◇帰り際のひととき(第一部幕間 insane or innocent◇6)
時系列:「insane or innocent◇6」と「黒糸を断つ」の間
──────────
その日病室に入ると、アルテはベッドの前に立ちすくんで、難しい顔をしていた。
昨日の夜、熱が下がったのでそろそろ帰ると言うのを聞いた。今まではケイシーさんにことごとく止められていたが、やっと説き伏せたからと。
だから、今日帰るのだと思っていたけど。何を見ているのだろう。
不思議に思ってアルテの視線を辿ると、ベッドの上には彼の外套が広げられている。所々切り裂かれ、あちこちに血が染み付いているボロボロのものが。
あの日着ていたものだと一目で分かった。
「それ、どうしたの?」
声をかけるとアルテは私を一瞥して、また外套へと視線を戻す。
「……また着れないかと思ったんだけど」
その言葉に、もう一度ベッド上の外套を見た。
確かに胴部の切り口は比較的小さいものの、なにせ裂けている箇所が多い。特に腕のところは一段と切り口が大きく、その分血も目立っていた。こと右袖に関しては、袖口にまでべったりと血が張り付いている。
これを全部私がやったんだと思うと、申し訳なさでいっぱいになるのだけど。
でも、これを再び着るのは無理じゃないだろうか。
そうは思ったものの、アルテの眼差しは真剣そのものだった。
「穴は塞げばいいとして……血は何とかして落とさないと、あらぬ疑いかけられそうだよなって」
「疑い……? えと、誰に?」
「誰って、そこらの道行く人とか? つーか単純にさ、着て歩くだけで目立ちそうで嫌って話」
それは、確かにそうだろう。そもそもどうして、これを着ようという発想になるのだろう。
「これ、洗えばいけるよな? 多少染みが残っても、血だと思われなきゃ大丈夫なはずだし。全部じゃなくてもある程度落ちれば……うっわ、血、カピカピ……」
「あの、さすがに限度があるかと。素直に新調した方がいい気が」
嫌そうに袖をつつくアルテに、恐る恐る提案する。
元々血の汚れは落ちにくいし、時間が経ってしまったものなら尚更だ。そう思ったからなのだが、彼は顔を引きつらせた。「え、金持ちの発想こわ」と言われて、首を傾げる。
私は元々一般家庭の出なのだけど。
「てかそもそも、んな余分な金ねぇの。だからこれが駄目になると困るんだよ。ただでさえ元の服の方は捨てられたのにさぁ……まじであのヤブ医者ありえねぇ、普通汚れてるからって勝手に捨てる? 絶対まだ何かに使えたのに」
貧乏性なのだろうか。
今の彼が着させられている、ゆったりとした白い服を見ながら、そんなことを思う。
捨てられたという服も、外套と同じような有様だったはずだ。下に着ていたのなら、血はさらに染み込んでいただろう。私でも捨てると思う。
というより、何故服は捨てられて外套はそのままなのだろう。医者の判断基準が分からない。
「え、と、とりあえずごめんなさい。だめにしてしまって」
「は? ………あ」
アルテは一度不思議そうに私を見てから、何かに気づいたような顔をした。
視線を逸らしながら、「別に責めてたわけじゃないんだけど」と気まずげに言葉を濁している。余計な気を遣わせただろうか。
「ただここら辺治安悪いからさ、外套ないまま出歩く方が目立つっていうか、目をつけられやすいし。あと単に、着てないと寒いし。俺、ずっと寒いままは無理だし」
「寒がりなの?」
何気ない質問のつもりだったのだが、何故かアルテの回答までには、たっぷりと間が空いて。
「…………悪い?」
「え、あ、悪くないです。いいと、思います?」
拗ねたように小さく口を尖らせるアルテに、慌てて返す。
どうしてそんなに不本意そうなのだろう。気にするようなことでもないと思うのだけど。
「あの、元々は私のせいなので、弁償するね。幸い手元にお金はあるので。お店の案内さえしてくれれば──」
「いらねぇ」
「……え、けど」
「まじでいらない。余計なお世話」
「……あの」
「いらない」
頑なに首を振り続けるアルテに、どうしたらいいのか分からない。
けれどこのままだと、本当にボロボロの外套を着て帰らせることになりかねない。それはさすがに気が引ける。
「なら古い物を知り合いから貰うとか、どうかな」
「そんな簡単なら苦労しない……」
「聞くだけ聞いてみませんか? 医者の人の所とか」
何故か乗り気でないアルテに、繰り返し説得をする。その後しばらくして、ようやく折れた彼と共に下へ降りた。
◇
結論から言うと、何とか貰えた。下で遭遇したケイシーさん経由で。
ただケイシーさんがアルテを構い倒すものだから、ようやく渡された頃には、彼は少し不機嫌になっていた。
数日前は『アルテがケイシーさんに懐いている』と聞いた気がするが、あれは本当なのだろうか。
『アルちゃんどうせ兄貴の着てもぶかぶかでしょ。あたしのが背が近いし、あたしのをやろう。まーこれも元を辿れば、昔の兄貴のお下がりですけど。……ふっ、やっとこのボロ手放せるぜ』
そう言われてアルテに渡った外套は、少し退色気味ではあるものの、他はほとんど綺麗だった。
「……少し大きい?」
貰った外套を羽織るアルテを見て、思わず呟く。
袖が少し余っている気がする。
「そ? あんま気になんねぇけど。動きにくい訳でもないし」
アルテは首を傾げながら、腕をぐるりと回す。「あったかいから別にいいよ」と言うその表情は、言葉よりもずっと満足気に見えて。
本当に寒がりなんだな、と少し意外に思う。私は別に、上着を着なくても寒くは無いから。
でも寒いのが嫌なら、どうしてこの間は窓を開けていたのだろう。熱で身体が火照っていたとか?
「あ、アルテ。私も家までついて行っていい?」
動き出したアルテに慌てて声をかけると、彼は少し目を丸くする。
「え、なんで」
「他に行くところ、ないもの」
「行くところ? …………あ、そういやそっか」
忘れていたのだろうか。ずっと
数秒何かを考える素振りをしていたアルテは、ふと眉根を寄せた。
「あのさ、魔女のこととか考えると、遠くに逃げた方が良かったりすんの?」
「え」
どうして逃げるの?
首を傾げながら聞きかけて、まだアルテには何も言っていなかったのだと気がついた。伝える機会がなかったのだ。彼が高熱を出したのは、あの直後だったから。
「あ、えと、大丈夫です。あの人とは和解したので」
そう前置いて、あの後のことを簡単に語る。
怪訝そうな顔をしながらも黙って聞いていたアルテは、話終わると小さく問いかけてきた。
「ティアはそれでいいの?」
「? はい」
「……いいなら、いいけど」
何がそんなに気にかかるのだろう。
疑問には思ったものの、次にアルテが言葉を発すると、意識は自然とそちらへ向く。
「なんにしても住む家欲しいなら、同性ん家の方が色々都合良くない?」
「けれどアルテにも、家族はいるでしょう?」
あまり離れたくなくて、とっさに出た言葉。けれど言ったあとで、だったら尚さら都合が悪いのではないかと思い至って。
どうしよう。やはり自分でどうにかするべきだろうか。思いながら恐る恐るアルテを窺って、そこで初めて違和感に気がついた。
「あ、あの、ごめんなさい。もしかして聞いちゃいけないことだった?」
深く考えず口にしていた。一般的にはそうなのだろうと。
今までは自分のことで手一杯で、あまり疑問には感じなかったけれど。考えてみれば彼のこれまでは、普通の家庭を想像するには不自然だ。
何日も古城に閉じ込められ、その上倒れて診療所へと運ばれて来ても、身内らしき人が現れない。ことあるごとに帰りたがっていた割には、今まで家族については一言も口にしなかった。
「……そういや今まで、何も話してなかったんだっけ」
そういうアルテの声音は、数日前に窓の外を見ていた時のように、酷く静かで。直後に口の端を緩めて微笑むその顔は、とても穏やかなのに。
「家族なんて居ないよ。俺は昔からずっと一人」
何故だか少し、寂しそうに見えた。
我が愛しの化け物へ【小話裏話】 砂原樹 @nonben-darari
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