17 絵筆
17 絵筆
今日の雑務がまだあると言うアワレに、全てが終わってから部屋に来るように言いつけ、俺は久々にアトリエに足を踏み入れていた。
雪がちらつく窓の外では、街の明かりが羽化した蝶のように先程よりも華やかさを増している。
室温は外と大して変わらないのだろう、肌に刺さるような寒さに加え、口から出る息は瞬く間に白く染まる。早く用事を終えて、部屋に戻ろう。
白紙のキャンバスを早々に見つけて、一枚手に取る。と、やはりそこで思い直し、水彩用の用紙を探した。程無くして、水彩用の画用紙を発見する。それから薄いHの鉛筆、消しゴムは部屋にあるなと思案をしつつ、パレットと絵筆、絵の具を探す。
中くらいの木箱の中に絵の具の箱とパレットを見つけた。絵の具は随分固くなっていたが、封は空いてない新品だったため、寒さの所為で固くなったのだろうと理解した。部屋に戻れば使えるだろう。
棚を眺めていると、一本の古い絵筆を見つけた。
箱の中に大事にしまわれていたその筆には、持ち手の所に父さんの名前が彫ってあった。
父さんが絵筆を握っていた様子を思い出す。俺が生まれる前、父さんはよくこのアトリエで母さんを描いていたんだと聞かされていた。俺が生まれて、会社も忙しくなり、母さんも飛び回るようになってそんな時間は無くなってしまったけれど、まだ大事に保管されている筆に詰まった思い出が、二人だけの思い出が、俺にも見えるような気がした。
そこで一つくしゃみが出た。身体が随分冷えてきたようだ。
その横にあった真新しい絵筆を一本引っつかみ、荷物を抱えて俺はアトリエを後にした。
筆を洗う為の適当な水差しが見当たらなかった為、深めのコップを3つ用意して水を入れた。新品の筆を水につけ、軽くほぐす。
8時に近くなった頃、ノックの音が聞こえた。
「武文様、アワレでございます」
いつもなら声で指示するのだが、今日はドアまで足を運んだ。開くと、廊下に少しはにかんだアワレが立っている。
「あの……、如何でしょうか?」
アワレはちゃんと、俺が先程渡したドレスを着ていた。
水色を基調とした、大人しいが洗練された印象を受けるデザイン。胸元にはルビーのブローチが光り、同色の肘までの手袋には、アクセントとしてゴールドの腕輪が手首の所でさりげなく光る。頭の上にはいつもの大き目のリボンのようなヘアバンドは無く、代わりに小さいが煌びやかなティアラが添えられている。身体の構造が分からなかったが、二の腕や首元を見る限り、外郭は人と変わらないのかもしれない。継ぎ接ぎが無くて安心した。
目元には気持ち程度のアイシャドー。肌は元々綺麗なためファンデーションは薄めだが、普段引かれない紅が口元に艶やかさを与えている。
「よし、入ってくれ」
俺の後に続いて、アワレも静々とついて来る。
褒め言葉の一つもかけるべきなのだろうが、生憎そこまでの甲斐性は持ち合わせていない。
ただ、素直に思う。
綺麗だ。
「よくわかったな。ドレスと化粧道具を渡しただけだったのに」
「ああ、それは、それなりのデータがあります故、着付け程度までは出来るようになっております」
「そうじゃなくて、ちゃんと身に着けてから、俺の部屋に来てくれたってことだよ」
アワレをベッドに座らせ、俺は用意してあった椅子に座り、鉛筆を持ちながらアワレを眺めた。
「これを着る事が、私が武文様のプレゼントとは、絵を描いて頂ける事だったのですね」
「頂けるんじゃないよ。俺が描かせて欲しかったんだ。それに、どうせ描くなら、モデルとしてお前を磨いてから描きたかった。そう言う格好は嫌か?」
アワレは首を振る。
「いえ、ただ、こういう経験がありません故……、その……、何だか、申し訳ありません。私なんかが、このような……」
いつもよりも少し狼狽しているように感じるアワレを微笑ましく思う。
「気にするな。むしろ、俺のわがままに付き合って貰ってるんだから。ポーズは気にしなくていいから、座っててくれ。あ、笑顔は頼むぞ」
そう指示すると、アワレは一つ吐息を零してから、いつも通りの笑顔を見せた。満面過ぎて、ドレスに少しだけ合わないと感じたが、アワレらしくていいかと思い直し、鉛筆を走らせた。
時計の針が時を刻む音と、鉛筆で薄い線を描く音がクロスする。窓の外を流れていく雪に音は無い。俺の頭の中でだけ、今日はごく僅かに刻む頭痛が、ベースとしてそれを後押ししている。
改めて見つめると、アワレは本当に華奢だ。
その手弱かななりと、普段のパワフルさが結びつかなくて困る。だけど、今のアワレは、本当に綺麗だった。絵を描くなら白地に白のドレスは合わないと思っていたが、一度白も着せてみたい。
色々思考を巡らせていたが、時間が経つにつれ邪念は薄れ、目の前のアワレと絵にだけ集中出来た。それと同時に、絵に関する記憶が思い起こされて来る。脳が刺激され、フィードバックされた記憶が頭を過ぎっていく。
不意に、熊坂の事を思い出した。
あいつと美術室で、二人っきりで一度だけ絵を描いた事を思い出した。
不思議だ。
今日はあいつの笑顔が思い出せる。辛い思い出ばかりなのに、今日はあいつの笑った顔が思い出せる。こんな、こんな表情をしていたのかと、胸が締め付けられる。なのに、頭痛は酷くならなかった……。
……いい機会だと思った。
「アワレ、そのままでいいから、聞いて欲しい事がある」
俺は、その事だけに集中しないように、懸命に鉛筆を動かした。薄く描かれたアワレの輪郭は、ほぼ纏まりつつあった。
「俺が、どうして、頭痛が止まらなくなったのか。熊坂とのこと、学校でのこと、お前に聞いて欲しい」
用紙の中のアワレにだけそう話しかける。視界の端で、本物のアワレが首肯する姿がちらと映った。
心は凪いだままだった。
俺は、ゆっくりと噛み締めるように、口を開いた。
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