おまけ フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン編

 

 義務であり日課の運動を終えたサクラはプロテインを入れた経口補水液で喉を潤す。月面における農地利用研究はあと一週間で交代し地球への帰還が待ち遠しくなっていた。



 地球に帰ったらまず何をしようかしら? 温泉? グルメ? エステ? カジノでパーッとやってお酒も飲みたいし。先に帰ったアイツを誘ってやろうかしら。地球に戻る直前は小うるさくて鬱陶しかったけど、やっぱりいないと寂しいものね。


 

 月面には資源や宇宙開発、生命科学研究、デブリ回収など様々な研究開発のために各国が共同で設営された基地が複数ある。月全体で常時百名前後の人間が様々な任務にあたっており、そのどの任務も概ね半年間、長くても一年で交代していく。サクラはその中で地球への帰還が目前に迫った農学研究員の一人だ。

 月面基地では秘匿事項が多義にわたるため、通信が関わる物は本人の自由意志で使用はできない。そのため、趣味の範囲で出来ることと言えば、昔ながらの読書、音楽、映画、絵、オフラインのゲームといった事前に持ち込んだアナログなものがメインだ。延々と筋トレをする者もいる。勤務とは別に低重量下における筋力低下を防ぐために2〜3時間の運動を義務付けられているというのにだ。あれはちょっと真似できないとサクラは思う。

 かくいうサクラは日々自室から見える地球や月面の姿をスケッチをするのが好きだった。その絵は通信が許可される時間にSNSへアップしささやかな人気を博していた。そして今日もまた月面に浮かぶ地球の姿を眺めスケッチをとっている。

 地球は毎日毎日その表情を変える。大気や雲、夜の姿、夕焼けの姿、朝焼けの姿。大陸の姿だって微妙に変わっている。肉眼じゃわからないが、その変化はいつまでも眺めていられた。


 

 今日も貴方は美しいわ。本当に綺麗。胸が吸い込まれてしまう。広大なユーラシア大陸。今にもキスしそうなチュクチ半島とスワード半島。間に挟まれてやるせないベーリング海峡。パナマ運河はまるで『E.T.』の指と指を付けたポスターみたい。その場合、北アメリカと南アメリカのどちらが少年でどちらがE.T.かしら? あら? 地球が──おかしい? いえ……おかしいのは私? 



 サクラは何度もその眼(まなこ)をまばたきし疑った。スケッチを見て、窓から覗く地球を見た。何度も何度も何度も。自分の書いた地球が間違えた? そんなはずはない。ユーラシア大陸は? 北アメリカ大陸は? アフリカ大陸は? 太平洋は? 大西洋は? 北極も南極もみんなどこへ行ってしまったのか。比喩ではない、サクラが眺めているその最中に、まるで映画のカットが変わったかのごとく、地球は文字通り姿を変えていた。



 ◇    ◇    ◇    ◇    ◇


 

 地球の激変から三日が経った。地上の管制局とも完全通信不能となった。始めのうちはノイズが入り速度は遅いもののまだかろうじて生きているチャネルがあった。それでわかったことといえば、地球の大地がまばたきよりも早く組み替えられたこと。何が原因かは全く不明。サクラが見ていた以上の情報といえば、人類は大混乱に陥っているものの、死に絶えたわけではないということくらいだった。その生き残っていた通信もやがて不通となり、月面基地は完全に取り残された。宇宙という海に隔たれた孤島──孤星というべきか──になったことが再認された。

 月面基地の最高責任者はこの事態に幹部を集め幾日もの話し合いをし、基地にいる全ての人々に指示を与えた。



 地球にかつてない危機が起き、通信も物資の輸送も不可能になっているのは諸君も知っての通りだ。この異常事態はいつ解消されるのかは全く不明だ。専門家達が出した一次報告では、地球史において初の予測できない急激で大規模な地殻変動による結果ということになった。にわかには信じられない内容だが、原因はどうあれ少なくとも我々の眼の前で起きたことは現実である。

 この月面基地で生きる人々は皆厳しい訓練とテストを潜り抜けてきた優秀な人材だ。しかし、そんな我々でさえこの事態は到底信じられるものではない。地上には家族や恋人がいるだろう。心配でこの数日気持ちが休まらないのは皆一緒だ。だが、地上の人々に我々が今出来ることは何もない。繰り返すが、この事態は決して訓練でも集団催眠でも幻覚でもないことを各々直視し受け入れて欲しい。

 地球からの救援が絶望的となった今、残された選択肢はただ一つ。あらゆる全ての手段を講じ我々はこの月面基地で生き延びて行かねばならないのだ。



 ◇    ◇    ◇    ◇    ◇



 まさかね、私の人生こんな結末とは誰が予想できるってのよ。月面基地勤務で地球に帰れば各方面から仕事も男も引く手数多だってのに。地球に帰れば薔薇色の人生が待っていたと思っていたのに…… なんてね。元々宇宙に憧れてここまできて月で死ねるならそれも本望かな。でも嫌なものね、家族はまだしもいまさらアイツの顔が浮かぶなんてね。最後に誘われたデート、断るんじゃなかったかな。


 サクラが諦めに似た憂鬱な吐息を窓に映る地球に吹きかけると窓はボゥと白く濁る。そっと手で拭い綺麗にしてもその変わり果てた星の姿はそのままだ。

 

“生き延びる、か──” サクラは呟き、目の前の見慣れぬ星を眺めスケッチを始めていた。

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