3
その日がやってきた。
近くまで迎えにいくと伊勢が言うので、最寄り駅でピックアップしてもらうことにした。
商用車ではない、水色のフォルクスワーゲンで伊勢はやってきた。
「さすがに目隠しまではしないですけど、場所はあんまり知られたくないので、よければ寝ちゃっててください」
もちろん守屋さんが口外するとは思っていませんが、と付け加えられて、守屋は大人しく目を閉じた。眠るつもりはなかったが、車の振動に揺られるうち、気付いたらうつらうつらとしていたらしい。
「着きましたよ」という声でハッと意識を取り戻した。
地下の駐車場のようで、他にも車が何台か停まっている。外の様子は確認できず、ここが都内なのかすらわからない。
「楽しみですか? 守屋さん」
車を降りてエレベーターに向かいながら伊勢が問うた。
「ええ……ちょっと緊張はしますけど。はじめてダークウェブにアクセスした時みたいなドキドキ感というか」
伊勢がエレベーターの下ボタンを押す。会場は上かと思ったが、更に地下があるのか。すぐにドアが開いて、乗り込む。
「今日はすごいんですよ。脚を切断してもいいから塊肉が食べたいって人がいて。いつもはこんな小さな一切れを分けて食べるんですけど」
ぐわん、と守屋は耳鳴りを感じた。エレベーターの下降のせいだ、と思おうとしたが、下に着いても耳鳴りは治まらない。
「いいですか、約束通り写真はNGです。他の皆さんにもあまりプライベートなこととか突っ込んだことを聞かないでくださいね」
「はい」
エレベーターの扉が開くと、そこは手術室のような空間だった。
「
「お久しぶりです」
「そちらが例の?」
「はい、ライターの守屋さんです」
「どうも、守屋と申します」
挨拶した五十代と思しき男性が、どうも会の主催らしかった。身なりは上品で、物腰も柔らかい。会場には六人程度の男女がいて、皆伊勢と同じような洗練された雰囲気を
「そうだ、
「もうそっちで先生の処置を受けてるよ」
男性が指差した手術台の方を見ると、誰かがその上に横になっている。その脇にはチノパンとシャツの上にテレビでよく見る手術用のガウンを羽織った男性が立っていた。
「篤彦さん」
伊勢が声をかけると、横たわった人物が手を挙げる。
「睦くん、来たね」
「先生もご無沙汰です」
先生と呼ばれている人物は医師なのだろう。この会のメンバーなのか、雇われているのか……倫理的に考えて、おそらく前者なのだろう。
「今日は篤彦さんにご馳走になりますよ」
伊勢が冗談めかして言うと、篤彦はガハハと笑う。少し離れている守屋から顔は見えないが、声に張りがあり、先程の男性よりは若いように思える。
「この日のためにマッサージ頑張ったからね。いい感じに霜降りになってるんじゃないかな」
「マッサージで霜降りになるっていうのはデマですよ」
三人の近くにいた女性が口を挟む。
「え、そうなの?」
「まあ霜降りじゃなくても
ぐわんぐわん。守屋の耳鳴りはひどくなり、わずかにめまいの予兆のようなものまで感じる。ここにいる人々はとても和やかで、楽しそうで……それなのに、守屋はここに来てから途方もない不安に駆られていた。
「もう麻酔大丈夫かな? 今触れられてる感じする?」
先生が篤彦の右膝のあたりに触れながら言う。「全然感じないですよ」と篤彦が答える。
「切断でも部分麻酔なんですね」
「こんな一生に一度のこと、見逃したくないだろ! それに一番に食べたいし」
篤彦の言葉に会場がドッと湧く。守屋も合わせるように笑い声を出したが、いつの間にか喉が貼り付いてぎこちないものになった。
「じゃあそろそろ始めるので、皆さん一応少し離れててくださいね」
先生が声をかけると、皆が篤彦に一声かけて距離を取り、まるでステージのように手術台を取り囲む形になる。
「そうだ、僕クッキー焼いてきたんですよ。よければ軽くつまんでください」
伊勢がそう言って、手術台とは反対側にあるテーブルに持参したクッキーを並べる。
「睦くんのお菓子大好き!」「これももう一つのメインディッシュになりつつあるな」「いやだなあ、下手の横好きですよ」そんな朗らかな談笑の声が響く。
「おーい睦くん、俺にも残しといてくれよ!」
篤彦の叫びにまたも会場が笑う。
異様だった。
守屋はもはや震えが来るほどに恐怖し、混乱していた。様々な思いが脳内を駆け回る。
こんなのは異常だ、恐ろしい、早く逃げ出したい、でも最初からわかっていた、人肉食の会だと知ってここに来た、伊勢は良い人だ、自分は彼に好意を持っている、だのにその彼がこんなにもおぞましい、自分は偏見を捨てたのではなかったか、それでも怖い、なぜ誰もこの異常さに気づかない、なぜ皆楽しそうにしている、クッキーなんか食べながら、こいつらは狂っているのか、あるいは自分だけが……?
耳鳴りは一層強くなり、会場の話し声はもはや雑音でしかない。しかし、視覚はクリアで、遠巻きながらに篤彦の手術の様子が見える。右膝の下あたりを切断している。断面の赤色が見えていよいよ吐き気がしたが、なんとか
手術の動画や、死体の写真もいくらだって見てきたはずなのに、どうしてこんなに鳥肌が立つのか。わんわんと響く耳鳴りの向こうで、人々の歓声が聞こえる。脚が切り離されたのだ。手術台の上でガッツポーズをする篤彦の腕だけが見える。
切り取った脚はエプロン姿の女性が受け取って、そのまま別室に持っていった。半数くらいの人がそれに続き、残った半数は篤彦にねぎらいの声をかけているらしい。
「……さん、守屋さん?」
耳元で声がして我に返る。伊勢が肩に手を置いて心配そうにこちらを見下ろしていた。
「あ、ああ……すみません」
「向こうで調理が始まりますが、行きますか? 篤彦さんの手術はまだ続きますからそっちが見たければ残っても大丈夫ですが」
もうここにいたくなかった。「行きます」とつぶやいて、守屋は伊勢とともに部屋を出た。
隣の部屋は伊勢の自宅よりも豪華なダイニングキッチンだった。地下なので景色こそ望めないが、設備も調度も一見して良いものだとわかる。
キッチンに立っているのは先程のエプロンの女性――おそらく未来と呼ばれていた人物だろう。
その手元で行われていることはだいたい想像がつくが、実際に目にしたくなくて守屋はキッチンを背にしたソファに腰掛けた。
伊勢は何も言わずに守屋から離れ、キッチンで他の皆と一緒に調理を見学しているようだ。
「うわあ、やっぱりお肉が大きい!」「ステーキは難しいけど、柔らかそうなところは焼いて、スジっぽいところは煮込みにしましょうか」「骨もあるのって初めてですよね? 豚骨っぽく出汁とれないんですかね」そんなはしゃいだ声が聞こえてくる。聞きたくない。守屋は頭痛で頭を抱えるふりをして、親指で耳を塞いだ。
そのままどれくらい経ったか、部屋に良い匂いが漂ってきた。肉の焼ける匂い、シチューを煮込む匂い。脳味噌と身体がバラバラになるようだった。それは紛れもなく美味そうな匂いで、でもそれを美味そうだなんて感じたくないと脳が強く拒絶している。
口呼吸にすると匂いは薄れたが、人の肉を焼いた煙が口から入っていると思うと、胃がギュウと縮こまるようだった。
指で塞いだくらいでは音は完全に遮断できない。やがて拍手の音がした。篤彦が手術を終えて部屋に入ってきたらしい。張りのある声が何やらスピーチをして、しばしの静けさ、そして「美味い!」という大きな声。
篤彦は、自分の脚を、自分で食ったのだ。
人肉食の会とは聞いていた。でも、人肉はどこからか仕入れてきて、見た目は普通の牛肉なんかと同じで、ただそれを調理して、「へーこれが人肉なんですね」なんて、守屋はそんな甘い想像をしていたのだ。
ソファの左隣が沈んだ。伊勢だった。片手に水のコップを、もう片手に皿を持っている。
「守屋さん」
目の前のローテーブルにコップと皿が置かれる。皿の上には。
「食べますか?」
肉。
言われなければ牛肉と思うだろう。美味しそうに焼かれた赤身肉。クレソンが添えられて、ソースが掛かっている。
これを見に、これを取材しに来たのだ。これを食ったら記事の価値は跳ね上がる。ゲテモノグルメの取材だってやったことがあるだろ。これはただの肉だ――。
守屋はその場で嘔吐した。
「ほらね」
頭上から声がして、床に向けていた顔を上げる。
伊勢は笑っていなかった。無表情の伊勢を見るのは初めてかもしれない。白い肌がいやに目について、マネキンのようだと思った。
「守屋さん、僕らは誰も傷つけていないし、誰からも
それでも吐息混じりの声だけはいつもどおり柔らかで。
「それをあなたは、普段目に出来ないから面白いとかって、僕らと同じ価値観も持てないのに
守屋の心臓が早鐘のように鳴る。人の肉が怖いのか、伊勢のことが怖いのか、自分でもよくわからない。
「悪趣味なモノが面白いって、そう言いましたよね。僕がそういう人に思えない、とも」
違うんだ伊勢さん、俺はあなたのことは本当に良い人だと思っていて――。
「守屋さん、あなたの方ですよ、悪趣味なのは」
守屋
悪趣味 ナツメ @frogfrogfrosch
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