24 メメントモリ

 24 メメントモリ


 日本に着いた俺達は、飛行機からヘリコプターに乗り換えて、一先ず病院へと向かった。俺には最後の悪足掻きにしか見えなかったが、父さんの狙いはそこでは無かった。母さんの身体を検査し、病原菌の事を少しでも詳しく調べられればと考えていたのだ。きっとそれは、母さんの願いでもあったのだろう。本当の本当の深い所では、母さんを誰よりも理解していたのは、父さんだったのだろう。

 病院へ着いて、母さんが別室に運ばれてからも、俺は病院の椅子で項垂れていた。あまりに突然に降りかかってきた不幸と哀しみに、頭も心も追いついてこなかったのだ。

 薄暗い病院のロビー、今が何時なのかさえ分からない。いや、寧ろそう言う時間や空間の概念さえ上手く捉えることが出来ないほどに、俺は心身ともに弱っていたのだろう。周りの暗さから夜だという事だけは理解出来たが、時計を見るだけの気力は沸いて来なかった。

「武文」

 呼ばれて顔を上げると、父さんはすぐ隣に立っていた。

「父さんは、一度会社に戻らなければならん。今なら、母さんに会えるぞ。傍に居てやれ」

 そう言って父さんは、俺に部屋の番号を告げて、とぼとぼと歩き出した。その背中は、酷く疲弊して見えた。


 父さんに教えられた病室は、病院の最上階の特等室だった。

 扉を開けると、ガランとした広い間取りにベッドが一つ置かれている。そこに横たわっている母さんの肌は、驚くほど青白くて、別人にさえ思えた。

「母さん……」

 声を掛けるがやはり反応は無い。

近くにあった椅子をベッドの傍まで寄せる。そこに腰掛け、母さんの手を握る。ゾッとする程冷たい母さんの手を、少しでも温めるように強く握る。

「母さん……」

 自分の声が、湿り気を帯びていくのが分かる。

「本当に、死んじゃったのか……?」

 そう問いかけた瞬間、自分の中の何かが壊れるのを感じた。

 自分の中に、これ程までの激しい感情が眠っていることを知らなかった。哀しくて苦しくて、こんなに沢山の涙や嗚咽が零れる事を知らなかった。

 子供のように泣きじゃくる俺の頭を、よしよしと撫でてくれる暖かい手はもう無い。泣かないの、強くならなきゃ駄目よ、と優しく掛けてくれる声はもう聞こえない。ささくれ立った心を静めてくれる、柔らかな笑顔はもう見る事が出来ない。

 人は哀しみが強すぎる時、自分が泣いているのかさえ分からなくなるのだ。内側から破壊され、心が壊れてしまう前に、この感情を少しでも外に押し出そうと、涙を流し、嗚咽を零すのだ。誰かに優しくして、感謝をされて、人から愛されるような、沢山の愛を振りまいてきた人程、本人は望まずとも、沢山の哀しみを与えてしまうのだ。

 喉の奥が痛い。目の奥も鈍く痛み、頭痛もしてくる。それでも、溢れ続ける感情の洪水は止められなかった。

 どれくらいの時間そうしていたのだろう。ようやく落ち着いた頃には、カーテンの隙間から薄く見える窓の外は、ぼんやりと白み始めていた。

 立ち上がり、カーテンを全開にする。遠く見えるビルの隙間に、太陽が静かに顔を出した。陽光が病室の中に射し込み、朝を広げていく。朝日に照らされた母さんの顔は、とても安らかに見えた。

 脱力感からか、俺はその場に腰を下ろし、太陽の加護を受ける母さんを暫く見つめていた。

 その姿は、胸が苦しくなる位、美しかった。

 哀しさや切なさは少しも癒えなかったが、俺はそこでようやく、母さんの死を理解した。

 疲れの所為か、微睡む意識の中で、俺は誓った。

 母さんの温もりを忘れない。母さんの暖かさを忘れない。母さんの優しさを忘れない。母さんの強さを忘れない。母さんの厳しさを忘れない。母さんの存在を忘れない。母さんの偉大さを忘れない。母さんへの感謝を、忘れない。

 俺がそう思わなくても、母さんの記憶はみんなに残り続けるだろう。だけど、世界中の人が母さんを忘れても、俺は母さんを忘れないと誓った。

 母さんの死を受け入れた上で、それを理解した上で、俺はそう信じた。

 俺が忘れなければ、本当の意味では、母さんは死んだ事にはならない、と……。

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