15 涙
15 涙
アワレが本を閉じる音が聞こえた。そのまま本棚にそれをしまい、再び俺の横に来て、声を掛けてくれた。
「武文様」
俺はその言葉に、上手く返事をする事が出来なかった。
どうしてだろう。内容なんか全然覚えていなかったし、話も中途半端だし、感動するようなシーンなんか一つも無かった、なのに、俺は、どうしてか涙が止まらなくなっていた。
目から止め処なく流れる涙の正体が、全く掴めない。熱の所為で涙腺が緩んでいたのか、それとも母を失ったという主人公に共感したのか、もしくは、それらの物全てがうねりとなって身体に飛び込んで来て、俺の中の何かを押し出す事になったのか……。
――だけど……。
俺は止め処なく溢れてくる涙の止め方が判らず動揺していた。ましてやこんなに涙を流す事なんて、あの時期にも無かった事だ……。
頬に、布の感触を感じる。
アワレが、ハンカチで俺の頬を拭ってくれていた。
「武文様、お辛いのですか?」
「……わからない」
素直に答えた。
「もしかしたら、お寂しいのでは、無いのですか?」
アワレが言ったその言葉に、俺は身体を起こし、顔を上げた。
「寂しい?」
「はい、先程の絵本は、沢山の愛が篭っておりました。それに、武文様のご記憶にはあらずとも、あれは思い出のプレゼントなのでしょう? 熱の所為で、人恋しくなっているのではと、邪推させて頂きました」
思えば、一人で生きてきた。いや、一人で生きているつもりになっていた。
母さんを亡くし、父さんとは交流を持たず、学校では孤立し、熊坂を死なせてしまったこともあり、気づけば今まで排他的に生きてきた。一人で生きる事が当たり前になり、寧ろそれを俺自身が望んでいると感じて、この年まで生きてきた。それが、アワレの所為で、触れ合う温もりを、母さんが居た頃の温かさを思い出してしまっている自分がいた。
自覚してしまえば、それは確信だ。
「……お前の所為だ」
洟を啜りながら、か細くそう呟く。アワレがいなければ、こいつがこんなに流暢に喋らなければ、温かく俺に尽くしてくれなければ、あんなに、柔らかく笑ってくれなければ、俺は今でも、今でも……。
「アワレは、お邪魔ですか?」
淡々とした声が聞こえてきた。アワレの顔を見ると、少しだけ眉を傾け、唇の端だけで軽く笑っていた。その姿は、とても寂しそうに思えた。
「そんな訳、無いだろ……」
こいつは、哀しい事が分からない癖に、なんて、なんて寂しそうな顔をするんだろう。
「そんな顔するな……」
そう、ぶっきら棒に呟いた。
「そんな顔とは?」
「そんな、寂しそうな顔を、するなって……」
涙が少しずつ落ち着いてくる。吐き出された感情のお陰で、少しずつ、いつもの調子に戻っていくのを感じる。
「武文様、アワレは寂しそうになど出来ません。武文様の目に、そう映るだけでございます」
一瞬、ぞっとする程冷たい声が聞こえた。感情が欠片も感じられない、深遠な闇のような、光さえも無尽蔵に飲み込んでしまう、虚無の声。
「ア、アワレ?」
「申し訳御座いません。アワレは、怒りや哀しみを表現したくなった時に、全ての感情を殺すように出来ております。こうなると、私に恐怖を感じる方が多いと、製作前のモニターの結果から出ております」
淡々とした声が続く中、アワレは続けた。
「きっと、今の私では武文様のお役に立てません。失礼させて頂きます」
俺はその時、何を想っていたのだろう。きっと何も考えていなかったと思う。
衝動的、そんな言葉が一番しっくり来るだろう。
俺は、そう、衝動的に、アワレを抱きしめていた。
「た、武文様?」
「駄目だ……、お前はここにいるんだ……」
止まった涙が、また手弱かに流れ出す。ベッドに座ったまま上半身を伸ばし、アワレの腹に顔を埋めていた。強く強く、アワレの背中に回した手に力を込める。ちゃんと、ちゃんと温かい……。
後頭部に、柔らかさを感じた。アワレの手が添えられている。
「大丈夫です。武文様がお望みとあらば、アワレめは、いつでも武文様のお傍にいます」
声が、アワレの声が、普段の柔らかなものに戻った。
俺は、こいつの温もりを欲している。もう、それは、否定しきれない事実だった。俺の心の中には、アワレの温かさが、コップの中に溜まる雫のように、毎日毎日、少しずつだけど、満たされていたのだ。
こいつを失う事を、怖いと感じた。
「武文様、アワレは、武文様のアワレでございます。大丈夫ですよ」
撫でられる頭が心地いい。閉じた目の中に、母さんの幻影が浮かぶ。
『もしお母さんが居なくても、決して寂しがってはいけないよ。元気に生きなくてはいけないよ』
不意に、先程の絵本の台詞が脳裏を過ぎった。その声は、母さんの声だった。
「母さん……」
思わず声が漏れた。
恥ずかしくなってアワレの顔を見ると、アワレはニコニコ顔でこちらを見ている。そのままアワレからゆっくり手を離して、ベッドに横になる。
「すまん、動揺した……」
そう呟くと、アワレは再び俺の額に自分の額をくっつけた。
「36.9℃」
アワレはそう言って、大分調子が戻られましたね、と笑った。
「ああ、そうだな……」
少し逡巡してから、アワレのおかげだ、と言ってみた。
その時のアワレの幸せそうな顔は、俺の気のせいでは無かったはずだ。
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