18 冬の美術室

 18 冬の美術室


 あの日は、寒い日だった。

 二学期も終わりに近づいた12月、高校一年生だった俺は、その日の授業を終えた後に特に何かをするでもなく、校内をぶらぶらとうろついていた。特にやる事も無いが、すぐに家に帰る気分じゃない。当時の俺は、誰もいない家に帰る寂しさを、こんな風に紛らわせていたのかもしれない。

 中庭には雪がうっすらと積もっていて、心無い者が踏み荒らしたのか、いくつかの足跡が痛々しげに爪痕を残していた。

 当時はまだ、定期的に絵を描いていた。相変わらず静物画ばかりだったが、月に一枚程のゆっくりとしたペースで、俺は作品を生み出し続けていた。だけど特に、美術部なんかに所属していた訳じゃない。コンテストなんかで見ず知らずの人間に寸評されるのが嫌だった為、俺の創作活動は自室のアトリエだけに留まっていた。

 だけどその日、たまたま覗いた美術室で、描きかけの絵がキャンバスに掛けられているのを見つけた。

 描かれていたのは、家族の絵だった。

 母親と父親とまだ幼い息子が、仲睦まじく公園でピクニックをしている、そんな絵だった。

 俺は誰も居ないのをいい事に、絵に引き寄せられるように美術室に足を踏み入れていた。

 美術の授業は二年からの選択だった為、美術室に入るのはそれが初めてだった。石膏と絵の具の匂いに、校舎ならではの独特の木々の匂いが交じり合った、不思議な空間だった。室内にも関わらず吐けば息が白くなる程の寒さの中で、その絵の周りからは、穏やかな暖かさが感じられた。

 輪郭だけで色がついていないその絵を見ながら、俺は自分にもこんな時期があった事を思い出し、心の奥が擽ったくなるのを感じていた。

「誰?」

 隣接してあったらしい美術準備室の扉が静かに開き、パレットと水差しを持った男子がそのままこちらに声を掛けて来た。

「ああ、すいません」

 反射的に謝ったが、彼は頓着せずにこちらに歩いてくる。咎める気は無さそうだ。

「さっき教室の前を通りかかったら、この絵が掛かってたんで、ちょっと覗いてみたくなったんです」

「ああ、そうだったんだ。あ、僕も一年生だから、敬語はいらないよ」

 そう言いながら、学ランの襟元についている校章をこちらに向けた。青色は、今年の一年生の色だった。

「僕、7組の熊坂保。あ、一応美術部員ね」

「ああ、俺は……」

「知ってるよ、8組の皆藤君でしょ?」

 間髪いれずに言われて面食らった。

「皆藤君有名だもん。お父さんが大企業ウィンテルの社長さん。その一人息子って言ったら、噂にもなるよね」

 あっけらかんと言いながら、熊坂はキャンバスの前に腰を降ろした。すぐさま水差しに筆を突っ込み始める。

「……いい絵だな」

 その後ろに立ち、素直な感想を述べる。熊坂は振り返り、微かに笑顔を見せた。

「うん、ありがとう」

 その笑顔は、何だか寂しそうだった。

「あんまり寒いと絵の具固まっちゃうんだよね。でも、ここ暖房器具とか無いからさ、冬場はきついよ」

「他の部員は?」

「みんな、こんな寒いのに絵なんか描いてられるかって、全然来ないんだ。何のために美術部に入ってるのか分からないよね」

 こちらを向かずに、熊坂はパレットの上で色を作りながら笑った。青に白を混ぜ作った空色を筆に載せ、優しく添えるようにキャンバスに塗る。

「油絵か?」

 そう尋ねると、熊坂からは答えでは無く、質問が返ってきた。

「皆藤君も描くの?」

「……ああ、少しな」

「そうなんだ。どんな絵を描くの?」

「俺は水彩画ばかり、それも静物画しか描かない」

「そっか……。俺は、何かこんな絵ばっかりだな」

 熊坂の表情を、目で捉えた覚えは無い。それに、熊坂の家庭環境は、両親の不和の所為でとても荒んでいると言う話を聞いたのは、随分と後の事だ。

 熊坂はパレットから取り出した空を、軽快にキャンバスに乗せていく。見ると、彼のパレットにはまだ青と白しか乗っていない。

 空の背景を家族の後ろに敷き詰めた所で、熊坂は自分の手に息を吐きかけた。

「今日はここら辺にするよ。寒いから、筆が乗らないや」

「それはいつもの事なんだろ?」

「そうだね、気持ちがポッキリいっちゃったのが大きいかな」

 絵を壁に立てかけ、熊坂はテキパキと帰り支度を始めた。

「僕、明日もここで続き描くからさ、よかったら皆藤君もたまには覗きに来てよ」

「俺は美術部じゃないんだから、こんなところうろちょろしてる訳にはいかないだろ?」

 つっけんどんにそう返すと、じゃあ入っちゃえば? と軽い感じで言われる。

「冗談。俺は誰かに見せたり評価される為に絵を描くなんてごめんだ」

 俺の言葉を聞いて熊坂は、少し神妙な面持ちで俺の目を見た。

「違うよ……。絵は見せたり評価を貰ったりする為に描くものじゃない。自分の中の、言葉にも感情にも出来ないモヤモヤした想いを吐き出す為に、キャンバスと絵筆があるんだよ」

 そう呟く熊坂の翳を、当時の俺は気づく事が出来なかった。

「じゃ、また気軽に覗きに来てよ。絵が好きだったら、大歓迎だからさ」

 そう晴れやかに笑う熊坂の顔には、どこにも翳は見当たらない。だから、俺のこいつの第一印象は、『陽気で明るい奴』だった。

 これが、熊坂保との出会い。

 偶然に彩られた、ごくごく当たり前の、ありふれた出会いだった……。

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