して、自分の部屋へと引っ込んで言った。

 ――話?

 訝しく感じたが、大した話では無いだろうと、ひとまず部屋に戻る事にした。階段を上る最中、こめかみの辺りが一度痛んだ。ここ最近、不意の頭痛に襲われる事が増えた。学校内でよく起こるそれは、家の中で起こったことは無かったのに……。

 呼吸を落ち着け、部屋へと入る。

 制服を脱ぎ、ハンガーにかけてタンスへとしまう。部屋着に着替え、すぐに食堂へと向かった。

 食堂では、父さんが遠くの椅子に座っていた。

「こっちに座りなさい」

 父さんの面持ちは神妙だ。

 言われるがまま近くの椅子に腰を下ろす。

「単刀直入に言うぞ、明日から暫く学校を休みなさい」

 ピシャリと言われたその言葉は、俺の奥底の肝を冷やした。

「は? いきなり何?」

 父さんは虚ろな目を瞑り、噛み締めるように続けた。

「この前な、お前の担任の小杉先生から連絡を頂いた。お前が他のクラスメートから、謂れの無いいじめを受けているとな」

「え?」

 父さんの言っている事が、すぐには理解できなかった。

「そんな訳ないだろ? 俺がいじめを受けているなんて、ありえないよ」

「父さんもそう思った。だけどな、先生は随分な決意で父さんに連絡をくれたと言ってくれた。だから、お前には悪いと思ったが、ここ暫くお前の行動を見させてもらっていた」

 その言葉の意味が、少しずつ胸の奥に黒い物を広げていった。

「何したんだよ?」

「大した事じゃない。お前がクラスでどういう扱いを受けているのかを、少し調べただけだ」

「だから、何したんだよ!!」

 俺は思わず父さんを怒鳴った。

 自分の息子を監視させる親がどこにいる、やり過ぎだ、人権なんてあったもんじゃない、確か、そんなような事を捲し立てたはずだ。その最中、頭の中では常に、警報機が壊れたかのようにガンガンと頭痛が響き出していた。

「……聞いてくれ武文。母さんが居なくなった今、俺は、お前を失う訳には行かない……。お前に嫌われようと何だろうと、俺はお前を守る……」

 父さんの声が、重々しく響く。

 俺はその言葉に、何も言えなくなった。

 頭痛が頭の中を駆け巡り、色んな出来事や想いが頭の中で暴れる。

 熊坂の事……。

 母さんの事……。

 宮内の事……。

 クラスの事……。

 声や風景や感覚や感情が嵐のように俺を包み込んで行く。

 プチンッ!

 嵐の中で、何かが切れる音がした……。

「武文!!」

 どこか遠くで、父さんが俺の名前を呼んだ。

 一瞬、視線が宙を舞い、天井の照明が真横に見えて、白いクロスのかかったテーブルは、足元に転がっていた。

 そして、そのまま俺の意識は、混沌の海へと沈んでいった。


「ごめんね、皆藤君」

 熊坂は、申し訳無さそうな顔で俺の前に現れ、くるりと背中を向けた。。

「謝らなくてもいいって言ってるだろ。」

「だけど、皆藤君は、強いもんね。僕の気持ちなんか分からないよ……。

 気がつくと、俺達は周りを海で囲まれた断崖絶壁に立っていた。

 熊坂は崖に向かって一歩歩き出す。

「おい、危ないだろ!」

 俺の忠告も、熊坂はどこ吹く風だ。

「もう疲れたんだよ。だから、ここで終わりにするんだ。全部、全部皆藤君が悪いんだからね」

 熊坂の足が、崖の下に吸い込まれていく。

「バイバイ……」

 それだけ言い残し、熊坂の身体は崖の下へと落ちていった。

 慌てて追いかけ下を覗き込もうとしたが、それよりも先に、俺のいる足場がガラガラと崩れだした。崩壊する落石と共に、俺は真っ逆さまに海へと転落していった。

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