25 始業式

 25 始業式


「武文様?」

 アワレが心配そうな顔をこちらに向ける。自分では淡々と話してるつもりだったが、アワレからしてみれば、どうもそうではなかったらしい。目は口ほどに物を言うのが、今は何だかもどかしい。

「ああ、……大丈夫だ」

 そう言葉では返すものの、やはり身体は正直だ。頭痛は勢いを増し、心なしか身体を疲労感が包む。だけど、心の奥底は、少し軽くなった気がした。今まで溜め込んでいたものを、少しでも吐き出せた結果なのかもしれない。

「根を詰めるのも良くありませんし、何か甘い物でもお持ちしましょうか?」

 アワレの申し出に首を振る。

「いや、いい。お茶もまだあるし、それに……、続けて話すから、居てくれ」

 傍に居て欲しい、と言う言葉は飲み込む。でも、アワレは察してくれたのだろう。立ち上がった足はドアには向かわず、こちらへと歩いてきた。

「お隣、失礼しても宜しいでしょうか?」

「ああ」

「失礼します」

 少し枕の方へ腰を動かすと、その逆隣にアワレは腰掛けた。二人分の加重はより一層ベッドを沈ませる。

 ティーカップの中身を飲み干し、それを枕元において、俺は話の続きを始めた。

「母さんが死んでからは、何だろう、ありきたりな言い方だけど、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚だった。今まで常に近くに居たわけじゃないのに、今までの生活と何も変わらない筈だったのに、部屋の中が、家の中が、暗く、広く感じるようになったんだ。母さんの葬儀には、沢山の人が押し寄せた。皆一様に別れを惜しんでいたし、これだけの人がいるんなら、俺の決意なんて要らないのかもしれないと感じた」

「そんな事ありません」

 聞き役に徹していたアワレが、そう口を挟んだ。何か言いたげな顔をしているので、その顔が何だかおかしくて、嬉しかった。ティアラに触れないように、ポンポンと頭を叩く。

「分かってるよ。だけど、俺はその時その位参っていたし、自分の知らない母さんを皆が知っている事に嫉妬するほど、子供だったんだ……。夏休みの間は、そのまま抜け殻のように過ごした。どこにも行かずに、辛うじて課題だけは終わらせる程度にな。母さんが死んでから、一週間くらいかな、頭痛が止まなかった。病院にも行かなかったし、黙ってたら収まったから気にしてなかったけど、今思えば、最初の兆候だったんだな……」

 その時期の事は、正直よく覚えていない。けたたましく鳴いていたはずの蝉達の声も、茹だるように暑かったはずの夏の太陽も、あの時の俺には、世界の全てが取るに足らないものだったんだ……。

「夏休みが明けて、俺はギリギリ残っていた気力を振り絞って、何とか学校へ向かった。教室に入って最初に気づいたのは、不思議な違和感だった。これが、全ての始まりだったんだ……」


 教室のドアを開けて最初に感じたものは、クラスメートの視線だった。注目を集めているような、不思議な感覚、だけど、特に心当たりは無い。

 気にはなったが、それを誰かに追求する程の余裕は無かった。教室の隅に座っている熊坂を辛うじて視認して、そのまま始業式が始まるまで居眠りでもしようかと思い、机に身体を突っ伏そうとした時、何かが頭に当たった。

 辺りを見回すと、小さな消しゴムの欠片が一つ落ちていた。

 それと共に耳に入ってきたのは、教室の喧騒に紛れた微かな笑い声。気のせいかとも思ったが、その笑いは小さくとも、明らかに嘲笑だった。やはり気のせいだと思い直したが、不思議な違和感の萌芽は、始業式の間中ずっと、心に根付いていた。

 そして、帰りの下駄箱で、その違和感は確信へと変わった。

 靴が無くなっていたのだ。

 心の中にどす黒い靄が広がっていく。周りの喧騒に紛れて聞こえて来る笑い声が、全て自分を笑っているような錯覚を起こす。

「あ、皆藤君」

 その時、担任の小杉先生が声を掛けてきた。

「よかった、帰る前に見つけて、ちょっといいかしら?」

「先生、あの、俺、靴が無くなったんですけど」

 そう言うと、小杉先生の顔色が変わった。眉根を寄せて、心配そうな顔で俺を見つめている。

「とりあえず、職員室へ行きましょう」

 靴のことには触れずに、先生はそそくさと職員室へ向かって歩き出した。俺は疑問に思いながらも、先生の後を追いかけた。


「これなんだけど」

 小杉先生は、俺をパソコンの前に促した。画面には、うちの高校のホームページが映っている。

「このページは、もう見た?」

「いえ、初めてですけど、これが何か?」

 先生はマウスを動かし、掲示板のアイコンをクリックした。

 本来学生や保護者の意見などを、気軽に求めようと言う事で作られたのだろうが、その掲示板は、随分と荒れ狂っていた。

『皆藤ってやつ知ってる? 随分女泣かしてるらしいよね』

『本当? あたし女だけど、そう言う奴マジで許せないんだけど』

『あー、知ってる知ってる、大人しそうな顔して、裏では酒やタバコ、果ては薬までやってるってな』

『皆藤君について調べてみました。彼の父親の会社、ウィンテルは、随分あくどい事を重ねて、急成長したらしいですね』

『マジで、もう死んでいいよ』

『あくどいのは親子二代ってか(笑)』

『教室でも、なんかボーっとしてて気持ち悪いよね』

『そう、何考えてるか分かんない、気持ち悪い』

『ああいうのきっとストーカーとかになるんだよ。で、自分は正しいみたいな』

『自信家にありがち、何しても自分は正しい、本当に死んで欲しい』

『世界中に謝りながら死んで欲しいね』

 画面を下にスクロールさせたら出てくる出てくる、俺とその周り、父さんやその会社の事やらの、根も葉もない噂話が汚い色の花を咲かせていた。

「何か、覚えとかはある?」

 小杉先生がビクビクしながら俺に聞いてくる。先生自身、俺の事を疑っていると言うのか?

「いえ、こんなの、全く……」

 胃の辺りが気持ち悪い。頭がガンガンして、擦り切れた心が更に鉋で削られて行くような、不快感が全身を廻る。

「書き込みは、夏休み中に随分されてるみたいなの……。今までこんな事無かったから。ついさっき、教頭先生からお話を聞いて、そしたら皆藤君を見つけたから……、大丈夫? 顔が真っ青よ?」

 先生の言葉に、大丈夫ですと、自分でも驚く程力なく返す。

 保健室に行こうと言う先生のありがたい提案を丁重に断り、俺は職員室を後にした。

 先程の、あまりにも幼稚な誹謗中傷が頭を駆け巡る。だがその幼稚な行為も、弱りきった今の心身には、荷が重すぎた。足取りは重くなり、途中トイレで少し戻した。胃の中で反乱を起こした奴らは、そのまま俺の心を蝕む龍になる。こんな下らない事で膝を屈めた自分の弱さと、こんな下らない事をして楽しんでる奴らに、激しい怒りを覚えた。

 何とか玄関まで辿り着いた所で、靴が消えている事を思い出し、その日は仕方なく上靴で帰った。

 その靴を、ニヤニヤしながら見てくる男が、校門の前に一人で立っていた。

 宮内だ。

 一瞥もくれずに帰ろうとすると、宮内はこっちを眺めながら、周りに聞こえるように言った。

「どうしたんだ、皆藤君。上靴なんかで帰るのかい? もしかして、始業式から靴を忘れて来ちゃったのかな?」

 少数ではあるが周りに居た生徒の視線が、こちらに集まるのを感じた。

 やだぁ……。

 だっせー……。

 クスクス……。

 自然と漏れ出る不快な笑い声が耳に障る。

 宮内を睨みつけようと思ったが、刹那、熊坂の顔がフラッシュバックした。

 そう、俺は夏の初め、何をされても、何もしない、事を荒立てないと、熊坂と約束した。

 ――大丈夫、今は俺自身、少し弱ってるだけだ。こんなもの、取るに足らない。俺はそこまで弱くない。

 心の漣を深呼吸で鎮め、一つ大きく息を吐いた。

「こんなもんじゃねぇけどな」

 首筋に絡みつく蛇のような、宮内の嫌らしい呟きが背中に掛かる。その嫌悪感に一瞬身震いしたが、すぐに気を取り直し、俺は再び帰路へついた。

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